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明日は来るか…? [随筆日記]

今日は午前中に予定していたことが中止になってしまったので、この為、後のスケジュールの全てが済し崩しに影響して、不本意な一日となってしまった。
これも「ボタンの掛け違い」と言うのだろうか・・・

卓上の月別カレンダーを一枚めくって「4月」のページを開き、PCの予定表より詳細を転記しながら来月のスケジュールを確認する。
今月ほどではないが、来月のカレンダーもなかなか忙しそうな色合いに染まった。

カレンダーに予定を書き込みながらいつも思うことがある・・・
私の「明日」は必ず存在する。 「来週」も、「来月」も、「来年」も必ず来ると・・・
この根拠の無い自信は、いったいどこから湧いて来るのだろうか・・・
言葉を裏を返せばストレートに、「私は絶対死なない!」というこの自信・・・。
何故だろう~、何なのだろう~、と思いつつも、これを深く考えたことはない。

だって、私の頭の中には、常に理想の未来が描かれているから・・・。


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携帯に鈴 [随筆日記]

音に敏感な人と そうでない人がいる。
音痴とか、耳が遠いとかではなく、誰にでも気に触る音、嫌いな音があるものだろう。
それが1つ2つだけなら音に鈍感な人と言えるし、それが100以上もある人は音に敏感な人と言えよう。
例えば、エアコンの音やビニール製の買い物袋の音が耳障りでイライラするという人はよく聞くし、外人さんの中には、日本人の麺類をすする音や鼻を啜る音がたまらなくイヤと言うのをよく耳にする。

[るんるん]音楽をやっている人は音に対して敏感に反応してしまう人が多い。
私も以前音楽家(琴奏者)を志していた時、特に演奏会の前などは、ひどく音に敏感になっていて、メロディー(旋律のある音)は極端に遠ざけるようにしていた。

ドラマ「のだめカンタービレ」の中でも、のだめがコンクールに向かうバスの中で、乗り合わせた乗客の携帯着信音「キューピー3分クッキング」のメロディーを耳にしてしまった為に、コンクール本番の演奏中に思わず曲の路線がずれて、「ペトルーシュカ」と「3分クッキングのメロディー」がミックスしてしまったという場面があったが、あの気持ちは、すっっっごくよくわかる!!
集中しよう、集中しようと力めば力むほど雑音が気になって、余分なことばかりを記憶してしまうもの…
そうでなくても音楽家というものは全ての音(ノイズも)を音階で捉えてしまう習性があるので、どうしても敏感になってしまう。

私も音に対しては非常に過敏に反応してしまって、雑音にイラつくことも多々ある。
今日も電車の中で、座っている私の耳横で携帯メールを打っている乗客がいたのだが、彼女は携帯のボタン音をサイレンサーにしていないので文字を打つ度にピピピ…ピピピピピピ…ピピピ…とあわただしく鳴り続けている。
しかも、その携帯のストラップに鈴が付いている為、チリチリ、チリチリという音もする。
しかし当の彼女は全くその音が耳に入っていないようで…、 
でも、私は女性の発する音が気になって気になってイライラが募るばかりであった。
悔しいかな、何も言えずに耐えるしか能の無い私・・・・・

そうそう、話しは少々ずれるが、授業中・会議中・観劇中・聴聞中の人の話し声や雑音、特に子供の声には、全神経を奪われてしまうので非常に苦しい思いをする・・・・・
そんな時は、音に鈍感な人種を羨ましく思う。


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法城寺で初法座 [心]

2672530今日は、浄土真宗のメッカ・三河国のお寺での御法座に参加させて頂いた。

法城寺は、明治30年開基の尼僧院で、清沢満之(きよさわまんし・浄土真宗の僧であり近代宗教哲学者)の影響を受けつつも、浄土宗・鎮西派の正統派寺院であり、現在は、山崎弁榮(やまざきべんえい・浄土宗の僧)上人を慕う住職(僧侶)がこの寺を守っている。
細部まで手入れの行き届いた法城寺は、とてもオープンで、且つ、とても落ち着けるお寺である。

御法話の内容については、まだ手付かずのジグソーパズルのように頭の中でバラバラに分裂している状態なので後日振り返るとして、今日の第一の感想としては、「楽しかった」・・・かな?!
御法座に出て、御法話を聞かせて頂くということは、浄土真宗ではイコール機様(きざま・“私”の値打ち)の追及、言い換えるならば、見たくない私、知りたくない私の実相を聞かせて頂く訳で、決して楽しいものでも心地良いものでもないはずである…。
しかし、なぜか今日は心が楽になった。

支部長さんに提案されて、自分の心を天気に例えて見ていくと、法座に出る前は、今にも雪の降り出しそうなドンヨリとした冷たい曇り模様だったのが、法座が終わってからは、一晩中雪が降り続いた後の晴れた朝のように、大切なものは雪に覆われて見えなくなっているけれど、それでも晴れ晴れとした気分で朝を迎えたような、そんな空模様に心が変わった。

御法座が始まる前までは確かにいつも通りに憂鬱で、スキあらば逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのに…、
今日は何故だろう…、いつも御同行にされていた質問を、自分で自分に問うていた。
「なっちゃんは、わかってるじゃん!」「なっちゃんに、届いてるじゃん!」
「それなのに、これ以上、何が欲しいの?」 って・・・・・
それからただ漠然と、「私なんだ…、他の誰でもない、煩悩一具の私なんだ…」とも思った・・・・・

御法を聞いた後は、必ず頭の中がグチャグチャになって、何を聞いたかさっぱり覚えていないのだが、不思議なことに時間がたてばたつほど、心にきちんと入ってくる。
なので、今は深く考えずに…、今夜はもう寝よう~[眠い(睡眠)]

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東寺のハトと南無阿弥陀仏 [心]

京都駅から奈良方面の電車に乗っていた時、一緒に乗り合わせた女子高生達の会話に思わず苦笑してしまった。
京都駅を出てすぐの所に、「東寺(とうじ)」という真言宗の寺院があり、車窓からも国宝指定を受けた五重塔を見ることができる。
A子「あっ、 五重の塔だ! 法隆寺じゃない?」
B子「ホントだ~! 法隆寺の五重塔だ~!」
C子「でも法隆寺って奈良じゃなかった? もう奈良に着いたの?」
B子「そんなに早くは着かないでしょ~?!」
A子「法隆寺じゃないなら、京都タワー?」
と、車内でこんな会話を大声でしているので、見かねた乗客の一人が
「あれは東寺の五重の塔ですよ」 と教えてあげたのだが、
A子「へ~ぇ、東大寺にも五重の塔があるんだ~」
B子「えっ? 東大寺?東寺?どっち?」
C子「東寺って言わなかった?!」
A子「あっそ~ぉ、 じゃ~、京都タワーってどこにあるの?」
って …(^.^;)
どこから来て、どこに行くのか知らないけど、とても愉快な女子高生達であった …(^^ゞ

2667598そういえば以前、東寺の境内を歩いていた時のこと…。
歩く私の足元にたくさんのハトが群がり、普段ならばそのまま行き過ぎるところを、その日は一羽のハトに目が止まって思わず立ち止まった。
群がるハトの群れがあちらの方へ飛んで行っても、その一羽のハトだけは私の足元から飛び立とうとはせず、不自由そうに小砂利の中から餌を探しながら私の周りをウロチョロしていた。
そのハトには足首から先の片足が無かった…。
他のハトの食べ残しや、偶然に舞い落ちてくる木の実を貪り食べながら必死で生きているその姿に、私は思わず目を捕らわれてしまった。

哀れだと思った…。
助けてあげたいと思った…。
その時、「南無阿弥陀仏」と口から出てきてハッとした。

「お前が哀れで見ていられない。
どうかこの弥陀にお前を救わせてくれよ」

そう言って阿弥陀様の方から頭を下げて下さってるのだ、と、いつも聞かせてもらっている御法が脳裏によみがえった…
慈悲の大きさは異次元的桁ハズレに違うけれども、私がこのハトを見て、哀れに思い、救ってやりたいとの気持ちを起こして、どうすればよいのかとこれを思案した、この一連の流れこそ「仏願の生起」ではないか・・・・・
私はこのハトと全く同じで、この私にかけられた阿弥陀様の願いなど微塵も知ることなく、今を生きることにただ必死になっている…。
自身を哀れむことがないのは、自身の醜さ、罪深さ、不憫さなどがまるでわかっていないからだ。
私はこの一羽のハトを見て、いつ死ぬともしれない身でありながら、欲望任せに小さな生き甲斐に身を窶している… 
あぁ、かわいそうだ…、聞かせてあげたい…、助けてあげたい…、と思う心そのままが、阿弥陀様の目から見られた私じしんで、このハトと何もかわらないだと思った…
だからと言って何もかわらない…、 わからないものはわからないままに、 ただそう聞かせていただいた。

久々の原稿書き [随筆日記]

昨日、今日と、依頼されていた“インド・ネパール仏跡巡拝の旅”の感想文を書いていた為、BLOGの更新が出来なかった。
原稿書きはひさしぶりで、それも私という人間を知っている人たちが読者だと思うと、緊張してなかなかペンが進まない…。
結局、正直そのままに自分勝手に書きなぐった文章になってしまったので、何度読み返しても小恥ずかしいが、この文章を格好良く飾り立てるこのはもっと大恥ずかしいので、そのまんまの状態で会に提出することにした。

でも、原稿書きは本当に久しぶりだった。
ほぼ毎日BLOGは書いているものの、これは人に読ませる為ではなく、あくまで自分自身の為に書いているのであり、全く類の違うものである。
また、以前頻繁に書いていた原稿も、不特定多数の読者がいることはBLOGと同じだが、しかしBLOGとは対照的に、それは自分の為の文章ではなく、依頼者の期待に添った、読者を飽きさせない為の文章であることを要求された文章であった為、やはり類の異なったものである。

それが今回は、著者も読者も顔見知り・・・・・  それも本音の感想文・・・・・
何を、どう書いていいのがわからずに、初日は1,000字書くだけで、まる一日を要してしまった。
二日目、締切日のことだけを考えてあせりながら書いていたら、以外にも気持ちが吹っ切れて案外早く原稿は埋まっていった。 …が、その途中でハプニング勃発!
旅行中の気持ちがよみがえって来て、涙が溢れ出し、どうしよ~もない自分の心に嗚咽し、別の意味でペンが止まってしまった…
そして、書斎のデスクに置いてあった旅土産に買ったお釈迦様の彫像を胸に抱きしめながら、しばらくの間、涙を流しながら自分自身をただみつめていた。

そして改めて思ったことは、仏跡の巡拝は、時が立つほどにお味わいが深まってくるものだな~ぁと感じた。

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泥中に咲く蓮の花 [仏法]

先週末、インド・ネパール仏跡巡拝TourのMemberとの交歓会をS先生が催してくださり、ひと月ぶりに再会して楽しいおしゃべりと美味しい食事で再び素敵な時間を共有することが出来た。
そして、この交歓会を通してS先生がご自身のBLOGで説いてくださった言葉が、今の私の心に、深く、深く、染み入った。
S先生の言葉をお借りしながら、もう少し自分なりに考えてみようと思う。

今回の旅行では、初めて尽くしの体験の中で本当にたくさんの事を学ばしていただき、良い面も悪い面も、その全てが私にとって実りのあるものだったと自負している。
しかし、S先生に言われて初めて気付いたことがある。
それは、主たる私を取り巻く人たちの存在と、その関わりである。
プラス思考に満足している私の周囲には、マイナスの気持ちを患ってしまった人もいる訳で、私はそれら様々な人たちとの関わり合いの中にいて、そこにこそ凡夫の人間模様が存在している…、
私と接する全てのご縁の中から聞かせてもらえる御法があるのだと読ませていただいた。

最初にS先生は、心(煩悩)について説いてくださっている。
自身の中には、108の貪欲・愼恚・愚痴どころか、84,000もの煩悩が渦巻き、それが縁にふれては幾多の形で現れて来る。
「瞋恚(しんに)」にも、
 忿(ふん・自分の気に入らぬ事に激怒する心。)
 恨(ごん・自分の気に入らぬ人を怨み続ける心。)
 悩(のう・立腹して、人を恨む心。)
 嫉(しつ・自己利益や名聞利養を希求し続け、他者の栄達等によって起こす深い嫉妬心。)
 害(がい・他者を思いやる心が無い状態。)
があり、それをごまかしたり、悩み苦しんだりしているのが私であると…。
「貪欲(とんよく)」だって、
 樫(けん・自己利益を希求し続け財宝に耽着して、人に施す気持ちのないケチ心)
 憍(きょう・自身に自惚れて、驕り、誇り、我欲のままの高飛車な心) 
 覆(ふく・不利益を蒙ることを恐れて、自分の罪を隠す心)
 誑(おう・自己利益や名聞利養を得る為に、様々に謀って徳のある者と見せかける偽りの心)
 諂(てん・自己利益や名聞利養得る為に、他者を騙して媚びへつらい従順を装って操縦する心)
などの心で、妬んだり、ケチったり、騙したり、へつらったりで、時にのぼせあがり(悼挙・たくこ)、時に落ち込み(惛沈・こんじん)、それでいて無慚・無愧(むざん・むぎ)悪いことをしても恥じること無き心…、正しいことを知らない私…、とS先生は教えて下さった。
聞きなれない難しい言葉の意味はよくわからないけど、人には言えない…、自分自身で見るのもおぞましい貪欲・愼恚・愚痴の心が私の中にも確かに存在していて、さも当たり前のようにふんぞり返っているではないか・・・・・
私自身、人のことをトヤカク言える輩ではないのだということを聞かせていただいた。

S先生のお言葉そのままに、
「切り無く、死ぬまで絶えることのない煩悩(身を煩わし心を悩ますもの)が私自身なのだ。
そんな正真正銘のドロ凡夫同士が寄り合って、互いに「我」をぶつけ合いながら、様々に組織を形成している。
そして、縁に触れ、折に触れ、幾多の人間関係に触れては、種々の煩悩が見事に毒花を開花させ、百花繚乱である」
このお言葉を受けて、私の心は少し癒された気がした。

2660296昨日までは、ただ今生事に捕らわれて、大切な人を傷つけるくらいなら支部を抜けた方のがいいのかな~ぁ、これからどう接すればいいんだろう…、なんて悩み、落ち込んで、逃げ腰になっていたけど、そこが問題なんじゃない!!
そこに咲く華…、
S先生が教えて下さった「仏法を聞く心のない私に咲く、他力回向の無根の信」という真実の存在を、私はすっかり見失っていた…。
今生事の些細な苦に、悩み振り回され続けている私というものと、今一度ちゃんと向き合わねばならないと聞かせていただきました。

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“嫌い” は、 嫌い [心]

私は、誰も嫌いになりたくない。 
人を恨んだり…、妬んだり…、 そんなことに心を傾けたくはないのだ。
だからと言って誰からも好かれる自分かと言えばそうではなく、そんな私だからこそ、妬まれ、嫉まれ、嫌われることもある。
今までも、そんな人たちからの嫌がらせやイジメで泣いたことだって数知れずあった。
でも、その人たちに対して私自身が恨み心を起こせば、自身の真っ黒の心に己が傷つき、マイナスのエネルギーに疲れ果てると、「私が生きていることが迷惑なんだ…」という極論にたどり着いた挙句に、 “理想の死”に逃げ込みたくなるので、だから私は誰も嫌いになりたくないのだ・・・・・

人の心ほど無常なものはない。
一刹那、一刹那で私の心は次々と変化し、“常(つね)”を保ち続けるということなどあり得ない。
どんなに好きな人でも、その人のしぐさや言葉などから嫌いな(好きな)部分が増えたり減ったり、常に変動するものだ。

その人のすべてが(100%)好きだ!なんてことは夫婦でさえもありえないように、その人のすべてが(100%)嫌いだ!ということなんて無いんじゃないのかな~ぁと気付いた時から、「あの人は好きになれない…」と思っても、その人の中から「1%の好き」な部分を見つけて、そこを取っ掛かりに、嫌いな人・苦手な人意識を転換していく・・・
そうやって自分を守りながら生きてきた。

自分はそれでいい・・・・・
自分自身は、醜い心を抑えて、ただきれいな所にだけタネを蒔いて、「好き」という気持ちの花を咲かせ続けていれば傷つかずに済むかもしれない・・・・・
だけど、相手の心はそうはいかない。
私が、どんなにその人にあこがれ好きだと思っていても、その人から「あんたなんか嫌い」と言われれば、やっぱり傷つき、落ち込んでしまう・・・・・

現に今、それですごく落ち込んでいる・・・・・

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2009年2月11日(水) 帰国 [アジア]

[飛行機]バンコク⇔関空間の飛行機も往路同様満席だった為座席の移動は叶わず、窮屈な状態で半眠半覚のまま日付変更線を越える。
早朝4:30に機内サービスの朝食が出され、疲れていても、寝不足でも、動いてなくても、ちゃんとお腹は減るもんだと自覚しながら、この旅最後の食事を美味しく完食した。
関空到着の少し前、東の空からは朝焼けの光が差し込み、私の座席からではかなり見難かったが、青・白・橙のコントラストが色鮮やかに丸窓のキャンパスに描き写されていた。
午前6時を少し回って当機は無事関空に着陸し、入国・税関の検査を通過したMember全員は、眠そうな表情をしながらも一同介して簡単な解散式を行った。

さぁ~! あと、もう一旅!! 自宅の玄関までは旅の途中である!!!

