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2009年2月2日(月) インドへ ( ガヤ → ラージギル / インドの歴史 ) [アジア]

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ガヤのAirportから15分位走った所で、水の無い大きな河にさしかかった。
ガンジス川の一支流である尼連禅河(ナイランジャナー河)である。
今は乾季のため、川幅400m以上もある大河も、砂漠のように干上がっている。

道路沿いや通り過ぎる村々では、得体の知れない人形を車やリクシャーの荷台にくくりつけて、村人らがにぎやかに騒いでいる。
どうやらヒンドゥー教の女神のお祭りらしいということだった。
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初めて目にするインドの風景は、予想以上に時代がかっていた。
村も、道も、家も、人々の服装からも、長い奴隷時代の影を今なお残しているように思えた。
インドの歴史については出発前にある程度の知識は入れていったものの、今、現実に目にしている風景は、私の想像をはるかに超えていたことに、驚きと感動を隠せない。

インドの歴史は、紀元前3,500年頃にイランよりドラヴィダ人がインド北西部に移住してきたことでその歴史が始まったとされている。
紀元前2,600年頃には、世界四大文明の一つであるインダス文明が開化するも、紀元前1,800年には衰退してしまう。
その後、紀元前1,500年頃には、アーリア人の侵略によって先住民族は制圧され、これが今なお続くカースト制度の原型になったとされている。
紀元前1,000年には、部族王政であるマガダ国やコーサラ国といった十六大国が形成され、ガンジス河流域では争いが絶えなかったと伝えられる。
そのような頃に、シャカ族の王子としてお釈迦様はこの世に生を受けられたのである。
紀元前三世紀に登場したアシャカー王は、インド半島を統一支配し、お釈迦様の教え(仏教)に基づいた政治体制を完備し、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。
しかし、アシャカー王の滅後から600年もの間、再び混乱の時代を向かえ、4世紀になって権力を確立したグプタ朝によって、5世紀には北インドが統一された。
この頃、仏教教団も勢力を保ち、世界最古の大学であるナーランダ僧院が建てられた。
グプタ朝に変わって、7世紀初頭にはヴァルダナ朝が仏教とヒンドゥー教を保護するも、半世紀後にはヒンドゥー系の戦士集団によって、再び北インドは分裂し仏教の衰退もはじまる。
10世紀の後半にはイラン系やティクル系王朝の侵略によって、デリーを都としたイスラーム五王朝に300年もの間、奴隷支配されることとなった。
16世紀後半から、ティムール帝国に代わってムガル帝国が勢力を伸ばすも、18世紀には衰退してしまう。
そして17世紀、アジア海域世界への進出を推進したイギリスとオランダが、1623年に東南アジアで衝突してアンボイナ事件が起こり、イギリス東インド会社は東南アジア交易から駆逐されたかたちとなってインドへの進出を推し進めたことで、イギリスによるインドの支配が始まった。
18世紀後半、イギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立したイギリスは、地税制度を導入するなどしてインド民衆を困窮させていった。
イギリス支配によるインドの困窮化と経済的従属化に対しての不満が高まる中、1857年にはインド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)に発展したことで、その翌年、イギリスはムガル皇帝を廃して、インドを直接統治下においてイギリス領インド帝国を成立させた。
しかし、民族資本家の形成に伴い反英機運が一層強まり、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。
1919年、マハトマ・ガンディーによってはじめられた非暴力・不服従の運動(サティヤーグラハ)の反英闘争をおこなった結果、1935年、イギリスは新インド統治法を発布し、各州の自治拡大を認めるまでに至った。
しかし第二次世界大戦の後、インド国内のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いは激化し、イスラーム教国家のパキスタンとの分離独立(インド連邦)となったが、これに反対したガンディーは、1948年1月30日に、狂信的なヒンドゥー教徒により暗殺されたことで、インド・パキスタン双方に今なお深い傷を残したまま、分離独立の混乱は、現在でも両国関係の緊張に影響を与えている。

