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スリランカ ― ダンブッラ から シーギリヤ へ [アジア]

ダンブッラの猿たちダンブッラ石窟寺院の見学を終えてGateから出てくると、岩の窪地に出来た溜め池で、猿たちが遊泳をしながら楽しんでいた。
日本では猿が温泉に入る光景を、実際に見たことのない人でも一度はポスターなどの写真で目にしているだろうから、「猿は水嫌い」だと思っている人は少ないだろう。
しかしスリランカの人たちは、「猿が池に飛び込むなんて! 猿が泳げるなんて!」などと口にしながら、人だかりを作って珍しそうにその光景を眺めていた。

ダンブッラ・ロック、正式には 「ランギリ(Ran Giri/「黄金の輝き」と言う意味)」という名の岩山だが、岩山と言っても所々に草地もあって木々も生え、随所にこのような天然の溜め池も出来ている。
前項のBLOGにも記したが、「ダンブッラ(Dambulla/「水の湧き出る岩」という意味)」という名の由来ともなった第2窟の天井より ポトリ ポトリと 落ちる水・・・ あれはどう見たって岩上の溜め池から岩の隙間を伝って滴り落ちて来た雨水だろう~(^.^ゞ 
もしかしなくても、その“聖水”と呼ばれる水の出元となっている溜め池にだって、猿たちは遠慮することなく遊泳を楽しんでいるだろうに・・・  これが万病治癒の薬だなんて・・・  これがお釈迦さまの法力だなんて・・・  説法も修行もないのにこれを仏教と言っているなんて・・・ と、 「なんて…、なんて…」を頭の中で繰り返しながらダンブッラ石窟寺院を後にした。

3388050再びダンブッラの町を抜けて車は更に北西に向かって進む。 (写真は、ダンブッラ New Town の風景。)
中央右手の青や赤い色をした乗物、日本ではトゥクトゥク(タイ語)という名で知られているオートリクシャ、こちらではスリーウィーラーといって庶民の足となっている、いわゆるスリランカのタクシーである。

町を出るとすぐに、椰子畑、マンゴー畑、カシューナッツ畑と続き、手入れされた林の中を快適ドライブ!
ダンブッラ から シーギリヤ までは車で1時間弱の距離、途中でLaunch time をとる予定だ。

さて、車内にて、この後に行くシーギリヤ・ロックの見学を終えてからのスケジュールの打ち合わせ。
何たってスリランカの滞在日数は正味たったの三日間。 どう効率よく周ったとしても、見たい所、行きたい場所を全部巡るのはとても不可能なので選択摂取しなければならない。
本当は、アヌラーダプラにはメチャ行きたい! が、しかし、これを選べば一日がかりになるので他に捨てなければならないものが多過ぎる…。  仕方がないので泣く泣くあきらめて効率よく近場を周遊することにしたが、今度は、仏跡地か、世界遺産か、Guideお奨めのサファリか…、というところでまた迷い、とりあえずはディディー推奨のスリランカ・サファリについて少し触れておこう。

紀元前3世紀、世界で最初に自然保護区が設けられたがここスリランカであり、現在も国土面積の約1割が国立公園や自然保護区に指定されている野性の王国でもあるスリランカ。
その数、哺乳類の種類だけでも90種におよび、鳥類は482種で、その内スリランカのみに存在する鳥類だけでも33種を数えるという。 スリランカの国土面積が北海道よりも小さいということを考えると、本当に自然豊かな国であることが伺える。
また、爬虫類の数も分別不可能とまで言われ、昆虫に至っては無数…という回答。 ちなみに、私の苦手な蝶々の種類だけで250種、そして大嫌いな蚊は、139種も生存しているという恐ろしき実態に、少しだけスリランカが嫌いになった・・・(^.^ゞ
余談だが、花の数も多くて3,350品種もあるそうで、中でも蘭の種類は170種あり、その内74種が固有種なのだそうだ。

3388051さて、スリランカで動物と言えば、一番初めに思い浮かぶのはゾウだろう…。
森林伐採により年々その数は減少傾向にあるものの、現在でも2,000頭近くの象がいるという。
荷物の運搬や移動手段として昔は重宝がられていた象も、今ではそのほとんどが自然保護区内で生活し、人々の生活にかかわることも少なくなったが、その昔スリランカに居たと言う白いセイロン象は、神の化身として神聖視され崇められていたそうだ。
旅行中に一番目にする回数の多かった動物は犬と猿で、人間社会にすっかり融け込み共存していた。
また、マングースや、鹿、それからオオトカゲなども時折目にすることが出来た。 その他には、ワニや、クマと出会える可能性も低くはないらしいが…(^.^;)、 それ以上に会いたくないのは、ジャッカルや、ヒョウだわね!!

さてさて、時刻はもうすぐ13時! そろそろお腹も空いてきたのでここらで Launch time !
今日は、シーギリヤの「スサンタレストラン」にて、Buffet Style の昼食をいただくことになった。

3388052ジャングルの中の OPEN Style の Restaurant で スリランカ料理をいただくなんてお洒落でしょ? な~んて、悠長なことは言っていられなくなった!
Restaurantに到着して席に着いたところで、いきなりのスコール(豪雨)に見舞われ…(^.^ゞ、  まぁ~、OPEN Style と言っても屋根はついているので 中央寄りのテーブルならば濡れる心配はないけれど…、 でも、食事中のBGMが、土砂降りの雨の音と、地響きのするカミナリの音って~のは、なかなか落ち着いて食べられるもんじゃないが、でもそれなりにこの状況を楽しみながらいただくことができた。 

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スリランカ ― ダンブッラ ( 石窟寺院 ② ) [アジア]

< 第 2 窟 >  Maha raja Lena (マハー・ラージャ・レーナ)

ダンブッラ第二窟.JPG

第2窟は、「偉大なる王の石窟」と呼ばれ、ダンブッラ石窟寺院の中では最大規模の石窟である。
その大きさは、幅 約52m ・ 奥行 約25m ・ 高さ 約7m で、内部にはストゥーパ(仏舎利塔) と 寝仏(ここのは涅槃仏ではない)の他に 16体の立像のお釈迦さま像と 40体の坐像のお釈迦さま像、その他に 2体の菩薩像と 2体の王の像と 2体のヒンドゥー教の神の像がある。

ここ第2窟の呼び名が示している「偉大なる王」と言うのは、この石窟を作ったヴァッタガーマニ・アブァヤ王(ワラガンバァフ王)のことで、前項のBLOGで記したとおり、ダンブッラの僧院を寺院に変えて建立させた王である。

紀元前104年、王位に就いたワラガンバァフ王は、即位してわずか5ヶ月でタミル軍の侵略によってアヌラダプーラの王都を追われることになった。
迫り来る追っ手から逃げ惑うジャングルの中で、一緒に逃走していた王妃ソマデビは、敵の目を欺くためにワラガンバァフ王より王冠とマントを剥ぎ取って一人ジャングルの奥へと逃げ込んだ末にタミル軍に捕まってしまったが、王妃ソマデビの機転の甲斐あって、ワラガンバァフ王は敵より逃げ延びることが出来た。
この時に身を隠していたのがダッブッラの石窟に作られた僧院である。
一方、アヌラダプーラの都を占領したタミル軍であったが、内部で権力闘争の殺戮を繰り返しており、紀元前88年、勢力を盛り返したワラガンバフ王の軍勢によってタミル軍は都を追われ、王はアヌラダプーラの都と政権を奪回すると共に、15年前に連れ去られた王妃ソマデビを奪還することに成功した。
その後、ワラガンバァフ王朝は繁栄し、王は王都と王妃の奪還を祝ってダンブッラ石窟に寺院を建立したのだと伝えられている。

第2窟に入って入口の左横に立っている像がワラガンバァフ王の像であり、その奥にあるもう一人王の像は、ニッサンカ・マッラ王(12世紀)で、この石窟の壁画修復を行った王なのだそうだ。
その壁画の総面積は2,100㎡にもおよび、お釈迦さまの一生やスリランカの歴史などが窟内一面に描かれており、ここに描かれたお釈迦さまの数だけでも1,000を越えという。

そして窟内には、「ダンブッラ」と言う名の由来ともなった「水の湧き出る岩」があり、天井から滴り落ちてくるその湧き水は ‘奇跡の水’と言われ、この聖水には病を治す力があって、また一口飲めば一週間は何も食べなくても大丈夫! ・・・・・ ってことらしいが…、 スリランカまで来て、こんな “仏教” を聞かされるとは思わなかった・・・・・

< 第 3 窟 >  Maha Alut Lena (マハー・アルト・レーナ)

ダンブッラ第三窟.JPG

他の石窟の入口とは違って、彫刻などの装飾が施された出入り口の第3窟は、「偉大なる新しい石窟」とも「新僧窟」とも呼ばれていて、15体の立像のお釈迦さま像と、42体が坐像のお釈迦さま像の他に、寝仏と王の像がある。
ちなみに、「涅槃仏」ではない「寝仏」のことをスリランカでは通称「Sleeping Buddha」と言っているそうで、ここ第3窟のSleeping Buddha の 全長は9m。
そして王の像の方は、この第3窟を作った、スリランカ最後の王朝・キャンディ王朝(18世紀)後期の王 キルティ・シュリー・ラジャシンハで、彼は衰退していた仏教振興に尽力した王としても知られている。

< 第 4 窟 >  Pachima Lena (パッツィーマ・レーナ)

3386736第 4 窟は、5つの石窟寺院の中では一番古いものと言われ、「西の石窟」と呼ばれている。
石窟自体は古いが、安置されてある仏像は比較的新しく、そのほとんどがキャンディ王朝末期に作られたキャンディ様式といわれる仏像だ。

この第四窟には不幸な話しが二つあって、その一つは、窟内にあるストゥーパ(仏舎利塔)に、ワラガンバァフ王の王妃ソマデビの財宝を隠しいれておいたところ、キャンディ王朝最後の王、スリ・ヴィクラマ・ラジャシンハの時代に盗難にあい全て盗まれてしまったと言うお話し。
そしてもう一つは、窟内の右手奥にある一体だけ色の違う仏像…、 これは以前、インドの酒造メーカーがここで密かにCM撮りをした際、女性モデルがその仏像の膝の上に腰掛けた為に仏力を汚されたとして、これを清める為に塗りなおしをしたそうである。   確かに不謹慎だと思うけど・・・・・・・

< 第 5 窟 >  Devana Alut Lena (デヴァナ・アルト・レーナ)

3386737第 5 窟 については、実のところ何もわかっていない…。
以前は倉庫として使用されていた石窟を1915に補修して寺院にしたということで、現在はキャンディ様式のお釈迦さま像11体が安置されている。

一通りの見学を終えて一言・・・・・
「いったい、何の為?」と言う疑問が大いに残った。
像も、絵も、とにかくお釈迦さまだらけで、それが悪いと言う訳じゃないけど、いったい何のために描かれ、何のために作られたんだろう・・・ 仏教としては意味はどこにあるんだろうと考えてしまう・・・
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スリランカ ― ダンブッラ ( 石窟寺院 ① ) [アジア]

ダンブッラ石窟寺院の入場門前で、まずは靴を脱いで裸足になる。
これは、神仏の聖域に土足で踏み込んではならないというスリランカでの最低限のマナーだ。
ついでに言えば帽子を脱ぐのもマナーだし、特記すべきは、仏跡地で写真撮影をする場合、仏像やその建物を写真に撮るのは問題ないが、人物の背景としてそれらをカメラに収めてはならないという決まりがある。 つまり、仏像などの前に立った人物を写してはいけないということなので要注意を!

ダンブッラ石窟寺院(Golden Temple of Dambulla)は、ユネスコの世界遺産にも登録(1991年)されている寺院で、スリランカ初期仏教時代(紀元前1世紀)に、ダンブッラ・ロックの山頂付近にあった天然の洞窟に築かれた石窟寺院である。

ダンブッラ石窟寺院

その歴史は紀元前3世紀にまで遡る。 既にこの頃から大規模な僧院として存在・機能していたが、紀元前1世紀、シンハラ朝第19代国王 ヴァッタガーマニ・アブァヤ王が、タミル人の侵略によってアヌラーダプラから追放され、この時にダンブッラで保護され、その15年後にタミル軍を巻き返して再びアヌラーダプラに帰還できたことに感謝の思いを込めてこの僧院を寺院へと転換したことに始まる。
その後、歴史と共に寺院の増築が繰り返され、現在では主要な5つを石窟寺院の他に、この近辺には80を超える石窟寺院が存在しているのだそうだ。

ダンブッラ石窟寺院の中核となる5つの石窟寺院は、ダンブッラ・ロックの150m地点に建設された寺院で、内部には壁画が描かれ、いくつもの像が安置されている。
その石像の数は、153体のお釈迦さまの像の他に、スリランカ王の像やヒンドゥー教の神の像などもあり、また、壁から天上一面に描かれたお釈迦さまを主とした壁画も壮大である。

さて、入口で先ほど購入した入場チケットのレシートを見せてGateをくぐる。
そして階段を降りると、その右手にある石版にはシハラ語でこの石窟寺院の歴史が刻まれており、その横から奥へと、第一窟、ヒンズー教窟、第二窟、第三窟、第四窟、第五窟 の順で、巨岩に沿って寺院が並んでいる。

第一窟、第二窟と、第四窟は、紀元前1世紀からアヌラーダプラ王朝時代のものといわれ、以後2,000年もの間、時の王によって管理・保護されてきた。
そして第三窟は、18世紀キャンディ王朝時代に、第五窟は1915年に造られたものだそうだ。

< 第 1 窟 >  Deva raja Lena (デーヴァ・ラージャ・レーナ)

ダンブッラ石窟寺院 第一窟

第1窟は、「神なる王の石窟」と呼ばれ、中には壁面の岩と同じ天然石で彫り出された、全長14mほどのお釈迦さまの涅槃像が、狭い空間 いっぱい いっぱいに安置されている。

ここで一つ、インドで学んだ豆知識!
横臥されたお釈迦さま像には二種類あって、その違いは、お釈迦さまの足先を見ると明白だ。
両足のつま先が少しずれているもののみが、御入滅なされたお釈迦さまを現わした「涅槃像」と言われるもので、両足にズレのないものは、涅槃に入られる前のお姿だとされている。
第1窟のお釈迦さまは、左足の方が右の足先よりも僅かに下がって横臥されているので涅槃像。

そしてこのお釈迦さま、今ではほとんどハゲてしまっているのでわかりにくいが、本来は全身に金箔が施されており、これに対して足の裏は金ではなく赤く塗られているのがわかる。
仏さまの足の裏と手の平が赤く塗られているというのがスリランカの仏像の特徴で、その由来には諸説あるのだが…、
お釈迦さまが涅槃に入られたと聞いたシンハラ王朝(紀元前5世紀)のウィジャヤ王がインドに赴いた後に帰国なされた際、王の足の裏に赤土が付着していたからとも、王の手の平が赤かったからとも伝えられているが…、なんだか気の抜けちゃうような理由でちょっとガッカリした…
ちなみに、足の裏に描かれている文様は、蓮の花なのだそうだ。

さて、ここ第1窟は、二番目に古い石窟だと言われており、大きな涅槃像の他にも五体の石像があり、その一つ、涅槃像の足元に立っする像は、お釈迦さまのお弟子のアーナンダ尊者の像と言われており、また涅槃像頭部の片隅にはヒンドゥー教のヴィシュヌ神の像がある。
なぜ仏教とヒンドゥー教がセットになってしまったのかというと、王は仏教徒であったものの、その妃の中には南インドから嫁入りをしたヒンドゥー教徒の奥方がたくさんおられた為で、王がお釈迦さまに手を合わせるその傍らで、妻たちはヴィシュヌ神に手を合わせていたのだそうだ。

石窟内の壁面には赤を基調にした絵の具でBuddhaの壁画が全面に描かれているが、何度も修復作業が重ねられ、しかも別の絵で上塗りをされた形跡もあって、2,100年前にどんな絵が描かれていたかのか、今となってはわからないのだそうだ…。

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スリランカ ― ダンブッラ石窟寺院 へ [アジア]

今朝、ネゴンボのHOTELを出発してから車で3時間半、ようやくダンブッラの町に着いた。
ダンブッラ Golden Buddha
賑わうNew Town から 閑散とした Old Town に向けてキャンディ・ロードを行くと、突如として右手にド派手な金ピカのブッダ像が出現する。 これが今から訪問するブンブッラ石窟寺院の Ticket office なのだそうだ。 その名も、Golden Buddha (金色のお釈迦様)! 
しかし・・・、 仏像はともかくとして、どうしてこんな奇妙な建物にしちゃったんだろうねぇ~? 
スリランカ人的思考回路にアッパレ[exclamation]

石窟寺院まではこの裏手から階段を登って行く事が出来るそうだが、これがけっこうキツイらしく、Guideさんの薦めで途中まで車で行くことになったが、後々地図を見てみたら、そうは自慢するほど距離に違いはなかった。

車を降りて森の中にのびる階段を上がっていくと、聞いたこともない動物の声がする。
「アレは何の声?」と尋ねると、「あぁ、リスの声だよ! ほら、そこにいるでしょ!」とディディーさん。
足を止めて茂みの中を見上げると一匹のシマリスが…。 それもすごい甲高い大声で鳴いている…。
「リスってこんな声で鳴くんだぁ~」 と 嬉しい新発見!
他にも、見たことのない奇妙な形態をしたトカゲや、あちらこちらに点在する大きな蟻塚にと、見るもの 聞くもの 興味津々で、歩みの遅いこと、遅いこと(^.^ゞ 一人だけ置いてきぼり…

3382152森の中を抜けると、岩肌に作られた石窟寺院へと続く階段の両脇に植わったプルメリアの並木道に、白い可憐な花がたくさん落ちていた。
スリランカではプルメリアの花をテンプル・フラワーと呼び、仏花として尊重しているのだそうだ。
「へ~ぇ」と、犬のようにクンクンしながら木々を見上げ花の香を嗅ぎながら歩いていると、プルメリア並木の木陰に腰を下して読書をしている老人に声をかけられた。
どうやら、手相占いをしてくれると言っているらしい。


3382153スリランカでは占いが生活の中に入り込んでいて、生まれた時から死ぬ時まで占いによって物事を判断し、国家行事の決定までもが占いに頼っているという一面をもっている。
スリランカでは出生の時に占星術師のところへ赴き‘占星術出生表(ハンダナハ)’なるものを作成してもうそうで、これを元に生涯の運勢や自己の性格までもが決まると信じられている。
しかし、あまりにも都合の悪い占い結果が出た場合は、星の動きは予想外に変化することもあるからと言って再度占いをし直すこともあるようで…(^.^ゞ、いい加減なもんだなぁ~と思うのだが・・・
しかし、笑ってはいけない。 何たって昔はここ日本だって同じように占いによって人生の吉凶や政治までもが左右されていたのだから…
でもねぇ~  少なくとも、「仏教国スリランカ」 と 命題を掲げているのだから、少しくらいは仏教の根幹である‘因果の道理’を説く人がいてもいいのでは? と思ってしまうのだが… いらぬお世話だわね!