20名以上もいるMemberの中で、電車での帰宅組みは、私とS先生とMK先生の3人だけだった。
Ticketを購入してホームに行き、10分ほど待ったところで‘はるか’が到着。
「京都までの一時間は寝て過ごそう」ということで、三人バラバラに腰掛けて、両先生方はすぐに睡眠モードに入られたが、私はいろんな想いが頭の中をかけめぐってほとんど眠れないまま京都駅に到着。
京都駅では、在来線で帰られるMK先生と握手でお別れした後、S先生とはGoodbye Hugでお別れをしたことで懐かしいアメリカ生活を想い起こし、それが逆に「あぁ、日本に帰ってきたんだ」って気持ちになった。
この後、新幹線の待ち合わせ時間が30分ほどあったので飲み物でも買おうかと思ったが、帰りのタクシー代を心配して我慢した。(後に、この判断が大正解[exclamation]

新幹線に乗ってからもほとんど眠気はなかったのに、下車駅のひとつ手前の駅に着く直前で(到着のアナウンスを聞きながら)記憶が途切れて熟睡モードに入ってしまったようで、ハッッッ!と目が覚めた時には新幹線が駅に停車していて、「ここはどこ[exclamation&question] どこなの[exclamation&question]」と物凄く焦ってうろたえたが、まだ一つ前の駅だったわかってホッと安堵した。
たった一分間の熟睡だったわけだ…(^.^ゞ
この頭(自分)は、いつ思考が途切れても不思議ではないほどの寝不足状態だと知って、危険回避の為に早めに席を立って乗降口に向かったが…、 立ったまま寝てしまったのか、新幹線のドアが開いて、「あ…、着いた…」との意識のもと、下車した。

駅から乗ったタクシーでは、道路渋滞の為に料金メーターがどんどん加算で行くので、手持ち現金が足りなくなったど~しようかとの心配があって眠気は吹っ飛んでいた。
そして祈るような気持ちでメーターとにらめっこをしながら自宅に到着。
タクシー料金は¥3,180。  財布の中身は¥3,250。 
あと、1 Meter カチャンっと行ったら足りなくなる寸前のところで、SAFE[手(チョキ)]であった。[るんるん]
[ハートたち(複数ハート)]我が強運に感謝[ハートたち(複数ハート)]

私の帰宅を待っていた四本足のこどもたち(Dogs[犬])のけたたましい声に迎えられて、私のインド・ネパール仏跡巡拝の旅は、無事終了した。

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2009年2月10日(火) カトマンズ → バンコク → 関空 [アジア]

アメリカンクラブのおかげで、カトマンズが大大大大大嫌いになった私は、一分でも一秒でも早くネパールの地を離れたいと思った。
「もう、二度と来るもんか!!」 料理は不味いし、Hotelも最悪で、国民性も好きになれない・・・・・
そんなイヤ~な思い出を最後に作って今回の旅行を終えることが、とても悲しかった。
いくら “カトマンズの怪”と言われる落とし穴に引っかかってしまったとは言え、私の悪運にMRさんまで巻き込んでしまったことを思うと、ホントに申し訳なく、何につけても後味の悪い旅の最終日となってしまったことにひどく落ち込んだ・・・・・
空港への道のり、ネパール最後のバスとなる車窓からの風景も、全然楽しくない…。

TourConductorの拓郎さんには、“カトマンズの怪”に引っかかってアメリカ軍に拘束されたということを報告して、「特に問題にはならないだろう」とは言われたが、空港での出国手続きの時は、ちゃんと出国できるかな~ぁとチョットだけ不安になった。
でも、難なく出国手続を済ませて、20分ほどFree Timeがもらえたので、支部の人たちへのお土産も購入することもできた。
さ~ぁ、一刻も早くカトマンズとおサラバしよう!!

飛行機のシートは相変わらず運が悪く、窓側でも通路側なかったので、機内が落ち着いた頃に窓際の空いているシートへと移動した。
私が座った窓際のシートは、中央を一つ空けて通路側には現地人らしい男性が座っていた。
なかなかGO SIGNの出ない機内で待機していると、一つ隣りの男性が話しかけてきた。
彼はネパール人で、名前はビーブーデーさん。 42歳の警察官である。
今からバンコクを経由してオーストラリアへいくのだという。
暇な時間、自己紹介を兼ねたおしゃべりをしているとようやく飛行機が動き出し、ビーブーデーさんから、「もうすぐボダナート・ストゥーパが見えるよ」と教えてもらって窓の外へ目を移すと、カトマンズの街並みより頭一つ分飛び出したボダナート・ストゥーパの頭と「知恵の目」がこっちを見ているのが見えた。
「もう、ここには二度と来ないから」 … そう言って別れを告げた。

2644607

ビーブーデーさんの話しだと、昔はここからもヒマーラヤの山脈を望むことが出来たが、最近は大気汚染がひどくて、離陸してからでないとヒマーラヤを眺めることが出来ないとの説明通り、カトマンズの市街地を離れるとすぐにヒマーラヤ山脈を見ることができた。
昨日よりは雲が多いものの、3日続けてマーラヤの山脈を見ることができるなんて、幸せ!

ビーブーデーさんとはいろいろな話しをした。
警察官でありながら海外赴任の経験が二回もあるというのだから、よほどの頭脳の持ち主で地位も高いのだろうと想像できる。
語学の方はサンスクリット語と英語の他にも2,3ヶ国語は話せる(日本語は無理)そうで、また彼の子供たちも秀逸で、長女(22歳)と長男(21歳)はアメリカの大学(ボストン)に留学中とのことであった。

ビーブーデーさんは、今回オーストラリアに行く目的も話してくれた。
オーストラリアに住んでいる弟夫婦の二歳になる娘を養子に迎えるために、一ヶ月間の休暇をとって今から迎えに行くのだそうだ。
彼の奥さんは一足先に昨年末からオーストラリアの弟夫婦のもとに滞在しているそうで、「行きの飛行機は一人だけど、帰りは三人なんだ」と嬉しそうに話してくれた。
ネパールの富裕層の話題を聞いて、チョット少し驚いた。
ビーブーデーさんの出身を聞くと、彼のおじいちゃんはラマ教(チベット仏教)のストゥーパを造る現場監督として中国から渡来された方だそうで、彼自身もやはりラマ教なのだと教えてくれた。
そして仏教の話しになり、「私の仏教と、あなたの仏教は違うのよ」との説明を試みたが、私の数少ないWordを並べただけでは伝えることなど到底不可能で、でも、「なまんだぶつ」は素晴しい言葉だと伝えると、彼は何度も「なまんだぶつ」と繰り返し言っていた。

ネパールからバンコクまでのフライトは、ビーブーデーさんのお陰で退屈せずに楽しい時間を過ごさせてもらった。

バンコクに着いてから、Airport内での滞在時間は3時間以上もあり、それも深夜便の飛行機を待つ訳で…、さぞかし退屈するだろうと思っていたが、MRさんと二人で空港の隅々まで駆け巡って、最後のshopping Timeを大いに楽しんだおかげで、アッと言う間に時間が過ぎてしまった。
Memberの表情には疲れの色が滲み出ていたが、私は皆さんより少々若い分、まだまだ元気?って感じで、夜食のタイ料理も美味しくいただいた。

食後は搭乗ゲートに向かい、KY夫妻と別れを交わして、この旅最後の飛行機に搭乗した。 

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ネパールの植民地的治外法権租界 in カトマンズ [アジア]

A.M.6:30 カラスの鳴き声がうるさくて目が覚めた。 イヤな気分である・・・
窓を開けて見ると、部屋の前の中庭で開かれた昨夜のパーティーの残飯をあさりに、無数のカラスが芝一面を覆うように群がっていた。

目覚めの悪い朝…、 しかも今日は特に予定もないのでダラダラと朝の準備をしていると、「早めに支度して、公園に散策へ行こう」とMRさんが誘ってくれた。
これに勢いづいて急ピッチで身支度を整え、朝食をとっているところへ、少し遅れてIKさんが同じテーブルについたので、「今日のFree time(~10:30)は何するの?」と聞いてみると、「近くに別院があると聞いたので行ってみる」とのことだった。
「だけど所在地がわからないから地図が欲しい」と言うIKさんに、親切なMRさんが、「ガイドブックを持ってるよ!」というと、「それ借して」とIKさん。

朝食後、私たちの部屋にガイドブックを借りに来たIKさんにMRさんが、「ウチラも出掛けたいから、9時までに(20分位で)返してね」と言ってガイドブックを手渡したのだが、結局IKさんはそれっきり戻って来なかった・・・・・
手持ち無沙汰な時間が20分…、30分…と経過して、「コピーするだけで、何でこんなに時間がかかるの?!」とイライラし始めた私にMRさんが、「ロビーに行ってみよう」と提案し、二人で部屋を出た。
ロビーに行くとIKさんがいて、「返しに行けませんでした」と言いながらMRさんにガイドブックを返却し、MRさんはグチひとつ言わずにそれを受け取って、私とMRさんは二人でHotelを出発した。

事前に何も予定を立てられなかったが、ガイドブックを片手にHotelを出た私たちは、まず王宮通りを南に向かって歩き始めた。
Hotelから400mほど南に来た交差点でMRさんが、「来たかった公園(目的地)だ~♪」と、池を指差して言うが、私が地図を確認した限りでは、あきらかに場所が違う・・・(^^ゞ
MRさんの目指す公園は、更に南に行かなければならないが、その道は車よりも人の数の方が多そうなゴチャゴチャとした道だった為、MRさんは第一希望の目的地を断念し、第二希望の公園へと向かうことにした。
その交差点から大通りを西に向かって再び歩き出した私たちだったが、MRさんが想像していたよりも公園は遠く、また、ネパールの警備官や軍人に道を尋ねても、彼らは地図を見ることすら不得手なようでまったく要領を得ないため、MRさんは再び目的地を変更し、このまま四角くHotelの周囲を一周してから、Hotelへと戻ることにした。

そしてカンティパトst.まで来た時、ネパールに来て初めて機能している信号機を見つけて私はパチリと写真撮影をし、ここから北に向かって信号待ちをしていると、交差点の対岸からライフルを肩にかけた兵士に手招きをされたような気がした。
「何だろう? 気のせいかな?」などと思いながら青信号で横断歩道を渡ると、手招きをした兵士に「カメラを見せろ」と声をかけられた。
私がカメラを差し出すと、「何を撮った?」と聞かれたので、「信号機だよ」と答えながら写真を見せると、二人の軍人は「問題ない」と言っているのだが、一人の軍人がその二人に何やらゴチャゴチャ言っている。
私が、「何か問題あるの?」と聞くと、私の撮った写真の片隅に「塀」が写っているのが問題だという。
確かに、写真画面の右10分の1のところに、わずかだがクリーム色の壁が写ってはいるが、それがど~した?という程度のもので、二人の軍人は笑いながら「問題ないよ」と言っているのだが、一人だけは納得がいかないらしく、「オフィスまで来るように」と言われた。
私がこれを拒否すると、「大丈夫、大丈夫、何の問題も無いから」とその軍人は言うが、私はMRさんに、「最悪の事態を考えて、MRさんは一人でHotelに戻ってください」と言ったのだが、MRさんは私を一人置いては帰れないと言って、結局二人でオフィスまで連行された。

オフィスに入ると受付に座る軍人の服に、USAのワッペンを見つけ、ますます訳がわからなくなったが、私はとっさに、「MRさん、英語が通じないふりをしましょう」と言った。
オフィス内でも私の撮った写真の議論がなされて、「問題ない」という人もあれば、「とりあえず…」と言う人もあり、でも結局、私は別室へと連れて行かれることになったので、この時もMRさんに、「先にHotelへ帰ってください!」と言ったのだが、MRさんは頑として「なっちゃんを連れて帰るんだ」と言ってくれて、心強かったけど、申し訳の無い気持ちでいっぱいだった。
そして一人、取調室へと連行された私は、彼らの質問には一切答えずに、日本語で散々文句を並び立てたのだが、取調官の一人が別の人に、「英語が話せないのなら友達に通訳をしてもらうから取調室に連行するように」と言ったので、私はあわてて、「ちゃんと話すから友達まで巻き込まないで!」とお願いしたのだが、結局MRさんまで取調室に呼ばれてしまった。
取調室に入って来たMRさんは、「時間が無い! 早くしろ!」と彼らを促すが、彼らは自分たちが聞きたいこと以外には、一切耳を貸そうとはしなかった。
生まれて始めて刑事ドラマの犯人役を演じたような気持ちにさせられたが、取調官の私に対する態度は、丁寧、且つ、楽し気にも見えた。
そして20分ほどしてやっと開放され、私たちは時間ギリギリにHotelへと帰ることが出来た。

帰国後、自分の身の上にいったい何が起こったのかを調べてみると、私が撮った交差点の一角に、「アメリカンクラブ」というアメリカ人の保養所があるということがわかった。
カトマンズ在住のK氏によると、カトマンズ市街のど真ん中にある「アメリカンクラブ」は、軍事施設や大使館などではなく、アメリカ人を中心とした外人用の保養施設(レストランなど)で、外見はごく普通の「塀」にしか見えないために、私のように風景を撮った片隅や、何かを写したその背後にその「塀」が写ってしまうこということが多々あって、毎日、毎日、何人かの観光客がその落とし穴に落ちるように連行・拘束されているだのそうだ。
私のように調書をとられて20分そこそこで出てこれるというのは、よっぽど問題が無かったのだろうと・・・・・

現地の各国大使館領事も米国大使館に抗議をしているのだが、一向に改善されないそうだ。

「威張ってんじゃないぞ、アメリカ!!」 と、大声で言いたかった!!! 