そんな歴史背景を読み返してみても、私の目の前に繰り広げられているインドの人々の生活は、文明大国であった数千年前の歴史よりも後退しているかのように見えた。

17:50 日暮れも間近に迫り、バスが停車した。
Guideのジャマールさんが、「王舎城の南門跡に着きました」と告げた。

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2009年2月2日(月) インドへ ( バンコク → ガヤ ) [アジア]

淡い色の夢を見た。 
見たことのない女性が私の前に跪き、両手で塩を差し出した。
私は戸惑いながらもそれを受け取った。
それで目が覚めた。
もう夜明けかと思ったが、まだ深夜2:30であった。
Mineralwaterをコップ一杯飲んでから、再び眠りについた。

同室のMRさん目覚めた音で目が覚めた。 時計はまだ3:30。
MRさんと二言三言の会話を交わすが、翌朝、MRさんは、私が部屋に戻ってきた時の記憶も、この時の会話の記憶も、まったく無いという。
ホントに愉快な人である。

時計は4:30。 一時間おきに目が覚めてしまう。
部屋の温度が高くてなかなか眠れない。 MRさんも寝苦しそうだ。

A.M.6:00 MRさんがゴソゴソと動き出したので私も起床した。
シャワーは水しか出なかったが、暑くて汗ダクだったので気持ちが良かった。
二人で朝食を済ませてから部屋に戻って、MRさんと何気ない会話を楽しむ。
仏法は二の次三の次で、凡夫の会話で大いに盛り上がった。

9:00にはHotelを出発して、Rushhourの街を横目にHighwayで昨日降り立ったスワンナプームInternational Airportへ。
Check Inは昨日とは打って変わってスムーズに済み、45分間のFreetimeで、WindowShoppingも楽しめた。

P.M.12:00 予定よりも10分ほど早く飛行機が動き出した。
機内には空席が多数あったので、私はTourのmemberとは離れた所の窓際の席へ一人移動すると、少し後からMRさんが私の後ろの席へと移動してきた。
機内ServiceのLaunchを済ませたところで、後ろからMRさんが声をかけてきた。
「そんで、なっちゃんは、ど~なん?」
見事な豪腕ストレートパンチに、一瞬たじろいだが、すぐに体裁を整える私・・・
MRさんの隣の席へ移動して、仏法座談が始まった。
が、・・・・・  何を話したのか・・・・・ これ以降、日記をつける暇が無く、うる覚えの記憶をたどる。

インド・ビハール州のガヤ空港へ着陸したのは、予定着時刻よりも20分ほど早かった。
しかしこの空港、国際空港にしては、飛行機が一機も見当たらないし、管制塔らしきTowerも無い。
唯一、廃墟のようなコンクリート建ての小さな建物と、その前には錆付いた飛行機のタラップが一つあるのみ。 
あまりにチンケな空港なので写真に収めようとしたが、TourConductorより、「インドでは、軍事施設をはじめ、空港・橋・駅などを写真撮影してはいけないきまりになっていると言われてあきらめた。
飛行機は、Terminalらしき建物のほぼ正面に着いたが、歩いて行ってはいけないということで、たったの50m程の距離を、これまたオンボロバスに分乗して移動する。
2563795しかしmemberの中に、機内にカメラを忘れた人があって、その人はTerminalより走って機内に戻り、歩いてTerminalへと帰ってきた。
まったく意味の無いルールである・・・・・
無意味ついでに、カメラを取り出し、Terminalの中から外の景色を写真に収めたが、隣りでこれを見ていた二人の軍人さんには、何も咎められなかった。
Terminalに入るとすぐに入国審査の為の簡素なカウンターがあったが、ゲートは開いているものの誰も座っていなかった。
聞いたところによると、飛行機の到着予定時刻になるまでは、働かないのだそうだ。
しかし、中国系の団体や、タイの僧侶のグループ、そして別の日本人ツアーの客など、半数以上の乗客は何の審査のも無しにゲートを通り抜けて、各自の荷物を持って出て行ってしまった。
TourConductorに訳を聞くと、この空港では、チップというには大金過ぎる程の賄賂を渡さなければ、素直に入国させてくれないとの事で、今、出て行った乗客は、みな裏金を支払って出て行ったのだという。
私たちのTourConductorは、そんな不当のやり方には屈しない、インドの為にはならないといって、賄賂の請求を断固拒否し続けた為、私たちは最後の最後まで待たされることになった。
週に四便しかないという小さな空港ということで、今日はもう飛行機の到着はない。
つまり、私たちがこの空港にいる限り、彼ら入国審査官は帰宅できないということで、ようやく私たちの入国審査が始まった。
しかし、なんやかんやとイチャモンや難癖をつけたり、スーツケース開けて中を調べたりと、嫌がらせのオンパレードで、インドに着いて早々、インド嫌いになりそうであった。

