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2009年2月3日(火) ラージギル ( 竹林精舎 ・ 七葉窟 ) [アジア]

2560208七重の牢獄を後にした我々のバスに、物売りたちは飽きもせずついて来た。
バスはHotelへ戻る途中の竹林精舎の前で停まり、バスを降りた我々に、さっそく物売りたちの押し売りが始まって、これを蹴散らして竹林精舎の門をくぐるが、物売りたちも後に続いて入ってきた。
私の横をくっついて歩く、先ほど七重の牢獄跡で仲良くなった物売りの男性に、
「絶対に買わないよって言っているのに、どうしてついてくるの?」と尋ねると、彼は、
「これが仕事だから」と笑顔で答えた。

2560221竹林精舎(ヴェヌヴァナ・ヴィハーラー)は、マガダ国のビンビサーラ王がお釈迦様の教団に寄付した、仏教で最初に建てられた寺院だとされている。

精舎(しょうじゃ・ヴィハーラ)とは、比丘(出家修行者)が住する寺院・僧院のことである。
「雨安居(うあんご)」といって、雨季の間(6月~8月頃)の3,4ヶ月間、お釈迦様はお弟子たちとともに、各自で掘っ立て小屋(精舎)を建てて雨露をしのぎながら勉学にいそしむ。
その為、各地に安居の場所が寄進され、中でも、祇園精舎・竹林精舎・大林精舎・霊鷲精舎・菴羅樹園精舎は、天竺五精舎(てんじくごしょうじゃ)といわれている。

王舎城の北門より500mほど出た所につくられた竹林精舎は、もともと迦蘭陀(カランダ)長者が所有していた竹園で、長者がジャイナ教から仏教に帰依した際、ここを仏教の僧園として奉じ、そこへビンビサーラ王が伽藍を建立したといわれている。
『南伝大蔵経』には、成仏されたお釈迦様がビンビサーラ王との約束を果たすためにマガダ国王舎城に入られ、ビンビサーラ王は12万人の国民を引き連れてお釈迦様を出迎えたとされ、この内ビンビサーラ王をはじめ、一万人余りの人々が在家信者になったと記されている。
この時、バラモンの僧侶であったサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(摩訶目犍連・目連)が、弟子250人の行者を引き連れて竹林精舎へ赴き、お釈迦様のお弟子になられたと伝えられる。

現在の竹林精舎は、移植された竹があちらこちらに生い茂り、園内の中央には長方形に掘られた池になっていて、園内には二体の仏像が安置されている。

竹林精舎の南向かいには温泉精舎があり、現在はヒンドゥー教の寺院となっていて、インドで唯一温泉の出る場所だそうだ。
昨夜泊まったインド法華ホテルの共同浴場の湯も、ここの温泉水を利用していると聞いた。
今回のツアーでは見学には至らなかったが、機会があれば行ってみたいものだ。

2560241その温泉精舎の裏手、西に小高い岩山があり、ここにマハーカッサパ(大迦葉・摩訶迦葉)によって提唱され開催された、最初の仏典結集の地、七葉窟がある。
お釈迦様の入滅後間もない時期に、一人の比丘が、「もう師からとやかく言われることもなくなった」と放言したのを聞いたマハーカッサパが、お釈迦様の教説(法と律)を正しく伝承することの重要さを比丘等に訴え、聖典の編纂を提唱した。
そしてマハーカッサパはその教団を統率して、500名の阿羅漢とともにお釈迦様の教法を編集し、最初に付法蔵 (教えの奥義を直伝すること)をした場所が、ここ七葉窟である。
お釈迦様亡き後、アジャセ王は王舎城に舎利塔を建立して供養し、四憐を服して中インドの盟主となり、ここ七葉窟での第一仏典結集に、大檀越としてこれを外護(げご)したといわれている。

A.M.8:00 再びバスに乗って、Hotelへと戻る。
仲良くなった物売り君ともこれでおさらばだ。
ペコペコのお腹を押さえてHotelの食堂へ向かうと、温かいお粥とお味噌汁が運ばれてきた。
・・・・・ ここは、インドではなかったか???

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2009年2月3日(火) ラージギル ( 王舎城の悲劇とその後 ) [アジア]

アジャータシャトル(阿闍世・アジャセ)は、父ビンビサーラ王を七重の牢獄に幽閉するとすぐに王位に就き、活発な征服活動を展開し、コーサラ国王やカーシ国を完全併呑し、ヴァイシャーリー国をも支配下に置いた。
この他にも多数の征服活動を行ってマガダ国をインド随一の大国へと押し上げた。

王舎城の悲劇については、『涅槃経』や『阿闍世王経』などのいくつかの仏典において、次ように伝えられる。
父ビンビサーラ王は、毘富羅山(ヴィプラ)に鹿狩りに出た際、一頭も狩りができないことを、たまたまそこに居合わせた仙人が追い払ったと思い込んで、臣下にその仙人を殺させた。
その仙人は死に際に怒りの形相で、「来世において心と言葉でそなたを殺す」とビンビサーラに言い放って死んでいった。
それから間もなくしてヴァイデーヒー夫人が懐妊した。
殺害した仙人の言葉が忘れられないビンビサーラ王は、生まれてくる子がその仙人の恨みを受け継いだ(未生怨)子であることを心配して、アジャセ誕生の前に相師に占わせてみた。
すると相師より、「生兒が怨を懐き父王を殺すだろう」と告げられ、ビンビサーラ王はこれを信じて、生まれてきた我が子を楼上より投げ捨てたが、アジャセは指一本を損じたのみで死ななかった。

