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インドへ(その前に関空へ) [アジア]

なんだかイライラする。
出発(家を出る)まで、あと一時間。
今日は朝から全然予定通りに事が進まない。
み~んなの浅はかな失敗に付き合わされて、私はその被害を被るばかり・・・
と、思っていても、因果の道理からすると、原因は私にあるんだよね~
[ふらふら]そうは思えないけど・・・

愛犬とのしばしの別れが、チョット寂しい[バッド(下向き矢印)]
夫とのしばしの別れは、寂しいというよりも、不安のが大きい。
でも、本当にしばしの別れになるのかなぁ~と、少しだけ思う。
長旅。 それも海外。 しかも内乱のあるインド・ネパール。
毎日の通勤や通学にだって、100%の帰宅保証などない無常の世にいて、どうして私はこんなにノホホンと生きていられるのだろう・・・
「しばしの別れ」、つまりは必ずここに帰ってくると思っている私って、本当にバカなヤツだよね~。
でも夫には一応、万が一に備えて諸事項を伝えておいた。
しかし、その夫自身も、「しばしの別れ」だと思っているのだから全く真剣には聞いていない。
もっとも、「今日が永遠の別れの日」だなんて思われて、真剣に聞かれても困るけどね!

さあ、そろそろ支度をせねば[exclamation]
ブログの次の更新は、早くて2月の11日以降である。
あら、やっぱり必ずここに帰ってくると信じて止まない私がいるわ[犬]




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出発前夜 [アジア]

出発前夜、といっても実際に出国するのは明後日。
集合時間が朝早いので、明日は空港のホテルに前泊するため、家を出立する。

荷物や身支度の準備もおおよそ整った。 が・・・・・
インドに持ち込めるスーツケースの重量は、20kg以内とされており、量ってみたら私の荷物は18kgだった。
前回、アメリカから帰って来る時に、1.4kgオーバーで、罰金5,000円と言われたことがあり、ちょっとシビアーになっている。
スーツケースの中味を少し減らそうと試みたものの、除けたものに限って現地で必要になるような気がして、やっぱり元の鞘に収め、結局ほとんど減らすことができなかった。
それでもスーツケースの半面は空っぽのままである(^^ゞ
ま~ぁ、いざ(重量オーバー)となれば、手荷物で機内に持ち込む覚悟である。

なんだか落ち着かない。
インドへ行けるのは楽しみだけど、やっぱり団体旅行というのが不安なのかな~ぁ・・・。

一昨日届いたYu氏からのメールに、「心の準備はできましたか?」とあったが、何をどう整えたらよいのかさっぱりわからない・・・・
そして昨日のメールでも訳のわかんないことを言われて、わからないから質問で返してるのに、「土産話を期待しています」のたった一言しか返ってこなかった・・・・・
意地悪なYu氏である![ふらふら]
いつか逆襲してやる~~~ぅ[パンチ]

S先生からのメールは、今回の旅の訪問先に関する資料・ガイドを一冊の本にまとめて下さったとの連絡。
それを出発当日に配布してくださるとのことであった。
私も個人的に自分なりの簡単な資料を作ってみたが、S先生が作ってくださったその本をいただけるのがとても楽しみである。

だめだ~ぁ、 やっぱり落ち着かない・・・[あせあせ(飛び散る汗)]

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インド旅行 荷造り [アジア]

インド旅行の準備を本格的に始めると、思ったよりも忙しく、ブログの更新を滞らせてしまった。
でも、ようやく荷造りも完了・・・・・ したいのだが、予想以上に荷物が増え、重量オーバーになりそうなので、もう少し考えなくてはならなくなった。
というのは、旅行社からは「夏物の服装で十分だ」と説明されていたのだが、NETでいろいろ調べてみたところ、どうもかなり寒いらしいということがわかり、洋服を夏物から秋・冬物にチェンジした。
それゆえに時間も余分に費やした上に、荷物のかさも増えてしまった。

今回の旅は、師を含めて総勢24名。 
団体旅行なんて学生の時以来で、不安と期待の入り混じった複雑な心境である。
知らない者同士がひとつの団体をつくってその場限りの旅をするという一般的なツアーとは違って、同じ目的を持った知り合い同士の団体であるが故に、ある意味‘気楽’とも言えるが、今回限りの付き合いではないだけに、今後のことにも配慮した対応を心がけなければならず、その点は‘気楽’とはいかない。
円満に、楽しい旅となることを願うばかりである。

昨日、師より部屋割り(ペアー)の発表があった。
予想していた通り?、MRさんと同室であった。[手(チョキ)]
MRさんはとてもストレートな人で、それでいて優しさに溢れた人である。
MRさんに直球で叱られた時にはそれなりに落ち込むし、怖いと思うこともある。
だけど、MRさんの裏表のない性格の根っこには、人の悲しさや辛さや苦しみを知った上での優しさがある。
MRさんのこと何にも知らない私だけど、直感的に私はMRさんという人が好きだ。
だからMRさんとの同室は、緊張はすると思うけど、とても嬉しく思う。[わーい(嬉しい顔)]
Yu氏には、「MRさんと同室なんて最高だね!珍道中になりそう~!」と言われた。
彼は絶対に面白がっている[ふらふら]

出発まであと二日。
もうちょっと訪問先の事前学習をしておかなければ[exclamation]






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インドの歴史 [アジア]

なんだか憂鬱・・・・・
今日は、思考回路が、すべて右肩下がり[バッド(下向き矢印)]って感じ・・・・・
こんな日は、何をしても面白くないので、仮想の世界へともぐり込む。
そうだ[ひらめき]  今日はNETの中でインドを旅しよ~[exclamation]
事前学習にもなるしね、Good idea[猫]

                 イ ン ド 史
インドは、紀元前3,500年頃にイラン高原からインド北西部に移住してきたドラヴィダ人によってその歴史が始まったとされている。
紀元前2,600年頃になると、チベットに源流を発したインダス川にインダス文明が栄え始めるが、紀元前1,800年には衰退。
その後、紀元前1,500年頃には、アーリヤ人がインド北西部より侵略し、先住民族を制圧して牧畜を中心とする半定住生活を始め、これが後のインドの政治世界を形成する王権概念や宗教観、カースト制の原型となる。
紀元前1,000年になると、ガンジス川流域へと移動したアーリヤ人は本格的な農耕社会を形成し、部族名を国家とした群雄割拠とでも言うべき部族王制を作り出し、やがて十六大国(なかでも、マガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢であった)を形成していったのである。
ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中、祭司階級であるバラモンが地位を失って、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャが社会的な地位を上昇させていった。
このような時代背景の中でウパニシャッド哲学がおこり、その影響の下に釈迦による仏教と、マハーヴィーラによるジャイナ教がそれぞれ創始され、様々な自由思想家たちが活躍した。
十六大国の抗争は最終的にマガダ国がコーサラ国を撃破し、そのマガダ国のナンダ朝をチャンドラグプタが打倒したことで、紀元前4世紀後半、最初の統一国家であるマウリヤ朝が成立した。
紀元前3世紀のアショーカ王の時代にはインド半島を支配し、仏法に基づく政治体制と官僚制が整備され、中央集権的な統治体制が形成されたことで、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。
しかし、アショーカ王滅後から弱体化が進んで紀元前2世紀後半に滅亡し、混乱した時代は4世紀にグプタ朝が成立するまで続いた。  
~ これ以降は非公開にてあしからず[猫] ~



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友情にも歳の差あり [随筆日記]

昨日に引き続いて、Kちゃん宅の家庭法座の件が、こじれにこじれてしまった。

昨夜、私はこの件について、私が最も信頼をしているYu氏にメールですべてを報告した。
そして今朝、そのメールに対してのYu氏からの返事が届いた。
「君はそういう調整は苦手ですか?」という冒頭の一行で、「なぜ私が…?」という思いに囚われ、私はひどく落ち込んでしまった。
Yu氏は私に何を望んでいたのだろう・・・・・
でも、当事者でもない私が、これ以上シャシャリ出るべきではないと思うし、また私には支部長の真意を確認する義務も権利もない。
ましてや支部長を差し置いて、私が立ち回って支部の調整をするなど、もってのほかであると思っているのに・・・。
なのに、なぜYu氏は私に調整を求めるのだろう・・・・・
訳わかんない!!
第一私は、ただKちゃんから相談を受けて、Kちゃんのヘルプをしているだけという立場にいながら、これ以上いったい何を調整したらいいというのか?!
「Kちゃんのわがままに巻き込まれてしまった…」、そんな感じが拭えなかった。

悪いことは重なるもので、今朝からメインのパソコンが壊れてしまった…。
朝の9時から昼の2時までかかって、結局、マザーボードがイカレテいるという結論に達した。
先月修理に出して、ハードを全部取り替えたばかりなのに・・・・・(涙)
ということで、またしばらくはこの予備パソコンに世話になることになった。

朝一でのYu氏からのメールに落ち込んで、その後の半日はパソコンに振り回された末に落ち込んで、今日はいいことがないな~ぁと思っていたところに、Kちゃんからの電話が入った。
Kちゃんは第一声で、「〇月〇日の家庭法座の件だけど、あんたの顔を立てて、あんたが言ったとおりに、支部の人は一人も誘わないようにして行うと決心したから」という。
「えっ・・・?????」
私は話がよく飲み込めず、一つ一つ紐解くようにKちゃんに質問していくと、またもやKちゃんお得意の、早とちりによる思い込みで、自分に都合よく、恩着せがましい結果を出したということがわかった。
まず、Kちゃんが誤解した思い込みとは、
昨夜Kちゃんが、「支部の主要の面々を家庭法座に呼びたい」と言ったことに関して、
私は、「Kちゃんそれはずるいよ~。 支部の月例法座がある日を承知の上で、あと出しじゃんけんをしておいて自分のわがままを通そうだなんて!
自分一人だけでも会長先生のお話しを聞きたいんだって位の心構えじゃなければ、同じ日に家庭法座なんか計画すべきじゃないと思うよ。
ましてや支部の一員として席を置くなら、支部が分裂するようなことをすべきじゃないと私は思うよ」と私はアドバイスをしたのだが・・・・・
しかしKちゃんはこれを自分なりの聞き方に変換して、「支部の人を一人でも家庭法座に誘ったならば支部が分裂してしまうから、自分一人だけで聞けとあんた(私)に言われて、一度は落ち込んでみたものの、今まで相談にのってくれたあんたの顔を立てる為にも、あんたの命令に従うことにした」と言うのだ。
私はマジに驚いてしまった。
でも、Kちゃんの聞き間違い、解釈の誤解は今に始まったことではなく、いわばKちゃんの専売特許のようなもの。
この誤解は時間をかけて解いていこうと思っていたところに、
「そうやって支部長さんにも電話しておいたから…」とKちゃんが言った。
「?!?!?!・・・・・ Kちゃん、支部長に何て言ったの?!?!?!」
私は、驚きを通り越して呆れてしまった。
どうやら支部長には、自分が支部の月例法座を知ってしながら家庭法座の日程を入れてしまったことを内緒にしておくために、今日はじめて私から月例法座の日程を聞いて、私から支部を分裂させない為にも支部の人を一人も呼ぶなと言われて、自分もその通りだと思ったから、昨日お願いした支部の人を呼ぶという話しは撤回すると、今朝、支部長に電話をしたそうなのだ。

‘お人良し転じて災いとなる’、である。
私は、Ku氏には不信を抱かせ、Yu氏からの信頼を失って、支部長にも誤解され、私自身、第三者の立場でありながら、いつの間にか悪のキーマンにされていた。
それでもKちゃんは恩着せがましく、「あんたの言うとおりにしてあげたんだから、あんたも顔が立つよね」と言ってくる。
もう、何も言う気がなくなった・・・・・
もうこれ以上、Kちゃんにかかわるのはやめようと心に決めた。
歳が離れていても友情は成立すると思っていたが、やはり七十過ぎの老人の考えにはついていけないと思った。
あ~ぁ、私はバカだ・・・・・
やっぱり今日は、最悪Dayだ・・・・・

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自分の考えが一番上等? [心]

親友のKちゃんに、前々から相談されていたことが、解決したかと思いきや、かえって大きな問題となってしまった。
Kちゃんからの相談は、「家庭法座を開いて、どなたかの先生に御説法をお願いしたいのだけど、どうしたらいい?」というものだった。
私は、家庭法座について、別の親友からある程度の情報を集めてKちゃんに伝えた。
あとは、Kちゃんから直接本部に電話して、こちらの希望を伝えた上で、先生のスケジュールを伺って、それから次の段取りを決めましょうと言うことになった。
しかし、一ヶ月、二ヶ月を過ぎても、Kちゃんはなかなか本部に電話をしない。
なのに毎回、電話や会う度に「家庭法座、家庭法座」と口にする。
どうやら自分の家庭環境と、心の準備が整わないことを理由にしているようだ。
私は、「今から申し込んだって、先生のスケジュールは一年先までギッシリ埋まってるんだから、とっとと電話をしないと予約が取れないよ!」とKちゃんを急かした。
そして先週、やっとKちゃんは本部に家庭法座の相談と希望を伝えたそうだ。