何とか全員の無事にインドへの入国を果たし、迎えのバスに乗り込む。
Hotelまでの道のりは、約70km、2時間程の行程とのことであったが、途中、先月以来壊れている橋を迂回しなければならず、悪路を30分ほど余分に走らなければならないと言われた。
バスに乗車する際、首にかけてもらったマリーゴールドの花輪の香りと、車内にたかれた御香の香りでむせかえって、乗り物酔いの心配がよぎる。

P.M.14:45 バスはわずらわしいガヤAirportを後にしてラージギルへと走りだした。
車内では、今日から一週間程お世話になる現地ガイドのジャマールさんが挨拶をされた後、インドルピーへの両替をしてくれた。
一人10,000円で4,900ルピーとの両替。 どの紙幣にもマハトマ・ガンジーの肖像が印刷されていた。

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2009年2月1日(日) 旅立ち(経由地バンコクへ) [アジア]

A.M.6:00 分厚い雲に覆われているせいで、窓の外はまだ夜闇に包まれている。
昨夜はなかなか寝付けず、今朝はAlarmが鳴るより前に目覚めてしまったが、短時間でも熟睡はできた。
のんびりと身支度を整え、何も気負わずリラックスした気分である。
A.M.8:15 HotelのLobbyでTMさん姉弟と待ち合わせをしてからTerminalの集合場所へと向かうと、既に大半のMemberがそろっていた。
TourConductorの拓郎さんから預けておいたPassportを手渡されて、Check In Counterに並ぶも、すごい行列であった。
結局一時間ほど待たされた後、ようやくCheck Inを済ませすると、今度は手荷物検査の為の大行列に並び、出国審査を通った人からシャトルに飛び乗って出発ゲートへと向かい、トイレに行く暇もないほどあわただしく飛行機へと飛び乗った。
搭乗前に友人にメールなどを送ろうと思っていたのだが、予想外の混雑に巻き込まれてしまい、結局Yu氏と支部長のYMさんにしかメールを送ることができなかった。
そのYu氏からはすぐに返信が返ってきたのだが・・・
 私 「あわただしくって心の準備どころじゃありません」
 Yu氏 「死ぬ時も心の準備なしに出かけるんじゃ!」
と、搭乗前に、まこと有り難いお言葉?をいただいた・・・

定刻に飛行機が動き出す。
私は窓際の座席を譲っていただき、隣には今回初めてお会いするIGさん、その隣には前回初対面で仲良くなったIEさんが座られた。
初めの内は空腹のためにご機嫌うるわしくないIGさんであったが、機内食を食べてからはこころよく会話に応じてくれるようになった。
IEさんが席を立たれた間、S先生が変わりに座られて、「ご縁の整った方のみが、この旅行に参加できたのだ」と仰った。
“縁”というのが、いくつも寄り合ってその結果を得るのであり、その“縁”がたった一つでも欠けたならば(整わなければ)、今、この場所に、この私は存在し得ないのだということを教えていただいた。
IGさんには、「その“ご縁”のひとつひとつは、決して当たり前に整ったのもではないのだ」と教えていただき、「それでも当たり前の如く受け流すことしか出来ない自分というものを見させてもらっているのだ」と付け加えられた。
私は、ホントにそ~だな~ぁと聞かせてもらった。