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自己愛の発見 [心]

お釈迦様が成道なされた年、コーサラ国(中インドにおいてマガダ国と並ぶ2大強国)の王に即位したのがプラセーナジットであり、後に祇樹給孤独園精舎となる林園を譲ったジェータ太子の父王である。

そのプラセーナジット王の妻・マッリカー王妃は、敬虔な仏教徒であり、お釈迦様の御説法もよく聞いておられ、王はそんな王妃をこよなく愛しておられた。
ある日、プラセーナジット王はマッリカー妃にこんな質問をした。 
「マッリカー妃よ、そなたにとってこの世の中で一番愛しい者は誰か?」 と…。
プラセーナジット王は当然の如く、王妃は、「王様のことを世界で一番愛しています」と答えるだろうと思っていた。  
しかし マッリカー妃は、「この世の中で一番愛しい人は私自身です。 自分以上に愛おしく思える者は他にございません」 と答えた。
プラセーナジット王は、期待はずれの王妃の答えにガックリと肩を落としたが、逆にマッリカー妃に、「王様にとって、この世の中で一番愛しい人は誰でしょうか?」と尋ねられると・・・・・、
「よくよく考えてみれば、私も自分のことが何者よりも一番愛しい…」と答えられたという。
後日、プラセーナジット王とマッリカー妃はそろってお釈迦様のもとを訪れこの話しをしたところ、お釈迦様は、
「人の想いは常に変化すれども、己より愛しいものを他に見出すことはない。 
どんな人も、己はこの上なく愛しい。
されば、己の我愛の強さ深さにおののく者は、他をも害するなかれ」
とお二人に説かれたという。

私の我愛は果てしなく底知れない・・・・・・
私が一番正しい…、 私が一番愛おしい…、 私さえ…、 私、私、私・・・・・・・ と、切がない。
今日、友達とニュースの議論をしていて、そんなことを感じた・・・・・

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祇園精舎の鐘の聲 [随筆日記]

中学校の古典の授業で 初めて『平家物語』の冒頭を読んだ時、意味も何もわからないまま、ただそのリズムみたいなものに強く惹かれた。
十数年ほど前には、たまたま立ち寄った本屋で『平家物語』を手に取った際、やはり冒頭の言葉に懐かしさを覚えて思わず購入してしまった。
今日、その本が無性~に読みたくなって書斎を探したのだが、どうしても見つからずモヤモヤした気分だ…

祇園精舎の鐘の聲  諸行無常の響き有り
娑羅双樹の花の色  盛者必衰の理を顕す
奢れる人も久しからず  只春の夜の夢の如し
猛き者も終には亡びぬ  偏に風の前の塵に同じ

これを初めて耳にしてから二十数年の時を経て、“祇園精舎” のその地に自分が立つことになろうとは、ほんの少し前までは想像すらしていなかった…

ところで、軍記物語である『平家物語』 と 仏教の聖地“祇園精舎” との接点はどこにあるのかと、フッと疑問に思った。

『平家物語』の作者については古来より多くの説があるが、『兵範記』など多数の諸伝本や口伝を元に信濃入道という人が、生佛(しょうぶつ)という盲目の音楽家に教え語らせたのだと『徒然草』(吉田兼好)に記されているのが最古の記録だとされている。
(この信濃入道という人物についても定かではなく、一説には親鸞聖人の高弟で法然門下の僧とする説もある。)

その後、琵琶法師(盲目の僧)などによって口伝承され、「語り本」・「読み本」など、様々な内容・かたちで後世に伝えられるが、冒頭の 「祇園精舎の鐘の聲 … 」だけは共通しているのだそうだ。

その内容については、平家一門の栄華と没落を、仏教の因果観・無常観を基調として、和漢混淆文で書かれた叙事詩である。

出だしの一節について、たいていの人が一度は口にしたことがあるだろうが、その内容について語られることは少ないだろう。
私とて、『平家物語』冒頭の一節が好きで意味もなく暗記していたが、実際に“祇園精舎”に行ってみて、そこに‘鐘’の存在はないと知って、様々な疑問が湧いてきたのだから…。

そこで、私なりに『平家物語』冒頭の一節について解釈してみた。

祇園精舎の鐘の聲  諸行無常の響き有り
天竺(インド)に「祇樹給孤独園精舎」という、お釈迦様が御法(極楽浄土の世界と、諸仏方の存在を顕かにされた『阿弥陀経』)を説かれた聖地があるが、ここで鳴らされた鐘の音でさえも、永遠に響き続けるということはない。
すなわち、諸行は無常。 すべての現象は一刹那に(絶え間なく)変化し、永遠不滅なものなどこの世には存在しないということ。

娑羅双樹の花の色  盛者必衰の理を顕す
お釈迦様がクシナガラの地で涅槃に入られた(入滅された)時、臥床の四辺にあった四双八本の娑羅(沙羅・サーラ)の樹に、時ならぬ白い花が咲き乱れたというが、しかしやがて色あせて、これが永遠に咲き続けるということはない。
すなわち、どんなに勢い盛んな者であっても必ず衰えるという道理はあきらかである。

奢れる人も久しからず  只春の夜の夢の如し
今が盛りと得意気に奢っている者とて、その栄光は続くものではなく、たとえば一夜の夢の如く、目が覚めたとたんに消え去ってしまうものである。

猛き者も終には亡びぬ  偏に風の前の塵に同じ
血気盛んに激しく粋がっている者とて、結局最後には己自身も滅び去っていくいく身であり、例えるならば、風に吹き飛ばされアッという間に消え去る塵(ホコリ)と同じようなものである。

『平家物語』は、ただの軍記物語りにあらず。
平家一門の繁栄と消滅を、仏教の 『無常偈』 (「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」 諸行は無常にして これ生滅の法なり 生滅は滅しおはりて 寂滅なるを楽しみとなす) に添って説かれたお釈迦様の教えであると、今日、改めて発見した。

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Yuさんと初デート?! [随筆日記]

昨日は、家庭法座を希望されるKT家の下見をしたいというYuさんのお供 兼 運転手でKT家へ同行した。
待ち合わせ時間の20分前までに着けば大丈夫!と思っていたら、Yuさんは30分前に到着し、悔しくも負けてしまった(^.^;)
最寄の駅からKT家までの車で10分チョットの間、Yuさんに、「先週の高山法座はどうだった?」と聞かれて、「仏法は聞きたくなかったけど、会いたい人たちと再会できて嬉しかった」と報告すると、「聞法は、良き法友をもつことで9割は完成したといえる」と、高山法座でS先生が仰っていたことと同じことを言われた。
良き友に恵まれながらも、残りの1割をいつまでたっても完成できない私は何?と虚しくなる・・・・・

KT家では、いつも通りのご主人の長話にYuさんも私もうんざりしながら一応耳を傾けた後、やっと本題である家庭法座の話しをするが、おしゃべり好きなご夫婦故に何度も話しが脱線する・・・

1時間半ほど滞在してKT家をあとにし、「さ~ぁ、インドの話しはどこで聞こうか?」とYuさん。
そう、第二の目的は、インド・ネパール仏跡巡拝旅行の報告をまだYuさんにはチャンと聞いてもらってなかったので、Yuさんはそれを聞かせてほしいと私を誘ってくれたのだった。
「喫茶店かファミレス、どっちに行きますか?」と私が聞くと、
「どっちもダメ! なっちゃんに泣かれると困るから仏法の話しはそ~ゆ~所ではしないの!」とYuさん。
「じゃ~、どこをご希望で?」  
「カラオケボックスに行こう!」
「歌うの?」
「何言ってんの! 仏法だよ! 個室になっていれば気楽にパソコン広げれるし、泣けるだろ?!」
「でも、こんな田舎町にはカラオケボックスなんてないよ(^^ゞ 廃業跡地ならあるけど…」
「無い訳無い! なっちゃんが知らないだけ! とにかく賑やかな通りを走ろう」
ということで国道を東に向かって走り始めたが市を越えてもカラオケボックスは見つからず…、道を変えて今度は南東に走ってもカラオケボックスなるものは発見できず…、あげくの果てには[車(セダン)]道に迷ってさまよって(^_^;)・・・・・
「そうだ! 法成寺に行こうよ!!」という私の提案に、
「どこでもいい…、朝食も昼食も抜いて来たんで腹減った~」とYuさん[わーい(嬉しい顔)]

隣町の法成寺に到着して、しばらくは住職と歓談しながら三人でS先生が写されたインド・ネパールの写真をパソコン画面で見た後、まだ仕事中の住職と別れてYuさんお気に入りのいつものお好み焼き屋さんに二人で向かった。
ここでまたパソコンを広げて、今度は私の撮って来た写真を見てもらいながら、お好み焼きや鉄板焼きなどを食べて、旅の思い出話しをしつつ、仏法讃談に花を咲かせた。
Yuさんの心配をよそに、私は涙のカケラも出てこないが、熱く語るYuさんの目頭は時折潤みそうで、こっちの方がヒヤヒヤした(^^ゞ
[ひらめき]なるほど~ぉ、カラオケボックスを探していた訳がわかったぞ(*^^)v

Yuさんと仏跡巡拝旅行の話しや、高山法座の話しをしていたら尽きることがなく、時間も忘れて語り合い、フッと気がついたら夜の8時半を回っていた。
いったい[時計]何時間ここに居座っていたのだろう~(^_^;)[exclamation&question] 

この後Yuさんを駅まで送り届けて自宅に帰り着くと、なぜかものすごい頭痛に襲われた。
Yuさんから聞かせてもらった御法や、その時気付いたことなどをBLOGに書こうと思ってパソコンに向かったが、頭痛と睡魔に襲われて思考回路は爆発寸前の状態だったので、やむ無くベッドへ潜り込んだ。

そして今朝目覚めると、頭痛はまったく無くなっているが、昨日の記憶の大半も無くなっていた…。[ふらふら]
ただ一つ、
「インド・ネパールの仏跡巡拝の旅では、「法を聞く」という意気込みも日々薄れ行き、結局は「凡夫の私」しか見て来れなかった・・・・・」 という私に、Yuさんは、
「そんなもん頭で感じなくてもいいんだよ! なっちゃんはしっかり楽しんで、しっかりと肌で仏法を感じているじゃん! それが一番大事だよ!」と[黒ハート]
「なっちゃんの中にはチャンと御法が入ってる」とYuさんに言われてすごく嬉しくって、それだけはしっかり記憶に残っている。

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ダルバール広場 Ⅳ ) / 九日目の総括 [アジア]

「クマリの館」を出て、「ダルバール広場(旧王宮広場)」の南西出口に向かう途中にあるのが、「カスタマンダプ寺院(マル・セッタル)」である。
2632472建立年は明らかではないが12世紀頃に建てられたと考えられているネパール最古の建築物「カスタマンダプ寺院」は、「カトマンズ」という都市名の由来となった寺院としても知られている。
「カスタ」とは「一本の木」、そして「マンダプ」とは「祭場」の意味を持ち、「カスタマンダプ」とは「木で造られた家」という意味で、この「カスタマンダプ」が→「カトマンズ」になったという話しだが、あまりにも浅過ぎやしないか…、という感じを受けた。
羅双樹の大木1本だけで建てられたと伝承される「カスタマンダプ寺院」は、もともと巡礼宿として利用されていたそうだ。

2632473「ダルバール広場」の見学はこれにて終了と言うことで、ここから旧市街地をぬけてバスへと戻る。
徒歩10分の道のりは 京都の清水坂を思わせるような古い町並みで情緒的な雰囲気が気に入った。
不思議なものもアレコレあって もっとゆっくり見たいと思ったが、ネパールのGuideは口も速いが足も速かった・・・
                (不気味な[バースデー]ケーキ屋 →)

バスに戻る前にトイレ休憩をすると言って入ったのは、ツーリスト御用達の土産物屋だった。
何となく騙された気分だったけど、一応一通り店内を散策する。 が、 5分もするとあきて来た。
こんな土産物屋でFree Timeにするよりも、さっきの広場でもっともっと時間がほしかった!!
Guideは、「近寄ってくる物売りたちが鬱陶しい」と言って邪険にするけれど、Memberの中にはそれを楽しんでいる人たちもいるのだし、それを理由に観光地では長居できないとする旅行社のやり方には納得いかない!
「お客様の安全を考えてのこと!」などと表向きは言っているが、何よりもGuide自身が楽をしたいだけじゃん! と、手持ち無沙汰な時間の中、不満がどんどん積もってきたので、買うつもりはないけどJewel Shopの店員とおしゃべりをした。
ショーケースの中にかわいらしいネックレスのトップをみつけたので手にとって見てせもらうと、店員から、「この石には不思議なパワーが宿っていて、身に付ける人を幸せにする」だとか、「この石は神の化身」だとか、余りにもクサイ押し売りをするので、ついつい言い返したくなってきた(^^ゞ
「じゃ~、このお店も、この石のパワーがかかってるんだね!」と言うと、「YES!」と予想通りの答え!
「それじゃ~、この宝石が売れちゃったらこのお店はSPECIAL POWERがなくなっちゃうからすっごく困るよね~! このお店の為に私は買うのをやめとくよ♪」と言ってからかうと、店員も苦笑い…(^^)v

結局、この土産物屋での滞在時間は40分。 「ダルバール広場」でのたった15分間のFree Timeを考えると、やっぱり納得がいかない・・・・・[爆弾]

土産物屋からHotelまでは直行で15分、午後5:00に到着した。
夕食までしばらく時間があったので部屋に戻ってMRさんと明日のFree Timeの相談をしながら、窓辺でのんびりと時間を過ごした。
今日の部屋は中庭に面しているので発電機の騒音はないが、どうやら今宵は中庭でパーティーが催されるらしく、HotelのStaffが慌ただしく準備に追われていた・・・
もしかして、今夜も別の騒々しさに見舞われるのか~?と不安になった。

午後7:00 Dinner Time 兼 お別れ会が、Hotelの中華レストランで開催された。
今日は最後の晩餐ということで、飲み物代は旅行会社が負担してくれると聞いて、Memberのほとんどが、アルコールをご注文[揺れるハート]
TourConductorの拓郎さんが、「今まで2,3人しか飲まなかったのに、みんなお酒飲めたの~?」と帳簿の心配をしているが、ただ酒ほど上手いものはない!とばかりに、Memberは、ビール[ビール]だ、ワイン[バー]だ、ジュース[喫茶店]だと大いに盛り上がった。
ど~もご馳走様でした。[ハートたち(複数ハート)]

お別れ会の後に、MRさんに付き合ってもらって、昨日約束していた、Hotel内でShopを経営している彼のお店に行った。
両替分のインドルピーが、ほぼ丸々残っていたので使っちゃわなきゃ!と思って行ったのだが、彼の慣れ慣れしさがチョット不気味だった。
案の定、店に入る熱く感激され、「今、他のお客さんを接客中だから、ショーケースの中の物、好きなだけ出して見てて」と言って腰に手を回されたまま店の奥に連れてかれ、ショーケースの鍵を開けるとそのまま別のお客様の接客に行ってしまった・・・
私は店の奥に入ったまま、MRさんやTourのMemberに、「どちらの商品をご覧になります?」とか言いながら勝手にジュエリーを取り出して、思わず昔懐かしいお店屋さんゴッコ遊びなどしてしまった。(^^ゞ
しかし、無防備すぎやしないか? あのオーナー・・・(^_^;)
ところがなかなか接客が終わらないオーナーに、「時間がないから帰るよ」と言うと、「もうチョット待ってて、すぐに済むから」と言いながら頬にキスされてしまった。
チョット慣れ慣れし過ぎ!!
でも、9:00からの懇親会に間に合わなくなっちゃうので、残念ながら買い物はあきらめた・・・・・

彼のShopからS先生の部屋まで直行してMRさんと二人で懇親会に参加した。
Memberは10人プラス拓郎さんと少人数だったが、夜遅くまで歓談は続いた。
だけど私は途中で睡魔に襲われてリタイヤー、MRさんと一緒に部屋へ戻った。

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ダルバール広場 Ⅲ ) [アジア]