ちなみに、このおじさんに手相を占ってもらう料金は、お一人様500円だって!
時間があったら聞いてみたかったな~ぁ、 「私はいつ死ぬの?」って!

車を降りてから10分ほど階段を登ったところにダンブッラ石窟寺院の入口はある。
この寺院があるのは、ジャングルの中にポコンッと聳え立った高さ180mほどのダンブッラ・ロックと呼ばれる岩山の上で、寺院の入口がある山頂付近からは周囲の森林が一望でき、この後行く予定になっているシーギリヤ・ロックも遥か彼方(20km)に望むことが出来た。
観光客というか、参拝客の数はそんなに多くない。 人の数よりも、犬や猿の数の方のがはるかに多い。
しかし、人も 犬も 猿も、み~んな の~んびりと気楽に今生を満喫しているよう見える。 これを羨ましいとは思わないけど、「あなたにとって ‘生きる’ってど~ゆ~こと?」 な~んて 聞いてみたくなった。
ダンブッラ 石窟寺院 山頂

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スリランカ の お葬式 [アジア]

3355681クルネーガラの町を出る手前で踏み切りの遮断機が下
りた。 LUCKY[手(チョキ)] 列車が見られる!
スリランカでは、コロンボ・フォート駅を起点に、国内の
主要都市に向けて放射線状にレールが敷かれている。 
鉄道は19世紀半ば、イギリスの植民地時代に島内に
おける紅茶などの農産物の輸送手段として敷設が創
始され、現在ではコロンボ近郊からの通勤の足として、
また旅客鉄道として特急列車も走っているので観光の足として利用することも可能だ。
私たちの目の前を通過した列車のその車両の古さには驚いたが、これが普通なのだとか…
スリランカでは、バス、タクシー、列車に至るまで、「ドアは無い」というのが普通のようだ!

スリランカのお葬式クルネーガラから車で30分ほど走ったハンオムアの町にさしかかったところで、道路上に掲げられた不思議な飾りを発見[exclamation&question]
 道を隔てて右から左の電柱に、そして左から右の電柱にと、300mほどの距離を交互にロープを往復させて、そのロープには白い短冊のようなものが引っ掛かったようにくくり付けられてある奇妙な装飾。
「これは何の飾り?」と聞くと、「あぁ、お葬式があるんですよ!」と教えてくれた。
興味津々!! ここぞとばかりにスリランカのお葬式についてアレコレ質問!

この飾りは、「この家の人が亡くなりましたよ~」という印と言うか案内として、亡くなった人のお家から墓地の方角へと飾りつける。 飾りは、写真のような紐状の短冊のものもあれば、もう少し大きめのハンカチ状の短冊のものもあり、色は、白・黒・黄色などがある。
これには意味があって、例えば仏教徒のお葬式は白い紐状の短冊、僧侶の葬儀ならば黄色の短冊、キリスト教徒は黒の短冊で、ヒンドゥー教徒は白のハンカチ状・・・ などを表わしているそうだ。

スリランカでは人が亡くなると家族全員が揃うまでお葬式をしない。 海外に暮らす家族を待つこともあるので、3日~5日、時には1週間でも家族が帰省するのを待つ。
その間、死者の家では、ず~~~っと葬儀状態となるので、まず人が死ぬと専門業者に遺体の腐敗防止処理を施してもらってから死者は自宅へと運ばれることになる。
お葬式のことを「マラゲダラ」と言うのだが、「マラ」は‘死’を、「ゲダラ」は‘家’を意味し、スリランカでは自宅にて葬儀をするのが常識となっている。 葬祭センターなどはもちろんない。
それに、スリランカの寺院は、「生きている人」の為にあるのであって、日本の末寺のように、「死んだ人」の葬儀場として寺院を利用するということはありえない。

さて、スリランカの葬儀では死者の家の者(遺族)は、ほとんど何もしなくてもよいのだそうだ。
いわゆる日本で言う隣組とか町内会の人たちがすべてを段取り、また、本人や家族の勤め先からも応援が来るので、遺族は、ただ ただ 個人の冥福を祈るのみ。 
道に掲げられた葬儀の飾りも、棺おけの手配も、葬儀費用の集金までそれらの人たちがやってくれる。

葬儀の期間中(通常4日前後)、親戚縁者はもちろんのこと、面識のある人・ない人を問わず、たっくさんの人々が弔問に訪れる。 この為、「この家の人が亡くなりましたよ!」という旗印が重要となるわけ!
何故そんなにもたくさんの人たちが集るのかというと、葬儀に来てくれた人たちには、もれなく食事(もちろんカレーだ!)が振舞われるからだ。
そして何故そんなにもやたらめったら振舞うのかというと、葬儀で人々にご馳走を施すことは死者の功徳になると考えられているからだ。 つまり、死んだ人が良い所に生まれ変われるように、この世で最後の善行を積んであげましょう、という理由なのだそうだ。
ちなみにスリランカの仏教は、ヒンドゥー教と同様、死者は再びこの世に生まれ変わると信じられており、キリスト教では、死=消滅を意味する。

炊き出しは町内会の女性たちが協力して作って弔問客をもてなし、男性たちは死者やその家族のガードマンとして四六時中付き添いながらゲームなどをして楽しくのんびりとした時間を過ごすそうだ。

さ~ぁ、家族も全員揃っていよいよお葬式が執り行われる。
お葬式には死者の自宅に僧侶を招いてお経をあげてもらい、その後ご法話をいただく。
何のお経をあげているのかは不明だが、「来世では、もっと幸せな人生が送れますように!」という願いの込められたお経なのだとか…σ(^_^;)?
読経の後、僧侶に供物を捧げる。 儀式的なことは極短時間で終了。
そして僧侶の説法が始まるが、その内容は日本とあまり変わらないような・・・(^.^ゞ
「故人は生前、こんな善いことをしました、あんな功徳を積みました。 なので来世ではきっと幸せな人生が待っていることでしょう! ですからご遺族は笑顔でこの旅立ちを見送ってあげましょ~ね~!」
というのが大半のあらすじ。

スリランカ仏教の僧侶は死者のことはあまり問題にしない。 あくまで残された遺族に対して法を説く。
ま~ぁ、法と言えるかどうかはさておき…、まずは遺族の悲しみを緩和することに焦点をおき、結論として、 「私たちは必ず死にます。 そして生まれ変わります。 来世で幸福な人生が送れるように、現世での日々の生き方を改め、善い行いをして功徳を積みましょう~」 と、説く。
「警察に捕まるようなことをすると、地獄に堕ちますよ~」 と…。

さてさて、長くなりましたがいよいよクライマックスです。
お葬式の後はみんなで棺おけを担いで火葬場orお墓に運ぶ。 
仏教では火葬が通例だが、金銭的な問題や土地柄などで土葬のところも少なくはないそうだ。
そしてお墓から帰ってきたら、またみんなでお食事をいただく。 これも故人の功徳となる。
お葬式から一週間後、再び僧侶を自宅に招いて食事を振る舞い、布や生活品などの供物を捧げる。
その後は三ヵ月後と一年後にも同じように僧侶を招いて接待する。 これも故人の功徳となるそうだ。

と言うわけで、スリランカの葬儀には、接待費などでかなりのお金が必要となる。で、葬式費用の工面ができない人はどうするかというと、どなた様も毎月 毎月 町内会にて月がけの葬儀費互助会のかたちで積立金をしているのでそちらから捻出される。
それでも不足する場合は、葬儀の時に町内会の人たちがお金持ちの家に行って、「あなたの功徳にもなりますから、葬儀費用を出してちょ~だい!」と請求&徴収してきてくれる。

スリランカって横のつながりがけっこう温かいのね!  いいな~、スリランカ!!

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スリランカ ― クルネーガラ (宗教と暦) [アジア]

ネゴンボから、幹線道路ではない小さな町から町へと結ぶ道を車は走る。
時折、インドを思い出させるような小さな町の風景に懐かしさを感じ、また、のどかな田園風景は、椰子の木さえなければ日本とさほど変わりなくも見えるが、野生動物や野鳥の数は桁違いに多い。
途中、ナーラン村を通った時には、道路を横切るマングースやヘビ、道端でくつろぐサルやイグアナ、田に集うサギやコウノトリなどを車窓よりWatching!

9:20 ネゴンボから北東に約80km、車で2時間弱の距離に位置するクルネーガラという町に到着。
クルネーガラはスリランカ北西部州の州都で、国内では6番目に大きな町。 かつてシンハラ王朝の首都でもあったそうだ。
クルネーガラ町には主要な幹線道路が交差し、古い建物と新しい建物が入り混じった中を多くの人々や車が行き交う。
クルネーガラに来てまず目を引くのは、町の建物越しに高く聳え立った岩山だ。
これはクルネーガラ・ロックと言い、この象の胴体にも似た岩山がある町ゆえに、クルネーガラの町はエレファント・ロック・シティとも言われているのだそうだ。
この岩山の頂上には巨大なブッダの座像が鎮座し、朝日を浴びて白く輝いていた。
「どうしてあんな所に仏像を?」と聞くと、「仏教の国ですから!」とクリスチャンのディディーさん。

[メモ] スリランカでは宗教の自由が認められている。
国の多数民族であるシンハラ人の多くは上座(小乗)仏教を信仰しているが、ディディーさんのようにキリスト教を信仰している人もいる。
宗教的な壁は低く、例えばディディーさんの父親は仏教徒で、母親はキリスト教徒。 インドのように、宗教が結婚の障害になるということは少ないようだ。
そしてスリランカでは宗教についての知識を、英語と同様に幼稚園の時から教育される。
毎週日曜日は「宗教の日」であり、子供たちはそれぞれに信仰する寺院や教会の日曜学校に通ってより深い知識を身につけるのだそうだ。
この時にディディーさんは母親の意向でキリスト教の学校に通っていたため現在もキリスト教徒という訳。

ここでスリランカの休日について触れておこう。
スリランカでは通常の土・日休みの他に祝祭日が実に多くて、特に特記すべきは満月の日で、毎月一度は訪れるその満月の日をフルムーン・ポヤ・デーと言い、この日は祝日となっている。
これは、お釈迦さまがお生まれになった日、そして仏の悟りを開かれた日、またご入滅された日がすべて満月だったという伝承にちなんでおり、フルムーン・ポヤ・デー(満月の日)は仕事を休み、お酒や肉・魚も断って、瞑想したり功徳を積む日とされているのだそうだ!

中でも一番重視されているのは5月のポヤ・デー(満月の日)で、この日はウェサック・ウッサワヤと言ってお釈迦さまの誕生・成道・涅槃をお祝いするために、寺院では仏教的儀式が執り行われ、町では提灯やオイルランプなどでカラフルに電飾をしてこの日を祝う。 
露店なども立ち並んでとても賑やかなお祭りになるのだとか!
二番目に重要とされているのは6月のポヤ・デーで、この日はポソン・ウッサワヤと言われ、スリランカへの仏教の伝来を記念する日なのだそうだ。
そして何と言っても有名なのが、7月(エサラ・ポヤ・デー)から8月(ニキニ・ポヤ・デー)にかけての10日間に渡って催されるキャンディ・エサラ・ペラヘラだろう。 (これについての詳細は、キャンディー・仏歯寺の項目で!)

面白いのが、宗教の休日が国民の休日となっている点だ。
フルムーン・ポヤ・デー(満月の日)は仏教の祝祭日でありながら、キリスト教徒や回教徒もこれに準じて休日となり、また逆に、キリスト教のクリスマスやイースター、ヒンドゥー教の神様の誕生日、イスラム教の各種祭日も国民の休日となっているので、仏教徒であっても仕事・学校ともにお休みとなる。 何とも羨ましい話しである!

暦のお話しついでにもう一つ、スリランカの新年について。
スリランカでは1月1日を New year day としているものの、特にお祝いはしない。
いわゆる‘お正月’と言われる行事は4月で、新年の日にちは、4月の13日~14日間に行う占星術で選ばれた時刻が‘新年’となる。
もともとは、シンハラ民族とタミル民族に共通する収穫感謝祭が起源となっているが、この日は宗教的儀式を行い、特別なお料理を食べ、新調した服を着てお正月のあいさつ回りに出かける。
ただし、お正月の時刻が占星術で決定するまでの数時間は、家事を含めて一切の仕事を断ち、飲食も断ち、その‘時’を待つ。
そして新年の時刻が始まったところで人々は爆竹を鳴らして喜び合い、台所に火を入れてミルク粥をいただくのだそうだ。

さてさて、話しをクルネーガラの町に戻そう!
クルネーガラではDriverのラビーさんの友達がやっている両替商で円からスリランカ・ルピーに両替をしてもらった。 5,000円 で 6,500LKR 。
ラビーさんが両替をしてくれている間、私は夫とディディーさんを車に残して一人クルネーガラの町をぶらぶらと歩き出した。 
人々の視線がこちらに集中してちょっと痛かったのでこちらから声をかけてみると、みんな気さくに応じてくれて、かと言ってそれ以上突っ込んでも来ないので心地よかった。
その心地良さについつい歩き過ぎてしまい、車に戻った時には、「あまり遠くへは行かないでくださいね」と、ディディーさんに心配をかけてしまったようだ。
でも、やっぱり知らない町のぶらり歩きはとっても楽しい~(*^-^*)

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スリランカ ― ネゴンボ (挨拶・教育事情) [アジア]

朝6時、スリランカでの朝を迎える。 カーテンを開けるとHOTELの庭越しにインド洋の海が見える。
昨夜は真っ暗だったので、こんな近くに海岸があったとは知らなかった。

HOTELのあるネゴンボは、スリランカ最大の漁港をもつ港町だ。 その歴史は古く、15世紀頃、この島を海のシルクロードの拠点として発展させてきたアラブの商人がシナモンの貿易基地として利用した後、ポルトガル・オランダの支配下におかれてからも重要な貿易港として利用されてきた。 そして現在でも町の中央を流れる130kmにも及ぶ運河には、小舟が生活物資を乗せて往来している。

3351674まずは Morning shower。 
OK! ちゃんとお湯が出る。
スリランカでのHOTEL選びは、これが KEY Point だ。
朝食は、スリランカ色の溢れたBuffet。 
Hotel Staffの応対が、気持ちの良い朝を演出してくれる。

7:30 HOTELを出発し、ラビーさんの運転でスリランカの内陸部、北東に向けて車を走らせる。
車内ではディディーさんが、スリランカについての基本的な情報を、自作のノートを用いて解説をしてくれ、私がその中から興味を惹いた箇所を自分のノートに記録していると、「こんなに真剣に聞いてくれたお客様は初めてです!」と嬉しそうな顔をした。

[メモ] まずは挨拶について!
胸の前で合掌して、「アーイュ ボー ワン」と言う。 これは日本語で言う 「こんにちは」にも、「さようなら」にも対応した 四六時中使える挨拶の言葉。
意味は、「アーイュ」は、長生き・長寿の意で、「ボー」は、ますます・もっとの意、そして「ワン」は、お祈り・祈願の意。 つまり 「あなたが長生き出来ますように祈っています」と言う意味になる。
「アーイュ ボー ワン」、この言葉さえ覚えていれば、後は片言英語でも十分にCommunicationがとれる。 何故ならば、スリランカの大半の人たちは英語が話せるからだ。
スリランカの言語は二国語あって、シンハラ人はシンハラ語を、そしてタミル人はタミル語を国語としており、この両者の連結語としてイギリスの植民地時代より英語が用いられてきた。
この為スリランカでは幼稚園から英語教育が開始されるので子供たちでも英語を話せる。

ここで特記すべきはスリランカの教育事情だ。
スリランカの公立学校は、小学校から大学まで、学費 及び 教科書代は全額無料なのだそうだ。 
義務教育は、小学校(1年~5年生)と中学校(6年~10年生)で、進学を希望すれば試験を受けて、高校(11年~12年生)や大学(4年間)にも行くことができる。
しかし、いくら学費が無料であっても、国民の80%が農業に従事しており、貧しい農村部などの子供たちは家業の働き手としてなかなか学校には行かせてもらえないという事情も抱えている。
また、大学に入学すれば学費・教材費のみならず、寮費や食費も公費でまかなってくれるのだが、スリランカ国内には大学がたったの15校しかなく、それは それは狭き門となっていて、進学率は2.5%とかなりの難関なのだそうだ。
この為スリランカでは大学進学をする為に塾へ通ったり、家庭教師を頼んだりして、結局は親の収入の格差が子供の進学にも影響しているという現実がある。
しかし、いくら大学に入って好成績で卒業出来たからと言っても希望の職種に就けるわけではない。
スリランカは未だ賄賂とコネが横行している国である。 これが無くては、大卒と言えども働き口を見つけることは難しいのだとか…。

Guideのディディーさんは独学でコロンボ大学経済学部を卒業した秀才さんだが、親が農業従事者(椰子畑)のため賄賂金も作れず、ましてやコネなどなく…、 就職浪人を二年続けた挙句に運命的な出会いを果たし、現在はGuideの職に就いている。
今から20年以上も前のお話し。
ディディーさんは銀行員になりたくて、大学卒業後も数々の銀行にアタックしたのだが、後ろ盾の何もないディディーさんを採用してくれる銀行はどこにもなく、途方にくれながらコロンボの街を歩いていたところ、偶然にも一人の日本人観光客と出会い、この時小さな親切をしたのだとか。
それが縁となってその日本人に、「もし君が日本に来たならば、日本語の勉強をする為の学費を自分が出資しよう」と提案され、これに懸けたディディーさんは、一生懸命アルバイトでお金を貯めて、また親戚中からお金を借り集めて、初めての飛行機に乗り日本へとやって来た!
そして約束通りにその日本人の足長おじさんに学費を援助してもらって、三ヶ月間だけだけど、名古屋で日本語の勉強をしながらアルバイト(居酒屋)でお金を貯めてスリランカへと帰って行った。
その後は独学で日本語を学び、Guideの資格を取得して現在に至る… というディディーさんの身の上話しを車内で語ってくれた。

パパイヤの花そんな話を聞きながら1時間ほど走った所で、夫が青空トイレの所用を申し立てたためにしばしの小休憩。
そして私は、殿方一同がパイナップル畑で用を足している間、一人ふらふらと道の反対側を行き、他人の庭先でお花の写真撮影。 [カメラ]
 これはパパイヤの花。 
パパイヤはスリランカではとてもPopularな食べ物で、こちらではガスラブと言って一年中収穫出来て、周囲のどの家の庭先にもパパイヤとバナナの木が当たり前にあって、当たり前になっている風景に、「へ~ぇ!」と感心などしていると…、 手や足や顔にまで、蚊の大群に襲われるので、森の中ではご用心あれ!![あせあせ(飛び散る汗)]

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スリランカ ― コロンボ [アジア]

スリランカ・コロンボInternational Airport は、想像していたよりもちゃんとした空港だった(^.^ゞ
何せスリランカのお隣、インドに初めて降り立った空港の印象が余りにも強烈だったので、そのイメージをもってスリランカに来ているから、「おや? 普通の空港だ…」ということに逆に驚いた。
Immigrationは、外国人専用Laneはなく、ゴチャ雑ぜの混み混みで列をなす。
しかし、横入りが横行している為、まともに並んでいるとなかなか前へと進めないが、ここは我慢のひと時であった!
結局、入国Gateを出るまでに1時間近くを要し、Local time 23:30にやっと脱出!

