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2009年2月3日(火) ラージギル ( 王舎城の悲劇とその後 ) [アジア]

アジャータシャトル(阿闍世・アジャセ)は、父ビンビサーラ王を七重の牢獄に幽閉するとすぐに王位に就き、活発な征服活動を展開し、コーサラ国王やカーシ国を完全併呑し、ヴァイシャーリー国をも支配下に置いた。
この他にも多数の征服活動を行ってマガダ国をインド随一の大国へと押し上げた。

王舎城の悲劇については、『涅槃経』や『阿闍世王経』などのいくつかの仏典において、次ように伝えられる。
父ビンビサーラ王は、毘富羅山(ヴィプラ)に鹿狩りに出た際、一頭も狩りができないことを、たまたまそこに居合わせた仙人が追い払ったと思い込んで、臣下にその仙人を殺させた。
その仙人は死に際に怒りの形相で、「来世において心と言葉でそなたを殺す」とビンビサーラに言い放って死んでいった。
それから間もなくしてヴァイデーヒー夫人が懐妊した。
殺害した仙人の言葉が忘れられないビンビサーラ王は、生まれてくる子がその仙人の恨みを受け継いだ(未生怨)子であることを心配して、アジャセ誕生の前に相師に占わせてみた。
すると相師より、「生兒が怨を懐き父王を殺すだろう」と告げられ、ビンビサーラ王はこれを信じて、生まれてきた我が子を楼上より投げ捨てたが、アジャセは指一本を損じたのみで死ななかった。

成長したアジャセに近づき悪知恵で唆したのが、お釈迦様の教団に反逆し新教団を形成せんとしていたデーヴァダッタであった。

デーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)は、お釈迦様のお弟子である多聞第一として名高い阿難(阿難陀・アーナンダ)尊者の兄であり、またお釈迦様の従兄弟に当たる人物である。
デーヴァダッタは釈迦族の諸王子たちと共にお釈迦様の弟子になったが、お釈迦様に、戒律を厳格に整備して教団の改革を提唱した「五事の戒律」を提案するも、これを拒否された上に、公衆の面前で生活態度を指摘されたことに腹を立て、釈迦教団から分派して独自に新しい教団をつくったとされている。
そして、隙あらばお釈迦様の教団を乗っ取ろうと企み、当時強大な力を誇っていたマガタ国の王を我欲の為に利用しようとしたのである。

デーヴァダッタに唆されるまま、アジャセは父ビンビサーラ王がお釈迦様のもとへ礼拝できぬように足の肉を削ぎ、七重の牢獄へ幽閉してしまった。
また母妃が父王に食料を施していた事を知るや、母妃をも幽閉してしまい、父王を餓死せしめた。
しかし、アジャセは次第にその罪の深さに悔い、心身共に病んでいった。
体中にできた疱瘡が腐敗し、高熱にうなされるアジャセに、家臣のジーヴァカ(耆婆)は、お釈迦様に相談するように勧めた。
お釈迦様のもとを訪れたアジャセは、その教えに感化を受けて、自らの罪を懺悔し、病も快方に向かって以後は、深く仏教に帰依し、教団を支援するようになったと伝えられる。
また、お釈迦様はアジャセに、「父王は自らの罪による報いを受けたのであって、そなたに罪はない」と言ったとされる。
しかし、お釈迦様が涅槃に入られて二十数年の後、アジャセ王は自らが犯した父殺しという罪と同じく、息子によって殺害されたと伝えられる。

一方、デーヴァダッタは、お釈迦様を殺して教団を乗っ取ろうとしたが失敗に終わり、仏教で重悪とされる五逆罪(殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)の内、三つの逆罪を犯した因果で、生きながらにして無間地獄に落ちたといわれている。
『大唐西域記』に記された、デーヴァダッタが堕していった穴は、現在も王舎城に残っているという。

2559175霊鷲山からバスの後をついてきた物売りたちが、ここ七重の牢獄跡でも商売を始めた。
どうやら、先の場所でMemberの一人が物売りから何かを購入したことで、この団体は買ってくれるとふんでしつこく付きまとっているようだ。
物売りたちを邪険にし続けているのも疲れるので、その中の一人と話しをしてみることにした。
以外にも、商売に必要な日本語はかなりたくさん知っていて、しかも上手に発音して、ある程度の会話になる。
その知識、他で活かせないのだろうか・・・・・

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