お腹も落ち着き、時間を持て余す人たちが眠りに入る中、私はノートに向かった。
一息ついて顔を上げると、機内で上映されている映画に気を取られて、しばらくその映画を鑑賞した。
『The Secret Life of Bees』というアメリカ映画で、日本ではまだ未公開の映画だ。
1964年、黒人の公民権運動が盛り上がっている時代、サウス・カロライナ州に住む四歳の白人少女・リリィは、母の死に心を痛めたまま成長するも、愛情の乏しい父親との確執から、14歳の時に黒人のメイド・ロザリンを連れて家を出る。
手持ち資金の尽きた二人がたどりついた先は、養蜂場を経営する誇り高く知的な黒人三姉妹が住むボートライト家であった。
長女オーガストの元で、次第に少女らしい感情を取り戻していくリリィの成長を支えた友情と勇気を描いた映画であった。
“死”よりも、“生”に比重をおき、勇気を持って愛情深く生きることのすばらしさを訴えるストーリーに、何となく違和感を覚えながらも最後まで見入ってしまった。
映画が終了するとIceCreamの機内Serviceがあった。
なんやかんやと目的地まで後一時間となり、機内は再びあわただしく賑わいだした。

予定時刻より一時間近くも早く中継地である新バンコク国際空港(スワンナプームInternational Airport)に到着した。
しかしここでも日本と同様、大行列の入国審査に一時間ほど費やし、その後も別便で福岡より到着する予定のKY夫妻の到着をさらに一時間待って、今日はTOTAL4時間の空港待機で、誰もが初日から疲れを隠せないでいた。
Hotelまではバスで40分。 
現地ガイドのターさんが、車内にてガイドをしてくれるも、その車内に飛び交う蚊の多さに、あっちでパチン! こっちでパチン! と、手を打つ音が絶えず、Guideなどそっちのけで、前も後ろも右も左も、パチン!パチン!と殺虫の手拍子に必死で、[わーい(嬉しい顔)]すごい笑えた。
Hotelに到着後、部屋で少し休憩をとってから夕食会場へと向かうバスに再び乗り込む。
夕食は、SoM BooN SEAFOODというRestaurantで、タイのSeafood大皿コース料理を堪能したが、しかしここでもすさまじいほどの蚊の量に、初めは食事どころではなかった。
天井には数え切れないほどの蚊の斑点模様、従業員もElectronic蚊叩きでパチンバチンと応戦していて、日本では味わうことのできない意心地の悪さではあったが、料理は美味しかった。

食事が済むと、現地ガイドより予定外のOptionalTourへの参加依頼があった。
タイ式マッサージ¥3,000 or ニューハーフショー¥4,000 の選択を迫られ、私はKY夫妻につられてニューハーフショーを見に行くことにした。
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他には、S先生、TMさん姉弟、そしてTourConductorの拓郎さんも参加された。
ショーは、こんなものかな~?という感じであったが、¥4,000はちょっと高いと思った。
Yu氏に、面白半分、ニューハーフショーを見に行くとメールをしたら、すぐに返事が返ってきた。
「聞法旅行でニューハーフショーはまずいよ・・・・・ ボクなら絶対に行く~!
凡夫まる出しの旅! いくらいい格好をしても、お互いそれが本性であり、それを見抜いての御本願だ!」
とあった。
さすが、Yu氏である。 ますます尊敬した。[黒ハート]

Hotelに戻ったのは9時を少しを過ぎたくらいであったが、同室のMRさんは既に寝ておられた。
それからShowerを浴びて、翌日の準備をし、日記をつける。
もうすぐ深夜0時である。 日本時間なら夜中の2時。 そろそろベッドに入らねば・・・

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