Gateを出てまず驚いたのは、「ここはアメ横の裏道か?」というようなその光景…σ(^_^;)?
空港らしくない地下街のような薄暗い通路のその両サイドには、個人経営の小さな家電Shopがズラリと軒を連ねている。 新品なのか、中古品なのか、とにかく洗濯機や冷蔵庫からデジカメなどの小物に至るまで、小さな店内に所狭しと電化製品が並べられた同じようなShopが数十軒建ち並び、店員たちが呼び込みをしているその光景は、とても空港の中であるとは思えなかった…。
これを通り過ぎると、今度は現地旅行社や両替商などの呼び込みに通路は大賑わい!
「おぉ~! これがスリランカか~!」 と Fast Impression !

空港の出入り口付近では出迎えの家族や旅行社などの人々で深夜とは思えないほど賑わっている。
日本人が来るのは珍しいのだろう、こちらが探すまでもなく Tourist のGuide が声をかけてきてくれた。
彼と連れ立って空港前の乗降所に向かい送迎車を待つこと5分。 ロータリーには日本車が溢れておりベンツなどの高級車もチラホラと見かける、インドよりも全然近代的だ!
迎えに来たのはやっぱり日本車でTOYOTAカリーナ、なんだか懐かしい感じがする。

コロンボ空港から今夜の宿となるニゴンボのHOTELまでは車で10分程だという。
ここで自己紹介。
今日から4日間、専属でお世話になる Guide の ディディーさん と Driver の ラビーさん。
共に男性で、ディーディーさんはガイド歴18年のベテランさん、20年ほど前に日本で3ヶ月ほど語学勉強をされたとのことだが、スリランカに訪れる日本人は少ないので、すぐに日本語を忘れちゃうのだとか。 
ラビーさんは現在ガイドの資格試験の勉強をしながらドライバーをしている青年で、日本語はヒヤリングの方なら多少はわかる程度。
二人とも Free Lance だが、過去に何度か一緒に仕事をしたことがあるとのこと。 二人とも第一印象は悪くない。 今日からこの四人での旅が始まる!

HOTELに到着してCheck In を済ませ、Welcome drink のオレンジジュースをいただいてから部屋へ入る。
時刻はもうすぐシンデレラTime。 さすがに疲れた気がする…。
交代でシャワーを浴びてベッドに入ったのは深夜の1:00。 日本とスリランカでは-3時間30分の時差があるので、現在の日本時間はA.M.4:30である。 長~い一日であった。

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やっと上陸 スリランカ! [アジア]

香港Launchを楽しんだ後は、腹ごなしに空港内を再びあてもなく1時間ほど俳諧してからGateに向かうと既に Boarding が始まっていて、すごい行列が出来ていた。

機内はほぼ満席。 日本人らしき乗客は私たちの他にはいなさそう…。 
そりゃそ~だ! なんたってこの飛行機は香港からシンガポールを経由してのスリランカ行き。
名古屋 ― シンガポール 間を わざわざ香港経由で行く人など稀であろう(^.^ゞ
でも、スリランカへ行くのなら多少の時間はかかってもキャセイパシフィック航空が最安値! で、香港がキャセイパシフィックのハブ空港になっている為、どうしても香港経由は外せない。
それにもう一つの利点は、キャセイパシフィックならば 帰路で バンコク発 ― 中部・関空行きの飛行機が、香港を経由することで深夜早朝便を使わなくてもいいのでスリランカでの滞在時間が増え、つまり移動を含めた旅行日数をFULLに使える、と言うわけで今回のTOURは、キャセイパシフィック利用のお値打ちFree Plan の為にこんな面倒なRouteでスリランカへと向かっている。

機内は設定温度が高い上に満席の熱気でムンムンしていた。 しかし、半袖T-シャツで暑がっている私たち以外の大半の人たちは、ジャンパーやパーカーを着用した上にブランケットに頭から包まっている。 赤道直下の人たちとは体感温度がこんなにも違うのかな~ぁ?

Local time 17:30、ベトナム上空を通過中の機内では早めのDinner time、今日5回目の食事である…(^.^ゞ まいった!! 半分ほどしか食べられなかったが、香港 → シンガポール 間の食事のお味はまずまずといったところ!
それにしてもキャセイパシフィックのCoffeeはすこぶる不味い! さすがイギリスの航空会社だ…

Local time 18:40、マレーシア越しの西の空に沈む太陽を、言葉なく静かに見送る…
マレーシア上空からの夕日

香港からシンガポールまでの飛行時間は3時間30分、予定よりも10分ほど遅れての到着、外はもう夜闇に包まれている。 ここでは乗客の一部入れ替えがあるだけだが、待機時間が2時間ほどあるので一旦全員機から降ろされた。
シンガポールと香港との間には時差はなく、したがって日本との時差は-1時間のまま。 
今朝、家を出てから既に14時間が経過しているので、さすがの私も少々お疲れ、それ故に巨大なシンガポール・チャンギ空港を探検する気にはなれず、到着したTerminal内をあてもなく1時間ほどお散歩してからGateに戻ったのだが、そこには長蛇の行列が…
なぜなら、ここの空港はBoardingの30分前にならないとGateの待合室にも入れず…、かと言って通路にはイス一つ置いていないので、乗客全員は待合室のドアが開くまで列をなして突っ立ったままひたすら待ちぼうけである。
やっとOPENしても、再度、手荷物のSecurity Checkを通らなければならない為すぐには中へは入れず…、 結局、乗客の全員がGate待合室に入るのに40分以上の時間を要したわけだが、待合室のイスが足りず、立ち待つ人もたくさんいた。
そんな訳で離陸時間も定刻をOverし、Local time 21:30にシンガポールをやっと脱出。
シンガポール → スリランカ 間もほぼ満席で、大半の乗客が入れ替わっていた。

隣席の乗客は香港から一緒のスリランカ人女性。 
普段は自分の世話も自力で出来ない夫なのだが、彼女に対してはサービス精神旺盛で、機内では三人で旅疲れ任せの愚痴の言い合いに花が咲き楽しい時間が過ごせた。
と、ここで機内サービスのドリンクか…、と思いきや、なんと、またまた食事が提供された!
WAO! これって夜食? Local time は 既に22時を回っている。 今日はこれで6食目だ…
「うぅっ! マジかい?」 と思いつつも… 食べなきゃいいのに、カレーの香りにそそられて、ついつい食事に手が伸びる。  「ん!?… 美味い~!!」 
このカレー、食欲が無くても食べれちゃうほど何だか美味しい! とは言っても半分ほどで Give Up !

窓の外の暗闇にポツリポツリと明かりが見え始めたのは到着の20分ほど前。
華やかな灯りではないけれど、Christmas Illumination みたいに ゆらゆらと点滅する眼下の夜景にしばし見とれていると…
いきなりFAの人たちが両手にスプレー缶を手にして機内に撒き散らしはじめた! 
「何? 何? 何これ? 何が始まったの? 何を撒いてるの?」 
結局、解からず終いだったけど、でも、ビックリした~ぁ!(^.^;)

Local time 22:30 シンガポールから3時間30分のFlightでスリランカ・コロンボ空港に到着。
日本時間は、翌日の深夜02:00である。 セントレアから14時間の飛行機旅がやっと終わった。(^.^ゞ

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 こちらが、今日いただいた機内食 [レストラン]
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旅立ちの朝 経由地 香港へ [アジア]

11月7日、旅立ちの朝は4時に起床… と言っても昨夜もほとんど眠れなかった…。
数日前から続いている睡眠不足の影響がこの旅で出なければよいが… と、些か心配…。
起きぬけ、パソコンを立ち上げてMailのCheckとBLOGをUpしたあとに身支度を整え夫を起こす。
そして6時半、家を出る時に普段はほとんど鳴くことのない四つ足の子供たちが今日は騒がしい。 
長期に家を空ける前には決まって悲しい声で泣くのが恒例となっているが、どうしてわかるのかな?… 
人間同士は言葉という手段を駆使してもなかなか分かり合えないという事が多いというのに、彼らはこちらの気持ちを読み取った上で、しかしこれに計らうことなく自分の気持ちをストレートに表現してくる。 
なぜか今日はそれが羨ましく思えた…。

旅立ちの朝.JPG
今日の朝日はいつもに増してとてもきれいだ。 「旅立ち… か…」と、太陽を見ながら一人呟く…
この旅にテーマをつけるなら何だろう…。  CHARGE? RESET? END? ・・・・・

自宅から空港までは道路が空いていれば車で4,50分。 空港近くの民間駐車場に車を預けてAirportまで送ってもらう。 
空港内はかなり空いていて、Check Inも Immigrationも アッという間に済んでしまった。
Boarding までの待ち時間、夫は携帯Mailやshoppingにと忙しくしているが、私は暇を持て余しながらノートに向かってペンを走らす。 でも、心 ここに在らず… 
旅立つ先のことよりも、置いていく気持ちの方に加重がかかって、またまた孤独虫が心を蝕み、根暗な想いが低く頭をもたげている…。
そして、そんな気持ちをかき消すように楽し気にはしゃいでいる自分自身を、憐れな目で見ている私が、今ここに居る…。

予定よりも15ほど早く搭乗したが、機は定刻の10時に離陸。 まずは最初の経由地・香港まで、3時間40分のFlightである。 
Seatは窓側、 搭乗率は30%とかなり空き空きで快適な出足となった。
眼下に朝日を浴びた美しい伊勢の島々を望みながら、機内Serviceの美味しくないCoffeeと 持参した美味しいFruit cakeをいただき、お腹いっぱいになったところで、なんと、予想外の機内食が提供された!
「えっ? これって、朝食? それとも昼食?」 
今朝、自宅を出る前に軽く朝食をとってきたが、空港で‘黒稲荷’なるものを発見し、美味しそうだったのでついつい搭乗前に一食いただいてしまった… (^.^ゞ
つまり、この機内食でA.M.11:00にして今日3度目のお食事となる。 
しかし、牛丼とロールパンとフルーツ、そしてなぜか白い法要まんじゅう… というヘンテコな組み合わせと、日本 → 香港 線の食事の味の悪さにほとんど食べられなかったが…。

食後、機内に漂うタバコの香り…  なぜ?  機内は禁煙のはずでは…
案の定、5分程して機内アナウンスが入り、乗客の一人がトイレで喫煙したことが発覚し、機内での喫煙は、罰金 もしくは 禁固刑 であるとの警告がなされた。 あ~ぁ、かわいそうに…、 自業自得だけど…。

離陸から2時間半後、台北の上空を通過、 そして予定よりも10分ほど遅れてLocal time 12:50 香港に到着。 日本と香港との時差は-1時間である。 
香港国際空港では乗り継ぎの為の待機時間が3時間ほどある。 空港が啓徳から移転して10年経つが、新空港を利用するのは今回が初めて! ということで空港内をトポトポと散策。
でも、ブランド品には興味がないし…、免税店の香りは堪え難いものがあるし…、
1時間ほど動き回って小腹が空いてきたところで、空港内の food court にて香港Launchを食すことにした。
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Orderしたのは、店先に 拷問の如く 内臓を抉り取られ 丸焼きにされたうえに 鈎針に吊るされたチキン2種と、野菜スープ、野菜炒め、ご飯、中国茶のSET。 これで500円くらいだからけっこうお値打ち!
お味の方は、「美味しい~!」というより、「現地~!」という感じで、それなりに満足。
でも…、 まだお昼だというのに今日はこれで4度目のお食事TIME…。 大丈夫か? 私のお腹!

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今が旬だよ! スリランカ [アジア]

ただいま~! \(^o^)/   昨夜遅くにスリランカから無事に帰国しました!!
チョットばかり時差ボケで、昨夜は疲れていながらもすぐには寝付けなかったが、今朝は朝寝坊をするほどしっかりと熟睡していた。(^.^ゞ

帰国して、「旅行はどうだった?」と聞かれるよりも、「お腹はどうだった?」と聞かれることの方が多いけど、でもスリランカは想像していたよりもず~っと近代的で、多少の自己管理さえ出来ていれば下痢の心配などほとんど不要。
そんなスリランカについての知識が薄い上に自分勝手なイメージが、今回の旅でかなり払拭できた。

スリランカという国については、仏教国であるということ、紅茶の産地であるということ、また2004年に起きたスマトラ島沖地震の被災国であるということ意外にはほとんど知識がなかったので、出発前にちょっとばかりお勉強をして行ったこと、そして現地ガイドからの情報をここにまとめてみよう!

インド洋・ベンガル湾の南西、南アジア・インド半島の南東にポーク海峡を隔てて位置するスリランカ(スリランカ民主社会主義共和国)は、1972年までは‘セイロン’と称されていた島国で、国名の「スリランカ」とは、シンハラ語で、「スリ/Sri」とは〝光輝く・素晴しい〟、「ランカ/Lanka」とは〝島〟の意味をもつ。

スリランカMAP

~ スリランカの基本情報 ~

地理> スリランカは日本の南西7,500kmのインド洋に位置し、ノンストップ便ならば日本から9時間程の距離である。
国土は、65,610km² で、南北に435km、東西に225km、北海道よりも一回りほど小さい程度。 その大半が平坦か丘陵で、最高峰の山でも2,524m(Mt.ピドゥルタランガラ)しかない。

季候> スリランカの気候は熱帯性・高温多湿で、海岸部・低地では年平均気温27℃と暑いが、高地部では16℃と一年中常春のような気候で、地域にもよるが6~11月の多雨期を除いては乾燥している。

民族> 人口2024万人のその内訳は、北インド・アーリア系を先祖にもつシンハラ人75%に次いで、南インドから移住してきたタミル人が17%(スリランカタミル人12%・インドタミル人5%)、スリランカに住むイスラム教徒スリランカ・ムーア人8%などとなっている。
公用語は、シンハラ語とタミル語をそれぞれに話し、その連結語として英語が使われている。

民族> 宗教は、仏教が75%、ヒンドゥー教が10%、イスラム教が8%、キリスト教が7%となっており、仏教徒のシンハラ人とヒンドゥー教徒のタミル人による対立は、今なおシコリを残している。

産業> 主要な産業は、紅茶・ココナッツ・天然ゴム・米・スパイスなどを主とした農業と、近年では繊維産業による衣料品の輸出が盛んだ。

治安> 日本と比べて治安はかなり良い。 国民性も男女共にとてもフレンドリーであるし、コロンボなどの都会を除いて軽犯罪も少なく、最低限の注意さえ払っていれば神経質になる必要はほとんどない。

~ スリランカの歴史と内戦 ~

国民の7割が仏教徒であるスリランカのその歴史は、紀元前5世紀、シンハラ人が北インドから移住して王国をつくったことに始まり、紀元前3世紀、アショーカ王の息子マヒンダ王子が仏教を伝えて以来、仏教国としての道を歩んできた。
しかし、その歴史は平坦なものではなく、紀元前2世紀以降には南インドよりヒンドゥー教徒・タミル人が侵攻し、これに対抗したシンハラ人によって仏教は守られ、その文化を今に伝える。

1505年にポルトガル、1658年にオランダがシナモンを求めてセイロン島に来航し、それぞれ湾岸地域を植民地化。 1815年には、セイロン島最後の王朝・キャンディ王朝の滅亡によって全島が英国の植民地となった。

その後100年以上に及ぶ英国支配を経て、1948年 スリランカは、英連邦自治領「セイロン」として独立、そして1972年に共和制への移行によって、世界初の女性首相となったシリマヴォ・バンダラナイケが、国名をスリランカ共和国に改称し、1978年 大統領制の移行によって現在の国名「スリランカ」となった。

1987年以降は、反政府組織LTTE(タミル・イーラム解放のトラ)によるテロ活動の激化で内戦が絶えず国内は長い間不安定な状態が続いていたが、現在のラージャパクサ大統領は中国より資金援助を受けてスリランカ政府軍の攻勢を強め、北・東部のLTTE支配拠点を次々と奪回しLTTEを制圧していった。
そして今年2009年5月19日にLTTEのプラバーカラン議長の死亡を確認し、最高指導者を失ったLTTEは壊滅状態に陥って内戦終結を宣言。 
26年間にも及ぶ奮闘で7万人を越える戦死者を出したこの内戦が終結したのは、わずか半年ほど前のことである。 

[るんるん]それ故に、スリランカへの観光旅行が解禁されたのはホントにここ最近のことで、しかも多雨期が完全に明ける来月以降はホテルもほぼ満室とのこと!
今回は観光整備前のナチュラルなスリランカを楽しめたこと、また、現地の旅行会社にも安価で充実したプランをオーダーすることが出来たこと、とっても良い旅行が出来たと思う!

と、ま~ぁ こんな感じでボチボチと、スリランカ旅行記をヒマの合間にでも書いていこう![手(チョキ)]

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光り輝く島 スリランカ [アジア]

今日、旅に出ます…  ちょっと、スリランカまで!

スリランカがどこにあるのか、いったいどんな国なのかも まったく知らぬまま、たまたま目にした古~い旅行パンプレットにその名を見つけて、ただ何となく気を惹かれた。
そこで、そのパンフレットに記載されてあった旅行企画会社のホームページを覗いてみると…、やっぱり旅行期間外になっている。 残念…!
そこであきらめちゃうのが普通なのだろうが、何となく、ダメもとでその旅行社に電話をしてみる。
「もしもし、古~いパンフレットを見つけたんですが、この企画、まだあります~?」
「あぁ、スリランカの?! それは 現在 継続検討中の商品で、企画書は上がってきているんですが、まだ中身が未確定でして…。  で、いつの出発をご希望ですか?」
「再来週… というのは、キツ過ぎます?」
「え゛っ?!  まぁ~、フリープランなので、エアーさえ確保できれば何とかなると思いますが…」
と言うことで、企画書の決定、パンフレットの印刷を待つこと4日。 この旅行を申し込むに至った。

ところが夫が渋い顔で、「オレは、水道水の飲める国じゃなきゃ~イヤでい!」って言う。
「それじゃ~、私一人で行ってきてもいい?」って、半分本気で、でも軽~い気持ちで言ってみたら、「そいつはなんね~ぇ!」と、結局一緒に行くことになった。
最初は不安がっていた夫も、友人が経営する会社の従業員にスリランカから来ている人がいて、その人とお話しをしてからは、すっかりスリランカ行きに乗り気になっている。 ゲンキンなものだ…。

夫の有給が三連休しか取れないので土・日を含めてたった五日間(三泊五日の朝出発・深夜帰り)しかないが、短期間集中型で頑張って旅してこようと思う!
しかし… いったい何を頑張るのやら?  
そ~ね~ぇ…、 どうせ戻れない過去ならば、記憶喪失になるくらい頑張って“今”を忘れてこよう!!
あはっ! 過去も、現在も、未来も、 ぜ~~~んぶ、なくなっちゃえ~~~!!!