成長したアジャセに近づき悪知恵で唆したのが、お釈迦様の教団に反逆し新教団を形成せんとしていたデーヴァダッタであった。

デーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)は、お釈迦様のお弟子である多聞第一として名高い阿難(阿難陀・アーナンダ)尊者の兄であり、またお釈迦様の従兄弟に当たる人物である。
デーヴァダッタは釈迦族の諸王子たちと共にお釈迦様の弟子になったが、お釈迦様に、戒律を厳格に整備して教団の改革を提唱した「五事の戒律」を提案するも、これを拒否された上に、公衆の面前で生活態度を指摘されたことに腹を立て、釈迦教団から分派して独自に新しい教団をつくったとされている。
そして、隙あらばお釈迦様の教団を乗っ取ろうと企み、当時強大な力を誇っていたマガタ国の王を我欲の為に利用しようとしたのである。

デーヴァダッタに唆されるまま、アジャセは父ビンビサーラ王がお釈迦様のもとへ礼拝できぬように足の肉を削ぎ、七重の牢獄へ幽閉してしまった。
また母妃が父王に食料を施していた事を知るや、母妃をも幽閉してしまい、父王を餓死せしめた。
しかし、アジャセは次第にその罪の深さに悔い、心身共に病んでいった。
体中にできた疱瘡が腐敗し、高熱にうなされるアジャセに、家臣のジーヴァカ(耆婆)は、お釈迦様に相談するように勧めた。
お釈迦様のもとを訪れたアジャセは、その教えに感化を受けて、自らの罪を懺悔し、病も快方に向かって以後は、深く仏教に帰依し、教団を支援するようになったと伝えられる。
また、お釈迦様はアジャセに、「父王は自らの罪による報いを受けたのであって、そなたに罪はない」と言ったとされる。
しかし、お釈迦様が涅槃に入られて二十数年の後、アジャセ王は自らが犯した父殺しという罪と同じく、息子によって殺害されたと伝えられる。

一方、デーヴァダッタは、お釈迦様を殺して教団を乗っ取ろうとしたが失敗に終わり、仏教で重悪とされる五逆罪(殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)の内、三つの逆罪を犯した因果で、生きながらにして無間地獄に落ちたといわれている。
『大唐西域記』に記された、デーヴァダッタが堕していった穴は、現在も王舎城に残っているという。

2559175霊鷲山からバスの後をついてきた物売りたちが、ここ七重の牢獄跡でも商売を始めた。
どうやら、先の場所でMemberの一人が物売りから何かを購入したことで、この団体は買ってくれるとふんでしつこく付きまとっているようだ。
物売りたちを邪険にし続けているのも疲れるので、その中の一人と話しをしてみることにした。
以外にも、商売に必要な日本語はかなりたくさん知っていて、しかも上手に発音して、ある程度の会話になる。
その知識、他で活かせないのだろうか・・・・・

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2009年2月3日(火) ラージギル ( 王舎城の悲劇 / 七重の牢獄跡 ) [アジア]

2558131ジーヴァカの住居・果樹園跡の西に、ビンビサーラ(頻婆娑羅・びんばしゃら)王が、息子のアジャータシャトル(阿闍世・アジャセ)によって幽閉された、七重の牢獄跡がある。
現在は約70m四方の低い土壁が残っているのみである。

15歳にして父王ボーディサの跡を継いでマガダ国の王となったビンビサーラ王は、首都ラージャグリハ(王舎城)の造営と国内改革を推し進めて国力を強大化させ、八万の村落を支配し、東インドに強力な勢力を形成したと伝えられる。
そのマガタ国と競合関係にあったコーサラ国によって征服されていた釈迦族の王(お釈迦様の父王)浄飯王(じょうぼんのう)より、「ゴータマ・シッダルタ王子(お釈迦様)に、カピラ城へ帰城するように勧めてくれ」と依頼されたビンビサーラ王は、コーサラ国の内部撹乱を目的としてお釈迦様に出家を思いとどまるよう説得したものの、お釈迦様はこの申し出を拒絶された。
お釈迦様の強い決意にビンビサーラ王もこれをあきらめ、代わりに「お釈迦様が成道して仏と成られた暁には、必ず私を導いて下さい」との約束を交わし、この後ビンビサーラ王はお釈迦様に深く帰依し、お釈迦様もこの約束を果たされたと伝えられる。

このビンビサーラ王が後に、息子のアジャータシャトルによって餓死させられたというお話しは、『王舎城の悲劇』といわれ数々の仏典に説かれているが、浄土真宗では『仏説無量寿経』によって深く浸透している。
また、善導大師の書かれた『観無量寿経疏』にも『王舎城の悲劇』が記されている。

