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2009年2月3日(火) ラージギル から → ブダガヤ へ [アジア]

「ナランダ」とは、“蓮のある場所” という意味なのだそうだ。
「ナラン」とは蓮、「ダ」とは与える、の意味で、蓮は知恵の象徴であり、知恵を与える場所・知恵を授ける場所という意味で、「ナランダ」と名付けられたそうである。

ナーランダ大学跡の見学を終えた私たちは、道向のナーランダ博物館へ向かった。
ここでトイレ休憩があったのだか、案内されて行ったトイレを見てたじろいてしまった。
‘レディース’と表示されたコンクリートの壁面に、約30×40cm四方の薄汚れた白く平たい陶器が5つ、30cm間隔に並んで設置されていた。
2562179「え゛っ! ここで?! 並んですんの?? 
壁もないのに???」
みたいなことを無意識の内にみな口にした[ふらふら] 
「マジかよ・・・・・[たらーっ(汗)]
するか、しないか・・・・・  ど~しようかと悩みつつ、ウロウロとしながらその奥にあった掃除道具入れのような薄暗い仕切りの中をのぞいてみると、その中央部に一つの穴がポッカリと開いている。

ただし、壁のような仕切りはあるけど、ドアとよべるようなものはない。
「ひらめいた! この白い便器のようなものは小便用! そしてこの穴は大便用だぁ!」 という結論に達し、私たちは大便用の仕切りのそこで、順番に用を足し、事なきをえた。
ある意味、青空トイレよりも感動的な出会いだった!

ナーランダ博物館には、ナーランダ大学跡で出土・発掘された(現在も発掘作業中)6~12世紀頃のインド仏教末期の仏像やヒンドゥーの神像などが展示されている。
館内は決して広くはない。 仏教彫刻もせいぜい50体ほどであるが、日本とは一味違うお顔をされたお釈迦様の像は、見ていて楽しかった。
netでは写真撮影可との情報を得ていたが、Guideさんより不可の指示があり、撮影することができなかったが残念!

博物館よりバスに戻ると、Guideのジャマールより許可された一人の物売りがバスに乗り込んできて、ジャマールさんが代行してバスの車内でポストカードの販売を始めた。
私も買お~かな~と思ってジャマールさんに声をかけたのだが、ひたすら無視をされ続け(わざとじゃないと思うけど…)、買う気が失せてしまった。[バッド(下向き矢印)]
結局、物売りはかなりの売り上げを手にし、ジャマールさんやDriverさんとAssistantさんにもMarginを手渡して、数km先でバスを降りて行った。
彼はここからど~やってナーランダまで帰るのだろう・・・ と、私のいらぬ心配をよそに、バスは昨日泊まったHotelで昼食を食べる為に朝来た道を戻って行った。
昼食は、予想通りの和定食(うどん付き)。
いったいいつになったらインド料理を口に出来るのだろうか・・・・・

午後1:00 バスはHotelを出発して、ブダガヤへと走り出した。
Routeは昨日来た道をそのまま空港まで戻って、さらに南へと下る。
Hotel東側の道を南に向かい、その突き当たりの道を左折してしばらく行くと左手には竹林精舎、右手には温泉精舎が見えてくる。
その突き当りの道を今度は右折すると、旧王舎城を北門から入るかたちになり、七重の牢獄跡を左手にさらに進むと南門へと続く。
昨日から何度も通っているのですっかり覚えてしまった。
旧王舎城の南門付近は、昨日とはうってかわって人気がなくひっそりと静まりかえっていた。
途中、車道を歩く牛や、ヤギや、羊の群れを追い越して、道路の脇に咲く白や黄色(ゴールデンシャワー)の花の咲く木を車窓より眺める。
バザールを通り抜ける時には、店頭に形よく並べられた商品に目を奪われ、不思議な食べ物を見た時にはゴクリと唾を飲み込んだ。
町は、ゆったりとした時間の中で今日を生きていた。
私たち日本人が、生活をする為に生きているのとは違い、この町では、生きる為に生活をしているのだと思った。