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2009年2月11日(水) 帰国 [アジア]

[飛行機]バンコク⇔関空間の飛行機も往路同様満席だった為座席の移動は叶わず、窮屈な状態で半眠半覚のまま日付変更線を越える。
早朝4:30に機内サービスの朝食が出され、疲れていても、寝不足でも、動いてなくても、ちゃんとお腹は減るもんだと自覚しながら、この旅最後の食事を美味しく完食した。
関空到着の少し前、東の空からは朝焼けの光が差し込み、私の座席からではかなり見難かったが、青・白・橙のコントラストが色鮮やかに丸窓のキャンパスに描き写されていた。
午前6時を少し回って当機は無事関空に着陸し、入国・税関の検査を通過したMember全員は、眠そうな表情をしながらも一同介して簡単な解散式を行った。

さぁ~! あと、もう一旅!! 自宅の玄関までは旅の途中である!!!

20名以上もいるMemberの中で、電車での帰宅組みは、私とS先生とMK先生の3人だけだった。
Ticketを購入してホームに行き、10分ほど待ったところで‘はるか’が到着。
「京都までの一時間は寝て過ごそう」ということで、三人バラバラに腰掛けて、両先生方はすぐに睡眠モードに入られたが、私はいろんな想いが頭の中をかけめぐってほとんど眠れないまま京都駅に到着。
京都駅では、在来線で帰られるMK先生と握手でお別れした後、S先生とはGoodbye Hugでお別れをしたことで懐かしいアメリカ生活を想い起こし、それが逆に「あぁ、日本に帰ってきたんだ」って気持ちになった。
この後、新幹線の待ち合わせ時間が30分ほどあったので飲み物でも買おうかと思ったが、帰りのタクシー代を心配して我慢した。(後に、この判断が大正解[exclamation]

新幹線に乗ってからもほとんど眠気はなかったのに、下車駅のひとつ手前の駅に着く直前で(到着のアナウンスを聞きながら)記憶が途切れて熟睡モードに入ってしまったようで、ハッッッ!と目が覚めた時には新幹線が駅に停車していて、「ここはどこ[exclamation&question] どこなの[exclamation&question]」と物凄く焦ってうろたえたが、まだ一つ前の駅だったわかってホッと安堵した。
たった一分間の熟睡だったわけだ…(^.^ゞ
この頭(自分)は、いつ思考が途切れても不思議ではないほどの寝不足状態だと知って、危険回避の為に早めに席を立って乗降口に向かったが…、 立ったまま寝てしまったのか、新幹線のドアが開いて、「あ…、着いた…」との意識のもと、下車した。

駅から乗ったタクシーでは、道路渋滞の為に料金メーターがどんどん加算で行くので、手持ち現金が足りなくなったど~しようかとの心配があって眠気は吹っ飛んでいた。
そして祈るような気持ちでメーターとにらめっこをしながら自宅に到着。
タクシー料金は¥3,180。  財布の中身は¥3,250。 
あと、1 Meter カチャンっと行ったら足りなくなる寸前のところで、SAFE[手(チョキ)]であった。[るんるん]
[ハートたち(複数ハート)]我が強運に感謝[ハートたち(複数ハート)]

私の帰宅を待っていた四本足のこどもたち(Dogs[犬])のけたたましい声に迎えられて、私のインド・ネパール仏跡巡拝の旅は、無事終了した。

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2009年2月10日(火) カトマンズ → バンコク → 関空 [アジア]

アメリカンクラブのおかげで、カトマンズが大大大大大嫌いになった私は、一分でも一秒でも早くネパールの地を離れたいと思った。
「もう、二度と来るもんか!!」 料理は不味いし、Hotelも最悪で、国民性も好きになれない・・・・・
そんなイヤ~な思い出を最後に作って今回の旅行を終えることが、とても悲しかった。
いくら “カトマンズの怪”と言われる落とし穴に引っかかってしまったとは言え、私の悪運にMRさんまで巻き込んでしまったことを思うと、ホントに申し訳なく、何につけても後味の悪い旅の最終日となってしまったことにひどく落ち込んだ・・・・・
空港への道のり、ネパール最後のバスとなる車窓からの風景も、全然楽しくない…。

TourConductorの拓郎さんには、“カトマンズの怪”に引っかかってアメリカ軍に拘束されたということを報告して、「特に問題にはならないだろう」とは言われたが、空港での出国手続きの時は、ちゃんと出国できるかな~ぁとチョットだけ不安になった。
でも、難なく出国手続を済ませて、20分ほどFree Timeがもらえたので、支部の人たちへのお土産も購入することもできた。
さ~ぁ、一刻も早くカトマンズとおサラバしよう!!

飛行機のシートは相変わらず運が悪く、窓側でも通路側なかったので、機内が落ち着いた頃に窓際の空いているシートへと移動した。
私が座った窓際のシートは、中央を一つ空けて通路側には現地人らしい男性が座っていた。
なかなかGO SIGNの出ない機内で待機していると、一つ隣りの男性が話しかけてきた。
彼はネパール人で、名前はビーブーデーさん。 42歳の警察官である。
今からバンコクを経由してオーストラリアへいくのだという。
暇な時間、自己紹介を兼ねたおしゃべりをしているとようやく飛行機が動き出し、ビーブーデーさんから、「もうすぐボダナート・ストゥーパが見えるよ」と教えてもらって窓の外へ目を移すと、カトマンズの街並みより頭一つ分飛び出したボダナート・ストゥーパの頭と「知恵の目」がこっちを見ているのが見えた。
「もう、ここには二度と来ないから」 … そう言って別れを告げた。

2644607

ビーブーデーさんの話しだと、昔はここからもヒマーラヤの山脈を望むことが出来たが、最近は大気汚染がひどくて、離陸してからでないとヒマーラヤを眺めることが出来ないとの説明通り、カトマンズの市街地を離れるとすぐにヒマーラヤ山脈を見ることができた。
昨日よりは雲が多いものの、3日続けてマーラヤの山脈を見ることができるなんて、幸せ!

ビーブーデーさんとはいろいろな話しをした。
警察官でありながら海外赴任の経験が二回もあるというのだから、よほどの頭脳の持ち主で地位も高いのだろうと想像できる。
語学の方はサンスクリット語と英語の他にも2,3ヶ国語は話せる(日本語は無理)そうで、また彼の子供たちも秀逸で、長女(22歳)と長男(21歳)はアメリカの大学(ボストン)に留学中とのことであった。

ビーブーデーさんは、今回オーストラリアに行く目的も話してくれた。
オーストラリアに住んでいる弟夫婦の二歳になる娘を養子に迎えるために、一ヶ月間の休暇をとって今から迎えに行くのだそうだ。
彼の奥さんは一足先に昨年末からオーストラリアの弟夫婦のもとに滞在しているそうで、「行きの飛行機は一人だけど、帰りは三人なんだ」と嬉しそうに話してくれた。
ネパールの富裕層の話題を聞いて、チョット少し驚いた。
ビーブーデーさんの出身を聞くと、彼のおじいちゃんはラマ教(チベット仏教)のストゥーパを造る現場監督として中国から渡来された方だそうで、彼自身もやはりラマ教なのだと教えてくれた。
そして仏教の話しになり、「私の仏教と、あなたの仏教は違うのよ」との説明を試みたが、私の数少ないWordを並べただけでは伝えることなど到底不可能で、でも、「なまんだぶつ」は素晴しい言葉だと伝えると、彼は何度も「なまんだぶつ」と繰り返し言っていた。

ネパールからバンコクまでのフライトは、ビーブーデーさんのお陰で退屈せずに楽しい時間を過ごさせてもらった。

バンコクに着いてから、Airport内での滞在時間は3時間以上もあり、それも深夜便の飛行機を待つ訳で…、さぞかし退屈するだろうと思っていたが、MRさんと二人で空港の隅々まで駆け巡って、最後のshopping Timeを大いに楽しんだおかげで、アッと言う間に時間が過ぎてしまった。
Memberの表情には疲れの色が滲み出ていたが、私は皆さんより少々若い分、まだまだ元気?って感じで、夜食のタイ料理も美味しくいただいた。

食後は搭乗ゲートに向かい、KY夫妻と別れを交わして、この旅最後の飛行機に搭乗した。 

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ネパールの植民地的治外法権租界 in カトマンズ [アジア]

A.M.6:30 カラスの鳴き声がうるさくて目が覚めた。 イヤな気分である・・・
窓を開けて見ると、部屋の前の中庭で開かれた昨夜のパーティーの残飯をあさりに、無数のカラスが芝一面を覆うように群がっていた。

目覚めの悪い朝…、 しかも今日は特に予定もないのでダラダラと朝の準備をしていると、「早めに支度して、公園に散策へ行こう」とMRさんが誘ってくれた。
これに勢いづいて急ピッチで身支度を整え、朝食をとっているところへ、少し遅れてIKさんが同じテーブルについたので、「今日のFree time(~10:30)は何するの?」と聞いてみると、「近くに別院があると聞いたので行ってみる」とのことだった。
「だけど所在地がわからないから地図が欲しい」と言うIKさんに、親切なMRさんが、「ガイドブックを持ってるよ!」というと、「それ借して」とIKさん。

朝食後、私たちの部屋にガイドブックを借りに来たIKさんにMRさんが、「ウチラも出掛けたいから、9時までに(20分位で)返してね」と言ってガイドブックを手渡したのだが、結局IKさんはそれっきり戻って来なかった・・・・・
手持ち無沙汰な時間が20分…、30分…と経過して、「コピーするだけで、何でこんなに時間がかかるの?!」とイライラし始めた私にMRさんが、「ロビーに行ってみよう」と提案し、二人で部屋を出た。
ロビーに行くとIKさんがいて、「返しに行けませんでした」と言いながらMRさんにガイドブックを返却し、MRさんはグチひとつ言わずにそれを受け取って、私とMRさんは二人でHotelを出発した。

事前に何も予定を立てられなかったが、ガイドブックを片手にHotelを出た私たちは、まず王宮通りを南に向かって歩き始めた。
Hotelから400mほど南に来た交差点でMRさんが、「来たかった公園(目的地)だ~♪」と、池を指差して言うが、私が地図を確認した限りでは、あきらかに場所が違う・・・(^^ゞ
MRさんの目指す公園は、更に南に行かなければならないが、その道は車よりも人の数の方が多そうなゴチャゴチャとした道だった為、MRさんは第一希望の目的地を断念し、第二希望の公園へと向かうことにした。
その交差点から大通りを西に向かって再び歩き出した私たちだったが、MRさんが想像していたよりも公園は遠く、また、ネパールの警備官や軍人に道を尋ねても、彼らは地図を見ることすら不得手なようでまったく要領を得ないため、MRさんは再び目的地を変更し、このまま四角くHotelの周囲を一周してから、Hotelへと戻ることにした。

そしてカンティパトst.まで来た時、ネパールに来て初めて機能している信号機を見つけて私はパチリと写真撮影をし、ここから北に向かって信号待ちをしていると、交差点の対岸からライフルを肩にかけた兵士に手招きをされたような気がした。
「何だろう? 気のせいかな?」などと思いながら青信号で横断歩道を渡ると、手招きをした兵士に「カメラを見せろ」と声をかけられた。
私がカメラを差し出すと、「何を撮った?」と聞かれたので、「信号機だよ」と答えながら写真を見せると、二人の軍人は「問題ない」と言っているのだが、一人の軍人がその二人に何やらゴチャゴチャ言っている。
私が、「何か問題あるの?」と聞くと、私の撮った写真の片隅に「塀」が写っているのが問題だという。
確かに、写真画面の右10分の1のところに、わずかだがクリーム色の壁が写ってはいるが、それがど~した?という程度のもので、二人の軍人は笑いながら「問題ないよ」と言っているのだが、一人だけは納得がいかないらしく、「オフィスまで来るように」と言われた。
私がこれを拒否すると、「大丈夫、大丈夫、何の問題も無いから」とその軍人は言うが、私はMRさんに、「最悪の事態を考えて、MRさんは一人でHotelに戻ってください」と言ったのだが、MRさんは私を一人置いては帰れないと言って、結局二人でオフィスまで連行された。

オフィスに入ると受付に座る軍人の服に、USAのワッペンを見つけ、ますます訳がわからなくなったが、私はとっさに、「MRさん、英語が通じないふりをしましょう」と言った。
オフィス内でも私の撮った写真の議論がなされて、「問題ない」という人もあれば、「とりあえず…」と言う人もあり、でも結局、私は別室へと連れて行かれることになったので、この時もMRさんに、「先にHotelへ帰ってください!」と言ったのだが、MRさんは頑として「なっちゃんを連れて帰るんだ」と言ってくれて、心強かったけど、申し訳の無い気持ちでいっぱいだった。
そして一人、取調室へと連行された私は、彼らの質問には一切答えずに、日本語で散々文句を並び立てたのだが、取調官の一人が別の人に、「英語が話せないのなら友達に通訳をしてもらうから取調室に連行するように」と言ったので、私はあわてて、「ちゃんと話すから友達まで巻き込まないで!」とお願いしたのだが、結局MRさんまで取調室に呼ばれてしまった。
取調室に入って来たMRさんは、「時間が無い! 早くしろ!」と彼らを促すが、彼らは自分たちが聞きたいこと以外には、一切耳を貸そうとはしなかった。
生まれて始めて刑事ドラマの犯人役を演じたような気持ちにさせられたが、取調官の私に対する態度は、丁寧、且つ、楽し気にも見えた。
そして20分ほどしてやっと開放され、私たちは時間ギリギリにHotelへと帰ることが出来た。

帰国後、自分の身の上にいったい何が起こったのかを調べてみると、私が撮った交差点の一角に、「アメリカンクラブ」というアメリカ人の保養所があるということがわかった。
カトマンズ在住のK氏によると、カトマンズ市街のど真ん中にある「アメリカンクラブ」は、軍事施設や大使館などではなく、アメリカ人を中心とした外人用の保養施設(レストランなど)で、外見はごく普通の「塀」にしか見えないために、私のように風景を撮った片隅や、何かを写したその背後にその「塀」が写ってしまうこということが多々あって、毎日、毎日、何人かの観光客がその落とし穴に落ちるように連行・拘束されているだのそうだ。
私のように調書をとられて20分そこそこで出てこれるというのは、よっぽど問題が無かったのだろうと・・・・・

現地の各国大使館領事も米国大使館に抗議をしているのだが、一向に改善されないそうだ。

「威張ってんじゃないぞ、アメリカ!!」 と、大声で言いたかった!!! 

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ダルバール広場 Ⅳ ) / 九日目の総括 [アジア]

「クマリの館」を出て、「ダルバール広場(旧王宮広場)」の南西出口に向かう途中にあるのが、「カスタマンダプ寺院(マル・セッタル)」である。
2632472建立年は明らかではないが12世紀頃に建てられたと考えられているネパール最古の建築物「カスタマンダプ寺院」は、「カトマンズ」という都市名の由来となった寺院としても知られている。
「カスタ」とは「一本の木」、そして「マンダプ」とは「祭場」の意味を持ち、「カスタマンダプ」とは「木で造られた家」という意味で、この「カスタマンダプ」が→「カトマンズ」になったという話しだが、あまりにも浅過ぎやしないか…、という感じを受けた。
羅双樹の大木1本だけで建てられたと伝承される「カスタマンダプ寺院」は、もともと巡礼宿として利用されていたそうだ。

2632473「ダルバール広場」の見学はこれにて終了と言うことで、ここから旧市街地をぬけてバスへと戻る。
徒歩10分の道のりは 京都の清水坂を思わせるような古い町並みで情緒的な雰囲気が気に入った。
不思議なものもアレコレあって もっとゆっくり見たいと思ったが、ネパールのGuideは口も速いが足も速かった・・・
                (不気味な[バースデー]ケーキ屋 →)

バスに戻る前にトイレ休憩をすると言って入ったのは、ツーリスト御用達の土産物屋だった。
何となく騙された気分だったけど、一応一通り店内を散策する。 が、 5分もするとあきて来た。
こんな土産物屋でFree Timeにするよりも、さっきの広場でもっともっと時間がほしかった!!
Guideは、「近寄ってくる物売りたちが鬱陶しい」と言って邪険にするけれど、Memberの中にはそれを楽しんでいる人たちもいるのだし、それを理由に観光地では長居できないとする旅行社のやり方には納得いかない!
「お客様の安全を考えてのこと!」などと表向きは言っているが、何よりもGuide自身が楽をしたいだけじゃん! と、手持ち無沙汰な時間の中、不満がどんどん積もってきたので、買うつもりはないけどJewel Shopの店員とおしゃべりをした。
ショーケースの中にかわいらしいネックレスのトップをみつけたので手にとって見てせもらうと、店員から、「この石には不思議なパワーが宿っていて、身に付ける人を幸せにする」だとか、「この石は神の化身」だとか、余りにもクサイ押し売りをするので、ついつい言い返したくなってきた(^^ゞ
「じゃ~、このお店も、この石のパワーがかかってるんだね!」と言うと、「YES!」と予想通りの答え!
「それじゃ~、この宝石が売れちゃったらこのお店はSPECIAL POWERがなくなっちゃうからすっごく困るよね~! このお店の為に私は買うのをやめとくよ♪」と言ってからかうと、店員も苦笑い…(^^)v

結局、この土産物屋での滞在時間は40分。 「ダルバール広場」でのたった15分間のFree Timeを考えると、やっぱり納得がいかない・・・・・[爆弾]

土産物屋からHotelまでは直行で15分、午後5:00に到着した。
夕食までしばらく時間があったので部屋に戻ってMRさんと明日のFree Timeの相談をしながら、窓辺でのんびりと時間を過ごした。
今日の部屋は中庭に面しているので発電機の騒音はないが、どうやら今宵は中庭でパーティーが催されるらしく、HotelのStaffが慌ただしく準備に追われていた・・・
もしかして、今夜も別の騒々しさに見舞われるのか~?と不安になった。

午後7:00 Dinner Time 兼 お別れ会が、Hotelの中華レストランで開催された。
今日は最後の晩餐ということで、飲み物代は旅行会社が負担してくれると聞いて、Memberのほとんどが、アルコールをご注文[揺れるハート]
TourConductorの拓郎さんが、「今まで2,3人しか飲まなかったのに、みんなお酒飲めたの~?」と帳簿の心配をしているが、ただ酒ほど上手いものはない!とばかりに、Memberは、ビール[ビール]だ、ワイン[バー]だ、ジュース[喫茶店]だと大いに盛り上がった。
ど~もご馳走様でした。[ハートたち(複数ハート)]