そして今日…
本部からの回答が届かないことにシビレを切らしたKちゃんは、自ら本部へ催促の電話をしたそうだ。
その回答が、「〇月〇日に、会長先生が伺うことになりました」とのことだった。
Kちゃんは大喜びである。
さっそく私に電話をかけてきたKちゃんは、「あこがれの会長先生が我が家に来て御説法して下さることになったの~!」と大はしゃぎであった。
でも、その日は、所属している支部の法座が、別のお寺で開催されることになっていた。
私はKちゃんに、「〇月〇日は支部の法座がある日でしょ?! 本部は知らないかも知れないけど、Kちゃんは知っていながら、何でその日にしちゃったの?」と聞いた。
Kちゃんは、「あっ、忘れたて…」と答えた。
私はKちゃんに、「すぐに、家庭法座の日にちの変更を本部に連絡して相談した方のがいいよ」と提言したのだが、
Kちゃんは、「せっかく会長先生が来てくれることになったのに、もし、日にちの変更の電話をして、会長先生が来てくれなくなったらイヤだもん、絶対に連絡なんかしない!」と言い張った。
私が何を言ってもKちゃんは、「私には、日にち変更の電話なんか出来ない!」の一点張りで、一向に埒が明かないので、私はKちゃんに、「支部長に電話をして、支部長の意見を仰ぐように」と言って電話を切った。

夕方、再びKちゃんから電話があった。
Kちゃんは、「今、支部長さんと連絡がついて、支部長さんも他の人を誘って、我が家の家庭法座に来てくれることになった」と言った。
私は驚いてしまった。
支部を運営して取りまとめるべき立場の支部長が、既に、ずっと以前から予定をしていた支部の月例法座をそっちのけで、会長先生が来ると言う家庭法座の方に自らが出席をするとは・・・・・、 何故? と思った。
Kちゃんが支部長に、どのように伝えたのかは定かでないが、Kちゃんは、会長先生が来てくれることになった家庭法座の日が、支部の月例法座と同日になってしまったことは伏せて(知らないふりをして)、話しをしたと言っていた。
支部長は、とても尊敬できる人、私の理想の、姉のような人である。
その支部長が、自らの支部をかき乱すようなことをするとは思えない・・・
もしかして、〇月〇日の支部の月例法座が、先方のお寺の都合でキャンセルになったのかも…、と思い、その法座の企画・交渉をした前支部長であるKu氏に電話をして確認をしてみた。
しかしKu氏は、「〇月〇日の月例法座は、予定通り〇〇寺で行うし、先方の〇〇寺にも、そのつもり準備をしてもらっている。
支部長もこれを承知しているハズなのにどうして・・・・」と怪訝そうであった。
私はKu氏との電話を切って、すぐにKちゃんに、「〇月〇日の定例法座は、予定通り〇〇寺で行いますので、家庭法座を開かれるのなら、支部とは別でやって下さい」というKu氏の意向を伝えた。

しかしそれでもKちゃんは、「支部のMさんと、Kさんと、Iさんと、Oさんと、・・・・・は、絶対に家に来て欲しいの」という。
Kちゃんが名前を挙げた人は、支部の幹部を担う面々である。
この人たちがゴソッと抜けてしまったら、支部の法座は成り立たなくなってしまう。
そのことを知っていながらKちゃんは、なんやかんやと自分に都合の良い理屈をつけて、自分の希望を一歩も譲ろうとしない。
全くもって、腹の立つ話しである。
私はKちゃんに言った。
「もしも、Kちゃん家の家庭法座の方が先に決まっていたとして、それを間近になっていきなり私が、家でも法座をやるからみんなこっちにおいでと引き連れて行ってしまったら、Kちゃんはどう思う? いい気持ちする?
それに、定例法座か、家庭法座か、どちらかを選べと言われた支部の人たちだって、みんな気持ちよく法座に参加できなくなっちゃうんじゃないの?
第一、恩だとか義理だとか、Kちゃんが言っていることのすべては、どんなにきれいな理由を並べ立てとりつくろったところで、「自分が一番大事」・「自分が一番正しい」・「自分のすることが一番上等」等々、“欲”丸出しの醜い言葉にしか聞こえないよ!」
と言ったのだが、それでもKちゃんは、自分の願望を一つも曲げようとしない。
挙句の果てには、「もっとわかってくれる、別の人に相談する」と言って電話を切ってしまった。

残念であった・・・・・

私にもへそ曲がりの仁義はあるので、〇月〇日、私は定例法座の方に参加するつもりだ。




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“徳”は無いけど、“得”な水筒 [随筆日記]

インド旅行の準備をしだしたら、なかなか落ち着いていられない。
あれも、これもと、頭の中は常にフル回転しているのに、チッとも前に進まない。
報恩講の御法座のまとめも、いいかげんにしたのだが、どうやら仏法どころではない毎日である。

そんな中、今日、インドへ持参する水筒を買いに行ったら、先日の報恩講でS先生がお話くださった御法とピッタリ添う、そして考えさせられる出来事があった。
MLで公表したメールをブログに転記して、今日はチョット手抜きをしよう[手(チョキ)]

そろそろインド旅行の準備を始めなければと、持ち物リストとにらめっこ(#^.^#)
先週末、買お~かど~しようかと迷って、結局購入しなかった水筒を、今日、買いに出かけた。
そこで~、
あの日、3,980円で売っていた水筒が、在庫1個限りとなって、ワゴンセールの棚の上に一つだけ、さみしそ~に置かれているのを偶然に見つけてしまった。
手にとってみると、3,980円の値札に赤線が引かれ、定価の30%OFFで、2,940円という値札に張り替えられていた[exclamation]
「ラッキ~![揺れるハート] あの日に買わなかった私は、とっもおりこうさんね!」と、S先生の御法話じゃないけど、とっても“得”した気分になって、その水筒を持ってレジに行くと~、
レジのお兄さんが、その水筒のバーコードを機械に通そうとして箱をひっくり返してみたら、なんと、バーコードの上に、50%OFFのシールが貼ってあるではないか[exclamation][exclamation]
「スペシャルラッキ~[ハートたち(複数ハート)]
定価4,200円の水筒を、1,470円で購入することが出来て、スッゴイ、スッゴイ得した気分に酔いつつも、S先生が報恩講の時に話された御法話が、耳鳴りのように響くショッピングでありました~[わーい(嬉しい顔)]

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2009年 報恩講 [仏法]

先週初めに、報恩講のお勤めと御法話が二日間にわたって催された。
ずいぶん日数が過ぎてしまったが、今日から少しずつまとめてみようと思う。

“報恩講”とは、親鸞聖人(浄土真宗の祖)の祥月命日で、大谷派なら11月に、本願寺派なら1月にとり行われる、報恩謝徳の法要のことである。
覚如上人(本願寺三世)が、親鸞様の三十三回忌に‘報恩講私記式’をなされたことが起源であるとされている。
報恩講で何よりも大切なのは、荘厳でも勤行でもなく、親鸞様が命をかけて説き開かれたお念仏のおいわれを聞かせて頂いて、このわが身に真実信心を頂くことこそが親鸞様の御恩に報いる唯一の道であると聞かせていただいた。

 [かわいい] 『御文(章)』 五帖目第十一通 「御正忌章」 (P1197~)[かわいい] 
そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまいらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。
もってのほかの大事なり。
そのゆえは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。
されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。
人間は不定のさかひなり。
極楽は常住の国なり。
されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。
されば当流には信心のかたをもって先とせられたるそのゆえをよくしらずは、いたづらごとなり。
いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。
それはおほきにおぼつかなき次第なり。
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。
南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいふなり。
そもそも信心の体というは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「<南無>といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。
<阿弥陀仏>といふはすなはちこれその行」(玄義分)といへり。
「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。
これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。

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旅行準備 [アジア]

来月からのインド旅行の準備を開始した。
スケジュール表を見ながら自分なりに「My持ち物チェックリスト」を作成して買い物に出かけたのだが、肝心の持ち物リストを持参し忘れてしまった為、必要なものを買いそびれ、余分なものまで買ってしまう結果に・・・[ふらふら]

過去に、人並み程度に海外には出かけていると自負しているが、インドへ行くのは今回が始めてである。
インド北部からネパールへ、お釈迦様のご旧跡を辿る聞法旅行である。
二ヶ月前までは、まさか自分が参加できるとは思ってもみなかったが、出発まであと10日と差し迫って来ると、「あぁ~、インドへ行くんだな~」と少しずつ実感がわいてきた。
不安と期待と喜びと憂鬱・・・
心の中では様々な思いが交錯しながらあわただしく飛び交っているのだが、時間というヤツは淡々と一定のリズムで流れていく。
そんなことが強く感じられて、無常観に背中を押されているような気がした。

昨夜、Yu氏から、
「君一人の為にご苦労をして下さったお釈迦様を、肌で感じて来て下さい」
というお言葉を頂いた。
「私一人の為のご苦労・・・」
その言葉が胸に突き刺さった。

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建て前より本音の世界 [心]

今日は支部法座に出席[るんるん]
その後の仲間との飲み会は、かなり盛り上がってとても楽しい夜を過ごした。
特に最後のテーマ、“夫婦”についてのトークは、意外な人の意外な発言で、仲間の信密度がかなり深まった。

N村氏は、自分の本音を表に出すことなく、他人と話しを合わせることの得意な人で、世間では人当たりの良い人で通っていた。
しかし法座の席でHiちゃんが、「そんなN村さんでは、御法は聞けんよ!」と指摘したのをきっかけに、みんながN村氏の本心を引き出そうとした。
でも、社会の中で生きている以上、本音は隠して建て前で生きていくのが当たり前の世の中にいて、いきなり本心を語れと言われても、どう表現したらよいのもかと戸惑っていたN村氏だったが、
「本音を言えば人間関係は崩れてしまいます。自分はそれで失敗した経験があるから…」と口を開かれた。
そしてYu氏に、「世間ごとをどんなに取り繕ったとしても、それは所詮無常のもの。
しかし仏法は、そんな見せかけの自分では、誰とも、何も関われないよ」と言われて、少し間をおいてからこんな話しをされた。
「実は、わたしが本音を妻にぶつけてしまったことで、家庭は離婚の危機なんです…」と…。

私はすごいな~と思った。
世間では、夫婦といえども本音で付き合うことは難しいというのに、仏法の場では、本音でなければ付き合えないという現実に、ある意味感動を覚えた。
また、N村氏の離婚話しを聞いて、夫婦問題の仲裁をするアドバイスをする人もいなければ、離婚問題の原因となった出来事に良し悪しをつける人もいないというのも世間とは違う展開だなぁと思った。
法友が口にするのは、「他人の不幸って、聞いてて面白いな~」とか、「人の不幸は蜜の味ってか?!」などと笑いながら話している。
語る方も本音なら、聞いている方も本音を口にする。
これってすごい!って思った。

信の一念を得た人は、常に光明に照らされているから罪悪深重である本当の自分の姿、自分の値打ちというものを知っている。
そんな迷いの世界にいる“人間”というものをわかっているからこそ、この人たちの前ではどんなに取り繕ったとしても無駄、かっこよく演じたとしても道化でしかないのである。
だから一緒にいて楽なのだ。
私は、腹黒く、欲深く、自己中心的で、醜く、汚く、浅ましく、空恐ろしい人間であると既に知られて(聞かせていただいて)いるから、そのまんまの本音で付き合うことができる。
親鸞様が、「この世の臨終を迎えて後は、地獄一定の身でありながら、心は浄土で遊ぶなり」と仰られた世界がここにはあるのだなぁと思った。

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難波でランチ♪ [随筆日記]

今日は久々に夫婦でデート[黒ハート]
大阪ミナミで食べ歩き[レストラン]&ショッピング[カバン]

サミー戎プラザが閉館前に、入場料無料キャンペーンを実地しているというニュースを聞いて、「タダで入れるならば♪」と行ってみることにした。
5・6・7階にある道頓堀極楽商店街は、昔ながらの街並みの中に30数店舗が出店しているフードテーマパークである。
私のお勧めは、七階にある十八番というお店の塩で食べるたこ焼きである。
モッチリとしていながらサッパリしていて、塩だから外のカリカリ食感も楽しめる。
う~ん[るんるん] ナイス[手(チョキ)]

大阪に来ると何故か食欲の虫が治まらない。
昼前から、千日前商店街 → 黒門商店街 → 戎橋商店街 と、食のハシゴをして、夕食は京都に戻ってお気に入りのパスタのお店でLサイズのパスタをペロリと平らげ、結局今日は一日中食べ通し[わーい(嬉しい顔)]
「ダイエットは明日から[exclamation]」と、言い続けて、はや●十年・・・[猫]

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ブログの責任 [随筆日記]

今日のS先生のブログに、こんな一文があった。
「各人のブログに個人名や団体名を出すことを制限することは出来ないし、出す出さないは個人の自由だとは思うが、名前を出された個人や団体が、それになりに誤解や迷惑を受けているのは事実である」 と。
確かにそのとおりだと思う。
“ブログ”というのは、個々人が日々の出来事を記録するだけのただの日記ではない。
不特定多数の人が閲覧する、公開することを目的とした日記である。
非公開の日記ならば、他人が読むことのない文章だから、説明書きもいらないし、心の内をありのままに書いても誰も傷つくこともなければ、迷惑もかからないだろう。
しかし、ブログは書いているその先に特定されていない相手が存在する。
誰が読むのかわからないし、誰も読まないかもしれないが、書き手は常に公開するということを前提としたその責任というものを忘れてはならないと思う。