2562186またバザールには食料が溢れかえっていた。 
Guideのジャマールさんから、インドの食料自給率は100%だと説明を受けたが、あきらかに売れ残ってしまうだろうほどに山積みにされた食料の行く末を心配して、帰国後チョット調べてみた。
インドの食料自給率は、130%だそうだ。 つまり、自国では余りあまって輸出に回しているのである。
しかしその輸出も、地方の農村部までは管理の手が回らず、インドの食料廃棄率は70%をはるかに上回るというのだから驚きである。
農業世帯は総世帯の75%にもなるが、しかし、デリーなどの都心部でIT企業に就職した新卒者の初任給が月/約30万円であるのに対して、地方の零細農民(農業世帯の30%)の収入は、月/5,000円に及ばないという。
また、日本ではエリートと呼ばれる人たちの自殺者が絶えない一方で、ここインドでは生活に困窮した農村部での自殺者が絶えないというのも、“生きる”という意味で、深く考えさせられる統計である。

ラージギルから2時間半ほど走ってガヤの南東部でバスが停車し、Guideのジャマールさんが、「左手の山頂にある建物が、ゾロアスター教の寺院だ」とガイドした。
私は始めて耳にした名前だったが、MRさんは大学で少し学んだと言って、興味深そうに質問していた。
ゾロアスター教は、光や火を崇拝するため拝火(ハイカ)教とも称されているらしい。
そこからさらに15分。 やっと目的地であるスジャータHotelに到着した。

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2009年2月3日(火) ラージギル ( ナーランダ大学跡 ) [アジア]

朝食後は各自部屋に戻って、シャワーで汗を流し、荷物のパッキングをした。
そして集合時間になってもMemberがなかなかそろわないと思ったら、みんなHotelのShopで、土産物を物色中とのこと (^^ゞ
バスの中では、さっそく購入したばかりのウン万円もする御念誦を見せ合いながら、いくら値切った~など、インド式Shoppingの話題に花が咲いた。
私とMRさんは、「あ~あ、そんな大枚を叩いちゃって~・・・」と、小声で密談 (^_^;)
みなさん、ここはインドですよ~!
日本物価での買い物は、いくら値切って買ったとしても、ゲームとしては負けですよ~

さて、80歳というお年をむかえられたお釈迦様の最後の旅の出発地となったのは、ここ王舎城からであった。
アーナンダ(阿難陀)尊者を伴われて、王舎城の北門より出られたお釈迦様は、当時主要な通商路を十数km北に進まれ、ブッダガヤの北東に位置するナーランダ村の富豪・パーヴァーリカが所有するマンゴー園にて一先ず腰を落ち着けられた。

私たちはバスにて北へ向かい、20分ほど走った所にあるナーランダ大学の門前でバスを降りた。
出来ることなら、せめてこれ位の距離は、お釈迦様と同様に歩いて行きたいと思うのだが、Tourではこれが許されないのが残念であった。

ナーランダ村は、お釈迦様の十大弟子に名を連ねる、智慧第一といわれた舎利弗(シャーリプトラ)尊者と、神通第一といわれた摩訶目犍連(目連・マハーモッガラーナ)の御生誕の地である。

ナーランダ大学は、427年・グプタ朝のクマーラグプタ一世によって創設された寺院であり、世界最古の大学といわれている。
当時10,000人以上の学生と、1,500を超える教員が在籍したとの記録もあり、史上最大の居住型学校であったとされ、9階建ての校舎と、6つの寺院に、7つの僧院があって、図書館には500万冊以上もの蔵書があったという。
12世紀までは歴代の諸王によって庇護され栄華を誇っていたが、1193年にイスラム教徒・トルコイスラム人の侵略によって大学は破壊され、この以降、インド仏教は衰退の一途をたどった。
現在は南北に600m、東西に250mほどの敷地にレンガで作られた建物の骨格と、ストゥーパ(供養のための仏舎利塔)が残っているのみで、大学としての機能は果たしていない。