お別れ会の後に、MRさんに付き合ってもらって、昨日約束していた、Hotel内でShopを経営している彼のお店に行った。
両替分のインドルピーが、ほぼ丸々残っていたので使っちゃわなきゃ!と思って行ったのだが、彼の慣れ慣れしさがチョット不気味だった。
案の定、店に入る熱く感激され、「今、他のお客さんを接客中だから、ショーケースの中の物、好きなだけ出して見てて」と言って腰に手を回されたまま店の奥に連れてかれ、ショーケースの鍵を開けるとそのまま別のお客様の接客に行ってしまった・・・
私は店の奥に入ったまま、MRさんやTourのMemberに、「どちらの商品をご覧になります?」とか言いながら勝手にジュエリーを取り出して、思わず昔懐かしいお店屋さんゴッコ遊びなどしてしまった。(^^ゞ
しかし、無防備すぎやしないか? あのオーナー・・・(^_^;)
ところがなかなか接客が終わらないオーナーに、「時間がないから帰るよ」と言うと、「もうチョット待ってて、すぐに済むから」と言いながら頬にキスされてしまった。
チョット慣れ慣れし過ぎ!!
でも、9:00からの懇親会に間に合わなくなっちゃうので、残念ながら買い物はあきらめた・・・・・

彼のShopからS先生の部屋まで直行してMRさんと二人で懇親会に参加した。
Memberは10人プラス拓郎さんと少人数だったが、夜遅くまで歓談は続いた。
だけど私は途中で睡魔に襲われてリタイヤー、MRさんと一緒に部屋へ戻った。

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ダルバール広場 Ⅲ ) [アジア]

「ダルバール広場(旧王宮広場)」の北Gateから先は繁華街 「インドラチョーク」→「アサンチョーク」へと続き、ここは中世の街並みをそのまま残すカトマンズ最大のバザール・ストリートで、広場以上の賑やかさで人々が溢れかえっていた。
う~ん、行きたい[黒ハート] 行きたい[るんるん] 行きたいのに~~~ぃ・・・[exclamation]  ダメだって・・・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

インドラチョークの入り口でUターンして、別ルートで戻る途中、カラフルな像が目に付いた。
これは1660年に作られた「カーラ・バイラヴァ神」で、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身なのだそうだ。
「シヴァ神」は、ヒンドゥー教の根本聖典『リグ・ヴェーダ』において暴風神・ルドラの別称で、強力な破壊神であると共に病を癒やす治癒神でもあり、ヒンドゥー教の三最高神の一柱として、創造のブラフマー神、維持のヴィシュヌ神、破壊のシヴァ神と共に崇められている。

2631196「カーラ」とは、サンスクリット語で「時間」を意味し、時間 = 無常 = 破壊 を表わし、「バイラヴァ」というのは、「恐怖すべき者」という意味なのだそうだ。
「ダルバール広場」にある「カーラ・バイラヴァ神(シヴァ神)」は、部分的に見れば黒い肌を血で赤く染めて、腰や頭に髑髏を飾り、六本の手には人の腕や生首などを掲げているなど人を恐れさせる格好をしてはいるが、全体的に見るとコミカルなアニメのキャラクターにしか見えない・・・[ドコモポイント]
しかし、建造当時には、この像の前で嘘をつくと恐ろしいことが起こると言われ、「カーラ・バイラヴァ神」の前に犯罪者を引き出して裁判のようなものを執り行っていたとも伝えられる。

「カーラ・バイラヴァ神」像の斜め前にある八角形の「クリシュナ神寺院」は、ネパールの子宝寺のようなもので、年に一度のクリシュナ神聖誕祭の時にしか扉は開けられないが、この時、寺院前に設置されるゆりかごを揺らすと、息子が授かると言われているのだそうだ。

この後「クマリの館」を見学する。
「クマリ」とは、ネパール王国の守護神である女神・タレジュの生まれ変わりであるとされ、また、ヒンドゥー教の女神・ドゥルガーと、密教の女神・ヴァジラ・デーヴィーとが宿った化身であると言われている。
その「クマリ」の選出にあたっては、まずネワール族で仏教徒の僧侶・金細工師カーストであるサキャ家系の少女であること、「クマリ」としての32の条件に全て叶っていること、心身とも傷の無いことなど、多数の用件を満たした少女の中より選出され、選ばれたた少女は初潮を迎えるまで、「クマリ」として務めなければならないとされている。
しかし、たとえその条件に当てはまったとしても、最近では親の反対によって「クマリ」の成り手は少ないという。
なぜならば、3,4歳で「クマリ」となったその日から、少女は特別な儀式がある時以外の外出を禁止され、侍従達に囲まれながら薄暗い「クマリの館」の中だけでの生活を強いられるため、学校へも行く事もできず、世間の常識から隔離されて生きなければならないからだ。
それなのに、初潮や多量の出血がみられれば「クマリ」を解任され、外の世界に放り出されるのである。

「クマリ」の起源はマッラ王朝時代に遡り、マッラ王が国の守護女神・タレジュとサイコロ遊びをしながら王の仕事を占ったことに始まったとされている。
しかしマッラ王朝が三国に分裂し抗争を続ける中で、「クマリ」の儀式は、最高権力者たる国王の象徴として「クマリ」にひざまずくのだという国家権力の正統性を裏付けるための意味を持ち、またこれが土着信仰と合体したことで現在まで存続してきたこともあり、ネパール国内の至る所に多数の「クマリ」が存在する。
それら村や町のクマリは「ローカル・クマリ」と呼ばれ、ここカトマンズのクマリだけが「ロイヤル・クマリ」と称され、最も重要なクマリであるとされる。

2631197「クマリの館」は、1760年創建のレンガ造り建物で、木枠の窓に美しい彫刻が施された3階建ての館であった。
入り口には白地に彩色を施された2頭の獅子の像が両脇に鎮座していて、その間から小さなGateをくくりぬけると、中庭を取り囲むような造りになっていた。
しばらくこの中庭でGuideさんより説明を受けていると、入り口より向かって正面三階の真ん中の窓から、生き神様と崇められている女神の化身「クマリ」の少女が顔を覗かせた。
近くにいた侍従に写真は禁止されて撮影することは出来なかったが、不似合いな化粧を施されたまだあどけない少女に思わず手を振ったKY夫妻に照れるようにしてすぐに奥へと引っ込んでしまったが、幸運にも「クマリ」の姿を見ることができた。

2631198「王制廃止後 初となるロイヤル・クマリが2008年10月、新たに選ばれた」というニュースを見つけた。
先代のロイヤル・クマリが思春期(11歳)に近づき引退するため、その後任として選ばれたのが私たちに姿を見せてくれた「クマリ」・3歳の少女マティナ・シャクヤちゃんであった。
写真は母親に抱かれたマティナ・シャクヤちゃんである。
[Photo by REUTERS ロイター 2008年10月7日 ] 

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ダルバール広場 Ⅱ) [アジア]

「パサンタブル広場」から「ダルバール広場」に戻って「ナラヤン寺院」へ。
「トライロキャ・モハン・ナラヤン寺院」は、1690年に建てられた5段の基壇の上に建つ3層の寺院で、北隣の「シヴァ寺院」にそっくりな弟分のような寺院であるが、こちらはヴィシュヌ神(様々なものに変化する神)を祀っているヒンドゥー寺院である。
Mainとなるのは建物の西正面にある石像で、寺院に向かって両手を合わせながら跪いた姿の「ガルーダ像」である。
「ガルーダ」とは、インド神話に登場する神鳥だが、ヒンドゥー教では神の乗り物となる半人半鳥の神様で、ネパール紙幣にもガルーダに乗ったヴィシュヌ神の石像が描かれている。

2630167「ダルバール広場(旧王宮広場)」は生活居住区の中にあるので、観光客以外にもたくさんの現地人や行き交う車などで賑わっていて、仕事中の人、ただボーっとする人、仲むつまじい恋人たち、学校帰りの子供たちなども、「ダルバール広場」の風景の一部を担っている。

「シヴァ寺院」の基壇の最下段(一段目)には、寺院の神々にそなえるたくさんの花が売られていたが、花と言っても大半は[かわいい]マリーゴールドで、 でもこの量・・・、いったいどこで栽培されているのだろうか?
その他にも、御供え物を乗せる器を作っている人や、野菜や木の実などを売っている人、また裏の通りでは基壇を飯台にして炊事をしている人もいた。
また世界遺産になっている宿坊跡の中にもお店が点在していて、民芸品や燻製魚などが売られていた。

2630168ここを15分で見学しろという方が間違い[exclamation] 絶対無謀[exclamation×2] スゴイ酷[exclamation×2][exclamation]
アッという間にTime OUTとなり、集合場所である、「ガディ・バイカ」の前に向かう。
「クマリの館」の正面にあるヨーロッパ様式の白く大きな建物「ガディ・バイカ」は、1908年に王宮の一部として造られた建物であり、周囲の建造物とはまったく違うアクセントになっている。
集合場所にはMemberの他に、「サドゥ」と呼ばれるいで立ちのおじさんもいて、「写真を撮れ」と無言でジェスチャーをしてくる。(一緒に撮ったらスゴイ金額を請求されると聞いて、隠し撮りに成功)
「サドゥ」には、「出家修行者」、「遊行僧」、「乞食行者」、「観光サドゥ」など幅広くいるが、このサドゥはどう見ても「観光サドゥ」だな[演劇]

「ダルバール広場」の北、旧王宮への入り口付近にも大小多数の寺院がある。
Memberはそちらの方に移動して、この内の2,3ヶ所のみについて説明を受けた。

1563年に建てられた「ジャガンナート寺院」は、この広場最古の建物である。
屋根を支える柱の一本一本に異なった女神の彫刻が施され、その足元をよ~くみると、実にリアルな男女の[ムード]チョメチョメが彫られていた。
これら「ミトゥナ(男女交合)像」は、ヒンドゥー教の「タントリズム(神との一体化)」を表現した宗教的偶像で、男性原理と女性原理の2種が交わることで神の力を得ることができる」という9~12世紀のインド哲学からきている。

2630169

「ジャガンナート寺院」近くに「ハヌマン・ドカ(旧王宮)」への入場Gateがあるが、今回は見学叶わず・・・
「ハヌマン・ドカ(旧王宮)」は、1672年にジャヤ・プラタプ・マッラ王が建立した王宮で、1886年まで王家が居住していたが、2008年5月に王政が廃止されて以降利用目的がなくなり、ただ見学のみの場となった。
旧王宮の扉はゴールドに塗られ、その淵にはブルーの下地にヒンドゥー教の神々やブッダの目などが色彩豊かに描かれていてはいるものの、王宮の正門にしては質素なだなぁと思った。
扉の前、左右両脇にはヴィシュヌの化身である2頭のライオン像・・・、とは聞いても、とてもライオンには見えず、どう見てもブタ犬ちゃんと言った感じの像が入り口を守っている。
その入り口の衛兵の脇からチラリと中をのぞくと、中庭を囲んだ「チョーク(ロの字型に建つ建物)」と呼ばれる建物の一部が見えた。

そして門(ドガ)に向かって左脇には、「ハヌマン・ドカ」と呼ばれる由来となった「ハヌマーン(猿神)」が鎮座している。
この真っ赤な衣装をまとったハヌマーン像は、1672年にマッラ王朝のプラタップ・マッラ王によって作られものであり、「ハヌマーン」とはヒンドゥー教の猿の神様、「ドカ」とはネパ-ル語で「門」のことをいい、「ハヌマーン像のある門」というの意味で、この王宮付近を「ハヌマン・ドカ」と呼ぶようになったそうだ。
もともと「ハヌマーン」とは、ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』の英雄で戦闘の神として崇められたヴァナラ(猿族)の1人であり、これが中国に伝わって、『西遊記』の孫悟空のモデルになったとの説もある。
個人的に、飛騨に伝わる「さるぼぼ」も、ここが起源かも・・・、な~んて思った。

「ハヌマン・ドカ(旧王宮)」に隣接して「タレジュ寺院」が聳えている。
「タレジュ寺院」は、1549年にマヘンドラ・マッラ王によって建てられ、12段ある基壇の上に建つ3層構造(高さが36.6m)の典型的なネワール様式寺院で、マッラ朝王家の守り神である「タレジュー女神(ドゥルガ)」が祀られている。

御本尊であるタレジュー女神の部屋には王族しか入れず、一般のヒンズー教徒に開放されるのは年に1度の「ダサイン祭り」の当日限りなのだそうだ。

また、「シヴァ・パールバティ寺院」の裏には、1797年にラナ・バハドゥール王によって作られた「タレジュ・ベル」の大釣鐘があり、この鐘の音は悪霊を取り払うと伝えられ、「タレジュ寺院」でのセレモニーがある時に鳴らされるそうだ。

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ダルバール広場 Ⅰ ) [アジア]

P.M.2:30にHotelを出発して午後の観光地、カトマンズ・ダルバール広場へと向かう。
ここカトマンドゥ盆地には、カトマンズ、パタン、バクタプルの3ヶ所に「ダルバール広場」というのがあるが、私たちが向かうのは「カトマンズ・ダルバール広場」である。

Hotelから10分ほど走ったところでバスを降りてカトマンズの新市街地を歩くと、ネパール最大の都市ということもあって、インドとは全く違ったバザールの風景にワクワクした気持ちが飛び跳ねた[るんるん]
例えば銀行。 日本では当たり前にあるものだが、こちらに来て初めて“BANK”という看板を目にした。
元銀行員の私としてはチラッと店内も見てみたいな~ぁと思ったが、銀行の入口の前には(投資の為に)50名以上の人たちが長蛇の列をなしており、とても覗けるような状態ではなかった。(^.^ゞ
大通りから中路地へ入った所には、人間だけではなく、オートバイも100台以上の大行列ならぬ整列駐車してあてあった。
そう言えば…、インド人もネパール人も所かまわずゴミを捨てる民衆なので街の中はとても汚いのだが、店の商品や乗り物、屋台など、「これって何かのゲームか?」と思うくらいにきれ~に整理・整列をさせる習性があるようだ。
2626453またインドのバザールで、果物屋が何軒も並んでいたり、同一のお菓子(たった一種類)を売っている店が横並びに十数店舗も軒を連ねているということがあったが、ここネパールでも、街角の路上(歩道)で商売をしている物売りたちは、一ところに同じ種類の商品、例えばマスク、草履、いちごなど、やはり商品別に一団体を作ってビニールシートを広げているところなどは、インドの光景と似ているな~と思った。

20分くらい新市街地をアレコレ見ながら歩いてたどり着いた先は、世界遺産にも登録されている、「カトマンズ・ダルバール広場(旧王宮広場)」である。
街の中央に位置し、囲いもなく、一般生活区域の中にある広場だが、入域料が必要となる。
しかしチケット売り場は、その広場から50mも手前の商店の一角にあるので、その存在を知らなければ出入りはFREEのよ~な気もするが・・・ [有料]料金は一人 Rs300と、チトお高め。(ビジネスホテル一泊分に相当するらしい…)

チケット売り場から右手前方にレンガと木材で建てられた重厚な旧王宮の建物が見える。
その道の両脇にある狛犬のような石像をぬけた左手に「パサンタブル広場」があって、ここでは骨董蚤の市のような露店が広場一面に商品を並べていた。
その右手一帯に建ち並ぶ寺院のある所が、「ダルバール広場(旧王宮広場)」である。
「ダルバール」とはネワール語で「宮廷」を意味し、ここはマッラ王朝時代(17~18世紀)のカトマンズ王国の中心地であり、生活、宗教、文化の集約された場所であった。

2626454ハヌマン・ドカ(旧王宮)」は17世紀に造られたもので、ネワール美術をふんだんに取り入れた美しい彫刻が細部にまで施され、ネワール建築の集大成とも評されている。
「パサンタブル広場」から見える塔は「バサンタプール・バワン」といい、外観は四重の塔だが実は9階建てであり、高さ31mのこの塔には有料で登ることもできる。(今回は無理…、だって団体行動だもん!)
また、2008年5月の王制廃止によって使われることのなくなった旧王宮の一部は、現在トリブヴァン博物館となっていて、ネパール近代化の父・トリブヴァン王の遺品が展示され見学できるようになっている。 
(もちろん有料[有料] 邦人はRs10で、外人は25倍の Rs250!  差別じゃ~)

2626455Memberは「クマリの館」前まで移動した後、簡単な説明を受けて15分間のFree Timeをもらった。
一分でも時間を無駄にしたくない私は目に付いたところから回ろうと、まず階段上の寺院を目指したが、どうやら前方を歩くS先生と同感だったようだv(^.^;)
S先生の後ろにくっついて階段を上がると、ダルバール広場が気持ちよく見渡せた。
でも、チョットしたきっかけで転がり落ちそうなくらい不安定な場所に、内心ビビル(^_^;)…

この階段上にある「マヘンドレスワール寺院(シヴァ寺院)」は、1690年・マッラ王朝時代にバクタプル王国の皇太后が建立したと伝えられるヒンドゥー教寺院である。
この「シヴァ寺院」は、シヴァ神を祀ったネパール最大のヒンドゥ教寺院である「パシュパティナート」と比較して「シアノパシュパティナート(小さなパシュパティナート)」とも呼ばれている。
9段の基壇の上に建つ3層の寺院で、屋根には、ヒンズー教と仏教の装飾が取り入れられている。
また内部には、「シヴァ・リンガ(シヴァ神の象徴である男性のアレ像)」が安置されているそうで、「パシュパティナート」はヒンドゥー教徒のみ入場可能だが、こちらは入場料さえ支払えば見学できるんだって!
寺院の前にある「シカラ(白い塔)」は、シヴァ神への信仰を表すものだそうだ。

2626456写真を撮っていたらいつの間にかS先生にまかれてしまったので、一人であちこち駆け足で回る。
次に北隣りにあった、「シヴァ・パールヴァティ寺院」に向かう。
ここは、18世紀後半にゴルカ王朝(現シャハ王朝)のバハドゥル王によって建てられたもので、寺院の前には大きな二頭の獅子の石像が並び、2階の窓からは、彩色を施された木彫りのシヴァ(破壊神)とその妃・パールバティが広場を見下ろしていた。

シヴァの頭とパールバティの肩にとまっているハトも、[ムード]夫婦かな~ぁ?

この後「パサンタブル広場」まで一旦戻って、露店の骨董品を見学!
掘り出し物を期待したが、他に客もいないし、店番の人も誰もいないので面白くなかった・・・
時間も残り少ないし、さ~ぁ、次!次!

