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Positive thinking と Negative thinking [心]

今にして思えば、幼い頃から徐々に形成されてきた性格に加え、小学生の時に起こったある出来事をきっかけにして自分の心に鍵をかけ、いつの間にかその扉も鍵も見失ってしまった私。
しかし、三十数余年の歳月をかけてその扉を埋めて隠して忘れ去っていた私の前に現れたその人は、「君には開けなければならない扉がある」と言いながら、半年前、私にその扉を開ける鍵を手渡そうとした。
でも私は、怖くて、怖くて、その鍵を受け取ることが出来なかった。
そして今も、鍵はその人の手の中にある。
だけど、私が隠した扉の上に分厚くかけられた砂は、今はきれいに取り払われて、私が開けることの出来ない(開けたくない)扉のその存在だけはハッキリと目にすることが出来る。

先日、私のことを、「なっちゃんは、Positive Thinking(プラス思考)だから羨ましい。 自分はNegative Thinking(マイナス思考)の人間だからとても真似できない…」と言った人があった。
そ~かな~? 確かに、他人からはそう見えるのかもれない。
半年前までは、自分でも自分に騙されて、私はPositive Thinking(プラス思考)なんだって思っていたくらいだものね!
でも本当は私って、Negative Thinking(マイナス思考)の塊なんだって、私の扉の鍵を持っているその人に言われたことで、私自身が気付いちゃったんだ…。

自分の存在否定・・・・・
鍵を持っているその人から見た私は、今にも切れそうな綱の上を歩いているように見えるって言われて、私自身、それを容易に想像することができちゃった・・・・・
私はいつだって死にたがってる…。
私は生きていちゃいけない…、 私が存在すること自体が罪なんだ…
いつだって行き着く答えは「死」だった・・・・・
私は、そんなNegative Thinking(物事を悲観的な方向に傾斜した考え方)を扉のむこうに押し込め、知らん顔してPositive Thinking(物事を肯定的な方向に傾斜した考え方)をサラッと演じながら、これこそが私なんだと思い込もうと必死に生きてきたのかもしれない・・・・・
おかげで無意識の内にNegative Thinkingな私でいられる時間は延びたけど、御法の上ではこれが邪魔物だというのだから厄介だ!

そんな訳で時々鍵を持つその人が意地悪をして私の扉をこじ開けようとするが、私だって負けてはいない、それを楽しみながらも逃げる術は身につけたつもり?だ。
有り難くも逃げさせて頂くのが私のお仕事♪と、やはりPositive Thinkingで幸せを探し求める私なのである。

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順おじいちゃんと発芽玄米 [仏法]

先週末の法座の集いの中で、妙~に心に残っているのが、順おじいちゃんが話してくれた発芽玄米のお話だ。
おじいちゃんが暇つぶしと健康のために発芽玄米を育て始めて、その時に感じたことをお話してくださったShort Short Story

乾燥した玄米にね、水を加えて置いておくだけで数日後には小さな芽が出てくる。
その発芽した玄米を見ていたらね、“あぁ~、玄米だって、お米だって、その一粒一粒が生きているんだな~”って感じたんだ…

おじいちゃんのその短いお話は、私の心に深く深く染み込んで、いろんなことを知らされた。
それを言葉にするとすごく安っぽいものになっちゃうと思うけど、私なりの想いを列記するならば、

「生き物を食らう」ということを罪と戒め、聖道門の人たちや葬儀の席上では、今も生ものをご法度としているところがあるようだが、これを基本として考えた場合、肉や魚を食らうことは罪であっても、豆や野菜を食らうことは罪ではない、ということになってしまう。
私自身、御法話の中で、「このお肉は私が生きる為・食べる為に犠牲にした命で、因果応報、今度は私が食べられなあかん。
私がさばいた魚のように、因果応報、今度は私がまな板の上で頭を切り落とされてさばかれなあかん。」
と聞かせてもらって、殺された動物たちの気持ちを想像しながら、「嫌じゃ、怖い」と思うことはあっても、殺した植物たちの命まで考えたことなどなかった。
例えばコンビニでおにぎりを買う時など、「たらこのおにぎりよりも、梅干のおにぎりの方が殺す命は少ないのだから罪は軽い?」な~んていうバカな思いが涌き出て来たことがあったが、米粒一つ、海苔一枚の命のことなんて思いもよらなかった。
だから、おじいちゃんの、「お米だって、その一粒一粒が生きているんだな~」という言葉が、心にグサッときた。

以前、S先生が御法話の中で有福の善太郎さんのお話をしてくださって、その時教えてくださった善太郎さんの残されたお言葉の一節がまざまざとよみがえった。

     私は、煮られにゃならん、焼かれにゃならん、突かれにゃならん、
     何万劫も、この私は、苦しみ受けて かなわんのこの私なれども、
     ここに阿弥陀如来の、助けてやろう、救うてやろうのお慈悲 ・・・

私は、日々、他の命を食ろうて食らい続けなければ生きてはゆけない。
この私ひとつの命を生かすために、私はいったい幾つの命を奪い続けねばならないのだろう。
それを悪とも罪とも思わんで、私が思うことはただ、因果応報と教えられてこの報いを受けるのは嫌だ・怖いと言うばかり…
なぜ、そ~までして私は生きるのか
なぜ、こんなことが私には許されているのか
今まで考えてもみなかったことが知らされて、その先にあるのはやっぱり阿弥陀様の御慈悲でしかないと、私はそう聞かせていただいた。

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