『王舎城の悲劇』
『観経疏』には、マガダ国のビンビサーラ王とその妃ヴァイデーヒー(韋提希・いだいけ)には長く子供に恵まれず、年老いた王夫妻が占師より、「毘富羅山(ヴィプラ)に住む仙人が死んでから三年後に夫人は王子をみごもるであろう」との言葉を受けて、その三年を待ちきれなかった王夫妻が仙人を殺害した後に身ごもったのが、アジャータシャトル王子であったと説かれている。
そしてその仙人が死ぬ間際に、「呪ってやる~」と言い残したという記述もあるが、実際には、『涅槃経』以外の経典に仙人殺害の記述はない。

『観無量寿経』には、以下のように説かれてある。
マガダ国のビンビサーラ王とその妃ヴァイデーヒーとの間に生まれたアジャータシャトル王子は、デーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)という悪友にそそのかされ、父ビンビサーラ王を捕えて七重の牢獄に閉じこめ、誰一人としてそこに近づくことを許さなかった。
しかし、ヴァイデーヒー王妃は夫ビンビサーラ王を気遣って、自らの身体に小麦粉に酥蜜をまぜたものを塗り、胸飾りにはぶどうの汁を詰めて、密かに王のもとへと運び、ビンビサーラ王はこれを食べ、水で口をすすぐと、耆闍崛山の方に向かって合掌をし、「 どうか親友の目連尊者をお遣わしになり、八斎戒(仏教の八つの戒律)をお授け下さい」と、お釈迦様に願った。
これを受けた目連尊者は、神通力によってビンビサーラ王のもとへ行き、毎日のように王に八斎戒を授け、またお釈迦様は、富楼那尊者を遣わして、王のために説法をさせた。
そして三週間が過ぎた頃、アジャータシャトルが牢獄の門番に「父王はまだ生きているか」と尋ねた。
門番は、「母妃が差し入れる食べ物によって王様はまだ生きておられます。
また、目連尊者や富楼那尊者が神通力により空から来て、王様に説法をしております」と答えた。
アジャータシャトルはこれを聞いて母妃に怒り、「 母は罪人だ。 また術を使って悪王に味方をする仏弟子も悪人だ」と言って剣をとり、母妃ヴァイデーヒーを殺害しようとした。
この時、月光大臣とジーヴァカ(耆婆)がアジャータシャトルに言った。
「『毘陀論経』には、父王を殺害して王位に就いた者は一万八千人にも及ぶが、母を殺害するという非道な行いをするなど前代未聞。
今、アジャータシャトル王が母妃を殺害なさるは王族の恥であり、我らもこの職を辞退します」と。
これを聞いたアジャータシャトルは剣を捨て、母妃を殺害することは思いとどまり、母妃を王宮深くに閉じこめて、一歩も外へ出られぬようにした。
悲しみに憔悴しきったヴァイデーヒー妃は、遠く耆闍崛山に向かって、お釈迦様に申し上げた。
「お釈迦様、どうか目連尊者と阿難尊者をわたしのもとへお遣わし下さい」と。
(この時、お釈迦様は霊鷲山にて一万二千人の前で『法華経』を説いておられたが、ヴァイデーヒー妃の声を聞き、これを中断されて座を立たれた。)
ヴァイデーヒー妃が涙ながらに遠く耆闍崛山におられるお釈迦様に向かって礼拝すると、まだその頭を上げないうちにお釈迦様は目連尊者と阿難尊者を王宮に向かわせ、お釈迦様自身も耆闍崛山から姿を消し、王宮にお出ましになったのである。
ヴァイデーヒー妃が頭を上げた時、そこにはお釈迦様のお姿があり、そのお姿を仰ぎ見たヴァイデーヒー妃は、お釈迦様の足もとに身を投げ、声をあげて泣きくずれた。
そしてお釈迦様に、「わたしは何の罪でこのような悪い子を生んだのしょうか。 お釈迦様もどういった因縁で、わが子をそそのかしたデーヴァダッタなどと親族であられるのでしょうか」と詰め寄った。
ヴァイデーヒー妃が、「どうかお釈迦様、このわたしに清らかな世界をお見せください」
と願うと、お釈迦様は眉間の白毫から光を放たれ、ヴァイデーヒー妃に、極楽世界や阿弥陀仏、観音・勢至の二菩薩を観想する13の観法“十三観”と、極楽世界に往生する者を「上品上生」から「下品下生」の“九品” に分けて説かれていった。
ヴァイデーヒー妃は五百人の侍女とともにその教えを聞いて、たちまち極楽世界の広長な光景見てこれを心から喜び、これまでにはない尊さに悟りを求める心を起して、その国に生れたいと願った。
そして最後にお釈迦様は阿難尊者に向って、「無量寿仏の御名を、常に心にとどめ続けよ。」と説かれたのである。

これが、『仏説観無量寿経』に説かれた『王舎城の悲劇』のあらすじである。
ここに登場するデーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)についてもふれておきたい。

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