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2009年2月9日(月) カトマンズ事情 [アジア]

ボダナート・ストゥーパの見学を終え、昼食の為にHotelへ戻る。 
Hotelまでの30分の道すがら見た街はますます活気に満ち、人や車やオートバイで溢れかえっていた。
特に目に付いたのは、電線だらけの街の景観であった。 
ネパールの電力不足は年々ひどくなる一方で、現在は週に108時間も停電していて、送電されるのは日中の4時間と深夜の4時間の二回だけだという。
お金持ちは自家発電気を設置できるが、多くの人々が電気に頼らない生活を今も続けている。

2619353ネパールはブラジルに継いで世界第二位の水資源を誇っていて、電力は水力発電に頼っているが、毎年乾季には水が不足する上に、近年の温暖化も影響して電力不足はますます深刻化しているという。
また、水力発電所建設は諸外国任せ(特に日本)という現状と、せっかく作ってもらった発電施設も管理不足で壊れたままの状態であり… 、その上、首都カトマンズに国民が集りすぎて電力がまかなえないのだそうだ。

確かに、街の電線はとても電気が通っているようには見えないほどに古びてゴチャゴチャに絡まっている。

そういえば、こんなニュースがあった。
2008年6月、共和制移行に伴い王位を剥奪されたネパールのギャネンドラ元国王は首都カトマンズのナラヤンヒティ王宮から退去させられたのだが、10月になってネパールの国営電力会社が、ギャネンドラ元国王と親族らが所有していた22カ所の宮殿や別荘などで使用された2006年以降の電気代を、未払い金として元国王に請求したそうだ。
その額、なんと114万ドル(約1億1000万円)!  さすが王様!!  
でも、ちゃんと支払えたのかな~ぁ? (いらぬ心配^_^;)

Hotel前にバスが到着し、昼食会場に向かう前に、TourConductorの拓郎さんから6名の名前があげられ、バス車内に残るようにと指示された。
私とMRさん、それからSDさんペアーと、IEさんペアーの6名だった。
予想通り客室Changeのことだったが、私とMRさんは昨日の内に申し出ていたので、交換してもらう部屋は用意されていたが、それ以外には一部屋しかChangeできないとのことだった。
昨夜私たちからの苦情を受けた拓郎さんが、今朝、私たちの並びの部屋に泊まった他のMemberに確認したところ、私たちの隣の部屋(自家発電機のまん前の部屋)に泊まったSDさんペアーと、そこから十数室も飛び越えたIEさんペアーも発電機の音が気になったと申し出た。
しかし、部屋があと一部屋しか空いていないので、3組で話し合って決めてほしいと拓郎さんから言われたのだが、話し合いはSDさんペアーが辞退してくれたことですぐに決着がついた。
だけど私はこの結果に一人納得がいかなかった。
MRさんは、私たちが言い出しっぺなのだから私たちが身を引くことじゃないと言い、それには私も同じ思いをもっていたが、部屋の位置から考えれば、当然SDさんペアーが優先されるべきではないかと思ったので、IEさんに、「SDさんたちのお部屋は、ホントに発電機のまん前なので音も臭いもすごいんですよ!」と言ったのだけど、「そうなのよ~、私たちの部屋もうるさかったのよ~」と、返されてしまった。

それから私たち4人は理由もわからないまま、ただHotelのロビーで待機させられて、15分ほどたった頃シビレをきらせたIEさんが、食堂へ行ったっきり帰ってこない拓郎さんを呼びに行った。
そしてIEさんと戻ってきた拓郎さんに、「それじゃ~食事に行ってもらってもいいです」と言われた時には、内心、「じゃ~、この20分間の待ちぼうけはいったい何だったのよ~?!」と、言ってやりたい位の怒りの言葉をグッと飲み込んだ。
「きっと忘れられてたんだ! IEさんが呼びに行かなかったら、食いっぱぐれてたに違いない!」などと思うと腹立たしかった! 
だって、Launchぬいたらお腹空くじゃん[もうやだ~(悲しい顔)]! 食べ物の恨みは恐ろしいんだからね~[ちっ(怒った顔)]!!)
レストランに行くと、Buffetのパスタもサラダも空っぽで、残り少ないメニューを漁るようにしてお皿に盛った。  
みんながデザートを食べている頃に私とMRさんがようやくテーブルにつくと、事情を知らない他のMemberが通りすがりに、「まだ食べるの?!」などと声をかけてくるのだが、イライラの後で空腹状態だった私は、腹が立つというよりも何だか無性に泣きたくなった・・・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

Launchを済ませて新しい部屋の鍵を受け取って部屋に行くと、まだ部屋の準備が整っておらず、しばらくの間待たされた。
新しい部屋はエアコンが壊れていた他には特に異常もなく、私とMRさんは午後の出発時間までの40分間を、持参したインスタントコーヒーを飲みながらのんびりと過ごした。

このHotel(カトマンズ ホテル・アンナプルナ)、あるサイトでは☆☆☆☆をつけているが、部屋も、従業員も、ホテル側の対応も非常~に悪く、この10日間で一番最低なHotelであると私はランク付けた。

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ボダナート(ボウッダナート) ) [アジア]

「カンティプール(栄光の都)」とも称されるネパールの首都カトマンズ市は、街自体が世界遺産である。
ヒマーラヤの麓、標高約1,350mの大地に、東西25km、南北20kmほどのカトマンズ盆地には、カトマンズ、パタン、バクタプルの3つの古都と、4つのヒンドゥー教および仏教寺院が世界文化遺産として登録されている。

2617911私たちが訪れたのは、Airportからほど近い「ボダナート」というネパール最大のチベット仏教の仏舎利塔(ストゥーパ)で、その建物は三重の基壇の上に直径27mのドームが乗っかり、さらにその上には四方に目玉が描かれたものに帽子をかぶせたような金色の塔が聳え立ち、その高さ(全長)は36mになるそうだ。
ボダナートの「ボダ(ボゥッダ)」は、「仏陀・仏教」または「知恵」を意味し、「ナート」とは「主・神」という意味で、白いドームの上に描かれた四方を見渡す目は、「お釈迦様の知恵の目」なのだそうだ。
塔のてっぺんからはタルチョー(チベット仏教の経文が記された五色の旗)が四方に幾重にも飾られていた。

[メモ]チベット仏教は、620年代にチベットを統一したソンツェン・ガンポ王が、唐から嫁いだ文成公主(中国仏教)と、ネパールから嫁いだプリクチ王女(インド仏教)の影響で仏教に帰依したことに始まる。
当時、チベットの民族宗教であるボン教との争いもあったが、779年に子孫であるティソン・デツェン王がチベット初の仏教僧院であるサムイェー大僧院を建設し、初めて僧伽(僧団)が発足させて以来、仏教をチベットの国教として、訳経事業を起し、大部のチベット大蔵経史書を編纂させた。
794年にサムエー宗論(中国仏教とインド仏教の主導権争い)によってインド仏教を正統と定めたが、843年に王朝の統制がなくなると、当時流行していたタントラ仏教(在家密教)と中国系の禅とがインド仏教に加わったことで、ボン教や土着の宗教(天地創造の神話・生贄の儀式・死後の幸福、現世重視など)を土台に変形・融合した「チベット仏教」が10世紀頃に完成される。
その後いくつかの宗派に分裂したチベット仏教も、1409年に立宗したゲルク派が、小乗・大乗・密教を統合した修道体系を組織してチベット仏教の正統派とし、カルマ派制定したダライ・ラマ(チベット仏教の最高指導者の称号)制度に則って、宗派を越えた政治・宗教の最高権威に据えたことでチベット全域を掌握した。
チベット仏教における「ラマ」という語は魂を導く師(グル)のことを意味し、僧のことは「ダパ」という。 (「ラマ」の中には出家僧だけでなく環俗の僧もいるそうである。 日本と似てるね!)
これゆえに「チベット仏教」は、「ラマ教」とも称される。

その後1950年に中国人民解放軍の侵略によって国の全土を軍事制圧されたチベットは中国に対して抗議したが、1959年のチベット動乱の際に中国はチベット自治区を設置して宗教活動も禁止し、ダライ・ラマインドはインドに亡命。
また、チベット政策を苛烈させた中国人によるチベット人殺戮は現在も国際問題になっている。
こうした歴史背景の中、国を捨てて仏教の聖地にやって来るチベットの人々が、ここボダナートでも数多く見られた。

2617912バスから降りた私たちが、中華街の入り口のようなボダナートのGateをぬけるとすぐ正面に、焦点の定まっていない無機質な目が描かれた不思議な形の寺院(ストゥーパ)が見えた。
建物に近づくと次第にその大きさを実感し、そこには、このボダナート寺院を中心とした円形の街(寺院や土産物屋)が形成されていた。

ボダナート寺院を囲んでいる壁にはマニ車が一定の間隔でそろばん玉のように設置されている。
「マニ車(マニコロ)」とは転経器とも呼ばれ、円筒形の側面にはマントラが刻まれていて、その内部にはロール状の経文が納められているのだそうだ。
これを右回り(時計回り)に回転させると、回転した数だけ経を唱えたのと同じ功徳が得られるのだそうだ。
そしてチベット仏教徒たちはマニ車を片手に、毎朝この仏舎利塔の周りを108回もコルラする(右回りに歩く)のだそうだ。
これはよほどの暇人か、体力のある人でなければ無理だと思うし…、第一、時間の無駄遣いだと・・・・・(^.^ゞ
この他にもボダナート寺院の周りには、経を読む人、瞑想をしている人、五体投地をする人などもいた。
しかし、ボダナートの壁を背にして通路の反対側を見てみると、ボダナートを取り囲むようにして色とりどりの土産物屋が隙間なく軒を連ねている、 これでは聖地というよりも…、完全なる観光地だ・・・!!

その土産物屋の途中にはいくつかのチベット仏教寺院もあり、私たちはこの内の二つに入場したが、真っ赤な壁に中国系の色鮮やかな装飾を施された寺院の中に、ピッピカの金箔仏があっちこっちに展示され、とても落ち着いて合掌のできる雰囲気ではなかった・・・^_^;

この後、ボダナート寺院の門(というより壁の切れ目)をぬけて階段を上がり、三重の基壇の上を歩いた。
もちろんストゥーパを右手に回ったのだが、ここからは「知恵の目」がよく見えた。
円形のドームに登っている人もいて、「私も登りた~い♪」って思ったけど、後々に残る伝説(?)を作ってはいけないと思って、おとなしくしていることにした。(#^.^#)

2617913寺院内はラマ教の人しか入れないとのことだが、それほどまでに神聖な場所だというこのなのだろう。
でも、こんなに天気良いんだし、今日はこ~ゆ~所での~んびりと過ごしたり、お買い物などしたいな~って思った。
しかしど~して、信者しか入れず、仏様が安置されて、僧侶がお勤めをしているようなその上を、私たちに観光客に平気で歩かせるのだろうか・・・、  う゛~ん゛、理解に苦しむ・・・・・

ボダナート寺院の屋根から降りて、再び土産物屋を見ながら右回りに歩く。
仏具に、アクセサリーに、食べ物に、衣装、いろいろな物を売っている中に、半分顔を隠しながら路上に札束を置いている人を見かけた。 偽札でも売ってるのかな~ (ナンチャッテ!)

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( 街の風景 Airportより ) [アジア]

昨日、(ルンビニ→カトマンズの[飛行機]機内から) 初めてヒマーラヤを見た時はすごく感動した。[グッド(上向き矢印)]
今日も、(ヒマーラヤ遊覧飛行の[飛行機]機内から) 赤茶けた山々の彼方に、雪をかぶったヒマーラヤがチラッと見ただけでも、ものすごく感動した。[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)] 
そう・・・・・、 数十分前までは、確かに大感激していた私がいたのに・・・・・
でも、世界最高峰のサガルマタ(チョモランマ・エベレスト)を目にしてからは、7,000m級の山々でさえも何だか物足りないような気持ちになり、U-TURN後の機内では、せっかく右側席の窓よりヒマーラヤの山々を望めるというのに、あの感動も[バッド(下向き矢印)]、シャッターを切る回数も[バッド(下向き矢印)]、あきらかに減っている。
この、アッという間に“見慣れて”しまって数分前の感動をも過去の産物にしてしまう心と、上へ上へと“高望みをする”気持ちに押し潰されて下の方へと追いやられたあの時の感動をも、平気でバサバサと切り捨てていってしまう非情な心が、“初ごと”の感動も、“身の丈”をも見失わせて、限りない欲望の心でガブリと食い尽くしていく・・・・・
「なんだコイツは?!」と自分自身に嫌悪してみても、決して消えてくれない傲慢な私が確かにここにあって、そいつを見ないようにあわてて目を背ける・・・・・[爆弾]

機内ではCAから 「エベレスト、確かに見たぞ!証明書」なるものを手渡してもらったが、それには
I did not climb Mt Everst … but touched it with my heart !
(エベレストには登らんかったけど、胸キュン!しちゃったよ~[手(チョキ)]
という題目の書かれた用紙に、デタラメな機長(別人)名のサインがしてあり、しかしその他の記入欄(宛名など)は無記載のままで、「これで証明書と言えるかな~?」みたいなものをもらった。 
「笑わせてくれて ありがとう」という以外に、使い道がないのでは…(^.^ゞ、とも思ったが、添乗員さんには(数の)コレクションにはなるかな~とも思った^_^;

[飛行機]機内から見える風景が、真っ青な空を背景にしたヒマーラヤから、殺伐とした赤茶けた山々の景色に変わり、それもやがて視界から遠のいて、乾いた薄茶色の大地に転々と緑を湛えた田畑の景色を通り過ぎて、排気ガスで白く霞んだカトマンズの街並みの風景へと移り変わって、JUST1時間でAirportに無事着陸し、ヒマーラヤ遊覧飛行は終了した。
飛行機から降りてAirportバスで向かった先は、昨夜降ろされたArrival Gate(?)兼Baggage claim(?)兼 駐車場のBus stopであった。
ここに設置されている公衆トイレは有料ということだったので、ためしに入ってみると、 
入り口のおばさんに5Reを回収されただけで、何のserviceもなく、とっても汚いトイレだった。
他国(例えばタイやエジプト)で利用した有料トイレは、やはり無料の所よりもきれいに清掃してあるし、チップと交換に50cmくらいに切り分けたトイレットペーパーを手渡してくれるのだが、ここネパールは、愛想の欠落したおばちゃんに、ただお金を取られるだけのトイレだった…(^^;)

そしてトイレから出てTourのバスに乗ろうとしたら・・・・・
同メーカー、同型、同色のバスがいくつも並んでいて、どのバスにもTour Nameの表示がされていないので、自分たちのバスを探すのに少々手間取ってしまった(^^ゞ
バスには私たちの搭乗した101便のGroup Memberしかまだおらず、別の機に搭乗したMember 9名の到着を20分ほど待つことになった。
この時、フッ! っと、あることが思い出された。
「そ~いえば、私、さっきお金を人に貸したけど、自分は大丈夫か~?」と気になり、Memberに隠れてソッと財布の中身を確認した。 日本円の残高 ¥3,250 だった。
「あらららら~…、関空から自宅に帰るお金が足りんかも…(^.^ゞ」
とチョット心配になったが…、 クレジットカードも持ってるし、日本だし、何とかなるだろう… (^.^;)ヒヤヒヤ

しばらくして別便に搭乗したGroup Memberも無事に帰還したが、彼らはとても興奮していた。
どうやら彼らが搭乗した機のパイロットは、TourConductorも体験したことのないほどに、ヒマーラヤすれすれのルートを飛行してくれたというのだ。
私たちの機とどれくらいの差異があったのかは定かではないが、TourConductorの拓郎さんまでもが顔を高揚させて興奮していたほどなので、よっぽど良かったのだろう~[exclamation]
別便でヒマーラヤ遊覧飛行を体験したGroup Memberの嬉しそうな感激に対して、私たちGroupの面々は、「不公平じゃん?!」と心の内で舌打ちしながらも、表面上は、「ホントに楽しかったね~♪」と笑顔で対応していた。_(._.)_イジイジ

2616447A.M.11:00 Airportを出発してカトマンズの市内観光へ[バス]
今回、旅行前の事前調査は主に仏跡地のみで、その他には歴史を少々調べただけ…
カトマンズについてはほとんど無知識だったので何の期待もしていなかったが、今からの市内観光では世界遺産を見学できると聞いて、チョット期待が膨らんだ。 (世界遺産好きな私[ハートたち(複数ハート)]

陽が上がり街はすっかり活気付いて、早朝の風景とはうって変わって色鮮やかに賑わっていた。
特に感じたことは、インドの街では女性よりも男性の数の方のが圧倒的に多かったが、ネパールでは街に女性の姿をたくさん目にしたことだった。
もっとも、インドでは街と言ってもせいぜいヴァーラーナスィ なので、あまり対比にはならないが・・・・・(^^ゞ

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ヒマーラヤ 遊覧飛行 ) [アジア]

Airportの待合ロビーで待つこと30分、TourConductorの拓郎さんから、「[飛行機]飛行機、飛びますよ~!」と嬉しい知らせが入った!   「[手(チョキ)]やった~!!」

しばらくして、ロビーから出てAirportバスに乗り込む、が・・・・・
バスに乗車すると車内にいたおじさんに、「あなた左側のシート」、「あなたは右側のシート」、と、別に座席番号があるわけでもあるまいに、座る場所を指定され、チョットでも指をさされた場所からズレて座ると、「違う、違う、あなたの席はここ!」と注意をされてしまう[exclamation&question]
「なんで?」と思ったら、101便と102便の乗客を同じバスで運ぶから、おじさんは予めバスの中で乗客を分けておきたいらしいのだが、その分け方が、前後とか左右に分けるのではなく、斜めに仕切って分けるから、分けられた方もなんとなく違和感が残る。
結局、全員が全員バスのシートに座れるわけではないので、立ち乗りの人たちは分別(?)されることもなく乗車していた。 (やっぱり意味ないじゃん!(^.^ゞ)

Airportの敷地内では軍人さんが行進をしていたり、軍用機なども置いてあるので、Terminal内とは違ってどことなく緊張感がただよう。
バスが停車して、102便の人たちから順に降ろされ、続いて101便の私たちも下車した。
下車して目にした飛行機を見てまず驚いたのは、想像以上に小型、これでは一人乗り用の軍用機と変わらない位の小ささだと思った。
船で例えるなら、ジャンボジェット = 豪華客船 : この飛行機 = 池のボート みたいな感じ?!
中に入ってさらに驚きは続き、まず、乗り合いバスよりもズ~ッと小さな機内で、しかも操縦席と客席の間には、ドアもカーテンもなくFULL OPENの状態であること。
a n d 機長と副操縦士が、モデル並みにとっっってもきれいなお姉さんたちであったことにも驚いた!

