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応仁寺 ・ 蓮如上人 と 如光さん [随筆日記]

西三河にある、真水と海水が混じり合う気水湖・油淵(あぶらがふち)は、400年ほど前までは三河湾の入り江であった。

ある日、この海岸に4,5歳の少年が浮き藻に乗って漂着したと伝えられているが、その少年が後に蓮如上人のお弟子となられ、三河の地に浄土真宗を広められた如光上人とよばれるその人である。
少年は、この地の武士であった杉浦四郎左衛門義勝によって育てられたが、成長するにつれ武士ではなく僧侶になりたいと言い出すようになった。
杉浦氏はこの願いを受けて少年を佐々木・上宮寺の住持である如全に預けて、この時より如光と号する。

真宗の教えを請うために京都に上られた如光さんは、蓮如上人のお弟子となられて念仏者としての才を発揮されるが、時は応仁の乱の最中にあって、1465年に京都の大谷本願寺が比叡山の僧兵に襲撃・破壊された時、如光さんが比叡山と本願寺の間に立って三河から取り寄せた大枚で金銭的解決をはかり比叡山の衆徒黙らせた。 
このような時代背景の中、比叡山による圧迫を避けるために如光さんは蓮如上人を三河の国にてかくまうこと提起し、1468年に蓮如上人がこの地を訪れることになった。
三河に移られた蓮如上人は、如光さんの実家である杉浦の屋敷を拠点に浄土真宗の布教をなされ、ここ油淵より船で川を上っては三河の国で100もの道場を開かれた。
この地に浄土真宗の教えが根付いたのも、三河の真宗寺院を拡大・統率なされた如光さんのお働きがあったからこそである。

この時より杉浦の屋敷は、唯願寺(栄願寺)と名付け、一宇を建立して「松光山・応仁寺」と称した。
油淵園地に立てられている‘油淵の碑’ には、「人々は、この池に龍燈を捧げて蓮如上人を守り、その龍燈のもとに人々は集まって、応仁寺は念仏読経のたえることがなかったので、ここを油淵と呼ぶようになった。」と記されている。

三河の地で三年ほどの布教をなされた蓮如上人が、松光山・応仁寺をあとに京都へ戻られる時、「またいつの日にか戻ってくるだろう…」、と言い残されたことから、以来、この寺は住職を置かずに、蓮如上人が戻られるその日を待ち続け、現在も地元の門徒衆によって大切に護持されている、無住職・無檀家のお寺である。

昭和20年の三河地震で本堂は倒壊したものの、三河門徒らによって戦後に再建された建物は、随所に傷みは見られるが、浄土真宗を守ってきた門徒の心の歴史を感じられる、心あたたまるお寺であった。

ただ、無住職の寺ゆえに、本堂の扉が開かれることは年に数回しかないが、油淵遊園で花菖蒲祭りが開催されている週末は、本堂を開放し、門徒らが交代で案内をしてくれる。

2916126油淵遊園の駐車場西の階段を上がったところにある応仁寺の本堂内には、市有形文化財に指定された蓮如上人寿像があり、また、境内の本堂に向かって右手にある小さくて無機質な建物の中には、地元の門徒である岩月藤ヱ門氏が紙材で制作し寄贈された‘お釈迦さまの五劫思惟の像’がある。

地元ではこの寺を「応仁寺」と呼称する人は少なく、この寺を「蓮如さん」と呼んで親しんでいるところにも、何かとてもあたたかいものを感じた。

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田中淳

はじめまして。
私の妻の在所が碧南市にあり、母方が杉浦姓であることから、如光さんと何か関わりがあるのではないかと調べていましたら、このブログにたどり着きました。とても興味深く拝見いたしました。
ただ、油淵のある碧南、安城は西三河では?
by 田中淳 (2015-11-28 11:52) 

おなつ

田中淳さま
そうですね(^^;)、碧南は西三河です。
今まで気が付きませんでした、どうもありがとうございます!
by おなつ (2015-11-28 23:23) 

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