私はいつもブログを書きながら思うのだが、こうやって好き勝手に書いている文章でも、やっぱり人目を気にした文面になってしまい何だか堅苦しいな~と思う反面、それでも誰かが読んでくれるのは嬉しいな~と思って書いている。
以前のブログでは、まるで売り物の本のように、人に読ませる為だけの文章になってしまっていて、おおよそ日記と称せるような代物ではなくなっていた。
それがコッ恥ずかしくてサイトを移転させ、心機一転させたつもりだったが、やっぱり腹黒い本心まではなかなか表現することは難しい。
故に毎年のようにブログのお引越しをするハメになるのだが・・・(^^ゞ
だからこそ、知人には自分のブログだと絶対に知られたくないとも思っている。

しかし、S先生はすごい!
周囲の人に自分のブログを公表していることもすごいと思うが、またその内容がとても濃いことにも脱帽する。
他人のプライバシーについては、仲間内でもわかりにくくしてしっかりと守っておられるのに、ご自身のことはかなりストレートに表現されている。
私はそんな師のブログが大好きだ。
新聞は時々しか読まなくても、師のブログは毎日楽しみにして読んでいる。

だから今日の師のブログの一文には、ちょっとドキッとした。
私も個人名や団体名をそのままブログに書くことは無いが、自分の覚書の為に自分にわかりやすい頭文字表記をよく使用するので、もしかしてこのことで師に迷惑がかかってはいないかと心配になった。
ブログは、書いているこちらがいくら好意的に書いたとしても、それを読んでいる相手が否定的に読めば、悪意のある文章になってしまう。
ブログには、それだけの責任があるのだということを、改めて確認させられた。
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代理ミュンヒハウゼン症候群 [心]

ニュースで、代理ミュンヒハウゼン症候群という名の病気を初めて耳にした。
調べてみると、周囲の関心を自分に引き寄せる為の工作を実際に行動に移してしまう精神的な病気だそうだ。
‘ミュンヒハウゼン症候群’という、自らが虚偽話をしたり、自傷行為に及んだり、病気を装ったりする症例に対して、自分以外の他者を傷害対象として、これに関連させて周囲の関心を自分に引き寄せ、精神的自己満足を得ようとする症例を‘代理ミュンヒハウゼン症候群’というそうである。

今回の事件は、35歳の母親が、五女(1歳10ヶ月)の点滴に腐敗した液体を混入した殺人未遂罪で逮捕され、その取調べの中で、昨年、入院中の四女(生後八ヶ月)に対しても今回と同様の手口で死に至らしめたとされ再逮捕となった悲劇的な事件である。
被疑者である母親は、七年ほど前に死亡した次女(三歳)の看病をした際、周囲から褒められ、認められたことに喜びを覚え、この時の自己満足を満たす優越感が忘れられずに今回の事件を引き起こしたのだと報道された。
私は、彼女(被疑者である母親)のことは何も知らない。
でも、彼女の気持ちはある程度理解できるような気がする。

世間の人は、この事件の残虐性を面白おかしく話題に取り上げては彼女を非難している。
精神学や心理学のおエライさんは、自論で彼女の人物像を固めて偉そうに論じている。
でも、人間は誰でも彼女と同じ心を持っているものだと私は思う。
褒められたい、認められたい、気遣われたい、いい人だと言われたい、尊敬されたい、私の存在を知って欲しい・・・・・
そんな自分の欲望を満たす為に私は生きているのだから・・・・・
この欲望を満たす為の方法を、彼女は自分の子供に手をかけるという道にしか見出せなかった為に悲劇となってしまった。

この事件と、彼女の気持ちを思う時、私はなぜか涙が出てくる。
物心がついた頃から私はず~っと彼女と同じ思いに苦しんでいた。
幼い頃は、両親に注目されたくて大声で泣き叫んだり、おもちゃを投げ捨てたりして言葉にならない感情を丸ごと親にぶつけることが出来た。
少し知恵が付いてくると、親や先生に褒められたいが為に道徳的に良いとされることをしては周囲にアピールするようになった。
学生時代は、周りから除け者にされるのが怖くて自分の本心を隠して生きることを学習しながら、それでいて自分という人間の存在を周囲の人たちの中に確認しながら生きてきた。
社会人になると、会社や組織の中で認められたいが故に頑張る。
表向きは会社の為に業績アップといいつつも、常に自分の立場や周囲から見た自分という者を意識しながら、ただひたすらに自分の為に仕事に精を出す。
私は幼い頃から今現在までず~っと、そしてこれから先もず~っと、独り孤独な生き方はしたくないし、いつだって周囲から認められて生きていきたいと思っている。
その腹底にあるのは、自分が一番可愛いという自己愛の心だ。
私は、この私のプライド高き自己愛の心を傷つける者は許せないし、これを心地よく満たす為に頑張っているのだ。

この事件の彼女も一般人と同様に、人間の本性そのままに自分を愛し、自分の存在をアピールしたかっただけなのだと思う。
専業主婦という仕事を認めて褒めてくれるのは、家族と近所の目しかない。
彼女の心の隙間に、「次女を看病している良き母親」という春風が吹き込んだ時、彼女はどれほどの喜びを覚えたであろうか・・・
彼女がやってしまったことは、決して肯定できることではないし、非難されてしかるべきであろう。
しかし、私も、彼女と同じ行動こそしないものの、一人の人間として、心の中ではいつも、褒めて欲しい、認めて欲しい、気遣って欲しいなどと叫びながらも、本心は隠して常にいい人を演じ、自分の存在をアピールしながら生きているのだということを、この事件を通して教えてもらった。
ミュンヒハウゼン症候群というは、決して特別な疾患などではなく、人間である以上誰もが抱えている心の病ではないのだろうか。

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ニュースの聞き方 [心]

毎週水曜日は陶房に出かけ、陶作作業をする。
今日は、アメリカで世話になった友人に送る、犬の置物を作ってみた。
初めてのトライにしては、なかなかの出来栄えに、自己満足[手(チョキ)]

陶房にはBGMでAMラジオが流れている。
陶作に集中していることもあってラジオ番組に耳を傾けることは少なく、誰もが何気なしに聞き流しているのだが、いつもニュース番組が始まると、そのニュースに対しての意見が誰からともなく述べられて会話が始まる。
これはメンバーの顔ぶれが変わっても同じで、新鮮なニュースに反応するのは人間の習性のようなものなのか…、チョットおもしろいと思った。

今日の話題となったニュースは、
「‘派遣切り’などで住まいを失った失業者らに用意された一時的な宿泊施設が満員となった為、市は、入居出来なかった人たちを門前払いした」 ということを伝えた。
このニュースに対して、陶房ではこんな言葉が飛び交った。
「市も、もうチョット人間らしい温かい対応をしてあげればいいのにね~」
「そもそも、派遣社員に甘んじていた本人の責任なんじゃないの~」
「だけど、ホームレスが増えると治安が悪くなるから、襲われやしないかと心配…」
私は、何も言わなかった。
というより、何も言えなかった…。
私がこの時に思ったことを口に出したなら、陶房の仲間からは白い目で見られること、間違いなしであっただろう・・・・・

例えば、「市も、もうチョット人間らしい温かい対応をしてあげればいいのにね~」
と言った人には、
「それじゃ~あなたが、その“温かい人間らしさ”というやつで、お宅に何人か泊めてさしあげたらよろしいんじゃないの?!」
と言いたかった。
自分だって出来ないことなのに、それを棚に上げておいて、他人も同じように出来ないといって冷たくあしらったからとて、これを攻める資格などないはず。
それに、“人間らしい温かさ”っていったい何なんだ???
私ら人間には、温かな心なんて持ち合わせて無いぞ~!
職の無い経歴不詳の他人を、何の条件もなく無償で養ってあげることの出来る人など、この世のどこにいるというのか…
‘市’といっても、所詮は人間の集合体である。
自分を犠牲にしてまで、他人を思いやるほどの慈悲の心など持ち合わせてはいまい。
たとえ生活に余裕があって、慈善事業が趣味という人であっても、慈悲や厚意を与えたその人から、感謝のかけらも示されずに一生世話をしてくれと言われたら、「ハイ、喜んで!」とは言えないだろう。
一時的な慈善は、結局自己満足を得る為の産物であって、これを偽善と呼ぶのだ。
確かに、その偽善によって救われる人がたくさんいることも事実で、偽善は決して悪いことではない。
ただ、ここで言いたかったのは、自分の立場に置き換えてこのニュースを聞いた場合、一方的に市を悪者と決め付けるような言葉は出てこないのでないかなぁ~と思った。

例えば、「そもそも、派遣社員に甘んじていた本人の責任なんじゃないの~」
と言った人には、
「もし、自分も派遣社員にならざるを得ない運命におかれていたら?
それでも、私が悪うございましたと雪の降る野外で毎夜過ごせる?」
と聞きたかった。
確かに平日の昼間っから、一日中陶房で趣味の陶芸に時間を使える人は、それなりの生活基盤のある運命に恵まれて今を生きている人たちだろう。
だからといって、自分の生活レベル以下の運命の中を生きている人たちを、見下していい権利など無いし、ましてや、いかにも自分の意見が正しいように発言をするお前は何様のつもりじゃ!と言いたかった。
“私”というヤツは、常に自分の考えを標準機軸として物事を見てしまう。
たまたま運よく正社員の立場にいる、また働かなくてもよい運に恵まれている人は、そんな自分の運の良さを当たり前の如く手にして、まるで「私の運がいいのは、私のお陰よ」と言わんばかりである。
そして、現在の自分の立場、もしくは自分の考えを中心にして、自分の考える“負け組”の人たちを、知らず知らずの内に見下しているから「負け組に甘んじている本人の責任でしょ!」なんて言葉が出てくるんだと思う。

例えば、「ホームレスが増えると治安が悪くなるから、襲われやしないかと心配…」
と言った人には、
「襲われる心配はするくせに、襲う心配はしないの?」
と言いたかった。
確かに、深夜の京都駅を歩くとホームレスの数は激増していた。
それに、今までよく見かけた‘浮浪者’と言われるような身なりの人たちではなく、明らかに生活意欲のある身なりの面々が、寒夜をしのぐ為に深夜の京都駅を占領していた。
私自身、そんな人たちの横を通り過ぎる時には、「この人たちの所持金はいくら位なんだろう…、食事はしているのかなぁ…」と心配しつつも、その心配は決してホームレスの人たちに対する同情や哀れみなどではなく、「もしも、この人たちが空腹に耐えられずに襲い掛かってきたらどうしよう」という、自己防衛の心配である。
私だって人にとやかく意見の出来る人間ではないが、陶房で、ホームレスに襲われる心配をしていた友人にはこう言いたかった。
人間は、縁がもよおせば、難なく悪を正当化してしまう魔物であるということを・・・
今現在の私は、家もあり、仕事もあり、生活がしていけれるだけの収入もある。
でも、もし明日にでも会社がつぶれたら…、家が火事で焼け焦げたら…、天災で…、病気に…、家族が…、と、理由は何であれ、家や仕事やお金に困窮する立場になったならば、この自分が生きていく為に、盗みをしたり、人を襲ったりする立場に十分成り得るヤカラなのだ。
だから、みな「襲われる心配」ばかりしているが、「襲う心配」をしなくても大丈夫なのか?と思った。

ニュースの聞き方は、立場を変えることでまったく見方が変わってくる。
でも、人間の本質というのはまったく変わらないと思う。
日常のニュースを聞いて、また、そのニュースを聞いた人たちの言葉によって、私は日々いろいろなことを教えていただいているのだな~と感じる今日この頃である。
しかし、
何やかんやと他人に意見を述べているこの私こそ、自分の考えは正しと言わんばかりに偉ぶって、他人を見下している一番の悪者じゃ~ないか・・・・・!!![パンチ]
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ありのままに、見れない私・聞けない私 [心]

先ほど見ていたテレビ番組で、 “視覚のトリック” というのをやっていた。
私たち人間というのは、これまでの経験で蓄え続けてきた“私の常識” という枠に囚われて、実際に目を通して見ているものを、自分自身の“思い込み”によって、正しく見ることができないという、心理的に非常に興味深いことを教えてもらった。

視覚の錯覚(思い込み)ということを考えた時、テレビ番組で実地されるような実験用のだまし絵などを用いなくても、日常生活の中から実感できることがたくさんある。
例えば、レモンや梅干を視覚でとらえた瞬間に唾液の量が増える。
それが食べられない食品サンプルのレモンであったり、甘い砂糖菓子で出来ていた梅干だと聞いても、レモンはすっぱいという自分の常識や、梅干はすっぱいという自分の思い込みによって、脳から伝達された偽りの情報に身体は反応してしまう。
また、お茶碗で食べるお米は美味しいけど、お皿に盛られたお米は美味しくないだとか、
ラーメンをフォークで食べたり、ケーキをお箸で食べたりすると、まずく感じるなど、私たちは常に自分の常識や思い込みを正しいものとして判断してしまうのだ。

視覚は目で見ているのでなく、脳で認識したものを見ているのだそうだ。
私たちは目を通して、色・形・動き、などの種々の情報を脳に届けて、脳はこれらバラバラの情報を一つに組み立てる作業をする。
この作業工程で、自分の“思い”が侵入してくる。
つまり私たちは、実際に目を通して見ているものの色や形を、真実そのままの状態で受け取ることは出来ずに、常に、自分の脳で組み立てられたものを真実の姿だと思い込んで見ているだけなのだということがわかった。
私には脳の専門的な知識が無いので詳しいことまではわからないが、私が見ているもののすべてが、真実そのままに見えているのではなく、自分の小さな知識の中からはじき出された自分の思い込みによって、常に間違ったものの見方をしているという点で、仏教にも通じるものがあるなぁと思った。