飛行機自体は18人乗りだが、CAもいるのでMember全員一緒に、とはいかず、16名と9名の二つのGroupに分けられ、私は16名Groupの方で乗客全員がMemberだった為、気楽な雰囲気でよかった♪
座席はくじ引きで決まったシートに座る。 私は右側の前から3番目で、通路隣りはS先生であった。

飛行機に乗ってからしばらくして、CAより、「離陸が2,30分遅れる」と言われた。
隣りのS先生が後ろの方へ遊びに行っちゃったので退屈していた私はCAの所へ行ってチョットお話をした後、操縦席を覗かせてもらって写真も撮らせてもらった。
そして飛行機の一番前から、一番後ろにいるS先生に、「S先生~! 操縦席の写真を撮ってもOKだって[るんるん]」 と言ったら、ほぼ全員が順番に操縦席におしかけたので、後半の人はパイロットにイヤ~な顔をされたと言っていた・・・(^.^;)
でも、パイロットの気持ちはよ~くわかる・・・  私、罪なことしちゃったみたい・・・(^^ゞ

飛行機は20分遅れてようやく離陸許可がおりた。 いよいよだ[exclamation×2]
Airportから飛び立って5分ほどして、左側シートの人たちがパシャパシャと写真を撮り出したので、S先生の頭越しに窓の外を見てみると、もうヒマーラヤが見えていた。

[メモ]ヒマーラヤとは、サンスクリット語で「雪の住みか」という意味であり、日本語ではヒマラヤと発音されている。
ヒマーラヤ山脈は、西のナンガ・パルバット(パキスタン)から、東のナムチャバルワまで全長2,400kmに及び、エベレストをはじめとする8,000m級ピーク(独立峰)が14もあり、付属峰も含めるとヒマーラヤには7,000m級の山が100以上も存在するのだという。
だから5,000m以下の小ヒマーラヤにまで、一々名前をつけていられないというのも頷ける気がする。
ヒマーラヤ山脈は、ブータン、中国、インド、ネパール、パキスタン、アフガニスタンの6ヶ国にまたがり、ヒマーラヤの雪解け水は、インダス川、ガンジス川、ブラマプトラ川、長江の水源となっており、いずれも最大級の大河の母であると言える。

2608410

左側シートのMemberが写真を撮っている間、右側シートのMemberがら順に操縦席へと案内され、飛行機の前面(フロントガラス)よりヒマーラヤ山脈を見学させてもらえた。
「凄い[exclamation] すごい[exclamation][exclamation] スゴ~イ[exclamation][exclamation][exclamation]」としか言いようのない景色であった。
ここが地球上で、いっちばん宇宙に近い場所なんだと思うとワクワクした。
下を見下ろせば、一見平地のように見える富士山クラスの山々とは一線を画して、雲から飛びぬけたヒマーラヤの山脈は、まさに地球の屋根のようであった。

2608413飛行機が左に旋回をしている最中、運よく操縦席から展望をさせてもらって、思わず、「もっともっと近づいて!」ってお願いしたくなるほどヒマーラヤは魅力的だった。

帰路は右側シートの私たちが座席の窓に張り付いてヒマーラヤの写真を撮った。
世界一の高さを誇るサガルマタ(チョモランマ・エベレスト)も、ハッキリ、クッキリ見ることができた。

エベレストという呼び名は英名であり、古代のサンスクリット語ではデヴギリ(「神聖な山」の意)といい、通常、ネパールではサガルマタ(「宇宙の頭」の意)といい、また、チベットではチョモランマ(「大地の母」・「世界の女神」の意)という。
サガルマタ(チョモランマ・エベレスト)の現在の標高は8,850mであるが、山脈周辺のプレートテクトニクスによって山は年々に高さを増しており、山頂は北東へと移動しているのだそうだ。
まさに、山は生きている。 [exclamation]  
地球は生きている、という証がここにあった。 それは同時に、地球も“無常の一物”に過ぎない…、という意味でもあるのだ・・・・・
2608412


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2009年2月9日(月) カトマンズ ( 朝の風景  Airportへ) [アジア]

A.M.6:00起床。  治りかけていた喉が、また痛む。[もうやだ~(悲しい顔)]
MRさんが、「昨夜、なっちゃんに言われても気付かなかったけど、ホントにこの部屋ガソリン臭いわ~!」と言った。
私の喉の痛みも風邪のせいではなく、気化したガソリンを一晩中吸い込んでいたせいかも知れないと思った。
ネパールに来てから心身ともに不調である。
体調の不具合は何とか誤魔化せても、心か頭かわからないけど、こっちは早いところ修理をしないと、MRさんやMemberに迷惑をかけてしまいそうでチョット不安・・・

朝食を済ませて、A.M.8:00少し前にHotelを出発し、昨日降り立ったカトマンズのAirportへと向かう。
今日はOptional Tourで、ヒマーラヤ山脈の遊覧飛行を体験する。
MRさんのたっての希望が叶って、カトマンズ・ヒマーラヤ見学になったのだそうだ。
Optional Tourといっても、Memberの全員が参加するので、あらかじめTourに組み込んでおいてくれれば良いものを、前日に参加の確認を取って、ヒマーラヤ遊覧の飛行機に乗る直前に参加費を回収するのだという。
これはあらかじめ聞いていたことだが、何となく余分にお金を取られた感がして、イヤだなと思った。
しかし、旅行のパンフレットには参加費¥20,000.と書いてあったが、旅行説明会の時には原油高で参加費¥24,000.だと言われ、でも結局は原油価格の値下がりで参加費が¥19,000.となって、チョット得した気分でHAPPY~[手(チョキ)]
バスの中でTourConductorの拓郎さんが参加費を集めていると、Memberの一人が大きな声で、
「すみませ~ん! どなたか僕たち夫婦に[有料]3万円を貸して下さ~い! お願いしま~すm(__)m」と言った。
しかしMemberの、ある人は無言を保ち、ある人は笑って聞き流し、誰も手を上げなかったので私は自分の財布を確認してから、[手(グー)]「いいよ、3万円ならあるから(^^)v」と言ってKY夫婦にお金を貸した。

2607664この時まで 半分眠っていたような頭だったが、「あらっ!ヤダッ! 私ってば、朝から一度もカメラを手にしてないわ?!」と、趣味の写真撮影すら忘れていた自分に、我ながら驚いた。
ようやくバッグから[カメラ]カメラを取り出して、外の景色に目を向けると、カトマンズの街は、薄くかかった朝靄に朝日に照らされ、露がキラキラと光ってとてもきれいに見えた。
通勤に向かう人、朝の支度をする人、早朝からOPENしている店先には、珍しいものが並び、どこを見ても飽きることがなかった。
インドでは見ることがなかった肉屋の店先では、ヤギだと思うけど…、身を裂かれた状態で巨大なまな板の上に乗っていたのを見て、思わず目をそらした。
またShow windowに並べられたスウィーツには、思わず身を乗り出して、額を窓ガラスにぶつけた。
八百屋さんも何軒かあったが、インドのようにきれいに並べられてはおらず、ただ雑然と置かれてあったが、インドの物よりもはるかにみずみずしく美味しそうに見えた。
街には人が溢れ、バザールも活気に満ちているが、これらの野菜を栽培している農村地帯や、ヒマーラヤの麓で暮らす山岳地帯の人々の生活を、ほんの少しでも見てみたいと思った。

[メモ]インドの国面積は、3,287,590km² で世界7位であるのに対して、日本は377,835km² の60位、そしてネパールは140,800km² なのだが、その約80%がヒマーラヤなどの山岳丘陵地帯なので、これを考えるとても小さな国に思える。
ちなみにインドの世界人口順位は、1,169,016,000人で中国に続いて第2位であり、日本は127,967,000人で第10位、そしてネパールは28,196,000で40位なので、それほど少ない部類には入らない。
ネパールの地理を調べついでにメモしておくと、東西に約885km、南北には145km~241kmの横長の形で、全長2,926Kmの国境線で取り囲まれた国である。

Hotelを出てから[バス]20分ほどでAirportに到着。
Terminalに入る前に男女別に別けられて、簡単なSecurity Checkを受ける。
なにか性別差別をされているようで、あまり気分の良いものではないな~ぁと思っていたら、あるネパール人女性が私の前に割り込んできた。
これを見ていたTourConductorの拓郎さんが、「あっ! この人割り込んできた! この人順番抜かしたよね~!」と半分真剣になって言っていたのが、何だかすごく面白かった。
拓郎さんって、すごい正義の味方なんだ[るんるん]って、 外見も中身もとても頼り甲斐のある人だな~ぁ[黒ハート]って思った![ぴかぴか(新しい)]

2607665空港のCheck In Counterの前には、Airportらしくスーツケースが置かれている・・・のではなく、ダンボール箱や麻袋に詰められた荷物、また何故か藁の束まで山のように置かれていて、とてもAirport Terminalには思えなかった。
溢れかえる人の波を掻き分けながら拓郎さんにくっついて進み、再び男女別に分けられた個室を通って出発ロビーに入ると、ここも人でごった返していた。
Gateに近いロビーの片隅に席をとった私たちだが、心の中は、「ど~ぞ、飛行機が飛びますように」と祈るばかりであった。
何故ならば、ネパールでは電車も飛行機も、時刻表はあるけど時刻は守られないのが常識!
ましてやヒマーラヤの遊覧飛行は、ヒマーラヤの天候と相談してから決定されるので、1時間待ちは当たり前で、飛ばないことも珍しくはないそうだ。
せっかくここまで来て「[飛行機]欠航~!」な~んて言うのはショックが大きいので、自分の運を信じて祈るのみである。

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2009年2月8日(日) ネパールの歴史 [アジア]

2607509お釈迦様がお生まれになった場所は、今日 訪問したネパールのルンビニだということはハッキリしている。
しかし、お釈迦様がお育ちになったシャーキャ族のカピラヴァストゥ(カピラ城)については、現在インドとネパールが国を隔てて所在地の言い争いを続けている状態であるが、その昔、お釈迦様在世の時には存在しなかった国境線が、いつ、どのように引かれて分離しのかが知りたくなったので、ネパールの歴史について調べてみることにした。

紀元前6世紀、お釈迦様がお生まれになった頃の南ネパール・ルンビニは、インド文化圏に含まれていたということはわかっているが、時代背景については神話や宗教絡みの口伝によるものが中心となる為、正確なところはわかっていない。
碑文などによって確認されているのは4世紀頃からで、それには北インドからアーリア系民族(ヒンドゥー教)が侵略してきたことによって、いわゆるリッチャヴィ王朝時代が始まり、ヴリシャ・デーヴァ1世が建国者であるとされている。

8世紀になるとリッチャヴィ王朝に代わってタクリ・カーストによる王朝が後を継いだが、王朝は存続されつつも侵略の多い不安定な時代が続いた。
その後、タクリのアリデヴァ王がマッラ王朝を興してカトマンズ盆地一体を統一支配してから15世紀頃まで繁栄は続いたが、三人の王子によってマッラ王朝は次第に分裂していった。
三人の王子は、それぞれ、カトマンズ、バクタブル、パタンに王国を作ってカトマンズ盆地を統治し、三王国並立時代が始まる。
この国内分裂に目をつけたのがゴルカ族で、1741年頃、イスラム勢力の圧迫を受けてインド西部からネパール東部移住してきたゴルカ族(ヒンドゥー教)は、カトマンドゥ盆地を征服する戦いを仕掛けて、27年に及ぶ戦いの末にマッラ王朝を消滅させ、1768年に首都をカトマンズに移してゴルカ王朝を建て、その翌年、第10代ゴルカ王・プリトゥビ・ナラヤンがネパールを統一してシャハ王朝を建てた。

ネパール王国の基礎を確立した初代プラタープ・シンハ・シャー王は、チベットやインドへの侵入を図ったが、1814年にインドへ侵入した際イギリス軍と衝突して、1816年にネパール王国は敗退した。
このグルカ戦争はスゴウリ条約によって終結、この時ネパールはシッキム、クマオン、ガルワールそしてタライ平原の大部分を失って、現在に至る東西の国境線がほぼ決まった。

それから30年(1846年)、イギリスを後ろ盾にしたジャン・バハドゥール将軍が王家を狙ったクーデター(コットの大虐殺)を起こし、将軍はラナ姓を名乗って首相の座に就いて独裁体制を築き上げた。
この時よりネパールは国交を断絶し、第二次世界大戦が終わるまで鎖国が続けられた。
1948年頃よりイギリスの後援を失ったラナ一族に対する暴動が頻発し、ラナ一族はインドの要請によって反体制側との交渉を受け入れ、その結果1951年に再び王政が復活し、トリブヴァン国王がネパールの元首となった。
しかし新しい政府といっても、ラナ一族の出身者と設立されたばかりのネパール議会党のメンバーから構成されたものだった。
しかし、ネパールの長く続いた国境閉鎖は解かれて、鎖国状態からは脱した。

Guideのシャッキアさんが、「ネパール国民は現在も「王政」と「民主政」の狭間で悩み続けている」とガイドしていたが、どっちの体制を歩んでも、根本の所が変わらない限り納得される結果などないと思った。
ネパールの歴史を見ていると、いつの時代も我欲にものすごく正直な人がトップに立っている。
アショーカ王のように、わが身を見つめ直して、わが国の歴史に誇りを持つ人物も、また例えば、インドのマハトマ・ガンジーや、アメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのように、自分の命と引き代えてでも何とかしようと志す人間が、歴史上に一人もいないというのは、別の意味でスゴイと思った。
「王政」がうまくいかなければ王が悪いと非難して引きずり下ろし、「民主政」もやっぱりイヤだな~となったら、政治家じゃダメだ、王に何とかしてもらおうと…。
この繰り返しの渦中には、「自分が一番かわいい」、「自分さえよければいい」、という人間としての我欲が常に軸となり、頂点に君臨している・・・
だって人間だものとか、それが国民性なんだから、などと、一言で片をつけてしまえばそれまでなのだが・・・

昨日まで見てきたインド(ほんの一部だけど)に比べて、ここネパールの方のがはるかに良い暮らし向きに見えるが、バスの車窓から目にしたネパールの街や人々は、どこか冷たく雑に思えた。

「お釈迦様がお生まれになったのは、我が国ネパールだ!ネパールだ!ネパールだ!」と、ただ意地になって叫ぶばかりではなく、そのお釈迦様がどのようなお方で、どのような教えを説かれたのか。
2,500年以上の時を越えて、今なお説き伝えられる教えを示して下さった、地球上でただ一人の如来様とは、どのようなお方で、どのようなことを教えて下さったのか。
これをよくよく知って、よ~~~く考えて、その上で、「お釈迦様はこのネパールで生まれられたんですよ、ネパールの誇りです!」と、胸を張って語れない限り、「お釈迦様はネパール生まれのネパール育ち」とばかりを連呼する、その資格すらもないのではないかと思った。

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2009年2月8日(日) 八日目の総括 [アジア]

2606383Airportから30分ほど走った所にある[レストラン]カトマンズ・キッチンに到着。
今夜はネパールの民族舞踊を鑑賞しながらネパールの伝統料理をいただくという企画だ。
私は最後の方に会場入りしたので、舞台の真横の席しか空いてなくて、舞踊鑑賞には不向きな位置だったので、あまり楽しむことが出来なかった。
2606384
また料理の方も、残念ながら美味しいとはとても言えない。
Tour独特の味付けの伝統料理だなぁ~という感じで、私の隣りに座ったMemberなどは、「全然おいしくない…」と言ってほとんど口にしなかった。
それに比べて横向いに座った83歳のOTさんは食欲満点で、「何だって食べられる!」と豪語し、その言葉通りにおかわりまでして本当にたくさん食べていた。 さすが戦時体験者!!
Dinnerにはserviceで、ネパールの伝統的なお酒(シコクビエという雑穀を発酵させて作る)ロクシというのも出たが、アルコール度数40度のお酒には手も口も出せなかった。(^.^ゞ

風邪も治りかけてきたし、体力も不足はしていないのに、なんだか気持ちだけが疲れていて波に乗れないままHotelに到着した。
今夜から二連泊で、カトマンズ市中にあるアンナプルム・ホテルに宿泊。

HotelのロビーでCheck In待ちをしている間、ホテル内に店を構える土産物屋のオーナーがやたらとじゃれ付いてきた。
彼は、「君にはSpecial Priceをつけるしチャイもご馳走するから、ボクのお店に来てよ!」と、馴れ馴れしくも私の肩に手を回して言ってきたが、Guideのシャッキアさんにギロッ!と睨まれてからは、一歩下がっておとなしくなった。
MRさんが言うように、シャッキアさんはいい人かも~ぉ、な~んて!! ゲンキンな私・・・(*^^)v

今日のお宿はFour starのよいホテルだと聞いていたので楽しみにしていたのだが、一歩部屋に入るとやたらとガソリン臭い。
おまけに二階の角部屋だったので、裏路地を通る人の声や物音も気になった。
窓から外を覗いてみると、部屋の横の通りがちょうどゴミ捨て場になっていたので、そこに集る人の声と、空き瓶などを投げ捨てる音が騒々しく、またさらに部屋の斜め正面にはホテルの大型自家発電機が設置されていて、その音がゴゴゴゴゴゴーーーと地響きのように唸っていたので、「最悪の部屋だな!」という感じだった。
その上、部屋の窓の鍵が壊れていてきちんと閉まらない為に、外部の騒音も、発電機を動かしているガソリンの悪臭も、そのまま客室内へと侵入してくるのだ。
これではとても眠れない・・・・・ ましてや二泊も耐えられないと思った私は、MRさんにわがままを言って、部屋を変えてもらうように交渉することにした。
まず、TourConductorの拓郎さんに訴えたら、彼がHotel側と折衝してくれたのだが、しかし、今日は満室だから部屋のチェンジは出来ないとの返事だったので、仕方なく今夜は我慢することにした。

心が疲れている上にわがままを言ってしまった分、なんとなくイヤ~な空気が部屋に流れているような気がしていた私に、MRさんは、「なっちゃんはわがままを承知でちゃんと自己主張できたんだし、私もそれを了解したんだから、それでいいんちゃうの!」と言ってくれたので、チョット浮上することができた。

MRさんがシャワーを浴びている間、スーツケースの整理をした。
整理と言っても特に何をする訳でもないが(^.^;)・・・
何せ、私のスーツケースの中身は、相変わらず半面は空っぽのまんまで、増えたものといえば、自分の為に買った15cmほどの仏像と、ビスケットだけ・・・
財布の方は、インドルピーが両替した分ほぼ丸々残ってる・・・
「困ったな~・・・・・  おみやげは買わなくっちゃいけないし、ルピーも使っちゃわないといけないし・・・・・  
でも、当てもないし・・・・・」
そんなことを考えながらスーツケースと睨めっこをしていただけで、時間だけが過ぎていった。

2009年2月8日(日) バイラワ → カトマンズ [アジア]

ルンビニ園から一旦Hotelへ戻ってトイレ休憩を済ませてから、P.M.15:10にHotelを出発。
HotelからバイラワのAirportまでは、30分(22km)ほどで到着した。
Guideのジャマールさんや、Driverさん&助手さん、それに一週間乗り続けたバスともこれにて[手(パー)]バイバイである。

ネパールでは電気がほとんど供給されていないので、AirportといえどもX線検査機なるものはない。
ましてやここはネパールの片田舎。 したがってAirportでの荷物検査は、スーツケースを係員の面前で開けての手作業&目視での検査になる。
ただし、これが結構いいかげんなので、先に並んだ10人分ほどの荷物をチラッと確認するだけで、それ以降の人はほとんど見られることはない。
ただ不思議なのは、Airportの建物からの自由な出入りが一切禁止されていることだ。
到着後に空港の建物から一歩でも出たら、トイレに行きたくなっても入場禁止で、逆に、飛行機に乗る為に空港の建物に入ったら、建物からは出てはいけないと言われた。
な~か意味のない、面倒くさい決まりである。 (納得いかない…)