「ダルバール広場(旧王宮広場)」の北Gateから先は繁華街 「インドラチョーク」→「アサンチョーク」へと続き、ここは中世の街並みをそのまま残すカトマンズ最大のバザール・ストリートで、広場以上の賑やかさで人々が溢れかえっていた。
う~ん、行きたい[黒ハート] 行きたい[るんるん] 行きたいのに~~~ぃ・・・[exclamation]  ダメだって・・・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

インドラチョークの入り口でUターンして、別ルートで戻る途中、カラフルな像が目に付いた。
これは1660年に作られた「カーラ・バイラヴァ神」で、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身なのだそうだ。
「シヴァ神」は、ヒンドゥー教の根本聖典『リグ・ヴェーダ』において暴風神・ルドラの別称で、強力な破壊神であると共に病を癒やす治癒神でもあり、ヒンドゥー教の三最高神の一柱として、創造のブラフマー神、維持のヴィシュヌ神、破壊のシヴァ神と共に崇められている。

2631196「カーラ」とは、サンスクリット語で「時間」を意味し、時間 = 無常 = 破壊 を表わし、「バイラヴァ」というのは、「恐怖すべき者」という意味なのだそうだ。
「ダルバール広場」にある「カーラ・バイラヴァ神(シヴァ神)」は、部分的に見れば黒い肌を血で赤く染めて、腰や頭に髑髏を飾り、六本の手には人の腕や生首などを掲げているなど人を恐れさせる格好をしてはいるが、全体的に見るとコミカルなアニメのキャラクターにしか見えない・・・[ドコモポイント]
しかし、建造当時には、この像の前で嘘をつくと恐ろしいことが起こると言われ、「カーラ・バイラヴァ神」の前に犯罪者を引き出して裁判のようなものを執り行っていたとも伝えられる。

「カーラ・バイラヴァ神」像の斜め前にある八角形の「クリシュナ神寺院」は、ネパールの子宝寺のようなもので、年に一度のクリシュナ神聖誕祭の時にしか扉は開けられないが、この時、寺院前に設置されるゆりかごを揺らすと、息子が授かると言われているのだそうだ。

この後「クマリの館」を見学する。
「クマリ」とは、ネパール王国の守護神である女神・タレジュの生まれ変わりであるとされ、また、ヒンドゥー教の女神・ドゥルガーと、密教の女神・ヴァジラ・デーヴィーとが宿った化身であると言われている。
その「クマリ」の選出にあたっては、まずネワール族で仏教徒の僧侶・金細工師カーストであるサキャ家系の少女であること、「クマリ」としての32の条件に全て叶っていること、心身とも傷の無いことなど、多数の用件を満たした少女の中より選出され、選ばれたた少女は初潮を迎えるまで、「クマリ」として務めなければならないとされている。
しかし、たとえその条件に当てはまったとしても、最近では親の反対によって「クマリ」の成り手は少ないという。
なぜならば、3,4歳で「クマリ」となったその日から、少女は特別な儀式がある時以外の外出を禁止され、侍従達に囲まれながら薄暗い「クマリの館」の中だけでの生活を強いられるため、学校へも行く事もできず、世間の常識から隔離されて生きなければならないからだ。
それなのに、初潮や多量の出血がみられれば「クマリ」を解任され、外の世界に放り出されるのである。

「クマリ」の起源はマッラ王朝時代に遡り、マッラ王が国の守護女神・タレジュとサイコロ遊びをしながら王の仕事を占ったことに始まったとされている。
しかしマッラ王朝が三国に分裂し抗争を続ける中で、「クマリ」の儀式は、最高権力者たる国王の象徴として「クマリ」にひざまずくのだという国家権力の正統性を裏付けるための意味を持ち、またこれが土着信仰と合体したことで現在まで存続してきたこともあり、ネパール国内の至る所に多数の「クマリ」が存在する。
それら村や町のクマリは「ローカル・クマリ」と呼ばれ、ここカトマンズのクマリだけが「ロイヤル・クマリ」と称され、最も重要なクマリであるとされる。

2631197「クマリの館」は、1760年創建のレンガ造り建物で、木枠の窓に美しい彫刻が施された3階建ての館であった。
入り口には白地に彩色を施された2頭の獅子の像が両脇に鎮座していて、その間から小さなGateをくくりぬけると、中庭を取り囲むような造りになっていた。
しばらくこの中庭でGuideさんより説明を受けていると、入り口より向かって正面三階の真ん中の窓から、生き神様と崇められている女神の化身「クマリ」の少女が顔を覗かせた。
近くにいた侍従に写真は禁止されて撮影することは出来なかったが、不似合いな化粧を施されたまだあどけない少女に思わず手を振ったKY夫妻に照れるようにしてすぐに奥へと引っ込んでしまったが、幸運にも「クマリ」の姿を見ることができた。

2631198「王制廃止後 初となるロイヤル・クマリが2008年10月、新たに選ばれた」というニュースを見つけた。
先代のロイヤル・クマリが思春期(11歳)に近づき引退するため、その後任として選ばれたのが私たちに姿を見せてくれた「クマリ」・3歳の少女マティナ・シャクヤちゃんであった。
写真は母親に抱かれたマティナ・シャクヤちゃんである。
[Photo by REUTERS ロイター 2008年10月7日 ] 

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ダルバール広場 Ⅱ) [アジア]

「パサンタブル広場」から「ダルバール広場」に戻って「ナラヤン寺院」へ。
「トライロキャ・モハン・ナラヤン寺院」は、1690年に建てられた5段の基壇の上に建つ3層の寺院で、北隣の「シヴァ寺院」にそっくりな弟分のような寺院であるが、こちらはヴィシュヌ神(様々なものに変化する神)を祀っているヒンドゥー寺院である。
Mainとなるのは建物の西正面にある石像で、寺院に向かって両手を合わせながら跪いた姿の「ガルーダ像」である。
「ガルーダ」とは、インド神話に登場する神鳥だが、ヒンドゥー教では神の乗り物となる半人半鳥の神様で、ネパール紙幣にもガルーダに乗ったヴィシュヌ神の石像が描かれている。

2630167「ダルバール広場(旧王宮広場)」は生活居住区の中にあるので、観光客以外にもたくさんの現地人や行き交う車などで賑わっていて、仕事中の人、ただボーっとする人、仲むつまじい恋人たち、学校帰りの子供たちなども、「ダルバール広場」の風景の一部を担っている。

「シヴァ寺院」の基壇の最下段(一段目)には、寺院の神々にそなえるたくさんの花が売られていたが、花と言っても大半は[かわいい]マリーゴールドで、 でもこの量・・・、いったいどこで栽培されているのだろうか?
その他にも、御供え物を乗せる器を作っている人や、野菜や木の実などを売っている人、また裏の通りでは基壇を飯台にして炊事をしている人もいた。
また世界遺産になっている宿坊跡の中にもお店が点在していて、民芸品や燻製魚などが売られていた。

2630168ここを15分で見学しろという方が間違い[exclamation] 絶対無謀[exclamation×2] スゴイ酷[exclamation×2][exclamation]
アッという間にTime OUTとなり、集合場所である、「ガディ・バイカ」の前に向かう。
「クマリの館」の正面にあるヨーロッパ様式の白く大きな建物「ガディ・バイカ」は、1908年に王宮の一部として造られた建物であり、周囲の建造物とはまったく違うアクセントになっている。
集合場所にはMemberの他に、「サドゥ」と呼ばれるいで立ちのおじさんもいて、「写真を撮れ」と無言でジェスチャーをしてくる。(一緒に撮ったらスゴイ金額を請求されると聞いて、隠し撮りに成功)
「サドゥ」には、「出家修行者」、「遊行僧」、「乞食行者」、「観光サドゥ」など幅広くいるが、このサドゥはどう見ても「観光サドゥ」だな[演劇]

「ダルバール広場」の北、旧王宮への入り口付近にも大小多数の寺院がある。
Memberはそちらの方に移動して、この内の2,3ヶ所のみについて説明を受けた。

1563年に建てられた「ジャガンナート寺院」は、この広場最古の建物である。
屋根を支える柱の一本一本に異なった女神の彫刻が施され、その足元をよ~くみると、実にリアルな男女の[ムード]チョメチョメが彫られていた。
これら「ミトゥナ(男女交合)像」は、ヒンドゥー教の「タントリズム(神との一体化)」を表現した宗教的偶像で、男性原理と女性原理の2種が交わることで神の力を得ることができる」という9~12世紀のインド哲学からきている。

2630169

「ジャガンナート寺院」近くに「ハヌマン・ドカ(旧王宮)」への入場Gateがあるが、今回は見学叶わず・・・
「ハヌマン・ドカ(旧王宮)」は、1672年にジャヤ・プラタプ・マッラ王が建立した王宮で、1886年まで王家が居住していたが、2008年5月に王政が廃止されて以降利用目的がなくなり、ただ見学のみの場となった。
旧王宮の扉はゴールドに塗られ、その淵にはブルーの下地にヒンドゥー教の神々やブッダの目などが色彩豊かに描かれていてはいるものの、王宮の正門にしては質素なだなぁと思った。
扉の前、左右両脇にはヴィシュヌの化身である2頭のライオン像・・・、とは聞いても、とてもライオンには見えず、どう見てもブタ犬ちゃんと言った感じの像が入り口を守っている。
その入り口の衛兵の脇からチラリと中をのぞくと、中庭を囲んだ「チョーク(ロの字型に建つ建物)」と呼ばれる建物の一部が見えた。

そして門(ドガ)に向かって左脇には、「ハヌマン・ドカ」と呼ばれる由来となった「ハヌマーン(猿神)」が鎮座している。
この真っ赤な衣装をまとったハヌマーン像は、1672年にマッラ王朝のプラタップ・マッラ王によって作られものであり、「ハヌマーン」とはヒンドゥー教の猿の神様、「ドカ」とはネパ-ル語で「門」のことをいい、「ハヌマーン像のある門」というの意味で、この王宮付近を「ハヌマン・ドカ」と呼ぶようになったそうだ。
もともと「ハヌマーン」とは、ヒンドゥー教の聖典ともなっている叙事詩『ラーマーヤナ』の英雄で戦闘の神として崇められたヴァナラ(猿族)の1人であり、これが中国に伝わって、『西遊記』の孫悟空のモデルになったとの説もある。
個人的に、飛騨に伝わる「さるぼぼ」も、ここが起源かも・・・、な~んて思った。

「ハヌマン・ドカ(旧王宮)」に隣接して「タレジュ寺院」が聳えている。
「タレジュ寺院」は、1549年にマヘンドラ・マッラ王によって建てられ、12段ある基壇の上に建つ3層構造(高さが36.6m)の典型的なネワール様式寺院で、マッラ朝王家の守り神である「タレジュー女神(ドゥルガ)」が祀られている。

御本尊であるタレジュー女神の部屋には王族しか入れず、一般のヒンズー教徒に開放されるのは年に1度の「ダサイン祭り」の当日限りなのだそうだ。

また、「シヴァ・パールバティ寺院」の裏には、1797年にラナ・バハドゥール王によって作られた「タレジュ・ベル」の大釣鐘があり、この鐘の音は悪霊を取り払うと伝えられ、「タレジュ寺院」でのセレモニーがある時に鳴らされるそうだ。

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ダルバール広場 Ⅰ ) [アジア]

P.M.2:30にHotelを出発して午後の観光地、カトマンズ・ダルバール広場へと向かう。
ここカトマンドゥ盆地には、カトマンズ、パタン、バクタプルの3ヶ所に「ダルバール広場」というのがあるが、私たちが向かうのは「カトマンズ・ダルバール広場」である。

Hotelから10分ほど走ったところでバスを降りてカトマンズの新市街地を歩くと、ネパール最大の都市ということもあって、インドとは全く違ったバザールの風景にワクワクした気持ちが飛び跳ねた[るんるん]
例えば銀行。 日本では当たり前にあるものだが、こちらに来て初めて“BANK”という看板を目にした。
元銀行員の私としてはチラッと店内も見てみたいな~ぁと思ったが、銀行の入口の前には(投資の為に)50名以上の人たちが長蛇の列をなしており、とても覗けるような状態ではなかった。(^.^ゞ
大通りから中路地へ入った所には、人間だけではなく、オートバイも100台以上の大行列ならぬ整列駐車してあてあった。
そう言えば…、インド人もネパール人も所かまわずゴミを捨てる民衆なので街の中はとても汚いのだが、店の商品や乗り物、屋台など、「これって何かのゲームか?」と思うくらいにきれ~に整理・整列をさせる習性があるようだ。
2626453またインドのバザールで、果物屋が何軒も並んでいたり、同一のお菓子(たった一種類)を売っている店が横並びに十数店舗も軒を連ねているということがあったが、ここネパールでも、街角の路上(歩道)で商売をしている物売りたちは、一ところに同じ種類の商品、例えばマスク、草履、いちごなど、やはり商品別に一団体を作ってビニールシートを広げているところなどは、インドの光景と似ているな~と思った。

20分くらい新市街地をアレコレ見ながら歩いてたどり着いた先は、世界遺産にも登録されている、「カトマンズ・ダルバール広場(旧王宮広場)」である。
街の中央に位置し、囲いもなく、一般生活区域の中にある広場だが、入域料が必要となる。
しかしチケット売り場は、その広場から50mも手前の商店の一角にあるので、その存在を知らなければ出入りはFREEのよ~な気もするが・・・ [有料]料金は一人 Rs300と、チトお高め。(ビジネスホテル一泊分に相当するらしい…)

チケット売り場から右手前方にレンガと木材で建てられた重厚な旧王宮の建物が見える。
その道の両脇にある狛犬のような石像をぬけた左手に「パサンタブル広場」があって、ここでは骨董蚤の市のような露店が広場一面に商品を並べていた。
その右手一帯に建ち並ぶ寺院のある所が、「ダルバール広場(旧王宮広場)」である。
「ダルバール」とはネワール語で「宮廷」を意味し、ここはマッラ王朝時代(17~18世紀)のカトマンズ王国の中心地であり、生活、宗教、文化の集約された場所であった。

2626454ハヌマン・ドカ(旧王宮)」は17世紀に造られたもので、ネワール美術をふんだんに取り入れた美しい彫刻が細部にまで施され、ネワール建築の集大成とも評されている。
「パサンタブル広場」から見える塔は「バサンタプール・バワン」といい、外観は四重の塔だが実は9階建てであり、高さ31mのこの塔には有料で登ることもできる。(今回は無理…、だって団体行動だもん!)
また、2008年5月の王制廃止によって使われることのなくなった旧王宮の一部は、現在トリブヴァン博物館となっていて、ネパール近代化の父・トリブヴァン王の遺品が展示され見学できるようになっている。 
(もちろん有料[有料] 邦人はRs10で、外人は25倍の Rs250!  差別じゃ~)

2626455Memberは「クマリの館」前まで移動した後、簡単な説明を受けて15分間のFree Timeをもらった。
一分でも時間を無駄にしたくない私は目に付いたところから回ろうと、まず階段上の寺院を目指したが、どうやら前方を歩くS先生と同感だったようだv(^.^;)
S先生の後ろにくっついて階段を上がると、ダルバール広場が気持ちよく見渡せた。
でも、チョットしたきっかけで転がり落ちそうなくらい不安定な場所に、内心ビビル(^_^;)…

この階段上にある「マヘンドレスワール寺院(シヴァ寺院)」は、1690年・マッラ王朝時代にバクタプル王国の皇太后が建立したと伝えられるヒンドゥー教寺院である。
この「シヴァ寺院」は、シヴァ神を祀ったネパール最大のヒンドゥ教寺院である「パシュパティナート」と比較して「シアノパシュパティナート(小さなパシュパティナート)」とも呼ばれている。
9段の基壇の上に建つ3層の寺院で、屋根には、ヒンズー教と仏教の装飾が取り入れられている。
また内部には、「シヴァ・リンガ(シヴァ神の象徴である男性のアレ像)」が安置されているそうで、「パシュパティナート」はヒンドゥー教徒のみ入場可能だが、こちらは入場料さえ支払えば見学できるんだって!
寺院の前にある「シカラ(白い塔)」は、シヴァ神への信仰を表すものだそうだ。

2626456写真を撮っていたらいつの間にかS先生にまかれてしまったので、一人であちこち駆け足で回る。
次に北隣りにあった、「シヴァ・パールヴァティ寺院」に向かう。
ここは、18世紀後半にゴルカ王朝(現シャハ王朝)のバハドゥル王によって建てられたもので、寺院の前には大きな二頭の獅子の石像が並び、2階の窓からは、彩色を施された木彫りのシヴァ(破壊神)とその妃・パールバティが広場を見下ろしていた。

シヴァの頭とパールバティの肩にとまっているハトも、[ムード]夫婦かな~ぁ?