親鸞聖人は『正信偈』中に、邪見驕慢悪衆生 とお示しになっておられる。
私(親鸞)は、驕慢な心で間違ったものの見方しか出来ない悪の衆生であると嘆かれたお言葉であると味あわせてもらった。
自分の考え方は正しいとしか思えないという驕り高ぶった私を、このまま見捨ててはおけんと立ち上がって下さったのが阿弥陀様であられる。
こんなどうしようもない私一人をお目当てに、阿弥陀様は仏の位から降りられて、修行などまるで出来ない私とわかって、私に代わって苦しいご修行をして下さり、こんな私を救うため法を造ってくださったのだという。
でも、当の私は、自分の考えが間違っているとは思えないし…、
まあ~時々は驕慢な心になることもあるけれど、常々のことじゃないし…、
まして、私を救って下さると言う阿弥陀様なんて信じられないし…、
それに何よりも、別に救ってほしいなんて思ってもいない私だし…。

「喝!!!!![爆弾]

その心こそ、まさに自分の考えが正しいと邪見し、驕慢している自分の姿そのものじゃないか!
私が、そう思えるとか、思えないとか、そんなことは関係ない!
お釈迦様が教典に説かれたことを、親鸞様が実体験なされて、「これぞ真実!」と私に届けて下さったご意見が、私の目の前にあるのだ。
でも私は、自分の邪見で驕慢な心ばかりを見て、目の前にある真実を、チッとも見ようとしない!!
どこまでも、どこまでも、どこまでも、邪見で驕慢な私でしかないのだ・・・・・

そんな私のままでいい… と。
邪見驕慢な私のままでいい… と。
だって阿弥陀様は、そんな私がいたから、これを見て不憫に思い、御本願を建てて下さったのだ。
そんなどうしようもない私だったからこそ、頭の下がらん私に向かって、「救わせてくれよ」と、阿弥陀様の方から先に頭を下げて頼んでいなさるのだと聞かせてもらった。
そんな私だと阿弥陀様は重々知っておられるからこそ、ご自身の御名に力を封じ込めた“南無阿弥陀仏”を、ただ受け取らせるだけに仕上げて下さったのだと聞かせてもらった。

阿弥陀様は、すべて何もかも承知してなさる。
いまだ邪見驕慢な自身の心にばかり目を向て、泣くしかないこんな私を・・・・・

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母を想う Ⅴ  “死”という別れ (独り逝くということ) [随筆日記]

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父を病室に残して、私は、弟を探しに出た。
弟は、人気の無い階段の踊場の窓から、どんよりと曇った冬の風景を眺めていた。
私の呼びかけに振り返った弟の目は、私と同じように赤く腫れ上がっていた。
そして弟は私に、「あいつ(父)を許すのか?」と聞いた。
私は、「わからない…」と答えた。

看護師長が私を呼び出して、母の担当医師でもある老健の施設長から重要な話があると言われた。
施設長は、単刀直入に聞いてきた。
「お母さんを今から病院の方に移して、延命治療を始めますか?」 と、・・・・・
この施設に入所した時からずっと聞かれ続けていたことなのに、私は、いつまでたっても答えを出せずにいた。
母の寿命を、私が決めてしまうようで怖かったから・・・・・。
私が願うことは、母には一日でも長く生きていて欲しいということ。
でも、もし、死ぬことで本当に楽になれるのなら、私の願いは、母の苦しみを日一日と延ばすことになってしまう。
しかし、私が母の延命治療を拒否すれば、まだ生きられるはずの母を、私が殺してしまうことになるのではないか…。
母自身、「生きたいけど、死にたい」 と 決められなかったことを、私が決められるはずが無いじゃないか! 
そうやって答えを引き伸ばしては今日まで逃げてきた。
でも、今日はもう逃げ場が無かった。
私は施設長に、「母の命は、機械ではなく、母の生命力に任せます」 と答えた。
施設長は、「最後まで、お世話します」 と言って下さった。

老健は、短期のリハビリ施設である為、ここで死を迎える人は稀であろう。
しかし、私が出会ったこの老健のスタッフは、法律という冷たい枠を超えて、血の通う人間としての対応をしてくださった。
母は、そんな人たちに囲まれて、今、必死で最後の力を振り絞り、一人戦っていた。

この日、本来なら有り得ない、家族の同伴宿泊を許可してもらった。
病院の方から簡易ベッドが一台、母の部屋に運び込まれて、私の寝床を作ってもらった。
夕方には、父も弟もそれぞれの家へ帰って、病室には、母と私と夫の三人だけになった。

父の来訪を確認した母の目からあふれ出した涙は、あれからず~っと、夜になっても止まることがなかった。
でも、母の目は、もう開かない。
ただ、涙だけが、止めどもなくあふれ出ていた。
母が最後に見たもの…、   
それは、母が恨みながらも恋焦がれひたむきに待ち続けた父の顔だった。
母の涙は、そんな何もかもを許して、すべてのものに懺悔をしているように見えた。

夜の9時を過ぎて夫が自宅に帰り、部屋には母と私の二人きりになった。
昨日まで硬直して氷のように硬く冷たかった母の手が、今は、とても柔らかく温かかった。
一時間おきに看護師が見回りに来てくれる。
夜の10時を過ぎた頃、昨夜も夜勤だったはずの施設長が来てくれた。
吸う息、吐く息、吸う息、吐く息、・ ・ ・ 次の一息が最後かもしれない・・・・・
母の一息一息を見守る私に、施設長は、「今夜からそんなに根を詰めていたら、明日・明後日ともたないよ」と声をかけた。
この時私は、どの人にも“明日”は来ると思っていた・・・・・

11時過ぎ、弟に電話をした。
母の容態の変わりないことを告げると、弟は、「今夜は眠れそうにない」と言った。
私は、眠気覚ましの缶コーヒーを飲もうか飲むまいかと、手の中で転がしながら、用意してくれた簡易ベッドに上に腰掛けて、母にたわいもない話しをしていた。

辺りがザワザワとあわただしく動いている。
1月7日を5分ほど過ぎた頃、母の部屋に看護師が慌ただしく飛び込んで来た物音で目を覚ました。
私は、全く無意識の内に眠ってしまったらしい。
「どうしたの?」と聞くと、看護師は、「モニターの心電図が止まったの」と言って、あわてて先生を呼びに行った。
私はベッドから立ち上がり、ゆっくりと母の元に歩み寄り、母の手に触れた。
まだ温かかった。
でも、母の表情は、凝視できないほどの苦しみに歪んでいた。
さっきまでは閉じていた目を大きく見開き、最後の一息を必死で吸い込もうとして、無念の内に力尽きたような形相であった。
間もなく医師である施設長が来て、静かに母の臨終を告げた。

私は泣かなかった。
悲しむ気持ちも、涙もなかった。
弟に電話をすると、寝起きの声がして、「あれ? オレ、いつの間に寝ちゃったんだ?」と言った。
私と同じだった。
母の死を告げると、弟もそっけなく、「今から行くわ」と言った。

看護師から、「死後硬直が始まる前に、パジャマから着替えをさせましょう」と言われたので、夫に電話をして、私のクローゼットから、真っ白なドレススーツを持ってきてもらった。
そして看護師と一緒に母の着替えをさせる。
パジャマの中の母の身体は、思いもよらないほど無残にも痩せこけていた。
頑張って、頑張って、一日中食べ続けても、お茶碗半分ほども食べ切れなかった母であったが、顔だけは丸く健康的に見えていたので、こんなに痩せ細っていたことに驚きを隠せなかった。
着替えをすませると、看護師はエンジェルセットを持ってきて、「娘さんも一緒に、お母さんに最後のお化粧をしましょう」と言ってくれた。
私は母に、まるで旅行にでも出かけるかのような会話をしながら、母に化粧を施して母の身支度を整えた。

深夜二時近くになって弟が老健に到着し、今後の、現実的な話を二人で始めた。
私も弟も、実に淡々と事を進めていった。
父には私から連絡をし、「弟を喪主に、母の実家の宗派で葬儀をとり行うので、親族として参列して下さい」と告げ、父もこれを了解した。

1月7日の、まだ夜も明けぬ頃、「お母さん、帰りたかったお家に帰れるよ」と話しかけ、今度は葬儀屋の車で実家へ母を連れて帰る。
半年前の、あの夏の日が思い出された…。
27歳で喪主を務める弟の補佐をする私にも大きな責任が肩にかかって、泣く暇は無かった。 
と言うより、自宅に帰って来た母の姿を見ていると、死んでしまったとは思えず、「ね~、お母さん、あの湯飲みはどこにしまってあったっけ?」と何度も話しかけてしまうほどだった。

翌8日の夕方、葬儀屋が母を御棺に入れるという。
私は、「いやだ!」と泣き喚いた。
母が死んでから初めて泣いた。
まるで小さな子供のように、「お母さんを連れて行かないで!」と大声で泣いた。
それから涙が止まらなくなった…。

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母を想う Ⅳ  “死ぬ”ということ = 生きているということ [随筆日記]

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母の夢が実現してから間もなく、母の声は、とうとう言葉にならなくなった。
わずかに動くのは、指先と眼球だけ。
母との会話は、クリアーボードに書いた五十音のボード越しに、眼球振動をともなう母の視線の先をこちらが読み取り、一文字一文字、YESなら瞬き一回、NOならノーリアクションというルールの中で行われた。
脊髄小脳変性症という病気は、自律神経を含めたすべての運動神経が破壊されるが、認知症やアルツハイマー病とは異なり、思考能力は少しも衰えない。
もし私が、ベッドの上に雁字搦めに縛り付けられ、もの一つ言うことが出来なかったら、いったい何分耐えられるのだろうか・・・・・・
母はそんな状態の中で、何年も、いつ来るとも知れぬ死を待つしかないのだった。
少し前、「もう、自殺も出来なくなっちゃった・・・・・」 と母が言った。
私は何も答えることができなかった・・・・・
この時の母にとって “生きる”とは、いったいどんな意味をもっていたのであろうか。
今までの人生は、いったい何の為だったのであろうか。
その時その時を充実させ、楽しく過ごせればよい、なんていう人生など、まったく無意味なものだと思った。
しかし、それは母の人生を客観的に見た私の独断と偏見であり、「自分はどうなの?」と自問自答すれば、今を生きる今生ごと以上に大切なものなど、何も見当たらないというのが現状である。
そしてこの時はまだ、“生きる” ということも、“死ぬ” ということも、直面している母自身の問題であって、私には無関係な運命、他人事であると思っていた。
でも、私が今、生きているということは、私の死は、いつとは知らぬが必ず訪れるのであって、“生きる” も “死ぬ” も、決して他人事などではない、私自身の問題であると、今やっと思い知らされた私であった。
しかし、あの頃の私にとって、“死” = “離別” ということ以上に考えることなど出来なかった。

秋も深まり、老健の規約では、三ヶ月以上の連続入所は出来ないことになっていたが、「母の在宅介護は不可能である」という施設長の判断で、私の家で在宅介護をすることは事実上打ち切られた。
同時に施設長は、母の最後のその日まで、この老健で母の世話をしてくれることを約束してくれた。
有り難かった。 また私の知らない所で大きな力が私のみかたをしてくれた。

11月になると、母は口から物を食べることが困難になっていた。
しかし施設長は、胃ろうカテーテルの使用は、筋力の退化や細菌の問題などから勧められないと判断し、母の唯一のリハビリは食べることとなった。
12月に入る頃には、自発呼吸をする力もなくなってきて、酸素マスクが欠かせないものとなった。
心電図も取り付けられ、母の容態は24時間体制で介護ステーションで監視できるようになった。

12月24日 クリスマスイブ
母の大好きな苺のショートケーキを持って、母の夕食介助のため老健に向かう。
母は、夕食よりもケーキが食べたいと言った。
私が持参したコージコーナーの小さな小さなショートケーキを、母は美味しそうに口にした。
一口飲み込むのに10分も20分もかかって、二時間ほど頑張ったが、その半分も食べきることは出来なかった。
しかしこれが、母が口にした最後の食べ物となった・・・。
その翌日からはすべての食べ物・飲み物が喉を通らず、点滴だけが頼りとなった。
部屋も介護ステーションに一番近い個室に移された。

2005年
年が明けたその日を、母は、唯一動くまぶたを開けて天井を見ていた。
初雪。  雪が降り出した。
母の身体を窓が見えるように傾けるが、母に取り付けられた計器の異常が介護ステーションで確認され、無理をさせないようにと注意をされる。
何も出来ない、何もしてあげられない・・・。
母だって話したいことはいっぱいあるだろうに、何も伝えられず・・・・・
痛いも、痒いも、寒いも、暑いも、何も言えない母と、何もわかってあげられない私。

1月3日
点滴の針を刺せる場所がもう無く、母は首から点滴の針を入れられていた。
酸素レベルも最高値にセットされているのに、それでもとても息苦しそうであった。
この日、看護師長から呼び出され、「そろそろ親戚の人に声をかけて下さい」 と言われた。

翌4日、5日で母のゆかりの人たちが母の元を訪れた。
祖母は、母の病気を知ってからアルツハイマーの症状が見られるようになっていて、母の傍らで、「いつ退院できるの?」と何度も尋ねていた。
一通りの親戚縁者が会いに来て、母はいったいどのように思ったであろうか。
そして母は、自分の死と、どのように向き合っていたのであろうか。
母は生きていながらも、もう、何も語れない・・・・・
そんないくつかの疑問を胸に、私は母の心に耳をかたむけてみた。
一言・・・・・   「夫に会いたい・・・・・」    そんな言葉が聞こえたような気がした。