バスを降りたところですぐに集ってきた物売りも、ナーランダ大学の入場ゲートから中へは入って来なかった。
なぜならば、ここは入場料が必要だからだ。
ちなみにナーランダ大学の入場料は、インド人なら一人5Rsだが、外国人は一人100Rsだそうだ。
先ほどHotelのShopで、25,000円の御念誦を購入された方があったが、この割合で単純計算してみても、現地価格では1,000円程度。
この25倍の相場を考えながら土産物を買いたいと思うのは私だけ(^_^;)?????

Entranceをくぐると、まっすぐに伸びたRoadの両脇に、無憂樹(アショーカの木)の並木道が続く。
S先生から、この無憂樹(アショーカの木)は、三大聖樹の一つで、「天竺菩提樹」は“成道”、「沙羅双樹」は“涅槃”、そして「無憂樹」は“誕生”を表しているのだと教えていただいた。
残念ながら花の季節ではなかったので、花咲く無憂樹を見ることは出来なかったが、橙色から色鮮やかな紅いに変わるというその花を、ここインドで見てみたかった。
この無憂樹並木を100m程進むと、3m程の高さのレンガ塀に囲まれたナーランダ大学の遺跡へと入るGateがあり、ここをくぐればもう校舎だ。
2561429
手近な階段を上がると、レンガ作りの骨格と、大小のストゥーパが一望できた。
ここに9階建ての木造の建物や数々の寺院や宿坊があったと思うと、そのスケールに驚きを隠せない。
しかし風景に気をとられながら歩くと、もれなく落下することなるから、移動する場合は足もとを見ながら進まねばならないことをここに特記しておこう。

Guideのジャマールさんの解説は丁寧すぎて少々退屈と感じてしまった私が、一人フラフラと写真撮影をしていると、不意にMRさんから、「なっちゃん、この人がしゃべってる!」と言って背中をつつかれた。
MRさんの隣に立っていた、オレンジ色の袈裟を着たその僧侶は、ミャンマーから来たのだと話し始めた。
今はボス?と同僚三人とで、インドの仏跡を巡礼中なのだと言った。 とてもきれいな英語だった。

ジャマールさんの説明も一段落し、団体で移動している途中、インド人の少女(18歳位?)より呼び止められ、写真を撮って欲しいと頼まれた。
私が「OK」と答えて彼女からカメラを受け取ろうとすると、彼女は、「違う!私はあなたと二人で写りたいんだ」と言った。
別に断る理由もないので私は彼女の願いどおりに二人並んで彼女のカメラに「ハイ、チーズ!」と収まったのだが、それから予想外の展開になってしまった。
周囲のインド人までも、私も、俺も、と言いながら、私と一緒に写真を撮りたいと集まってきたのだ。
しかも最初に一緒に写真を撮った少女が、あっちでももう一枚、こっちでももう一枚と言いなが、わたしの首に腕を回したまま離さない。
Guideのジャマールさんが再び解説を始めるも、インド人たちには知ったことではなく、私は訳もわからないまま撮影会の中心人物になってしまった。
しばらくして周囲の状況が少し落ち着いてきたので、私はその少女と少し会話をした。
彼女は、父親は家で留守番中で、それ以外の家族全員とで旅行中なのだと話してくれた。
彼女とはもっと話しをしてみたかったが、TourのMemberは既に彼方へと移動してしまっているし、TourConductorの拓郎さんも、「これ以降の撮影は有料にしよう」と冗談を言い始めたので、私はしぶしぶ彼女たちに別れを告げた。

再びMemberと合流するとS先生から、「こっちで話題の有名人に似てるんかなぁ~?」と、ここまではよかったが、「ふくよかな女性はこっちでは受けるんやろか?」といわれ、S先生の深~い愛情?[パンチ]を感じたのであった・・・・・[爆弾]

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