この後「パサンタブル広場」まで一旦戻って、露店の骨董品を見学!
掘り出し物を期待したが、他に客もいないし、店番の人も誰もいないので面白くなかった・・・
時間も残り少ないし、さ~ぁ、次!次!

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デジカメ写真NETプリント [随筆日記]

今週に入ってからず~~~っと、時間をみつけてはインド・ネパール旅行で撮影した写真をパソコン上で整理していたのだが、今日やっと、デジカメ写真をプリントする為にNETでOrderできた。

最近は写真を撮ってもプリントすることはまずなかったので、久しぶりのOrderで、どのサイトにしようかといろいろ検索をしてみたが、大型Chain店から個人のShopまで様々なサイトがあり、値段もL判で無料~38円(一枚)まで開きがあって、さてはて…、どこで頼もうかと迷ってしまった。

以前、一枚/¥8のところでプリントしてもらったら、捨てたくなるような写真に仕上がって来たので(ホントに捨てたけど)、結局別のサイトでプリントをし直すことになって無駄な出費となってしまった。
この時、一枚/¥38のところでプリントをし直したのだが、本当にきれいな仕上がりで、同じファイルなのにど~してこんなに差が出るのかと叫びたくなるくらいに仕上がりに差が出た。
しかし、枚数が多い時に一枚/¥38はキツイので、一枚/¥18でまずまずの写真に仕上げてくれるフジカラーのサイトを時々利用していた。
今回も、枚数が枚数だけに安くは仕上げたいけど、でも失敗はしたくなかったので、迷いながらも時々利用していた安いサイトの方でにてOrderすることにした。

久しぶりにログインしてみたらポイントが500円分残っていたので、送料の足しに出来てLUCKY[手(チョキ)]
おまけにキャンペーン中で、一枚/¥15になっていてW LUCKY[手(チョキ)][手(チョキ)]

今回の旅で撮った写真の総枚数は2,500枚を越えていて、ピンボケ等の理由で200枚ほど削除したが、それでも2,000枚をゆうに超えている。
単純計算してもすごい金額になるよな~・・・[がく~(落胆した顔)][たらーっ(汗)]
だけど、私の撮った写真を見たいと言ってくれてる人もいるのでプリントをせねば・・・・・[あせあせ(飛び散る汗)]
それでも何とか2,120枚までに減らして、早速NET Orderのサイトに写真をUPしたのだが、量が多過ぎてなかなか処理が進まない・・・
1時間が経過しても処理済36%・・・、 2時間が経過したところで処理済78%・・・、 
結局3時間近くかけてやっとUPが終了し、今日は、写真のOrderだけで一日が過ぎてしまったような気がする[ー(長音記号2)]
そんでもって驚いたのが、請求金額 ¥32,325 な~り~[爆弾] 痛い出費だ[ふらふら]
しかも、ちょうど夫が帰ってきて金額を見られてしまったので、イヤミの一つ、二つ、三つくらい言われた[失恋]
この他にアルバムとかも用意しなくちゃいけないし、他のMemberの写真をプリントしたいものもあるし、個別にお返ししなくちゃいけない写真もOrderしないといけないし・・・ まだまだお金がかかるけど…、
夫には内緒にしとこ[猫]

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2009年2月9日(月) カトマンズ事情 [アジア]

ボダナート・ストゥーパの見学を終え、昼食の為にHotelへ戻る。 
Hotelまでの30分の道すがら見た街はますます活気に満ち、人や車やオートバイで溢れかえっていた。
特に目に付いたのは、電線だらけの街の景観であった。 
ネパールの電力不足は年々ひどくなる一方で、現在は週に108時間も停電していて、送電されるのは日中の4時間と深夜の4時間の二回だけだという。
お金持ちは自家発電気を設置できるが、多くの人々が電気に頼らない生活を今も続けている。

2619353ネパールはブラジルに継いで世界第二位の水資源を誇っていて、電力は水力発電に頼っているが、毎年乾季には水が不足する上に、近年の温暖化も影響して電力不足はますます深刻化しているという。
また、水力発電所建設は諸外国任せ(特に日本)という現状と、せっかく作ってもらった発電施設も管理不足で壊れたままの状態であり… 、その上、首都カトマンズに国民が集りすぎて電力がまかなえないのだそうだ。

確かに、街の電線はとても電気が通っているようには見えないほどに古びてゴチャゴチャに絡まっている。

そういえば、こんなニュースがあった。
2008年6月、共和制移行に伴い王位を剥奪されたネパールのギャネンドラ元国王は首都カトマンズのナラヤンヒティ王宮から退去させられたのだが、10月になってネパールの国営電力会社が、ギャネンドラ元国王と親族らが所有していた22カ所の宮殿や別荘などで使用された2006年以降の電気代を、未払い金として元国王に請求したそうだ。
その額、なんと114万ドル(約1億1000万円)!  さすが王様!!  
でも、ちゃんと支払えたのかな~ぁ? (いらぬ心配^_^;)

Hotel前にバスが到着し、昼食会場に向かう前に、TourConductorの拓郎さんから6名の名前があげられ、バス車内に残るようにと指示された。
私とMRさん、それからSDさんペアーと、IEさんペアーの6名だった。
予想通り客室Changeのことだったが、私とMRさんは昨日の内に申し出ていたので、交換してもらう部屋は用意されていたが、それ以外には一部屋しかChangeできないとのことだった。
昨夜私たちからの苦情を受けた拓郎さんが、今朝、私たちの並びの部屋に泊まった他のMemberに確認したところ、私たちの隣の部屋(自家発電機のまん前の部屋)に泊まったSDさんペアーと、そこから十数室も飛び越えたIEさんペアーも発電機の音が気になったと申し出た。
しかし、部屋があと一部屋しか空いていないので、3組で話し合って決めてほしいと拓郎さんから言われたのだが、話し合いはSDさんペアーが辞退してくれたことですぐに決着がついた。
だけど私はこの結果に一人納得がいかなかった。
MRさんは、私たちが言い出しっぺなのだから私たちが身を引くことじゃないと言い、それには私も同じ思いをもっていたが、部屋の位置から考えれば、当然SDさんペアーが優先されるべきではないかと思ったので、IEさんに、「SDさんたちのお部屋は、ホントに発電機のまん前なので音も臭いもすごいんですよ!」と言ったのだけど、「そうなのよ~、私たちの部屋もうるさかったのよ~」と、返されてしまった。

それから私たち4人は理由もわからないまま、ただHotelのロビーで待機させられて、15分ほどたった頃シビレをきらせたIEさんが、食堂へ行ったっきり帰ってこない拓郎さんを呼びに行った。
そしてIEさんと戻ってきた拓郎さんに、「それじゃ~食事に行ってもらってもいいです」と言われた時には、内心、「じゃ~、この20分間の待ちぼうけはいったい何だったのよ~?!」と、言ってやりたい位の怒りの言葉をグッと飲み込んだ。
「きっと忘れられてたんだ! IEさんが呼びに行かなかったら、食いっぱぐれてたに違いない!」などと思うと腹立たしかった! 
だって、Launchぬいたらお腹空くじゃん[もうやだ~(悲しい顔)]! 食べ物の恨みは恐ろしいんだからね~[ちっ(怒った顔)]!!)
レストランに行くと、Buffetのパスタもサラダも空っぽで、残り少ないメニューを漁るようにしてお皿に盛った。  
みんながデザートを食べている頃に私とMRさんがようやくテーブルにつくと、事情を知らない他のMemberが通りすがりに、「まだ食べるの?!」などと声をかけてくるのだが、イライラの後で空腹状態だった私は、腹が立つというよりも何だか無性に泣きたくなった・・・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

Launchを済ませて新しい部屋の鍵を受け取って部屋に行くと、まだ部屋の準備が整っておらず、しばらくの間待たされた。
新しい部屋はエアコンが壊れていた他には特に異常もなく、私とMRさんは午後の出発時間までの40分間を、持参したインスタントコーヒーを飲みながらのんびりと過ごした。

このHotel(カトマンズ ホテル・アンナプルナ)、あるサイトでは☆☆☆☆をつけているが、部屋も、従業員も、ホテル側の対応も非常~に悪く、この10日間で一番最低なHotelであると私はランク付けた。

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ボダナート(ボウッダナート) ) [アジア]

「カンティプール(栄光の都)」とも称されるネパールの首都カトマンズ市は、街自体が世界遺産である。
ヒマーラヤの麓、標高約1,350mの大地に、東西25km、南北20kmほどのカトマンズ盆地には、カトマンズ、パタン、バクタプルの3つの古都と、4つのヒンドゥー教および仏教寺院が世界文化遺産として登録されている。

2617911私たちが訪れたのは、Airportからほど近い「ボダナート」というネパール最大のチベット仏教の仏舎利塔(ストゥーパ)で、その建物は三重の基壇の上に直径27mのドームが乗っかり、さらにその上には四方に目玉が描かれたものに帽子をかぶせたような金色の塔が聳え立ち、その高さ(全長)は36mになるそうだ。
ボダナートの「ボダ(ボゥッダ)」は、「仏陀・仏教」または「知恵」を意味し、「ナート」とは「主・神」という意味で、白いドームの上に描かれた四方を見渡す目は、「お釈迦様の知恵の目」なのだそうだ。
塔のてっぺんからはタルチョー(チベット仏教の経文が記された五色の旗)が四方に幾重にも飾られていた。

[メモ]チベット仏教は、620年代にチベットを統一したソンツェン・ガンポ王が、唐から嫁いだ文成公主(中国仏教)と、ネパールから嫁いだプリクチ王女(インド仏教)の影響で仏教に帰依したことに始まる。
当時、チベットの民族宗教であるボン教との争いもあったが、779年に子孫であるティソン・デツェン王がチベット初の仏教僧院であるサムイェー大僧院を建設し、初めて僧伽(僧団)が発足させて以来、仏教をチベットの国教として、訳経事業を起し、大部のチベット大蔵経史書を編纂させた。
794年にサムエー宗論(中国仏教とインド仏教の主導権争い)によってインド仏教を正統と定めたが、843年に王朝の統制がなくなると、当時流行していたタントラ仏教(在家密教)と中国系の禅とがインド仏教に加わったことで、ボン教や土着の宗教(天地創造の神話・生贄の儀式・死後の幸福、現世重視など)を土台に変形・融合した「チベット仏教」が10世紀頃に完成される。
その後いくつかの宗派に分裂したチベット仏教も、1409年に立宗したゲルク派が、小乗・大乗・密教を統合した修道体系を組織してチベット仏教の正統派とし、カルマ派制定したダライ・ラマ(チベット仏教の最高指導者の称号)制度に則って、宗派を越えた政治・宗教の最高権威に据えたことでチベット全域を掌握した。
チベット仏教における「ラマ」という語は魂を導く師(グル)のことを意味し、僧のことは「ダパ」という。 (「ラマ」の中には出家僧だけでなく環俗の僧もいるそうである。 日本と似てるね!)
これゆえに「チベット仏教」は、「ラマ教」とも称される。

その後1950年に中国人民解放軍の侵略によって国の全土を軍事制圧されたチベットは中国に対して抗議したが、1959年のチベット動乱の際に中国はチベット自治区を設置して宗教活動も禁止し、ダライ・ラマインドはインドに亡命。
また、チベット政策を苛烈させた中国人によるチベット人殺戮は現在も国際問題になっている。
こうした歴史背景の中、国を捨てて仏教の聖地にやって来るチベットの人々が、ここボダナートでも数多く見られた。

2617912バスから降りた私たちが、中華街の入り口のようなボダナートのGateをぬけるとすぐ正面に、焦点の定まっていない無機質な目が描かれた不思議な形の寺院(ストゥーパ)が見えた。
建物に近づくと次第にその大きさを実感し、そこには、このボダナート寺院を中心とした円形の街(寺院や土産物屋)が形成されていた。

ボダナート寺院を囲んでいる壁にはマニ車が一定の間隔でそろばん玉のように設置されている。
「マニ車(マニコロ)」とは転経器とも呼ばれ、円筒形の側面にはマントラが刻まれていて、その内部にはロール状の経文が納められているのだそうだ。
これを右回り(時計回り)に回転させると、回転した数だけ経を唱えたのと同じ功徳が得られるのだそうだ。
そしてチベット仏教徒たちはマニ車を片手に、毎朝この仏舎利塔の周りを108回もコルラする(右回りに歩く)のだそうだ。
これはよほどの暇人か、体力のある人でなければ無理だと思うし…、第一、時間の無駄遣いだと・・・・・(^.^ゞ
この他にもボダナート寺院の周りには、経を読む人、瞑想をしている人、五体投地をする人などもいた。
しかし、ボダナートの壁を背にして通路の反対側を見てみると、ボダナートを取り囲むようにして色とりどりの土産物屋が隙間なく軒を連ねている、 これでは聖地というよりも…、完全なる観光地だ・・・!!

その土産物屋の途中にはいくつかのチベット仏教寺院もあり、私たちはこの内の二つに入場したが、真っ赤な壁に中国系の色鮮やかな装飾を施された寺院の中に、ピッピカの金箔仏があっちこっちに展示され、とても落ち着いて合掌のできる雰囲気ではなかった・・・^_^;

この後、ボダナート寺院の門(というより壁の切れ目)をぬけて階段を上がり、三重の基壇の上を歩いた。
もちろんストゥーパを右手に回ったのだが、ここからは「知恵の目」がよく見えた。
円形のドームに登っている人もいて、「私も登りた~い♪」って思ったけど、後々に残る伝説(?)を作ってはいけないと思って、おとなしくしていることにした。(#^.^#)

2617913寺院内はラマ教の人しか入れないとのことだが、それほどまでに神聖な場所だというこのなのだろう。
でも、こんなに天気良いんだし、今日はこ~ゆ~所での~んびりと過ごしたり、お買い物などしたいな~って思った。
しかしど~して、信者しか入れず、仏様が安置されて、僧侶がお勤めをしているようなその上を、私たちに観光客に平気で歩かせるのだろうか・・・、  う゛~ん゛、理解に苦しむ・・・・・

ボダナート寺院の屋根から降りて、再び土産物屋を見ながら右回りに歩く。
仏具に、アクセサリーに、食べ物に、衣装、いろいろな物を売っている中に、半分顔を隠しながら路上に札束を置いている人を見かけた。 偽札でも売ってるのかな~ (ナンチャッテ!)