1月6日の早朝
老健から、母の容態が急変したとの電話が入った。
急いで老健の母の部屋に飛び込むと、今までに無く、母は必死で呼吸を繰り返していた。
昨夜から母に付き添ってくれていたという施設長から、「ここ一週間が限界だろう」と言われた。
しかし、看護師長からは、「先生は一週間と言ったけど、私の経験から見ると、後2,3日だと思う…」と言われた。
私は介護ステーションで泣いた。
大声で泣き続けた。
そしてやっと、父に電話をする決心を固めた。
「お母さんが死んじゃうかもしれない…。 お母さんの為に会いに来てあげて…」
とだけ父に告げて電話を切った。

お昼過ぎには弟が来たが、母は相変わらず必死で呼吸をしながら、かすかに視線を弟へとむけるだけだった。
弟は、何も言わなかった。  何も言わずに、母をジッとみつめていた。
私は、母と弟を二人きりにしてあげようと部屋を出て、一人廊下に立っていた。
フッと顔を上げると…、
一瞬、目を疑ったが、父がこちらに向かって廊下をゆっくりと歩いてくる姿が見えた。
そして父は、私の前で立ち止まって、一言、「どうなんだ?」と聞いた。
私は言葉にならなかった。
ただ、父の顔を見たとたんに涙が溢れ出して、人目もはばからずに、廊下で大声をあげて泣いた。
そんな私の肩に、父はそっと手を添えて、「すまなかった」と一言つぶやいた。

私は自分を落ち着かせてから父を母の元へと連れて行った。
父のことを許してはいない弟は、父の顔を見ると、無言で部屋から出て行った。
私は母に、「お母さん、お父さんが会いに来てくれたよ」 と告げた。
母は、息が止まるほどの大きな目を見開いて、必死で父に視線を向けた。
父が母の名前を呼び、「頑張れ!」と言った。
私は父に、「お母さんは、一人きりで、ずっと、ず~っと頑張っていたよ」と言った。
母の目に涙があふれた。
大きな大きな涙の粒が、いくつもいくつも、止めどもなくこぼれ落ちた。

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母を想う Ⅲ  母の涙 [随筆日記]

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病気の母でも受け入れてくれるという老人ホームに入居の予約はしてあるものの、最短のところで40人待ち、早くて二年後だろうと言われた。
この先の不安をあおるように、一年以上も世話になっている老健の施設長が代わってしまった。
しかし、母の事情を理解してくれた新施設長も、引き続き母の入所を快く許可してくれ、今まで以上に力になってくれた。

ある日、いつものように母に会いに行くと、老健の職員から呼び止められて、
「さっき、お父さんがお見えになったのだけど、その後からお母さんの元気がなくて…」
と報告してくれた。
母に、「お父さんは何をしに来たのか」と聞いても、「怒っていた」としか言わない。
要領を得ないので、しかたなく父に電話をする。 一年ぶりの電話だった。
聞くと、父宛てに自宅の固定資産税の督促状が届いたことを怒っての訪問であった。
母は、自分の通帳をなかなか私に渡してくれなかった。
「自分の財産は墓場まで持って行きたい」というのが人間の本性であるということをつくづく感じてはいたものの、だからといってこのまま母が自分自身で財産管理をすることは不可能であるし、私も母の介護費用に対して金銭的なストレスをかなり感じていたので、この際ハッキリさせようと思った。

まず、母とはじっくり話しをして、母の通帳は私が管理することになった。
そして父のこと・・・
自宅の名義はもちろん父の名前のままになっているが、父は母の病気を機に家を出て、退職金で建てた別宅に、愛人と二人で住んでいたので、自宅にかかる税金や公共料金は、父の名義でありながらすべて母が支払っていた。
しかし母が入院を機に自宅を出てからもう一年半が過ぎ、公共料金の引き落とし口座の残高も底をついていた為、名義人である父の元に督促状が送られたのだ。
父はそれを怒って、母の居場所を探し出して怒鳴りに来たのであった。
私は母に言った。
「お父さんと離婚して…」 と、・・・・・
母は、しばらく考えた後、小さくコクンとうなずいた。

しかし、父はこれに猛反発した。
「子供のおまえに、夫婦のことでとやかく言われる筋合いはない!!」 と、・・・・・
でも父は、母に自分の人生をつぶされたくないといって家を出て、愛人との生活を満喫しているし、今さらなぜに離婚を拒否するのか、まったく理解できなかった。
結局、弁護士に相談しても、母が物言えぬ状態となってしまった以上、子供が何を言っても無理だと言われた。
私は、自分の運命を呪った。
どうして私だけが親の運命を背負わされなきゃならないのかと、・・・・・
どうしてこんな父と母の元に生まれて来てしまったのかと、・・・・・
私は、両親によって自分の人生が握りつぶされていくように感じていた・・・・・

7月、次回の在宅介護を相談する席で、老健の担当相談員から、
「そろそろ、お母さんの声がまだなんとか出る内に、最後の願いを聞いてあげてはどうですか?」 と言われた。
母の願い ・・・・・   それは聞かずとも私にはわかっていた。
母の口癖だったから ・・・・・  
「自宅に帰りたい」 と、・・・・・
でもそれは不可能に近いと思っていた。 それに、私一人ではどうにもならない。
しかし、これを老健の担当相談員に伝えると、彼は、「出来る限り、力になります」と言ってくれた。
嬉しかった。 
小さな希望の灯火が点灯したようだった。
しかし、それは簡単なことではなかった。
一年以上も空き家になっている実家には、何の介護設備も無いし、真夏の体温調節は非常に難しく、汗の出せない母にとっては命にかかわる。
それに、片道2時間のベッドでの移送や、膀胱洗浄などの医療行為や、地元での新しいヘルパーが母の病気に対応できると思えないなど、問題点は山積みであった。
しかし、その一つ一つを解決すべく努力をしていく内に、いつしか母の夢の実現が、私の夢へと変わっていた。

すべての条件が整うのに、一ヶ月も要しなかった。
誰に拒否されることも無く、老健の職員、介護事業所の関係者、市の職員まで、こちらの予想を超えて惜しみない協力を申し出てくれた。
実家に帰る日にちも決まって、後は、担当医師である老健の施設長が、母の体調をみて、OKのサインが出されれば、母の夢は実行へと歩き出す。

2004年8月7日の朝
母は不安げな表情で老健のベッドに横たわっていた。
意味もわからずに、朝食を途中で打ち切られて、外出着に着替えさせられたのだから当然不安で心細かったであろう。
実は、母の夢の実現は、母には内緒で進めていた。
母の体調如何によっては、いつ取り止めになるかわからない夢であった為、その時にショックを与えないよう、また、実現した日には大喜びをしてもらおうと、みんなには内緒にしてもらっておいたのだ。
実行の前日、施設長からの許可が下りて、今日、母の夢は実現へと動き出した。

「今から自宅に帰るんだよ」
と、何度言っても、母は信じられない様子で、不安げな表情を浮べ、「本当に?」「大丈夫?」と、何度も何度も確認をしてきた。
施設から実家までの移送は、いつも利用している介護タクシー会社の社長が、家族ぐるみで協力してくれて、途中、七夕祭りの会場にも立ち寄ってくれたが、母は、実家に帰れるということが、まだ信じられない様子で、施設のベッドの上では見たがっていた七夕祭りも、今は上の空といった感じだった。
実家に着くと、数日前からの大掃除や介護ルームの設置などで応援に駆けつけてくれていた私の学友らに、「おかえり」と出迎えられると、母の表情からは不安が消え、嬉しそうに、そしてとても懐かに、穏やかな表情に変わっていった。

今回の在宅介護では、いつも利用している二つの介護事業所の馴染みのヘルパーさんたちが遠路はるばる交代で協力してくれることになった。
また、老健の職員やケアマネさんも、私用と称して応援に来てくれた。
しかし、母が何よりも喜んだのは、たくさんの訪問客であった。
私が、母の帰省を知らせたのは、母が自宅に帰る日の前日、施設長の許可が下りてからであり、実家の近くに住む叔母と、母の職場の同期の親友の、たった二人に母の一時帰宅の連絡をしただけであった。
にもかかわらず、「母、帰省する」の伝言ゲームは、たった一日で四方に広がっており、母帰宅の初日から最終日まで、ひっきりなしに懐かしい人たちが母の元へとかけつけてくれた。
実家の室内には入りきれずに外で待つ人もいて、母は食事をする暇すらないほどであった。

そんな母が泣いた。
初めて見た、母の嬉し涙だった。
思えばこの一年半、私が帰国してから、母は一度として私の前で涙を見せたことが無かった。
辛い運命を宣告され、たった一人この家に残されて、母はどれだけ寂しかっただろう・・・、母はどれほど悲しんだであろう・・・、
私はそんな母の姿を、母の気持ちを、真剣に考えたてみたことなどなかった。
いつも母の犠牲になっている自分を恨み、心の中で母を殺し続けてきた。
お母さんのせいで私の人生は苦しめられているんだって、・・・・・
お母さんに母親としての愛情を求められない自分は不幸だって、・・・・・
それでも、お母さんには生きていて欲しい…、ずっとずっと生きてて欲しいって、・・・・・
自分勝手な欲で母を恨み、自分の都合のいいように母を利用して、自己満足に自惚れていた自分を、この時はまだ、知る由もない私であった・・・・・

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母を想う Ⅱ  母の人生 と 私の人生 [随筆日記]

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五十歳代の母にとっては、“老人”と名の付く施設に入ることには抵抗があった。
また、日々、一つ一つ出来なくなってくる行動を、自分に確かめるようにして受け入れている母の口からは、「しかたがないね・・・」という言葉が繰り返し聞かれるようになった。
闘うことの出来ない難病と向き合いながら、母は自分自身と戦っていた。
昨日まで使えていたスプーンが、今日はもう持てなくなってしまった…。
昨日まではコップで飲み物を飲めたのに、今日はもう、口の端から飲み物がこぼれてしまう…。
昨日までしゃべれていた言葉が、今日はもう相手には伝わらない…。
自分はいつまで、何ができるのだろう・・・・・
母は、そんな恐怖と四六時中戦っていたのだと思う。

私といえば、渡米前まで勤めていた銀行からの再就職の要請を、受けるか受けまいかと悩んでいたが、仕事と家事と介護を落ち度なく両立させるのは不可能だと考え、再雇用はあきらめ、そのやり場のない気持ちに苛立つばかりであった。
しかし、嘆いている暇など無く、今は母をあずかってくれる新たな施設を、一日も早く探さなければならなかった。
そんな時、奮闘しながらも頭をかかえている私に、入所先の老健の施設長が、
「自分の在任中は、できる限りの協力をしますよ」 と言って下さった。
有り難かった。
施設長の厚意のおかげで、母は7月には一度退所はしたものの、一ヶ月ほど私の家で在宅介護した後、8月からの三ヶ月間、再度その老健への再入所を認めてもらい、今後もこのパターンで母をあずかってくれると約束してくれた。
この間に入居できそうな老人ホームを探すと言うことで、私にも希望が見えてきた。

しかし、そう甘くはなかった・・・・・
病気でありながら治療法のない母は病院ではあずかってもらえない。
なのに、病気であるが為に老人ホームでも母の受け入れは出来ないというのだ。
完全に寝たきりになれば、当然24時間体制での医療行為が必要となってくる為、そんな母をあずかってくれる施設など、どこにもないのだ。
どうしたらいい・・・・・
私では答えなど見つけられるはずもなかった。
社会や法律を前に、個人の存在など小さすぎて目に入らないのだ。

7月、初めての在宅介護は、オムツ交換やリハビリ・マッサージなど、不慣れなことばかりであったが、ヘルパーさんの力を借りながら何とかこなすことができた。
しかし今後のことも考えると、早急に介護ルームが必要であると考え、新たに一部屋、母専用の介護ルームを増築するという大きな選択に迫られた。

8月、母を老健に再入所させると、今まで忙しかった分、少し時間に余裕が感じられ、ちょうどこの頃、以前勤めていた銀行からの誘いもあって、パートとして再就職をすることが出来た。
このまま何も変らずに、ただ時間だけが流れていくように思えた。
そんな時、予約をしておいた長期療養型病床をもつ病院から連絡が入り、ベッドが一床空いたので明後日までに入院の手続をしてくれと言われ、翌日その病院を訪れた。
その病院は、私の家から一時間半ほどの距離にある内科と整形外科の病院で、母が必要とする神経内科はなかった。
また何よりも空いたとされるベッドは、元々二人部屋だった病室にベッドを三床に並べて、その三人の足元に縦に一床ベッドを押し込んだかたちになっていて、そこが母のベッドだと説明された。
悔しかった・・・・・
病人なのか、囚人なのか・・・・・、 どうしてこんな扱いをされなきゃいけないのか!
もちろん入床は断った。
帰り道、私は車の内で一人大声で泣いた。

こうなったら私が最後まで母の介護をするんだと心に決め、自宅のリフォームを急ピッチで進めてもらい、11月には増築した介護ルームが完成して、二度目の在宅介護のため母を退所させた。
しかし、毎日仕事帰りには老健に寄って母の様子は見ていたものの、実際三ヶ月ぶりに体験した母の介護は、とても大変なものであった。
嚥下障害も進み、料理をするのにも気を使い、食事介助の時間も長くなった。
病状は確実に進行をしている。
次回の在宅介護への不安が大いに増した。