TourConductorの拓郎さんがCheck Inを済ませて、Departure Timeまでの1時間を退屈に過ごしていると、拓郎さんから、「飛行機が30分~1時間ほど遅れます」との連絡が入った。
「え゛~ぇ、退屈…!」って思ったけど、これでもすごくラッキーな方で、「ネパールでは定刻に飛行機が出ることはまずあり得無いし、飛行機が飛んでくれるだけですごく有り難いことなんだ!」って言われた。
その証拠に、1時間前にさようならをしたはずのバスとGuideのジャマールさんたちは、まだAirportの駐車場に待機していた。
これは、乗る予定の飛行機が飛ばない可能性もあるので、もしそうなったらカトマンズまでバスに乗って行かなければならず、その為に飛行機が私たちを乗せてバイラワAirportを離陸するまで、バスも彼らも待機していないといけないのだそうだ。
(ジャマールさんの帰宅は、[電車]きっと三日後ね…、と思った。)

P.M.5:00 やっと出発Gateに移動出来ると言うので、手荷物検査を受ける。
これがまた可笑しくて、トイレ[トイレ]の前にトイレ[トイレ]と同じ “MEN” と“LADY” のマークが付いたドアーがあって、男女別に一人ずつその個室に入る。
その中で一人ずつ手荷物の中身を見られるのだが、ここでも最初の10人くらいがチラッと見るだけで、後の人はスルーなのだから、全く意味のない男女別の個室検査なのである。
この個室から出た所が出発Gateならぬ、出発待機所であった。

2604387P.M.5:20 到着したばかりの飛行機から乗客が降りてきて、(まるでバスか電車のように)入れ替わるように私たちはその飛行機に乗り込んだ。
30人乗りの小さなプロペラ機で、私たちMemberの他に5人の乗客が乗って満席となった。
飛行機が離陸する前に、CAがトレーに乗せたキャンディーとコットンを配って回ったので、「このコットンは何に使うのか?」と尋ねたら、2604389
「プロペラの音がうるさいから、耳栓にしてくれ」と言われた…。 
初体験だ~ぁ・・・・・
また、S先生が「これ見て!」と、シートポケットにあったエチケット袋を見せてくれたが、そのリアルな絵に二人で大ウケ! 
何も、口から出てくるモノまで描かなくってもね~、わかりやすいけど… (^.^ゞ 
そうこうしている内に、アッという間に飛行機は離陸した。

2604388
バイラワを飛び立ってわずか10分ほどで、北の窓からは、初めて目にする夕日に染まったヒマーラヤの山々を望むことが出来た。
雲の上に飛び出した雪山が、見上げるでも見下ろすでもなく、窓のすぐ横にあるのがとても不思議な感じだった。
太陽は既に西の空からその姿を消し、かすかな夕日に青く、赤くそまったヒマーラヤと満月が、すごく幻想的だった。

バスなら7時間はかかるという距離を、たった30分のFlightでカトマンズ・トリブヴァン空港に到着。
飛行機から降りて、何故か大型タイヤが乗せてあるAirportバスに乗って移動。
Terminalまで行くのかと思ったら、送迎車が待機する駐車場で、スーツケース共々下ろされた。
インドもネパールも、その予想外の空港常識には、ホントに驚かされるばかりである。

Airportバスからネパールの観光専用バスに乗り換えて夕食会場へと向かう中、ネパールの現地Guideさんが自己紹介された。
釈迦一族の末裔を自称する、ネワール族のシャッキアさんと言うのだそうだ。
インドのジャマールさんとは対照的に、今度のGuideのシャッキアさんはすごく早口で営業的なしゃべり方をされるので、私はなんとなく馴染めない感があったが、MRさんはそれがいいのだと言っていた。
でも、シャッキアさんに気軽に話しかけてるMemberは誰も見なかった…。

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2009年2月8日(日) ルンビニ ( ネパール寺院 ・ チベット寺院 ) [アジア]

ルンビニ園の菩提樹の木陰から出て日差しの中に入ると、いっそう日の光がきつく感じた。

集合場所までは、今日でお別れとなるGuideのジャマールさんとおしゃべりをしながら歩いた。
以前、私もAMERICAで現地ガイドのアルバイトをしたことがあったので、「Guideさんは、Tourのお客さんが思っているほどに、別れは寂しくないよね~! 本音は仕事終わりの今日が一番幸せを感じちゃうものよね~[揺れるハート]」な~んて暴露話しに花を咲かせた。
また、私たちと別れた後、ジャマールさんは寝台列車で二日間かけてデリーまで帰るんだって聞いて、「羨ましい~な~ぁ!」と言ったら、「そんなふ~に言われたのは初めてだ」って!
だけど 実は私、インドに来たら大陸列車に乗って移動したかったから、本当に列車に乗れてい~な~って思った。

Memberの後に付いてルンビニ園のGateから出ると、しばらくの間そこで待機させられた。
なんでかな~ぁと思ったら、Memberの一部の人だけがTourConductorと一緒に、何か(不明)を見学しに行っているらしく、ある人が、「集合時間を過ぎてから行くような見学なら、みんな一緒に案内してくれればいいのに!」と怒っていた。
私も、ただボ~っと待ちぼうけをするだけなら、なんか知らんけど一緒に見に行きたかったな~ ・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

ルンビニ村には各国の寺院が軒を連ねているそうだが、マーヤー夫人堂の一帯は“聖園地区”と呼ばれていて、ネパールとチベットだけが、この地区に寺院を建てることを許可されているそうで、その他各国の仏教寺院は、聖園地区の北側にある寺院地区に集中して建てられているのだそうだ。
夕刻発のFlight Timeまで時間が有り余っている私たちは、聖園地区にある二つの寺院を見学した。

2601775ネパール寺院はマーヤー夫人堂の東正面に位置する。
「ネパール仏教」は、カトマンズ盆地を中心に住んでいるネワール族(チベット系民族)が主に信仰しているヒンドゥー教と仏教とを共存・融和させたもので、仏教とは一味違う独自の信仰を生み出しているとのこと。

ルンビニのネパール寺の建物は、パステルイエローの外壁のその正面に目が描かれているたので、中央のブルーに塗られた出入り口のドアーが口のように見えた。
中に入ると仏教旗が飾られたシンプルな院内のその正面奥に、ご本尊となるお釈迦様像が安置されている。
しかし、そのお釈迦様の首から下は恐ろしいほどに金ピカピカのメッキ製で、しかも首から上の顔の部分は別素材に金色が塗られていて、生首が乗っかっているような異様なお釈迦様像だった。
2601774また寺院の片隅には、10歳位の少年の像が“天上天下唯我独尊”のポーズをとっていたけど、・・・まさかお釈迦様の像じゃ~ないよね~?!というよ~な金ピカの彫像が展示してあった。
Memberより一足先にネパール寺院から出た私は、その庭に設置されている石像のお釈迦様とご対面。
こちらの方は、額の宝石だけはチョット不自然だったけど、さして違和感のないお釈迦様像だった。

2601776次に、そのネパール寺院の北側にあるチベット寺院にも行ってみた。
こちらの方は、チベットらしい中国系のペイントが施された外観で、その寺院の屋根からは「も~ぉ見たくない!」というほどに見慣れた、タルチョー(経文の書かれた五色の旗)が張られていた。
チベット仏教は、7世紀前半に仏教に基づく国造りを目指したチベット国王が、インドから直接に後期仏教を取り入れたインド直系の仏教であり、サンスクリット語の経典翻訳においてチベット語が確立されていった経緯もあり、仏教研究においては非常に重要な位置を占めているのたそうだ。

ルンビニのチベット寺の入り口には、両サイドにカラフルな絵が施されていた。
中へ入ると、さらに色鮮やかな絵が、壁や天井や柱に至るまで描かれていて、太鼓もあるし…、ど~ぉ見ても中国系だよな~という感じの寺院だった。
ご本尊のお釈迦様坐像は、ネパール寺院のものよりはるかに落ち着いた雰囲気だったが、やはり全身ピカピカに輝いておられた。

両寺院の他にもルンビニ寺院地区には、日本寺・中国寺・韓国寺・タイ寺・ドイツ寺などがあるそうだ。
お釈迦様もビックリな、仏教のリトルワールドみたいで、出来ることなら全部回ってみたいと思った。

ルンビニ聖園地区を1時間半ほど見学して、再び土産物通りをぬけた所でサイクルリクシャーに乗った。
しかし、この時大きな過ちを犯してしまった・・・・・!
私たちはMemberの中でも一番手にリクシャーに乗ったのだが、何故か次々と追い越されてされてしまう。
フッ と運転手を見ると、いかにも非力そうな、しかも超極細の、尚且つ最高齢のおじいちゃん運転手だった・・・・・[ふらふら]
エッ と隣りに座るHKさんと顔を見合わせて・・・、「私たちって、デブの部類よね~」、「そんで持って、このおじいちゃんに自転車牽かせて・・・」、「「すごい罪の意識感じるね~~~」」 と、とても居心地の悪いひと時となってしまった (^.^ゞ
「おじいちゃん、重たくってごめんなさいです m(__)m !!」

バスプールに着いておじいちゃん運転手にお詫びをして別れると、現地の子供たちが、「なむあみだぶつ」と連呼していた。
えっ?! 初めて聞く現地の「なむあみだぶつ」だ~ と思ったら、KYさんが子供たちに教えていた。
すばらし~[exclamation]  君たちに幸(縁)あれ[exclamation×2]

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2009年2月8日(日) ルンビニ ( マーヤー堂 ・ 沐浴の池 ) [アジア]

ルンビニ村のバス乗降場から、マーヤー・デーヴィ・テンプルへと続く参道手前までは、サイクルリクシャーで移動して、そこからは土産物屋がズラリと立ち並んだ道を100mほど歩く。
ここはインドの仏跡地と違って、しつこい物売りや物もらい等に囲まれないのが心地よくて、逆にこちらの方から土産物屋を覘き込みながら歩いて行くのが楽しかった。

土産屋通りをぬけると視界が開け、フェンスで仕切られた庭園の中にレンガ造りのマーヤー・デーヴィ・テンプルを見ることができる。
そのGateを入って、「これがマーヤー堂か~」と、カシャカシャと写真を撮っていると、S先生が、「確かマーヤー堂の建物は白色だったはずなんだけど…」と言われたが、目の前のマーヤー堂は赤茶色だった。
S先生が言われたとおり、昔はお釈迦様御誕生の像を囲うだけのチャチな小屋のような祠堂だったが、S先生が前回ここを訪れた時には、遺跡の中心部をスッポリと囲うほどのお堂が建てられ、それは白く塗られて、建物上部の塔には金が施されていたそうだ。
しかし、時と共に風化し、白かったマーヤー堂も灰色から黒へと変色して、やがてはその塗装も剥げ落ちて現在のような赤レンガむき出しのお堂となったそうだ。

2600165入り口からマーヤー夫人堂の北側を通り過ぎるとその裏に、高さ7mほどのアショーカ王石柱があった。
これは1896年、ドイツ人考古学者のフューラーが発見した石柱で、「ここに釈迦牟尼世尊生まれたもう」とブラーフミー文字で記されていた事から、釈迦牟尼如来の実在とその御生誕地が実証されたのである。
また石柱には、アショーカ王即位20年の時にここを訪れたことや、お釈迦様の誕生地であるルンビニ村は税金を優遇するなどの言葉が刻まれている。
(右上の写真は、アショーカ石柱に書かれたブラーフミー文字で「釈迦牟尼」と書かれている)

『ラリタ・ヴィスタラ』(『普曜経』・『方広大荘厳経』)などによれば、ある夜、お釈迦様の母・マーヤー(摩耶)夫人は、六本の牙を持つ白い象が右脇から胎内に入ったという夢を見られ、それから間もなくしてお釈迦様をご懐妊された。
やがてマーヤー夫人の出産時期が近づくにつれ、国内(シャーキャ族)には不思議な吉兆の様々が現れたと伝えられる。
臨月を迎えられたヴァイシャーカ月(4月~5月)にマーヤー夫人は、当時の慣わしに従って出産の為に郷里(コーリヤ)のデーヴァダハへと帰省される途中のルンビニー園にて、一面満開に咲き誇る花々に誘われるように立寄られ、輿から降りられた。
そして、マーヤー夫人が、アショーカの樹(北方伝では無憂樹(アショーカ)、南方伝では娑羅双樹(サーラ)と伝えられる)に近寄って手を伸ばされ、その一枝を握られた瞬間、陣痛と共にその立ち姿勢のまま、お釈迦様をご出産なされたと伝えられる。

お釈迦様が誕生された日付には諸説あるが、日本では『太子瑞応本起経』などの記述から(旧暦の)4月8日とし、各地で“花まつり”などが催されている。
花まつりとは、正式には灌仏会(かんぶつえ)といい、ルンビニ園の花園をイメージした花御堂を作って、その中に置いた灌仏桶の中央にお釈迦様の像を安置し、柄杓などで甘茶をかけてお祝いをする行事である。
この甘茶は、お釈迦様が誕生された時に龍が天から飛来して、香湯(ソーマ、アムリタ)をそそいだという故事に基づいてのものである。
私も子供の頃に、お釈迦様のお誕生日を祝っての行事だとは知らないまま、花まつりの日には、ただおやつをもらう為だけに御仏壇のあるご近所の家々を回ったものだった。

私たちMemberはまず、アショーカ王石柱を前にして座をとり、今回の旅行中では最後となるお勤めをした。
この日のお勤めは読経ではなく、仏教詩歌集より「『大経』のうた」をみんなで歌った。
私にとっては初めての唱歌だったが、数日前にMRさんが就寝前のベッドの中で歌って下さったので、そのメロディーを覚えていて難なく歌うことが出来た。
しかしただ、長い長~い歌で、しかも太陽がちょうど頭の真上の時間帯だったので、軽~い苦行のような感じとなっていた…[たらーっ(汗)]

お勤めの後にマーヤー堂へと入ると、お堂は遺跡を囲う為だけの建物で、壁伝いには回廊が張り巡らされていた。
そして建物の中央部に伸びた回廊の先端には、お釈迦様誕生のレリーフと、1995年こマーヤー夫人堂の真下から発見されたというお釈迦様誕生の地であることを示すマーカーストーン(印石)が見学できるようになっていた。
この印石の発見によって、四大聖地であるルンビニ園のマーヤー夫人堂は、世界遺産の認定を受けた。

2600166マーヤー夫人堂を出るとその正面には、マーヤー夫人が沐浴をし、お釈迦様の産湯に使ったというプスカリニ池がある。
どの仏跡の、どの沐浴の池も、周囲をコンクリートで固められて、まったく味気の無いものになっているのが残念である。
そしてこの池の対岸には大きな菩提樹が聳えており、そのたもとにはチベットの僧らが座っていた。

(この写真は、マーヤー堂とプスカリニ池とアショーカ石柱)

Memberと一緒にプスカリニ池の対岸に回って菩提樹の下で写真を撮り合い、そのあと私とMK先生は、その奥に広がる菩提樹の林に中に二人並んで腰を下ろし、心静かに風を感じていた。
日なたと日陰があるように、また静と動があるように、私とMK先生のいるこの場所は、他のMemberのいる場所とはまったく違ったものであるかのように思えた。
「このまましばらく、こ~していたいですね~」と二人とも思ったが、残念ながら集合の[時計]合図がかかった。
あ~ぁ、本当に残念[どんっ(衝撃)]!!!
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2009年2月8日(日) ルンビニ村 ( A.M. Hotelでの~んびりと♪ ) [アジア]

A.M.6:30 いつもより遅めの起床。

昨夜・・・・・ 真夜中に、MRさんを起こしてしまった(^.^;)
一応、同室の心得として、旅行初日にMRさんには、「私の寝言は大きいです!」との宣言はしておいたのだが、昨夜は自分で目覚めるほどの大声だった…(^_^ゞ
案の定、MRさんも私の寝言にたたき起こされてしまったらしい~  (*^^)vスンマへン
見た夢はハッキリと覚えてはいないが、言った言葉はハッキリと覚えている。
 「コソコソとしてないで、ハッキリ言えばいいでしょ[むかっ(怒り)]!!」
私の大声にビックリしたMRさんは、「ハイ! でも、何を言えば~・・・・・」と、飛び起きたそうだが、当の私は寝たままだったので、「あぁ、これが例の寝言か…」と理解して再び寝たらしい。
私も自分の寝言で目を覚ましたが、恥ずかしかったのでタヌキ寝入りをしたまま、再び眠りに落ちた。
「数日前にも夢の中で苦しそうに唸っていたけど、こんなにハッキリとした寝言は初めて…」とMRさん。
今朝は笑い話しですんだけど、いつか大変なことを口走りそうな自分が怖い…(^_^;)

身支度を済ませて朝食会場へと向かうために中庭に出る。
さすがにヒマーラヤが近いだけあって水分が豊富なせいか、朝靄がかなり深く、幻想的な風景である。
朝食は卵焼きに具の無いひじきに冷奴と、和定食というより精進料理のようだったが、風邪患いの体にはとてもベストな朝食で美味しくいただけた。
食後はMRさんと二人でHotelの敷地内を20分ほど散策して過ごした。
インド・ネパールの荒野のHotelは、どこも高い塀で囲われていて、ライフルを常備した門番が常駐している。
これは、人間除けというよりも、野獣除けのようだ。
昨夜も、「Hotelの塀の外にはジャッカルなどがいるので、絶対に出ないように!」との指示があり、確かに夜中には何頭かの鳴き声が聞こえた。
夜行性なので日中はあまり姿を見せないとのことだが、怖いもの見たさで、ついつい探してしまう。
2593524また、インド孔雀もよく飛来すると聞いたので探してみたが、ハトにしか出会えなかった。
しかし、Hotelの敷地に作られた人工の小川には、美しい睡蓮が咲いていて、目を楽しませてくれた。

今日のscheduleはルンビニ村だけなので時間に余裕があり、A.M.10:00~1時間ほど座談会ならぬミーティングの時間がとれた。
しかし、昨日に引き続いて風邪薬の副作用のおかげでやたらと眠たい(-。-)zzz
S先生には申し訳なかったけど、前半1/4くらいの記憶しかない(^^;)
あとは眠気との戦いに必死で・・・。 
でも、隣りに座っていたMRさんも、解散の合図と共に、「よく寝た~♪」と、背伸びをしていた(*^^*)

座談会の後は早めのLaunchを頂いて、正午過ぎにはHotelを出発し、今回の旅行で最後の仏跡地となる、ルンビニ参拝へと出掛けた。

Hotelから、わずか10分ほどの距離に、お釈迦様がお生まれになった聖地がある。
Gateには何故かネパール軍の兵士がいる。
ここでバスを降りて1km先のマヤ堂までは、サイクルリクシャーで行くことになった。
日本の人力車よりもよっぽど乗り心地がよく、この乗り物、わたしはとても気に入った (^^)v

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