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( 街の風景 Airportより ) [アジア]

昨日、(ルンビニ→カトマンズの[飛行機]機内から) 初めてヒマーラヤを見た時はすごく感動した。[グッド(上向き矢印)]
今日も、(ヒマーラヤ遊覧飛行の[飛行機]機内から) 赤茶けた山々の彼方に、雪をかぶったヒマーラヤがチラッと見ただけでも、ものすごく感動した。[グッド(上向き矢印)][グッド(上向き矢印)] 
そう・・・・・、 数十分前までは、確かに大感激していた私がいたのに・・・・・
でも、世界最高峰のサガルマタ(チョモランマ・エベレスト)を目にしてからは、7,000m級の山々でさえも何だか物足りないような気持ちになり、U-TURN後の機内では、せっかく右側席の窓よりヒマーラヤの山々を望めるというのに、あの感動も[バッド(下向き矢印)]、シャッターを切る回数も[バッド(下向き矢印)]、あきらかに減っている。
この、アッという間に“見慣れて”しまって数分前の感動をも過去の産物にしてしまう心と、上へ上へと“高望みをする”気持ちに押し潰されて下の方へと追いやられたあの時の感動をも、平気でバサバサと切り捨てていってしまう非情な心が、“初ごと”の感動も、“身の丈”をも見失わせて、限りない欲望の心でガブリと食い尽くしていく・・・・・
「なんだコイツは?!」と自分自身に嫌悪してみても、決して消えてくれない傲慢な私が確かにここにあって、そいつを見ないようにあわてて目を背ける・・・・・[爆弾]

機内ではCAから 「エベレスト、確かに見たぞ!証明書」なるものを手渡してもらったが、それには
I did not climb Mt Everst … but touched it with my heart !
(エベレストには登らんかったけど、胸キュン!しちゃったよ~[手(チョキ)]
という題目の書かれた用紙に、デタラメな機長(別人)名のサインがしてあり、しかしその他の記入欄(宛名など)は無記載のままで、「これで証明書と言えるかな~?」みたいなものをもらった。 
「笑わせてくれて ありがとう」という以外に、使い道がないのでは…(^.^ゞ、とも思ったが、添乗員さんには(数の)コレクションにはなるかな~とも思った^_^;

[飛行機]機内から見える風景が、真っ青な空を背景にしたヒマーラヤから、殺伐とした赤茶けた山々の景色に変わり、それもやがて視界から遠のいて、乾いた薄茶色の大地に転々と緑を湛えた田畑の景色を通り過ぎて、排気ガスで白く霞んだカトマンズの街並みの風景へと移り変わって、JUST1時間でAirportに無事着陸し、ヒマーラヤ遊覧飛行は終了した。
飛行機から降りてAirportバスで向かった先は、昨夜降ろされたArrival Gate(?)兼Baggage claim(?)兼 駐車場のBus stopであった。
ここに設置されている公衆トイレは有料ということだったので、ためしに入ってみると、 
入り口のおばさんに5Reを回収されただけで、何のserviceもなく、とっても汚いトイレだった。
他国(例えばタイやエジプト)で利用した有料トイレは、やはり無料の所よりもきれいに清掃してあるし、チップと交換に50cmくらいに切り分けたトイレットペーパーを手渡してくれるのだが、ここネパールは、愛想の欠落したおばちゃんに、ただお金を取られるだけのトイレだった…(^^;)

そしてトイレから出てTourのバスに乗ろうとしたら・・・・・
同メーカー、同型、同色のバスがいくつも並んでいて、どのバスにもTour Nameの表示がされていないので、自分たちのバスを探すのに少々手間取ってしまった(^^ゞ
バスには私たちの搭乗した101便のGroup Memberしかまだおらず、別の機に搭乗したMember 9名の到着を20分ほど待つことになった。
この時、フッ! っと、あることが思い出された。
「そ~いえば、私、さっきお金を人に貸したけど、自分は大丈夫か~?」と気になり、Memberに隠れてソッと財布の中身を確認した。 日本円の残高 ¥3,250 だった。
「あらららら~…、関空から自宅に帰るお金が足りんかも…(^.^ゞ」
とチョット心配になったが…、 クレジットカードも持ってるし、日本だし、何とかなるだろう… (^.^;)ヒヤヒヤ

しばらくして別便に搭乗したGroup Memberも無事に帰還したが、彼らはとても興奮していた。
どうやら彼らが搭乗した機のパイロットは、TourConductorも体験したことのないほどに、ヒマーラヤすれすれのルートを飛行してくれたというのだ。
私たちの機とどれくらいの差異があったのかは定かではないが、TourConductorの拓郎さんまでもが顔を高揚させて興奮していたほどなので、よっぽど良かったのだろう~[exclamation]
別便でヒマーラヤ遊覧飛行を体験したGroup Memberの嬉しそうな感激に対して、私たちGroupの面々は、「不公平じゃん?!」と心の内で舌打ちしながらも、表面上は、「ホントに楽しかったね~♪」と笑顔で対応していた。_(._.)_イジイジ

2616447A.M.11:00 Airportを出発してカトマンズの市内観光へ[バス]
今回、旅行前の事前調査は主に仏跡地のみで、その他には歴史を少々調べただけ…
カトマンズについてはほとんど無知識だったので何の期待もしていなかったが、今からの市内観光では世界遺産を見学できると聞いて、チョット期待が膨らんだ。 (世界遺産好きな私[ハートたち(複数ハート)]

陽が上がり街はすっかり活気付いて、早朝の風景とはうって変わって色鮮やかに賑わっていた。
特に感じたことは、インドの街では女性よりも男性の数の方のが圧倒的に多かったが、ネパールでは街に女性の姿をたくさん目にしたことだった。
もっとも、インドでは街と言ってもせいぜいヴァーラーナスィ なので、あまり対比にはならないが・・・・・(^^ゞ

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2009年2月9日(月) カトマンズ ( ヒマーラヤ 遊覧飛行 ) [アジア]

Airportの待合ロビーで待つこと30分、TourConductorの拓郎さんから、「[飛行機]飛行機、飛びますよ~!」と嬉しい知らせが入った!   「[手(チョキ)]やった~!!」

しばらくして、ロビーから出てAirportバスに乗り込む、が・・・・・
バスに乗車すると車内にいたおじさんに、「あなた左側のシート」、「あなたは右側のシート」、と、別に座席番号があるわけでもあるまいに、座る場所を指定され、チョットでも指をさされた場所からズレて座ると、「違う、違う、あなたの席はここ!」と注意をされてしまう[exclamation&question]
「なんで?」と思ったら、101便と102便の乗客を同じバスで運ぶから、おじさんは予めバスの中で乗客を分けておきたいらしいのだが、その分け方が、前後とか左右に分けるのではなく、斜めに仕切って分けるから、分けられた方もなんとなく違和感が残る。
結局、全員が全員バスのシートに座れるわけではないので、立ち乗りの人たちは分別(?)されることもなく乗車していた。 (やっぱり意味ないじゃん!(^.^ゞ)

Airportの敷地内では軍人さんが行進をしていたり、軍用機なども置いてあるので、Terminal内とは違ってどことなく緊張感がただよう。
バスが停車して、102便の人たちから順に降ろされ、続いて101便の私たちも下車した。
下車して目にした飛行機を見てまず驚いたのは、想像以上に小型、これでは一人乗り用の軍用機と変わらない位の小ささだと思った。
船で例えるなら、ジャンボジェット = 豪華客船 : この飛行機 = 池のボート みたいな感じ?!
中に入ってさらに驚きは続き、まず、乗り合いバスよりもズ~ッと小さな機内で、しかも操縦席と客席の間には、ドアもカーテンもなくFULL OPENの状態であること。
a n d 機長と副操縦士が、モデル並みにとっっってもきれいなお姉さんたちであったことにも驚いた!

飛行機自体は18人乗りだが、CAもいるのでMember全員一緒に、とはいかず、16名と9名の二つのGroupに分けられ、私は16名Groupの方で乗客全員がMemberだった為、気楽な雰囲気でよかった♪
座席はくじ引きで決まったシートに座る。 私は右側の前から3番目で、通路隣りはS先生であった。

飛行機に乗ってからしばらくして、CAより、「離陸が2,30分遅れる」と言われた。
隣りのS先生が後ろの方へ遊びに行っちゃったので退屈していた私はCAの所へ行ってチョットお話をした後、操縦席を覗かせてもらって写真も撮らせてもらった。
そして飛行機の一番前から、一番後ろにいるS先生に、「S先生~! 操縦席の写真を撮ってもOKだって[るんるん]」 と言ったら、ほぼ全員が順番に操縦席におしかけたので、後半の人はパイロットにイヤ~な顔をされたと言っていた・・・(^.^;)
でも、パイロットの気持ちはよ~くわかる・・・  私、罪なことしちゃったみたい・・・(^^ゞ

飛行機は20分遅れてようやく離陸許可がおりた。 いよいよだ[exclamation×2]
Airportから飛び立って5分ほどして、左側シートの人たちがパシャパシャと写真を撮り出したので、S先生の頭越しに窓の外を見てみると、もうヒマーラヤが見えていた。

[メモ]ヒマーラヤとは、サンスクリット語で「雪の住みか」という意味であり、日本語ではヒマラヤと発音されている。
ヒマーラヤ山脈は、西のナンガ・パルバット(パキスタン)から、東のナムチャバルワまで全長2,400kmに及び、エベレストをはじめとする8,000m級ピーク(独立峰)が14もあり、付属峰も含めるとヒマーラヤには7,000m級の山が100以上も存在するのだという。
だから5,000m以下の小ヒマーラヤにまで、一々名前をつけていられないというのも頷ける気がする。
ヒマーラヤ山脈は、ブータン、中国、インド、ネパール、パキスタン、アフガニスタンの6ヶ国にまたがり、ヒマーラヤの雪解け水は、インダス川、ガンジス川、ブラマプトラ川、長江の水源となっており、いずれも最大級の大河の母であると言える。

2608410

左側シートのMemberが写真を撮っている間、右側シートのMemberがら順に操縦席へと案内され、飛行機の前面(フロントガラス)よりヒマーラヤ山脈を見学させてもらえた。
「凄い[exclamation] すごい[exclamation][exclamation] スゴ~イ[exclamation][exclamation][exclamation]」としか言いようのない景色であった。
ここが地球上で、いっちばん宇宙に近い場所なんだと思うとワクワクした。
下を見下ろせば、一見平地のように見える富士山クラスの山々とは一線を画して、雲から飛びぬけたヒマーラヤの山脈は、まさに地球の屋根のようであった。

2608413飛行機が左に旋回をしている最中、運よく操縦席から展望をさせてもらって、思わず、「もっともっと近づいて!」ってお願いしたくなるほどヒマーラヤは魅力的だった。

帰路は右側シートの私たちが座席の窓に張り付いてヒマーラヤの写真を撮った。
世界一の高さを誇るサガルマタ(チョモランマ・エベレスト)も、ハッキリ、クッキリ見ることができた。

エベレストという呼び名は英名であり、古代のサンスクリット語ではデヴギリ(「神聖な山」の意)といい、通常、ネパールではサガルマタ(「宇宙の頭」の意)といい、また、チベットではチョモランマ(「大地の母」・「世界の女神」の意)という。
サガルマタ(チョモランマ・エベレスト)の現在の標高は8,850mであるが、山脈周辺のプレートテクトニクスによって山は年々に高さを増しており、山頂は北東へと移動しているのだそうだ。
まさに、山は生きている。 [exclamation]  
地球は生きている、という証がここにあった。 それは同時に、地球も“無常の一物”に過ぎない…、という意味でもあるのだ・・・・・
2608412


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2009年2月9日(月) カトマンズ ( 朝の風景  Airportへ) [アジア]

A.M.6:00起床。  治りかけていた喉が、また痛む。[もうやだ~(悲しい顔)]
MRさんが、「昨夜、なっちゃんに言われても気付かなかったけど、ホントにこの部屋ガソリン臭いわ~!」と言った。
私の喉の痛みも風邪のせいではなく、気化したガソリンを一晩中吸い込んでいたせいかも知れないと思った。
ネパールに来てから心身ともに不調である。
体調の不具合は何とか誤魔化せても、心か頭かわからないけど、こっちは早いところ修理をしないと、MRさんやMemberに迷惑をかけてしまいそうでチョット不安・・・

朝食を済ませて、A.M.8:00少し前にHotelを出発し、昨日降り立ったカトマンズのAirportへと向かう。
今日はOptional Tourで、ヒマーラヤ山脈の遊覧飛行を体験する。
MRさんのたっての希望が叶って、カトマンズ・ヒマーラヤ見学になったのだそうだ。
Optional Tourといっても、Memberの全員が参加するので、あらかじめTourに組み込んでおいてくれれば良いものを、前日に参加の確認を取って、ヒマーラヤ遊覧の飛行機に乗る直前に参加費を回収するのだという。
これはあらかじめ聞いていたことだが、何となく余分にお金を取られた感がして、イヤだなと思った。
しかし、旅行のパンフレットには参加費¥20,000.と書いてあったが、旅行説明会の時には原油高で参加費¥24,000.だと言われ、でも結局は原油価格の値下がりで参加費が¥19,000.となって、チョット得した気分でHAPPY~[手(チョキ)]
バスの中でTourConductorの拓郎さんが参加費を集めていると、Memberの一人が大きな声で、
「すみませ~ん! どなたか僕たち夫婦に[有料]3万円を貸して下さ~い! お願いしま~すm(__)m」と言った。
しかしMemberの、ある人は無言を保ち、ある人は笑って聞き流し、誰も手を上げなかったので私は自分の財布を確認してから、[手(グー)]「いいよ、3万円ならあるから(^^)v」と言ってKY夫婦にお金を貸した。

2607664この時まで 半分眠っていたような頭だったが、「あらっ!ヤダッ! 私ってば、朝から一度もカメラを手にしてないわ?!」と、趣味の写真撮影すら忘れていた自分に、我ながら驚いた。
ようやくバッグから[カメラ]カメラを取り出して、外の景色に目を向けると、カトマンズの街は、薄くかかった朝靄に朝日に照らされ、露がキラキラと光ってとてもきれいに見えた。
通勤に向かう人、朝の支度をする人、早朝からOPENしている店先には、珍しいものが並び、どこを見ても飽きることがなかった。
インドでは見ることがなかった肉屋の店先では、ヤギだと思うけど…、身を裂かれた状態で巨大なまな板の上に乗っていたのを見て、思わず目をそらした。
またShow windowに並べられたスウィーツには、思わず身を乗り出して、額を窓ガラスにぶつけた。
八百屋さんも何軒かあったが、インドのようにきれいに並べられてはおらず、ただ雑然と置かれてあったが、インドの物よりもはるかにみずみずしく美味しそうに見えた。
街には人が溢れ、バザールも活気に満ちているが、これらの野菜を栽培している農村地帯や、ヒマーラヤの麓で暮らす山岳地帯の人々の生活を、ほんの少しでも見てみたいと思った。

[メモ]インドの国面積は、3,287,590km² で世界7位であるのに対して、日本は377,835km² の60位、そしてネパールは140,800km² なのだが、その約80%がヒマーラヤなどの山岳丘陵地帯なので、これを考えるとても小さな国に思える。
ちなみにインドの世界人口順位は、1,169,016,000人で中国に続いて第2位であり、日本は127,967,000人で第10位、そしてネパールは28,196,000で40位なので、それほど少ない部類には入らない。
ネパールの地理を調べついでにメモしておくと、東西に約885km、南北には145km~241kmの横長の形で、全長2,926Kmの国境線で取り囲まれた国である。

Hotelを出てから[バス]20分ほどでAirportに到着。
Terminalに入る前に男女別に別けられて、簡単なSecurity Checkを受ける。
なにか性別差別をされているようで、あまり気分の良いものではないな~ぁと思っていたら、あるネパール人女性が私の前に割り込んできた。
これを見ていたTourConductorの拓郎さんが、「あっ! この人割り込んできた! この人順番抜かしたよね~!」と半分真剣になって言っていたのが、何だかすごく面白かった。
拓郎さんって、すごい正義の味方なんだ[るんるん]って、 外見も中身もとても頼り甲斐のある人だな~ぁ[黒ハート]って思った![ぴかぴか(新しい)]