年が明けて2004年、入所先の老健から、次回の在宅介護はもう少し暖かくなってから、期間も二週間を限度にしましょうと提案された。
体温調節の出来ない身体で、免疫力も低下している為、在宅介護ではリスクが高いというのだ。
そんな話しをしていた矢先に、母はインフルエンザにかかって、老健から病院へと移された。

私は仕事を辞めた。
完全看護の病院では、本来、洗濯物以外は家族の手を要しないのだが、嚥下障害のひどくなってきた母の食事介助は、この頃一日5時間を要した為、この間ずっと看護師を独占することは出来ず、家族の手を必要とした。
入院は三週間ほどだったが、職場にはこれ以上の迷惑はかけられなかった。

母のことを相談できる家族は私にはいなかった。
父は、母に自分の人生を邪魔されたくないと言う。
妹は、何もしなくったって何とかなるのだから、放っておけばいいと言う。
弟は、専業主婦になったのなら暇だろうからまかせるよと言う。
夫には、介護ルーム増築の件でも、在宅介護の件でも、そして私の実家の家族に対しても、言いたい愚痴を山ほどあるだろうに、それを我慢してくれているのがわかるから、これ以上の負担はかけられない。
私は一人ぼっちだった。
こんな生活がいつまで続くんだろう・・・・・
私は・・・・・、 私の人生は、母に殺されてしまった・・・・・・

5月、久しぶりに母を退所させて自宅で介護をする。
既に自律神経の失調もひどく、汗どころか、尿も出すことが出来ない状態となっており、3日に一度は、訪問看護をお願いして膀胱洗浄を必要とした。
便通も下剤を使って介助が必要となり、リハビリ・マッサージは、骨折の危険が伴う為、素人が行うことを禁じられた。
在宅介護での負担は、病気の進行と正比例していく。
今は、「痛い」「痒い」という言葉すら、もう発することが困難になってきているが、いつの日かその声も聞けなくなってしまうだろう。
体中の痛みを訴える母に、私は何もしてあげられないのがもどかしかった。
ただ、母の笑顔を絶やさぬように、私はふざけたことを言っては母を笑わせる。
それは母の為ではなく、私自身のためだった。
いつの日か、母は自分の顔の表情までも失ってしまうだろう・・・・・・
私は、少しでもたくさんの母の笑顔が見ていたかった。
在宅介護で一番気を使ったのは食事で、食物を喉に詰まらせて窒息という事態を避ける為にも、料理にも食事介助にも注意を要した。
でも、いつか何も食べられなくなってしまう母に、せめて自宅にいる間は、美味しいものを食べさせてあげたかったので、施設食のように、ミキサーをかけて原型のわからないような料理は出したくなかった。
在宅介護は、朝食作りに始まって夕食介助まで、食に一日の大半の時間を費やした。

そんな私の手料理を、母は小さく喜んだ。
でも、私のその手料理をヘルパーさんが羨ましそうに誉めると、母は、とても嬉しそうな笑顔を見せて大きく喜んだ。
この時私は、「母は、私のお母さんなんだ」って、実感できた・・・・・


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母を想う Ⅰ  難病と言う運命 [随筆日記]

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2000年6月、私は出世を約束されつつも、これをけって退職し、その三日後にはアメリカで単身赴任をしていた夫の元へと渡米した。
そして二年半後の2002年の年末、アメリカでの任務を終えた夫と共に帰国し、再び日本での生活が始まったのだが、それは私に与えられた、新たなる試練の始まりでもあった。

母は、NTT民営化による人員調整の為、53歳で希望選択定年退職をした後、地域の婦人会会長として任期二年を勤め上げた。
そんな母が体調の異変を訴え始めたのは、ちょうどその頃からであった。
初めは更年期障害と診断され、ホルモン治療が施されたが、四肢失調や歩行・会話障害など、日増しに症状の悪化が見られた為、受診科や病院を転々とする生活が続き、病名もハッキリしないまま放射線によるガンマナイフ治療も受けた。
しかし、症状は回復することなくますますひどくなっていった。

母には夢があった。
夫婦共に定年退職を迎えたら、父の実家に近い東北の静かな温泉地に新居を構えて、夫婦二人でのんびりゆったりと余生を過ごすんだって・・・・・
体調の異変を感じ始めてから二年が過ぎ、来年は父も定年退職を向えるという頃、とうとう母の病名が明らかになった。
「孤発性(非遺伝性)の多系統萎縮症です。 治る見込みのない病です…」
大学病院の医師は、母にハッキリとこう告げた。

『1リットルの涙』というTVドラマや本で名の知れた、脊髄小脳変性症という病気である。
医学的に言えば、小脳・脳幹・脊髄などの神経細胞が徐々に破壊されながら変形萎縮して、10年ほどで自発呼吸すら出来なくなって死に至る病である。
でも、言葉で言うほど簡単なことじゃない。
癌のように治る希望も可能性も皆無で、ただ死に向って進行するのみである。
何よりも、大脳部分はまったく破壊されない為、自分の身体機能が衰退していくことを、死ぬまでハッキリと自覚し続けるのである。
完全な意識・心を保ったままで植物状態となって、ただ死を待つのである。
いまだ原因もわからない為、何の薬も治療法も無い難病である。

治ると信じていたからこそ探し回った病院なのに・・・
病名の告知があってからの母は、心まで壊れてしまった・・・
自分の病気を、この運命を受け止めることが出来ずに、母は家族に当り散らし、自分さえも見失ってしまった。
「病気の治る水」だと騙されて三百万円でその水を購入した上に、その新興宗教に、治療だ祈祷だと一千万円近くも財産を吸い取られてしまったこともある。
母は、自分の運命の重さに絶えられず、誰かに責任転嫁をすることで自分を保ち、何かにすがりつくことで生き甲斐を見出そうと必死だった。
そうすることでしか生きていられなかったんだと思う・・・。

私と妹は、既に結婚をして家を出ていた。 そして弟も転勤で家を出ることになった。
そんな時、父までもが家を出て行ってしまった。
父は言った、
「自分の人生を、妻の犠牲となってつぶされたくない」
と・・・・・
父は退職金で隣町に新居を購入し、病気の母を一人置いて家を出て行った。
それは、母が思い描いた夢とはかけ離れた現実であった。

一人暮らしとなった母の世話は、近所に住む老齢の祖母がしていた。
弟は県外に勤務。 妹はアメリカに嫁ぎ、私までもがアメリカ行きを決めてしまった。
渡米前、実家に立ち寄った私に母は、「親不孝者!」と言って包丁を振り上げた。
あんなに優しかった母の変貌ぶりに、私は、ただ泣くことしか出来なかった・・・

アメリカから母へ、手紙やプレゼントを贈ると、母からはFAXでレターが返ってくる。
唯一、母の書いたその文字が、母の病気の進行を知る手段となっていた。
母の病気は確実に進行し、「ありがとう」の一言を書くだけでも、どれほど苦労をしているか、どれほど悔しい思いをしているかが読み取れた。
でも私には、母の気持ちの一割ほども量り知ることは出来てはいないであろう・・・
早く日本に帰らねば・・・・・  でも… 帰りたくない・・・・・   と、・・・・・
結局私は、我が身が一番・・・ 大恩のある親よりも、自分のことしか愛することが出来ないのだ・・・・・

2003年 正月。
アメリカから帰国して母の元へ。
母は、穏やかな笑顔で私たち夫婦を迎えてくれた。
しかし、渡米していた二年半で、母の病状はかなり進行をしていた。
もう歩くことは出来なかった。 赤ちゃんのように這い這いをしながらの移動。
言葉も上手くしゃべれない。 ゆっくり、何度も繰り返し聞き取る。
もう、一人暮らしをするのは明らかに限界であると見て取れた・・・・・
これから母の介護をどうするかが、私の一番の悩みとなった。

帰国してから二週間が過ぎた日の朝、繋がったばかりの電話が鳴った。
親戚の叔母から、「母が救急車で運ばれた」との連絡であった。
昨夜、母はトイレまでは這い這いをしながらも行くことが出来たが、便座に腰掛けようとしたところでバランスを崩し倒れこんだまま体に全く力が入らず、今朝、祖母が発見するまで10時間近くも、トイレでうつ伏せた状態で倒れていたそうだ。
意識はちゃんとあったものの、倒れた時の開脚状態のまま、氷点下に近い気温の中を一晩中、尿で濡れたパジャマ一枚で過ごした為、股関節の筋を痛めて肉離れをおこし、肺炎となって高熱を出していた。
私のせいだ!
私が母のことを後回しにして、グズグズとしていたからだ…
この時の後悔を打ち消したくて、私はこの後二ヵ月半、毎日病院へと通った。

この頃の生活は、車を一台レンタルして、朝は夫を会社まで送って行き、そのまま通勤ラッシュの中を二時間かけて母の病院へ行き、再び帰宅ラッシュの中を二時間、夫を会社まで迎えに行って、帰宅後は、アメリカから届いた引越し荷物の処理に深夜まで費やした。
渡米前も同じような状態だったが、帰国後の今の方が精神的にはきつかった。
母の入院も一ヶ月半が過ぎた頃には、病院側から退院勧告を言い渡された。
母は、病気でありながら病院にはいられない。
なぜならば、母の病気は、治す薬も、治療法もないから、病院にいる必要がないのだと言われた。
「そんな患者はとっとと出て行ってくれ!」というのが国の、政治の言い分である。
しかし、自力で起き上がることすら不可能となってしまった母を一人暮らしに戻すわけにはいかないし、ダンボールだらけの我が家で介護をするにしても、義両親の手前、そう上手くはいかない。
障害者施設も、特養も、長期療養型病床すら、数百人待ち・何十年待ちかであって、さしあたって、今、どうしたらいいのかが五里霧中であった。
とりあえず、寝る間も惜しんで日本の介護実情や介護保険法を調べ、空いた時間には手当たり次第に病院や施設などを回って直談判した。
これに一ヶ月ほど費やしたが、偶然にも私の住む街に老人保健施設が新設され、そこが三ヶ月間の約束で母をあずかってくれることに決まった。

四月、満開の桜が咲く中、母は初めて、生まれ育った街を離れて、老健へと入所した。

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母の命日 [心]

今日は母の命日である。

母の魂は、今どこにいるのだろうかと、時々思うことがある。

私が仏教というものに興味をいだき、縁あって、初めて私に仏教のイロハを教えてくれたM沢氏には、
「人は、この肉体の命が尽きたなら、必ず地獄に堕ちると釈尊は説いておられる。
この一大事を解決できた者のみ、弥陀の本願力で極楽往生できるのだが・・・
残念だが、君のお母さんは仏法も聞いておられなかったし、宿善も積んでこなかったので、この世の自業苦(じごく)からあの世の地獄へと堕ちるしかない身であった」
と言われた。
すごいショックだった・・・・・
日本神話や口伝では、人間死ねば苦しみから解放されて、肉体から抜け出た魂は“仏”と呼称され、あの世で幸せに生きられるのだと幼い頃より聞いて育ち、これに何の根拠がなくとも、そう信じていたからこそ、息絶えた母にむかって、「楽になってよかったね、安らかに、そしてゆっくり休んでね」と声をかけたのに・・・・・
病床で苦しみぬいた挙句にこの世を去った母が、この世の苦しみとは比べものにならない程の大苦の世界に堕ちたのだと聞かされて、私は当然のことながらひどく反発をした。
しかし、何の根拠も無い“常識と言う名の言い伝え”など、M沢氏が引き出しされた『経典』の前に、全く対し得るものではなかった・・・・・

しかし、それから一年の後。 
半年ほど前に、尊いご縁によって出会ったM岡先生は、私に、
「あなたのお母さんは極楽浄土より、還相回向であなたを済度する為にこの世にお出ましになられた方かもしれませんよ。
現にあなたは、あなたのお母さんが自らの命と引き換えに、あなたを仏教へと導かれて、今ここにいるではありませんか。
真実を知りたければ、まず、あなたが仏の身となることが先決ですよ。
それがあなたのお母さんの一番の望みであり、このような尊いお手回しをしてくださった阿弥陀様に対する、唯一のご恩返しなのですから」
と言って下さった。
暗く冷たい氷の部屋に、暖かいろうそくの灯火を差し出されたようだった。

だから私は時々思う。
母は、今、どこで何をしているのだろうと。
時には花となり、時には虫となって、幾度となく姿を変えながら私の前に現れて、「早く聞き開きなさい。早く受け取りなさい」と導いて下さっているのかな?
それとも、弟や妹のもとへ下りて、仏法へと導いて下さっているのかな?
それとも・・・・・ もしかしたら地獄で・・・・・ なんて、

今日は母の命日だというのに、私は墓参りにも行かず、御仏壇にも手を合わせず、今生事に追われながら自分勝手に今日の日を過ごした。
こんな自分を反省することも出来ず、自分に対しての言い訳ばかりを並び立てている、とことん腐っている私・・・・・
こんな私だからこそ、救わずにはおれんのだと言ってくださる阿弥陀様の御心に、そっぽを向くことしかできない私がここにいる。

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義母は善知識 [心]

義母とはよく仏法の話しをする。
義母は浄土真宗の家に生まれて育ち、浄土真宗の家に嫁いで、現在も本家の嫁として浄土真宗という名のもとに先祖を敬っている。
しかし、浄土真宗が何なのか、はたまた仏教とは何なのかは全く知らずにいた。
この点では、仏教のブの字も知らなかった私と何も変わりはない。
私は、私の母親の死をきっかけにして、導かれるように、と言えば聞こえはいいが、ただ成り行きで浄土真宗へとたどり着いた。
元来、中途半端なことが嫌いで、知識欲旺盛な性分ということもあって、それをきっかけに仏教とは何ぞやということに興味を持ち始めて今に至っている。
しかし、仏教と共に過ごしたこの1,2年を振り返っただけでも、数々の御慈悲・ご縁を頂いたことに頭の下がる思いであるが、心底、頭の下がっていないのが本当の私の相(すがた)である、という御意見に遇うまでにお育て頂いたのは実感としてある。

そんな私の影響で、義母も仏教に興味を持つようになった。
ところが義母は、仏教は道徳の教えであって、今生を心豊かに過ごす為の手段であるという捉え方でしか仏教を聞く事が出来ずにいる。

仏教は三世因果を貫く唯一真実の教えであり、今、私が“私”と思っている私自身も、実は無始より迷いに迷ってきた魂の、ホンの一瞬の仮の姿でしかないと私は聞かせてもらっている。
しかし、この世のことしか知らない・信じられない私は、その一瞬の仮の姿こそが自分のすべてであるという錯覚から抜け出ることが出来ずにいる。
だから私はこの肉体を着飾って、きれいに見られたい、少しでも若く見せたい、人から好い人だと言われたい、尊敬されたい、などということに一生懸命になっているのだ。
そう、 この自己満足をいかに充実させ、持続させるかが唯一の使命のように思って生きているのが私の相(すがた)なのである。
義母も、私も、結局は同じであるのだが、少しだけ違うとするならば、
こんな私にむかって、
「人間に生まれさせて頂いた奇跡を喜びなさい。
そして、人間として生きているからこそ獲られる永遠の幸せを、この弥陀より、早く早く受け取って下さい」
と言って下さっている阿弥陀様と、その教え、仏教に出遇わせて頂いたこの奇跡を、偶然と捉えて聞き流すか、必然と捉えて頂戴できるかの、それぞれの都合、思いの違いでしかないと私は思う。

義母は、仏法なんかわざわざ聞きに行くものじゃないと言う。
法座にマメに通い聴聞をしている私を、馬鹿にさえすることもある。
それなのに、法座から帰ってきた私に、「どんなことを聞いて来たの?」と聞きたがる。
だからといって、私の話しを素直に聞ける義母ではない。
義母は、自らが自慢をするほどの超頑固者である。
自分が見たもの、信じたものでなければ決して信じようとしないし、自分の経験した世界だけがこの世のすべてだと思い計らうことしかできないでいる。
なので、どんな話しも、聞きたがる割にはほとんどすべての事柄に反発をする。
そんな義母を、「わからず屋! 話すだけ時間の無駄!」と疎ましくさえ思ったこともあった。
しかしそれは過去のこと。

私は義母に、御法座で聞いてきた御法の受け売りをしながら、こんな自分に気付かせて頂いた。
義母に聴聞してきた内容を話すことで、他人事ではなく、自分のこととして繰り返し御法を確認させて頂けている。
また、義母と仏法談議をすることで、私自身の聴聞の聞き誤りを、義母の言葉を通して聞かせて頂けている。
それに、家庭の中で仏法を語れるというのは、まこと、私は幸せ者である。
そして何よりも義母は、私が知らない私の心を映し出してくれる“法の鏡”のような存在であるということ。

「仏教では、死んだら地獄へ堕ちるという一大事の解決、これ一つを説いているんだよ」と言っても、
義母は、「後生なんてないよ! 人間死んだら終わりなの! 死んでからの話しをしたってしょうがない!」と言う。
また、「誰もが死ぬのは当たり前! みんな一緒に地獄に堕ちるんなら怖くないじゃん!」ともいう。
どうしたって義母の考えを変えることは不可能であった。
その理由を自分なりに考えてみると・・・・・
私も義母と同じであることに気が付いた。
私は、知識や言葉では御文を口にしながら、えらそうに仏法を伝えている気になっているが、この私自身、心の底から死んだら地獄だなんて思えないし、地獄と聞いても、怖いとも思えない、そんな私がここにいる。
私は、義母の頑固さを通して、そんな私自身に気付かせて頂くことができた。
それに、私が何を言っても、どんなに説明しても、自分の考えを変えようとはしない義母に、「どうにかわかってほしい」という思う私の気持ちは、そのまんま、阿弥陀様が、この私に言って下さっている言葉なんだと今は理解している。

私は今まで、義母を導こうと自惚れていたが、実は私が義母に導かれていのだ。
こうして義母の嫁になれたことも、すべては阿弥陀様のお手回しであった。南無阿弥陀仏
私はなんと深いご縁を賜ったものか・・・・・
それなのに、いつまでたっても頭の下がらん私がここにいる・・・・・

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今、まさに堕ちている私 [心]

前日記述した夢の話しを、御同行の一人に報告した。
彼女は優しい言葉で、端的に私の行く道を示して下さる善知識であり、私の憧れの人である。
その御同行から頂いた言葉が、私の心に暖かく突き刺さった。

阿弥陀様は24時間、私に付きっきりで、私と一緒に地獄の果てまでもついて来て下さるという。
阿弥陀様は十劫の昔から、ずっとずっと私一人にめがけて、呼び尽め、叫び尽め。
私が阿弥陀様のことを思う時も、思わん時も、寝ている間でも、ずっとず~っと呼び続けて下さっているというに、私は「知らん」とばかりに全く気付かない。
仏様の目から見た私は、今まさに地獄へと真っ逆さまに堕ち続けているとのご意見。
この世の命、次の一息が吸えずば(吐けずば)、立待ちに地獄の底へと到達する。
私は私が造った業で、いつ、どんな死に方をするかわからないけど、そうなってからでは、もう手遅れなのだ。
だから、「今」「ここで」「私が」聞かせて頂くのだ、自分の口から出てくださる「なまんだぶつ」を!
どうしたらも、こうしたらも、言っておる場合ではない!
どうにも出来ない、何にも出来ない、ただ堕ちてゆくしかない私なのだから。

そんな私の口を通して「なまんだぶつ」が飛び出て下さったんじゃないか!
乾いたお念仏、味気の無いお念仏、心の伴わないお念仏、、、、、
そんなのは全部自分の思い。
お念仏に「いいお念仏」も「悪いお念仏」もない!
「南無阿弥陀仏」のお念仏は、阿弥陀様のものだもの、この私が良し・悪しと沙汰をするものでは決してない!
私がどう思おうと、この私の口から飛び出して下さったお念仏を、この私の耳で聞かせて頂ける身に、既になっているじゃない。
そして、この事実を何よりも阿弥陀様が一番喜んで下さっているじゃないか!
私が満足する為のお念仏じゃない。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀様の願いであり、阿弥陀様の御心そのものなのだから。
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夢の御法 [心]

私はよく夢を見る。
ほとんどの夢は目覚めてすぐに忘れてしまうが、一晩で何種類かの夢を見る。
今朝方の夢も最後の場面しか覚えてはいないが・・・
どんよりと曇った空の下、私は見知らぬ山の中腹にいた。
その山の頂を見上げたその時、山肌が不自然に削りえぐられるように崩落を始めた。
それを見て、あわてて逃げ出そうとする私と、何故に山が崩れてゆくのかと冷静に考えている私と、もうすぐ目が覚めると客観的に見ている私がいた。
どの私も私自身である。
私というヤツは、実にバラエティーに富んでいる。
私が私と思っている私もいれば、私の知らない私もたくさんいる。
そんなたくさんの私が、あ~だ、こ~だと心の中で各々に思いを述べ合って、定まることがないのだから、“私の思い”というヤツは、まったくあてにも頼りにもならない。
心コロコロ♪心コロ♪合わせてコロコロ♪心コロ♪
 
夢と言えば、最近、忘れられない夢を見た。
ひと月ほど前、11月30日に見た夢である。
実家?の母の部屋で、一人、テレビを見ている私。
隣の居間にはアメリカに嫁いだはずの妹がいて、キッチンでは他界したはずの母が夕食の支度をしていた。
私は床に座って何かのテレビ番組を見ていたのだが、その番組の中である言葉を聞いた途端に、
「あ゛ぁぁ、このことだったのか~! そ~だったのか~!」と、かつて無い衝撃を受けた。
と同時に、座っていた座布団や床が砂地獄のように崩れはじめて、私は「ギャー!!!」と叫びながら真っ暗な地底に吸い込まれて行った。
暗黒で冷たい底なしの闇の中を真っ逆さまに堕ちてゆく私の周りで、何かが私と共に堕ちている。
底知れない恐怖の中で、かすかな輝きを放つ、その、私と共に堕ち行くものは何かと目を凝らして見たならば、それはガタガタに削られた、大小さまざまな、「南」・「無」・「阿」・「弥」・「陀」・「仏」 という六つの文字であった。
客観的にこの夢を見ている私は、「今こそ『南無阿弥陀仏』と称えよ!!」と叫ぶのだが、堕ち行く私は、「ギャーーー!」しか言わない。
私の悲鳴を聞いて、妹が隣の部屋から駆け寄り私の名前を何度も呼んだ。
その声に闇は徐々にかき消され、私の意識は元の部屋のテレビの前の私へと戻ったが、それでもまだ目を剥きながら悲鳴は治まらない。
そんな自分の悲鳴で目が覚めた。
まだ真夜中であった。
私は布団にうずくまりながら、今見た夢を思い返してみたが、覚えているのはここまで・・・
どんな言葉をきっかけにして足元が崩れていったのかも思い出せないし、何がわかって「そ~だったのか!」と納得したかも思い出せない。
でも、私は「死んだら堕ち行く身」なのではなく、「まさに今、堕ちている身」なのだということと、
そして、「南無阿弥陀仏」も私と共に堕ちて下さっているのだということは鮮明に覚えている。
それに、南無阿弥陀仏の御いわれを聞かせてもらっていながらも称えられなかったのは、「知った、知った」と知識が知っていただけで、私は何もわかっていなかった・・・・・
「南無阿弥陀仏」を疑って、自力を頼っている私の姿がそこにあった・・・・・
布団の中で、心の添わない乾いたお念仏を称えながら、私は再び眠りに落ちていった。

「いつだって、何をしていたって、阿弥陀様は、この私一人のために24時間かかりっきり。
乾いたお念仏でも、血の通わないお念仏でも、それは私のコロコロ心がそう思っているだけのこと。
南無阿弥陀仏がこの私の口から出ることの奇跡に、自分の思いは関係ないよ。」
と、YM支部長に教えていただきました。
南無阿弥陀仏

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年賀状 [心]

S先生から頂いた年賀状に一言、「急接近という言葉、ピッタリやね」とあった。
?・・・・・ 今日一日考えてみたけど、何が接近してくるのかわからない・・・・・[ふらふら]
仏師というのは実に不思議なもので、私以上に私のことをよくご存知で、また、私が何も言わなくても今の私に沿った御法をお話し下さる。
時にはチンプンカンプンな御法もあるが、それは私の側の問題であって、数日後には自らの体験によって、「あぁ、このことだ! これを先生はお説き下さったのだ」と、後日、明らかにされる御法もある。
阿弥陀様の御声は、寺で聞けるもんじゃない。
この私の、今の生活の中で聞かせて頂くのだということがよくわかる。

私は、御法座でよく泣く。
もともとが泣き虫ということもあるが、泣くまいと思っていても涙があふれる。
“泣く”といえば、嬉し泣き、悔し泣き、悲し泣きなど種々あるが、聴聞によって流す涙は、今生事の涙とは違って、ミックスジュースみたいに一種類に絞れない。
御法座に来させて頂けたご縁に感謝する喜びの涙。
御法を自力の計らいによって素直に受け取ることのできない悔し涙。
何もわからん、何もできん、ど~にもならん自分を哀れむ悲し泣き。
こんな私に御慈悲をかけて下さる阿弥陀様に対するご恩の涙など・・・
そんな色々な思いが一粒の涙となって瞳から、心からあふれ出す。
だから、きち~んと化粧をして出かけても、法座が終わる頃には、ほぼスッピンになってしまう…
由々しき問題である。

そう言えば、年賀状を頂く枚数が、年々に減ってきている。
E-メール年賀が増えているのも事実だが、それでもやはり出した数以上に頂くことはなくなった。
年賀状を出す時、この人は出そうか出すまいかと悩んだ挙句に出すことが多いが、年に一度の年賀状だけの御付き合いという関係もいかがなものか・・・
そんな時には、やはり無常というものを強く感じる。
今、一番の親友といえる人とも、いつまでもこの状態が続くということは決して無い。
もちろんこれは、夫婦にしても親子にしても同じことが言える。
今、私がすがり付いているすべてのものは、いつかは消え去ってしまう。
私が先か、相手が先か、そんなことはわからないが、どんなに愛情を注いでも、金銭を費やしても、この世に永遠というものは存在しない。
これは他人事ではない。
この私自身もである!
私が私のことをどんなに愛したとても、お金をかけて着飾ったとても、心を磨くといって努力慢心したとしても、いつかは私もこの肉体に、そしてこの心に裏切られる時が必ず来るのだ。
何といっても日本は死ねば火葬が義務付けられている。
私もいつかは焼かれて灰になる身だ。
他人の心に私の思い出を植えつけたとしても、その人もいつかは灰になる身だ。
人間として生きた証を残すのだと言って、たとえ名前や子孫をこの世に残せたとしても、私という人間は消えてなくなってしまうのだ。
死んでしまえば、自己満足も喜びもむなしく消滅してしまう。
それなのに、「だから生きている間は精一杯楽しむのだ」と人は言うが、本当にそれで幸せなのだろうか?
一時的な幸せを追い求めては裏切られ、幸せと不幸の追いかけっこをしながら、自分はまだ死なないとたかをくくっていて、現在の欲を満たすことに一生懸命になっているだけで、それがどうして幸せだと言えよう・・・
追い求めるものが間違っている。