2607665空港のCheck In Counterの前には、Airportらしくスーツケースが置かれている・・・のではなく、ダンボール箱や麻袋に詰められた荷物、また何故か藁の束まで山のように置かれていて、とてもAirport Terminalには思えなかった。
溢れかえる人の波を掻き分けながら拓郎さんにくっついて進み、再び男女別に分けられた個室を通って出発ロビーに入ると、ここも人でごった返していた。
Gateに近いロビーの片隅に席をとった私たちだが、心の中は、「ど~ぞ、飛行機が飛びますように」と祈るばかりであった。
何故ならば、ネパールでは電車も飛行機も、時刻表はあるけど時刻は守られないのが常識!
ましてやヒマーラヤの遊覧飛行は、ヒマーラヤの天候と相談してから決定されるので、1時間待ちは当たり前で、飛ばないことも珍しくはないそうだ。
せっかくここまで来て「[飛行機]欠航~!」な~んて言うのはショックが大きいので、自分の運を信じて祈るのみである。

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2009年2月8日(日) ネパールの歴史 [アジア]

2607509お釈迦様がお生まれになった場所は、今日 訪問したネパールのルンビニだということはハッキリしている。
しかし、お釈迦様がお育ちになったシャーキャ族のカピラヴァストゥ(カピラ城)については、現在インドとネパールが国を隔てて所在地の言い争いを続けている状態であるが、その昔、お釈迦様在世の時には存在しなかった国境線が、いつ、どのように引かれて分離しのかが知りたくなったので、ネパールの歴史について調べてみることにした。

紀元前6世紀、お釈迦様がお生まれになった頃の南ネパール・ルンビニは、インド文化圏に含まれていたということはわかっているが、時代背景については神話や宗教絡みの口伝によるものが中心となる為、正確なところはわかっていない。
碑文などによって確認されているのは4世紀頃からで、それには北インドからアーリア系民族(ヒンドゥー教)が侵略してきたことによって、いわゆるリッチャヴィ王朝時代が始まり、ヴリシャ・デーヴァ1世が建国者であるとされている。

8世紀になるとリッチャヴィ王朝に代わってタクリ・カーストによる王朝が後を継いだが、王朝は存続されつつも侵略の多い不安定な時代が続いた。
その後、タクリのアリデヴァ王がマッラ王朝を興してカトマンズ盆地一体を統一支配してから15世紀頃まで繁栄は続いたが、三人の王子によってマッラ王朝は次第に分裂していった。
三人の王子は、それぞれ、カトマンズ、バクタブル、パタンに王国を作ってカトマンズ盆地を統治し、三王国並立時代が始まる。
この国内分裂に目をつけたのがゴルカ族で、1741年頃、イスラム勢力の圧迫を受けてインド西部からネパール東部移住してきたゴルカ族(ヒンドゥー教)は、カトマンドゥ盆地を征服する戦いを仕掛けて、27年に及ぶ戦いの末にマッラ王朝を消滅させ、1768年に首都をカトマンズに移してゴルカ王朝を建て、その翌年、第10代ゴルカ王・プリトゥビ・ナラヤンがネパールを統一してシャハ王朝を建てた。

ネパール王国の基礎を確立した初代プラタープ・シンハ・シャー王は、チベットやインドへの侵入を図ったが、1814年にインドへ侵入した際イギリス軍と衝突して、1816年にネパール王国は敗退した。
このグルカ戦争はスゴウリ条約によって終結、この時ネパールはシッキム、クマオン、ガルワールそしてタライ平原の大部分を失って、現在に至る東西の国境線がほぼ決まった。

それから30年(1846年)、イギリスを後ろ盾にしたジャン・バハドゥール将軍が王家を狙ったクーデター(コットの大虐殺)を起こし、将軍はラナ姓を名乗って首相の座に就いて独裁体制を築き上げた。
この時よりネパールは国交を断絶し、第二次世界大戦が終わるまで鎖国が続けられた。
1948年頃よりイギリスの後援を失ったラナ一族に対する暴動が頻発し、ラナ一族はインドの要請によって反体制側との交渉を受け入れ、その結果1951年に再び王政が復活し、トリブヴァン国王がネパールの元首となった。
しかし新しい政府といっても、ラナ一族の出身者と設立されたばかりのネパール議会党のメンバーから構成されたものだった。
しかし、ネパールの長く続いた国境閉鎖は解かれて、鎖国状態からは脱した。

Guideのシャッキアさんが、「ネパール国民は現在も「王政」と「民主政」の狭間で悩み続けている」とガイドしていたが、どっちの体制を歩んでも、根本の所が変わらない限り納得される結果などないと思った。
ネパールの歴史を見ていると、いつの時代も我欲にものすごく正直な人がトップに立っている。
アショーカ王のように、わが身を見つめ直して、わが国の歴史に誇りを持つ人物も、また例えば、インドのマハトマ・ガンジーや、アメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのように、自分の命と引き代えてでも何とかしようと志す人間が、歴史上に一人もいないというのは、別の意味でスゴイと思った。
「王政」がうまくいかなければ王が悪いと非難して引きずり下ろし、「民主政」もやっぱりイヤだな~となったら、政治家じゃダメだ、王に何とかしてもらおうと…。
この繰り返しの渦中には、「自分が一番かわいい」、「自分さえよければいい」、という人間としての我欲が常に軸となり、頂点に君臨している・・・
だって人間だものとか、それが国民性なんだから、などと、一言で片をつけてしまえばそれまでなのだが・・・

昨日まで見てきたインド(ほんの一部だけど)に比べて、ここネパールの方のがはるかに良い暮らし向きに見えるが、バスの車窓から目にしたネパールの街や人々は、どこか冷たく雑に思えた。

「お釈迦様がお生まれになったのは、我が国ネパールだ!ネパールだ!ネパールだ!」と、ただ意地になって叫ぶばかりではなく、そのお釈迦様がどのようなお方で、どのような教えを説かれたのか。
2,500年以上の時を越えて、今なお説き伝えられる教えを示して下さった、地球上でただ一人の如来様とは、どのようなお方で、どのようなことを教えて下さったのか。
これをよくよく知って、よ~~~く考えて、その上で、「お釈迦様はこのネパールで生まれられたんですよ、ネパールの誇りです!」と、胸を張って語れない限り、「お釈迦様はネパール生まれのネパール育ち」とばかりを連呼する、その資格すらもないのではないかと思った。

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2009年2月8日(日) 八日目の総括 [アジア]

2606383Airportから30分ほど走った所にある[レストラン]カトマンズ・キッチンに到着。
今夜はネパールの民族舞踊を鑑賞しながらネパールの伝統料理をいただくという企画だ。
私は最後の方に会場入りしたので、舞台の真横の席しか空いてなくて、舞踊鑑賞には不向きな位置だったので、あまり楽しむことが出来なかった。
2606384
また料理の方も、残念ながら美味しいとはとても言えない。
Tour独特の味付けの伝統料理だなぁ~という感じで、私の隣りに座ったMemberなどは、「全然おいしくない…」と言ってほとんど口にしなかった。
それに比べて横向いに座った83歳のOTさんは食欲満点で、「何だって食べられる!」と豪語し、その言葉通りにおかわりまでして本当にたくさん食べていた。 さすが戦時体験者!!
Dinnerにはserviceで、ネパールの伝統的なお酒(シコクビエという雑穀を発酵させて作る)ロクシというのも出たが、アルコール度数40度のお酒には手も口も出せなかった。(^.^ゞ

風邪も治りかけてきたし、体力も不足はしていないのに、なんだか気持ちだけが疲れていて波に乗れないままHotelに到着した。
今夜から二連泊で、カトマンズ市中にあるアンナプルム・ホテルに宿泊。

HotelのロビーでCheck In待ちをしている間、ホテル内に店を構える土産物屋のオーナーがやたらとじゃれ付いてきた。
彼は、「君にはSpecial Priceをつけるしチャイもご馳走するから、ボクのお店に来てよ!」と、馴れ馴れしくも私の肩に手を回して言ってきたが、Guideのシャッキアさんにギロッ!と睨まれてからは、一歩下がっておとなしくなった。
MRさんが言うように、シャッキアさんはいい人かも~ぉ、な~んて!! ゲンキンな私・・・(*^^)v

今日のお宿はFour starのよいホテルだと聞いていたので楽しみにしていたのだが、一歩部屋に入るとやたらとガソリン臭い。
おまけに二階の角部屋だったので、裏路地を通る人の声や物音も気になった。
窓から外を覗いてみると、部屋の横の通りがちょうどゴミ捨て場になっていたので、そこに集る人の声と、空き瓶などを投げ捨てる音が騒々しく、またさらに部屋の斜め正面にはホテルの大型自家発電機が設置されていて、その音がゴゴゴゴゴゴーーーと地響きのように唸っていたので、「最悪の部屋だな!」という感じだった。
その上、部屋の窓の鍵が壊れていてきちんと閉まらない為に、外部の騒音も、発電機を動かしているガソリンの悪臭も、そのまま客室内へと侵入してくるのだ。
これではとても眠れない・・・・・ ましてや二泊も耐えられないと思った私は、MRさんにわがままを言って、部屋を変えてもらうように交渉することにした。
まず、TourConductorの拓郎さんに訴えたら、彼がHotel側と折衝してくれたのだが、しかし、今日は満室だから部屋のチェンジは出来ないとの返事だったので、仕方なく今夜は我慢することにした。

心が疲れている上にわがままを言ってしまった分、なんとなくイヤ~な空気が部屋に流れているような気がしていた私に、MRさんは、「なっちゃんはわがままを承知でちゃんと自己主張できたんだし、私もそれを了解したんだから、それでいいんちゃうの!」と言ってくれたので、チョット浮上することができた。

MRさんがシャワーを浴びている間、スーツケースの整理をした。
整理と言っても特に何をする訳でもないが(^.^;)・・・
何せ、私のスーツケースの中身は、相変わらず半面は空っぽのまんまで、増えたものといえば、自分の為に買った15cmほどの仏像と、ビスケットだけ・・・
財布の方は、インドルピーが両替した分ほぼ丸々残ってる・・・
「困ったな~・・・・・  おみやげは買わなくっちゃいけないし、ルピーも使っちゃわないといけないし・・・・・  
でも、当てもないし・・・・・」
そんなことを考えながらスーツケースと睨めっこをしていただけで、時間だけが過ぎていった。

2009年2月8日(日) バイラワ → カトマンズ [アジア]

ルンビニ園から一旦Hotelへ戻ってトイレ休憩を済ませてから、P.M.15:10にHotelを出発。
HotelからバイラワのAirportまでは、30分(22km)ほどで到着した。
Guideのジャマールさんや、Driverさん&助手さん、それに一週間乗り続けたバスともこれにて[手(パー)]バイバイである。

ネパールでは電気がほとんど供給されていないので、AirportといえどもX線検査機なるものはない。
ましてやここはネパールの片田舎。 したがってAirportでの荷物検査は、スーツケースを係員の面前で開けての手作業&目視での検査になる。
ただし、これが結構いいかげんなので、先に並んだ10人分ほどの荷物をチラッと確認するだけで、それ以降の人はほとんど見られることはない。
ただ不思議なのは、Airportの建物からの自由な出入りが一切禁止されていることだ。
到着後に空港の建物から一歩でも出たら、トイレに行きたくなっても入場禁止で、逆に、飛行機に乗る為に空港の建物に入ったら、建物からは出てはいけないと言われた。
な~か意味のない、面倒くさい決まりである。 (納得いかない…)

TourConductorの拓郎さんがCheck Inを済ませて、Departure Timeまでの1時間を退屈に過ごしていると、拓郎さんから、「飛行機が30分~1時間ほど遅れます」との連絡が入った。
「え゛~ぇ、退屈…!」って思ったけど、これでもすごくラッキーな方で、「ネパールでは定刻に飛行機が出ることはまずあり得無いし、飛行機が飛んでくれるだけですごく有り難いことなんだ!」って言われた。
その証拠に、1時間前にさようならをしたはずのバスとGuideのジャマールさんたちは、まだAirportの駐車場に待機していた。
これは、乗る予定の飛行機が飛ばない可能性もあるので、もしそうなったらカトマンズまでバスに乗って行かなければならず、その為に飛行機が私たちを乗せてバイラワAirportを離陸するまで、バスも彼らも待機していないといけないのだそうだ。
(ジャマールさんの帰宅は、[電車]きっと三日後ね…、と思った。)

P.M.5:00 やっと出発Gateに移動出来ると言うので、手荷物検査を受ける。
これがまた可笑しくて、トイレ[トイレ]の前にトイレ[トイレ]と同じ “MEN” と“LADY” のマークが付いたドアーがあって、男女別に一人ずつその個室に入る。
その中で一人ずつ手荷物の中身を見られるのだが、ここでも最初の10人くらいがチラッと見るだけで、後の人はスルーなのだから、全く意味のない男女別の個室検査なのである。
この個室から出た所が出発Gateならぬ、出発待機所であった。

2604387P.M.5:20 到着したばかりの飛行機から乗客が降りてきて、(まるでバスか電車のように)入れ替わるように私たちはその飛行機に乗り込んだ。
30人乗りの小さなプロペラ機で、私たちMemberの他に5人の乗客が乗って満席となった。
飛行機が離陸する前に、CAがトレーに乗せたキャンディーとコットンを配って回ったので、「このコットンは何に使うのか?」と尋ねたら、2604389
「プロペラの音がうるさいから、耳栓にしてくれ」と言われた…。 
初体験だ~ぁ・・・・・
また、S先生が「これ見て!」と、シートポケットにあったエチケット袋を見せてくれたが、そのリアルな絵に二人で大ウケ! 
何も、口から出てくるモノまで描かなくってもね~、わかりやすいけど… (^.^ゞ 
そうこうしている内に、アッという間に飛行機は離陸した。

2604388
バイラワを飛び立ってわずか10分ほどで、北の窓からは、初めて目にする夕日に染まったヒマーラヤの山々を望むことが出来た。
雲の上に飛び出した雪山が、見上げるでも見下ろすでもなく、窓のすぐ横にあるのがとても不思議な感じだった。
太陽は既に西の空からその姿を消し、かすかな夕日に青く、赤くそまったヒマーラヤと満月が、すごく幻想的だった。

バスなら7時間はかかるという距離を、たった30分のFlightでカトマンズ・トリブヴァン空港に到着。
飛行機から降りて、何故か大型タイヤが乗せてあるAirportバスに乗って移動。
Terminalまで行くのかと思ったら、送迎車が待機する駐車場で、スーツケース共々下ろされた。
インドもネパールも、その予想外の空港常識には、ホントに驚かされるばかりである。

Airportバスからネパールの観光専用バスに乗り換えて夕食会場へと向かう中、ネパールの現地Guideさんが自己紹介された。
釈迦一族の末裔を自称する、ネワール族のシャッキアさんと言うのだそうだ。
インドのジャマールさんとは対照的に、今度のGuideのシャッキアさんはすごく早口で営業的なしゃべり方をされるので、私はなんとなく馴染めない感があったが、MRさんはそれがいいのだと言っていた。
でも、シャッキアさんに気軽に話しかけてるMemberは誰も見なかった…。

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2009年2月8日(日) ルンビニ ( ネパール寺院 ・ チベット寺院 ) [アジア]

ルンビニ園の菩提樹の木陰から出て日差しの中に入ると、いっそう日の光がきつく感じた。

集合場所までは、今日でお別れとなるGuideのジャマールさんとおしゃべりをしながら歩いた。
以前、私もAMERICAで現地ガイドのアルバイトをしたことがあったので、「Guideさんは、Tourのお客さんが思っているほどに、別れは寂しくないよね~! 本音は仕事終わりの今日が一番幸せを感じちゃうものよね~[揺れるハート]」な~んて暴露話しに花を咲かせた。
また、私たちと別れた後、ジャマールさんは寝台列車で二日間かけてデリーまで帰るんだって聞いて、「羨ましい~な~ぁ!」と言ったら、「そんなふ~に言われたのは初めてだ」って!
だけど 実は私、インドに来たら大陸列車に乗って移動したかったから、本当に列車に乗れてい~な~って思った。

Memberの後に付いてルンビニ園のGateから出ると、しばらくの間そこで待機させられた。
なんでかな~ぁと思ったら、Memberの一部の人だけがTourConductorと一緒に、何か(不明)を見学しに行っているらしく、ある人が、「集合時間を過ぎてから行くような見学なら、みんな一緒に案内してくれればいいのに!」と怒っていた。
私も、ただボ~っと待ちぼうけをするだけなら、なんか知らんけど一緒に見に行きたかったな~ ・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

ルンビニ村には各国の寺院が軒を連ねているそうだが、マーヤー夫人堂の一帯は“聖園地区”と呼ばれていて、ネパールとチベットだけが、この地区に寺院を建てることを許可されているそうで、その他各国の仏教寺院は、聖園地区の北側にある寺院地区に集中して建てられているのだそうだ。
夕刻発のFlight Timeまで時間が有り余っている私たちは、聖園地区にある二つの寺院を見学した。

2601775ネパール寺院はマーヤー夫人堂の東正面に位置する。
「ネパール仏教」は、カトマンズ盆地を中心に住んでいるネワール族(チベット系民族)が主に信仰しているヒンドゥー教と仏教とを共存・融和させたもので、仏教とは一味違う独自の信仰を生み出しているとのこと。

ルンビニのネパール寺の建物は、パステルイエローの外壁のその正面に目が描かれているたので、中央のブルーに塗られた出入り口のドアーが口のように見えた。
中に入ると仏教旗が飾られたシンプルな院内のその正面奥に、ご本尊となるお釈迦様像が安置されている。
しかし、そのお釈迦様の首から下は恐ろしいほどに金ピカピカのメッキ製で、しかも首から上の顔の部分は別素材に金色が塗られていて、生首が乗っかっているような異様なお釈迦様像だった。
2601774また寺院の片隅には、10歳位の少年の像が“天上天下唯我独尊”のポーズをとっていたけど、・・・まさかお釈迦様の像じゃ~ないよね~?!というよ~な金ピカの彫像が展示してあった。
Memberより一足先にネパール寺院から出た私は、その庭に設置されている石像のお釈迦様とご対面。
こちらの方は、額の宝石だけはチョット不自然だったけど、さして違和感のないお釈迦様像だった。

2601776次に、そのネパール寺院の北側にあるチベット寺院にも行ってみた。
こちらの方は、チベットらしい中国系のペイントが施された外観で、その寺院の屋根からは「も~ぉ見たくない!」というほどに見慣れた、タルチョー(経文の書かれた五色の旗)が張られていた。
チベット仏教は、7世紀前半に仏教に基づく国造りを目指したチベット国王が、インドから直接に後期仏教を取り入れたインド直系の仏教であり、サンスクリット語の経典翻訳においてチベット語が確立されていった経緯もあり、仏教研究においては非常に重要な位置を占めているのたそうだ。

ルンビニのチベット寺の入り口には、両サイドにカラフルな絵が施されていた。
中へ入ると、さらに色鮮やかな絵が、壁や天井や柱に至るまで描かれていて、太鼓もあるし…、ど~ぉ見ても中国系だよな~という感じの寺院だった。
ご本尊のお釈迦様坐像は、ネパール寺院のものよりはるかに落ち着いた雰囲気だったが、やはり全身ピカピカに輝いておられた。

両寺院の他にもルンビニ寺院地区には、日本寺・中国寺・韓国寺・タイ寺・ドイツ寺などがあるそうだ。
お釈迦様もビックリな、仏教のリトルワールドみたいで、出来ることなら全部回ってみたいと思った。

ルンビニ聖園地区を1時間半ほど見学して、再び土産物通りをぬけた所でサイクルリクシャーに乗った。
しかし、この時大きな過ちを犯してしまった・・・・・!
私たちはMemberの中でも一番手にリクシャーに乗ったのだが、何故か次々と追い越されてされてしまう。
フッ と運転手を見ると、いかにも非力そうな、しかも超極細の、尚且つ最高齢のおじいちゃん運転手だった・・・・・[ふらふら]
エッ と隣りに座るHKさんと顔を見合わせて・・・、「私たちって、デブの部類よね~」、「そんで持って、このおじいちゃんに自転車牽かせて・・・」、「「すごい罪の意識感じるね~~~」」 と、とても居心地の悪いひと時となってしまった (^.^ゞ
「おじいちゃん、重たくってごめんなさいです m(__)m !!」

バスプールに着いておじいちゃん運転手にお詫びをして別れると、現地の子供たちが、「なむあみだぶつ」と連呼していた。
えっ?! 初めて聞く現地の「なむあみだぶつ」だ~ と思ったら、KYさんが子供たちに教えていた。
すばらし~[exclamation]  君たちに幸(縁)あれ[exclamation×2]

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2009年2月8日(日) ルンビニ ( マーヤー堂 ・ 沐浴の池 ) [アジア]

ルンビニ村のバス乗降場から、マーヤー・デーヴィ・テンプルへと続く参道手前までは、サイクルリクシャーで移動して、そこからは土産物屋がズラリと立ち並んだ道を100mほど歩く。
ここはインドの仏跡地と違って、しつこい物売りや物もらい等に囲まれないのが心地よくて、逆にこちらの方から土産物屋を覘き込みながら歩いて行くのが楽しかった。

土産屋通りをぬけると視界が開け、フェンスで仕切られた庭園の中にレンガ造りのマーヤー・デーヴィ・テンプルを見ることができる。
そのGateを入って、「これがマーヤー堂か~」と、カシャカシャと写真を撮っていると、S先生が、「確かマーヤー堂の建物は白色だったはずなんだけど…」と言われたが、目の前のマーヤー堂は赤茶色だった。
S先生が言われたとおり、昔はお釈迦様御誕生の像を囲うだけのチャチな小屋のような祠堂だったが、S先生が前回ここを訪れた時には、遺跡の中心部をスッポリと囲うほどのお堂が建てられ、それは白く塗られて、建物上部の塔には金が施されていたそうだ。
しかし、時と共に風化し、白かったマーヤー堂も灰色から黒へと変色して、やがてはその塗装も剥げ落ちて現在のような赤レンガむき出しのお堂となったそうだ。

2600165入り口からマーヤー夫人堂の北側を通り過ぎるとその裏に、高さ7mほどのアショーカ王石柱があった。
これは1896年、ドイツ人考古学者のフューラーが発見した石柱で、「ここに釈迦牟尼世尊生まれたもう」とブラーフミー文字で記されていた事から、釈迦牟尼如来の実在とその御生誕地が実証されたのである。
また石柱には、アショーカ王即位20年の時にここを訪れたことや、お釈迦様の誕生地であるルンビニ村は税金を優遇するなどの言葉が刻まれている。
(右上の写真は、アショーカ石柱に書かれたブラーフミー文字で「釈迦牟尼」と書かれている)

『ラリタ・ヴィスタラ』(『普曜経』・『方広大荘厳経』)などによれば、ある夜、お釈迦様の母・マーヤー(摩耶)夫人は、六本の牙を持つ白い象が右脇から胎内に入ったという夢を見られ、それから間もなくしてお釈迦様をご懐妊された。
やがてマーヤー夫人の出産時期が近づくにつれ、国内(シャーキャ族)には不思議な吉兆の様々が現れたと伝えられる。
臨月を迎えられたヴァイシャーカ月(4月~5月)にマーヤー夫人は、当時の慣わしに従って出産の為に郷里(コーリヤ)のデーヴァダハへと帰省される途中のルンビニー園にて、一面満開に咲き誇る花々に誘われるように立寄られ、輿から降りられた。
そして、マーヤー夫人が、アショーカの樹(北方伝では無憂樹(アショーカ)、南方伝では娑羅双樹(サーラ)と伝えられる)に近寄って手を伸ばされ、その一枝を握られた瞬間、陣痛と共にその立ち姿勢のまま、お釈迦様をご出産なされたと伝えられる。

お釈迦様が誕生された日付には諸説あるが、日本では『太子瑞応本起経』などの記述から(旧暦の)4月8日とし、各地で“花まつり”などが催されている。
花まつりとは、正式には灌仏会(かんぶつえ)といい、ルンビニ園の花園をイメージした花御堂を作って、その中に置いた灌仏桶の中央にお釈迦様の像を安置し、柄杓などで甘茶をかけてお祝いをする行事である。
この甘茶は、お釈迦様が誕生された時に龍が天から飛来して、香湯(ソーマ、アムリタ)をそそいだという故事に基づいてのものである。
私も子供の頃に、お釈迦様のお誕生日を祝っての行事だとは知らないまま、花まつりの日には、ただおやつをもらう為だけに御仏壇のあるご近所の家々を回ったものだった。

私たちMemberはまず、アショーカ王石柱を前にして座をとり、今回の旅行中では最後となるお勤めをした。
この日のお勤めは読経ではなく、仏教詩歌集より「『大経』のうた」をみんなで歌った。
私にとっては初めての唱歌だったが、数日前にMRさんが就寝前のベッドの中で歌って下さったので、そのメロディーを覚えていて難なく歌うことが出来た。
しかしただ、長い長~い歌で、しかも太陽がちょうど頭の真上の時間帯だったので、軽~い苦行のような感じとなっていた…[たらーっ(汗)]

お勤めの後にマーヤー堂へと入ると、お堂は遺跡を囲う為だけの建物で、壁伝いには回廊が張り巡らされていた。
そして建物の中央部に伸びた回廊の先端には、お釈迦様誕生のレリーフと、1995年こマーヤー夫人堂の真下から発見されたというお釈迦様誕生の地であることを示すマーカーストーン(印石)が見学できるようになっていた。
この印石の発見によって、四大聖地であるルンビニ園のマーヤー夫人堂は、世界遺産の認定を受けた。

2600166マーヤー夫人堂を出るとその正面には、マーヤー夫人が沐浴をし、お釈迦様の産湯に使ったというプスカリニ池がある。
どの仏跡の、どの沐浴の池も、周囲をコンクリートで固められて、まったく味気の無いものになっているのが残念である。
そしてこの池の対岸には大きな菩提樹が聳えており、そのたもとにはチベットの僧らが座っていた。

(この写真は、マーヤー堂とプスカリニ池とアショーカ石柱)

Memberと一緒にプスカリニ池の対岸に回って菩提樹の下で写真を撮り合い、そのあと私とMK先生は、その奥に広がる菩提樹の林に中に二人並んで腰を下ろし、心静かに風を感じていた。
日なたと日陰があるように、また静と動があるように、私とMK先生のいるこの場所は、他のMemberのいる場所とはまったく違ったものであるかのように思えた。
「このまましばらく、こ~していたいですね~」と二人とも思ったが、残念ながら集合の[時計]合図がかかった。
あ~ぁ、本当に残念[どんっ(衝撃)]!!!
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“生き物” と “食べ物” [心]

“生き物”と“食べ物”に違いはあるか? こんなテーマで考えてみる。

今日、早朝から海釣りに出かけていた夫が夜遅くに帰ってきて、本日の成果を嬉しそうに報告した。
魚の方は既に死んでいたが、イカはまだかすかに生きていた。
「まだ新鮮だよ♪ どんな料理を作ってくれる?」と、夫はとても楽しそうだが、私の心は複雑だった。
いつも思う・・・  釣りなんて残酷な趣味だわって・・・。

夫の釣ってきたイカは、もう動く力は残っておらず、吸盤もほとんど吸い付くことも出来ないが、イカは最後の力を振り絞って体の色を変化させては敵意を表わしている。
釣られたその場で絞められる(さばかれる)のと、息絶えるまで何時間も苦しい思いをしなければならないのと、イカにとってはどちらの方が不幸なことなのか・・・・・? などと考えさせられた。

人間だって同じである。
私たちは、生きている間のことしかわからないから、病気で苦しんでいる人を目の前にすると、いっそうのこと死んだ方のが楽になれるんじゃないかと思ってしまう。
私もかつてはそう思っていた。
病気の為に、苦しんで苦しんで苦しみぬいた挙句に死んでいった母に、「もう苦しまなくっていいから、ゆっくり休んでね」と、心の底から信じてそう言葉をかけた。
でも、生きている間の母の苦しみは、私の目で見て知っているけれど、死んだ後のことは、単なる私の空想、そして当てのない願いでしかないのだ。

死後の世界を明確に教えているのは仏教しかない。
そのお釈迦様が仰るには、「生あるものがひとたび死ねば、この世の苦しみとは比べものにならないほどの極苦の世界に落ちていかねばならない」と説いておられる。
なぜならば、因果の道理という真理のもとに、因果応報は免れることが出来ないからである。

夫が釣り上げたイカは、いつの世か、夫自身が釣り上げられて、それで業は果たされる。
夫がイカを火で炙ったならば、夫もいつは火で炙られ、夫がイカをまな板の上でさばいたならば、夫もいつかはまな板の上で生きたまま皮をむかれて体に包丁を入れられるのだ。
人ごとでは決してない。 私もそうやって生きている。
それどころか、私のズルさは夫を上回っているかもしれない・・・。
だって、死にそうな状態で苦しんでいるイカを見て、「残酷だ、かわいそうだ」などと言っては目を覆うくせに、皿に盛られた刺身の状態になれば、「美味しい」と言ってそれを口に運ぶ。
いつの間にか、“生き物”から“食べ物”へと呼び名を変えて満足している私・・・。

以前、御法話の中でG先生が、「人間は、“生き物”を、自分の都合で“食べ物”と呼称する」と、お話されたことがあった。
まさに、それだ!
どこまでが“生き物”で、どこからが“食べ物”なのかは、まったく人間の都合で分別しているに過ぎない。

そういえば今日の夕方のニュースで、「動物虐待に反対する団体」がいかに素晴しいかということをニュースソースにしていた。
彼らは、人間がペットと呼ぶ動物に対しては愛護するが、その一方で、家畜として分類した動物に対する愛は全く無い。
「動物虐待に反対! 動物愛護は素晴しい!」と言いながら、牛さんや豚さんや鳥さんを口にしているのだから、チャンチャラおかしな話だ。
“生き物”と呼ぶのも、“食べ物” と呼ぶのも、“ペット” と呼ぶのも、“家畜” と呼ぶのも、全~部人間様のご都合で、何が“悪”で、何が“善”かも、人間様が自分勝手にこしらえた妄想でしかない。

“生き物”と“食べ物” に違いはあるか? という疑問自体が間違っていた。
私が“食べ物”と思っている肉も魚も、みんな“生き物”なのだ。
私は、それら“生き物”の命を犠牲にした上に生きているのだ。
自分の都合で “食べ物”にしてしまった“生き物”たちに、慰霊碑だとか慰霊祭なんかで誤魔化したって、なんの償いにもならない。
私が“食べ物”にした分だけ、私も“食べ物”になるということ。
これを信じられないだとか、生きてく為には当たり前の摂理だなどと、どんな言い訳を並べたところで、因果の道理は変わらない。

実際には、目に見えぬ真実など信じることなんか出来ないけれど、お腹が満たされている時だけは、“生き物”を“食べ物”と呼ぶことに、少しだけ胸が痛む私なのである・・・・・

P.S. コウイカのお刺身は、イカ味噌とダシ醤油を混ぜたもので食べると上手い[わーい(嬉しい顔)]  (懺悔[あせあせ(飛び散る汗)]

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