S先生は、私が求めているものは、捨てモノだと教えて下さいました。
ではいったい何が急接近なのでしょうか?
うぅぅぅん・・・ まさか信心なんて事は~[パンチ]
[むかっ(怒り)]また自惚れ心が暴発しそうです。

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2009年 修正会 (つづき) [仏法]

御讃題は『執持鈔』の、〔平生の時、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって娑婆の終わり臨終と思うべし〕である。
覚如上人は、親鸞聖人の御教えは “平生業成の教え”であると要約して下さった。
往生が定まるのは、臨終間際でも、死んでからでもない、平生の今である。
聖道門・浄土門を問わず、お釈迦様をはじめとしてどの仏様方も平生の時に悟りを開かれたのであり、肉体を失ってから往生浄土の約束をされた仏様は一人としておられない。
生きているからこそ善知識とのご縁を頂けるのであり、お釈迦様より受け継がれた言葉によって、阿弥陀様のご苦労と、唯除された五逆・誹謗正法の私をお聞かせに預かれるのである。
これを聞く一つで阿弥陀様のお救いに預かったその時こそ、この世の臨終であり、これこそが人間として生まれさせて頂いた、今ここで果さなければならない大仕事であるとお示し下さっている。

一休禅師は元旦に、杖の先に髑髏をくっつけたものを振りかざしながら街中を、「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と大声で歌って歩かれたそうな。
生まれた時を旅立ちとするならば、一里ごと(一年ごと)に塚(新年)を通り過ぎて、旅の終わり(わが身の死)へと近づいていくことを、めでたがっている人もあれば、そうでない人もあると歌われたものである。
一休禅師の真意はわからないが、「明けましておめでとう」と言われても、「何がおめでたいの?」と問われると答えに詰まってしまう。
大半の人は、年をとることを好んではいないだろう。
現に誕生日など、高齢になるほど「あめでとう」といわれることに抵抗を感じてしまう。
ましてや、日々、一時一時と寿命は縮まってゆくのだ。
時には死にたくなることもあったけれど、本気で、自分の為に死のうとは思えなかった。
つまり私の腹底は死にたくないのだ。
一休禅師が言われたように、冥土の旅の一里塚は、誠にもってめでたくない。
では、めでたいと思えるのはどんな人だろう?
自殺志願者? ・・・イヤ、違う。
そもそも自殺を考えている時というのは、幸せに生きたいからこそ不幸である現実を呪って自己逃避に夢を馳せているに過ぎない。
本心は生きていたいのだ。 不幸でありたくないのだ。
思うに、冥土の旅の一里塚を心の底からめでたいと思っている人などいないのではないか。
日本人的考えのもと何の意識も無く、ただ慣わし・風習にのっかているだけ、人と足並みをそろえていた方が楽とばかり「めでたい、めでたい」と連呼しているが、少しはちゃんと考えたいものだ。

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2009年 修正会 “宿善”と“善知識” [仏法]

今日は、久しぶりに独身時代さながらのお正月を過ごすことができた。
初参詣となった修正会(しゅしょうえ)の御法座。
こうして元旦早々から仏法を聴聞させて頂けるとは、仏様のお導きに唯々感謝である。
昨夜の義父や夫との諍いを縁にして、今日、こうして御法に出会わせていただけたこと、本当に阿弥陀様のお手回しでありました。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・・・

御讃題は『執持鈔』より、〔平生の時、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって娑婆の終わり臨終と思うべし〕であった。

まず、蓮如上人の御文 『五重の義』 〔一つには宿善、 二つには善知識、 三つには光明、 四つには信心、 五つには名号。 この五重の義、成就せずは往生はかなうべからず〕よりお話にはいられた。
一つ目の“宿善”については学派において、自力による宿善開発か、他力による宿善の開発かが論じられているが、蓮如上人は御文にもハッキリとお示し下さっている。
平生に弥陀如来の本願の、われらを助けたまうことわりを聞き開くことは、宿善の開発によるが故なりと心得て後は、 わが力にてはなかりけり
自力でこしらえた宿善なんぞ、何一つとして救いの足しにはならないと。
聞書には、〔宿善めでたしというはわろし。 御一流には宿善有り難しと申すがよくそうろう〕と仰っている。
「宿善めでたし」と、いかにも自力で得たかのようにめでたいというのは間違っている。
浄土真宗の宿善開発というのは、ただただ阿弥陀様より差し向けられた宿善を、有り難しと頂戴する他力廻向であるぞと教えて下さっている。

そもそも私は、無始曠劫より悪業を造り続けて迷いに迷ってきた極悪人である。
この悪凡夫が「そうは思えない」と否定したところで、仏様の目からご覧なった私というヤツは、「身・口・意で悪を造り続け、善のカケラも出来ないが故に流転輪廻を繰り返しているのだ」とお釈迦様は教えて下さっている。
私は昨夜、義父は自分中心主義者で、自己愛が激しく、自分は常に正しいと思って反省もしない自惚れ屋であり、強欲者であるが故に、心の中は常に他人をののしり、口には愚痴しか出てこず、その思いのままに行動していると非難した。
でも、私も根は同じではないか?
人はみな、意識するしないにかかわらず、誰よりも何よりも自分が一番大好きで、一番大切で、自分の欲から逃れられないでいる悪凡夫ではないか!
それを外面に表す人(義父)と、内面に隠す人(私)との違いだけなのだ。

仏教は因果の道理を説く。
私が一つの命を奪ったならば、この私の命をもってその罪を償わねばならない。
しかし私は、この私が生きる為、この命一つを生かす為に、数限りない命を食い尽くすなどして、無数の命の犠牲の上にあぐらをかきながらも、罪の意識のカケラも無い、そんなヤツである。
そう聞かせてもらっている。
アレもコレもいつだって、まったくもって自分の罪は棚上げ状態だ!
義父のことを責められたもんじゃない!!
私の方こそ、自分は正しいと自惚れ、義父の見下していたではないか!!!
そう気付かせてもらっても、素直に謝ることもできないでいる・・・・・

そんなヤツが、どうして宿善など積めようか?!
何を寝ぼけて、自力の善が救いの足しになると言えるのか?!
お釈迦様も、親鸞様も、蓮如様も、みな口をそろえて「自力を捨てよ、弥陀頼め」と言われているのに、私は何様のつもりで法も願力も善知識も踏みにじるのか・・・・・

そんな私だからこそ仏願の生起がたったのだと師は説く。

二つ目の“善知識” について蓮如上人は、〔善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよと言える使なり〕とお示しになった。
では、善知識とは誰のことか?
「三世を貫き、阿弥陀様ただお一人が、この悪凡夫を救うとお誓い下さり、その為のお力を修得して下さったのだ」とお示し下さったのがお釈迦様であられる。
もしお釈迦様がこの世に興出されなかったら、私は私の後生も、そこから出離する法も知らずに、迷い苦しみ続けたであろう。
阿弥陀様のお手回しの下に、お釈迦様を始めとする善知識方があったなればこそである。
南無阿弥陀仏。
しかし、ここで聞き誤ってはならないのが、どんなにお釈迦様を頼っても、いくら師や先達の同行にすがり付いたとても、〔善知識の能(役目)といふは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人をすすむべきばかりなり〕とお示しのように、善知識のお役目は、「唯除されているこの悪凡夫を救って下されるのは、阿弥陀如来様だけですよ」と、道を示してくれることであり、あくまで救いは阿弥陀様のお仕事である。
「仏法は一人しのぎだ」と言って、すがり付こうとする私の手を握っては払いのけてきた幾人かの師や同行に、恨み言しかいえない私がそこにいた。
しかし、この御法話で、
「あぁ、私はなんと素晴らしい善知識に恵まれていたことか」と改めて思い知らされたと共に、それでもなを「孤独は怖い」と泣きながら善知識にすがり付こうしている私がいる。
蓮如様が、〔宿善開発して善知識にあわずば、往生はかなうべからざるなり。 しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大きなる誤りなりと心得べきものなり〕とお示し下さっている通り、私が頼るべきは、私を救って下さる力をおもちの阿弥陀様ただお一人である。
にもかかわらず私は、阿弥陀様が感じられないと言っては、手に届く善知識を追っかけ回している。
まこと、浅ましい限りである。

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一人正月 [随筆日記]

昨日、ビッチリと書いたブログが、「投稿(アクセス)に失敗しました」の一言で、全部消えてしまい、すごいショック・・・・・
すっかり書く気がすっかり失せてしまった・・・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

しかし、今日もよい一日だった。[るんるん]
夫は一人で実家に帰って、今頃、親戚一同よろしくやっているだろう。
私は一人気楽に、特上のお寿司をとって、ビールで一人正月を満喫している。
うん♪、なかなかいいもんだ![揺れるハート]

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複雑な年越し [心]

大晦日の夜に、義父と大喧嘩になり、一人帰宅した。
きっかけは、プロレスを視聴したい義父と、紅白を視聴したい義母のテレビのリモコンの奪い合いに、私が義父をとがめた事が発端となった。
大晦日ということで久しぶりに家族が集まって団らんという場面でも、義父はいつも通りに自分中心に事を運ぼうとする。
そして、チョットでも思い通りにならなければ愚痴愚痴と言い出す。

義父は何もしない人である。
仕事も二十歳の頃、義母と結婚をしてすぐに辞めてしまったらしい。
以来、義母は一人で家計を支えるため、兼業農家をしながら町工場を定年まで勤め上げた。
一方、義父の生活は、起床して、朝食を食べて、テレビを見ながら朝寝して、昼食と酒を飲んだら昼寝して、テレビをみながら夕食と晩酌の後に就寝するという、今時まれに見るダメダメオヤジである。
そんな義父との生活に耐えられなかったのか、それとも大姑・小姑との同居に嫌気がさしたのかは定かではないが、専業主婦であった夫の初婚の相手(前妻)は、結婚一ヶ月もたたずに実家に帰ってしまったらしい。
そんな家庭のバツイチ男との結婚に、私の両親がこの結婚に猛反対したのは言うまでもないが、私自身はけっこう楽天的に考えていた。
しかし、やはりそんな義父とは上手くいくはずもなく、目に余る行動を時折注意する以外は、ほとんど無視して過ごすことが多かった。
今夜も無視し続ければよかったのかもしれない・・・・・。

義父は、愚痴しか言わない人である。
今夜も、夕食に出したかき揚げのサイズが大きすぎるとか、鍋から取り分けた牡蠣の数が義母より少ないとか、湯飲みが熱くて持てないなどの、いつも通りの小言には耳をかすこともなかったのだが・・・・・、
プロレスを視聴したい義父がテレビのリモコンを占有していたことを、
義母が、「他のみんなはプロレスなど見たくないと言っているのだから」と言って紅白にチャンネルを変えてしまうと、
義父は、こいつは歌が下手だとか、ブスだ、嫌いだ、気に入らないなどと、グチグチ、愚痴愚痴言い続けたので、私もたまりかねて、
「お義父さん、人の悪口やマイナス面ばかり口に出していると、自分も周りの人も不幸になっちゃうよ」
と言ったのだが、それが義父には気に入らなかった。
「黙れ!お前はそうやっていつもオレをバカにする!」と、顔を真っ赤にしてすごい剣幕で怒り始めたのだ。
私は冷静なまま、隣に座っていた夫に、「私は何もバカになんかしてないよね?!」
と、同意を求めたのだが、夫は、
「ま~ま~、二人とも落ち着いて。 なっちゃんもお父さんを怒らすこと言うなよ!」と言われてしまった。
これには私もブチッときたので、夫に対して一言苦言を呈した。
その一言で義父は、息子(夫)は自分の味方だと思ったらしく、ここぞとばかりに矢継ぎ早に訳のわからない悪態を私に投げつけるのでラチがあかず、私は、「帰る」と言って席を立った。
そして夫は一言、「気をつけて帰れな」と言った。
その一言が、とても とても、何よりも悲しかった・・・・・

夫は本家の長男である為、本来なら私たちも義両親との同居が筋であろうが、この結婚を猛反対した私の両親がこの結婚の為の条件をいくつか出した。
その一つに、私がご近所さんから「後妻さん」などと後ろ指を指されないような場所に新居を建てる為の土地を用意すること(つまり別居が条件)というのがあり、その為私たち夫婦は、夫の実家の五軒隣にマイホームを構えることが出来た。
しかし、近いといっても実家は実家、自宅は自宅である。
妻の私が心を痛めて「帰る」と言っているのに、夫は、自宅よりも実家に残ることを選択し、妻よりも父親を選んだという現実が悔しかった。 いつものことではあるけれど・・・・・ それでも、とても悲しかった・・・・・

いろんな気持ちが交錯する。
あぁ、年が明けた。
2009年が始まったんだ・・・・・。






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