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笑顔の裏まで まるのまんま [心]

人は、愛しい人にはいつも笑顔でいてほしいと願う。
もし、愛する人が悲しみ・苦しんでいたら、何とかしてその愛おしい人の笑顔を取り戻そうと心するだろう。
時に…、愛する人の笑顔を自分の因で奪ってしまったとしたら、私は自身をひどく責めるだろう。
時に…、愛する人の笑顔を自分の因で取り戻せたとしたら、私は自身の自惚れに溺れるだろう。
私は、愛する人の笑顔を保ち続けることに自身の愛情の深さをはかったり、その笑顔を保ち続けることを生き甲斐に感じたりすることもあるが、それはすべて、私自身が笑顔でいる為に、愛する人にはいつも笑顔でいてほしいと願う、自分本位の欲望でしかないのだろうね…。
だって、私はいつだって笑顔でいたいもの…、 私は幸せに微笑んでいたいもの… 

でも、仏さまはどうだろう・・・
仏さまは、私にいつも笑顔でいてほしいと望んでおられるだろうか。 私が笑顔でいれば、仏さまはそれで満足されるのだろうか。 
い~や、そんなことは望んでおられない。 仏さまは、私が笑顔でいればそれでヨシ だなんて…、 私がこの世を、この一生を笑顔で過ごせることを願っておられるわけじゃない。
私が望んでいる自身の幸せと、仏さまが私にかけてくださっている願い、私に与えてくださる幸せとは、 ‘モノ’が全然違うのだ。

私はいつだって自身の幸せしか望んでいない…。
人の幸せの為に… と言ったって、結局は自分に見返ってくる自分の幸せの為にしか動けない。
だから、自分が望んだものとは違うものが返って来れば、幻滅もするし、腹を立てたりもする。
例えば、良かれと思ってやった行いに、「あぁ、自分は善いことをした」なんて自惚れていれば、当然 「ありがとう」、「感心な人ね」との言葉を期待するだろう。
そんなところに、「余計なことをするな!」、「出しゃばりやがって!」などの言葉が返ってきたら ど~だろう…。
ほら! 笑顔なんて直ぐに消えちゃう・・・・・

そんなヤツ、こんな私に、仏さまはどんな幸せをくださるというのだろう…
これは、考えたってわからない。 いくら思案したって正解など出て来やしないし、その幸せがどんなモノなのか理解せよとは誰も言っておられない。
それなのに、このおバカな頭は一生懸命考えようとしてしまう…。
もしくは、考えたってわからないのだから何も考えずこの件には触れずにおこうと見切ってしまう…。
どちらにしたって、このこと自体すぐに忘れて、気がつけばいつの間にか自身が望む幸せばかりを追い求めている私がいる。

それでもいいのだ。 こんな私が今に始まったわけじゃない…。
今生のみならず、過去世から ず~~~っと、私は自身の幸せばかりを欲するがままに追い求めて来た。 そうやって迷い続けてきた。 今更これをやめられないし、やめようとも思っていない私だ…。
こんな、自身の幸せしか追い求めることの出来ない私を、ただ一方的に愛し、愛し続けて、私の幸せだけをただひたすらに願い続けていてくださったのが私の阿弥陀さま。
迷いを迷いとも知らずに迷い続けてきた私一人の為に建ててくださった御誓が、阿弥陀さまの御本願。
自我の欲望のまま、自身の幸せだけを追い求めるしか能のない私がお目当てなのだよと抱き獲ってくださったのが‘南無阿弥陀仏’。
それは、こう聞かせていただいても何も感じない、信じることも出来ない、聞こうともしない私が居たから…
そんな私の一寸先を常に心配して、そこに願いをかけてくださっている。

笑顔の裏で自分の作り出した不安と戦いながら悪戦苦闘している私を、まるのまんま包み込んでくださっている‘なんまつだぶつ’に、今日も私は生かさせていただいている。

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私スタイル BLOGで聴聞 [心]

書きたい…  書いておかなきゃ!…  なぜ書いているんだろう?…  何の為に書くんだろう?…
今、そんなことを考えてみたいと思った・・・・・。

BLOGというものを始めたきっかけは、ただ何となく話しのタネにBLOGと言うものの機能を知っておきたいという興味本位の知識欲で始めたに過ぎなかった。
そして、元々書くことが好き!ということもあって、気の向いた時にアレコレと書き綴ることをただ楽しんでいただけだったが、BLOGを始めて2,3ヶ月が経った頃だったかな、あることに気が付いた。
最初の頃はホントに単なる日記文でしかなかったBLOGであったが、それが徐々に自分の思いを外に向けて発信する随筆文へと変わって行って、いつしか自分の為の記録ではなく、不特定多数の誰かの為、何かに向けてのメッセージを書いているふうになってきてしまった。
これにBLOGとして書くことへの違和感を覚え、次第に書く頻度が減って行ったのだが…、 ちょうどその頃 ‘仏教’と出合ったことで、新しく学んだことや、自ら調べたことなどを書き留めておきたいという気持ちが起こってきた。

そこで以前とは別のサイトにて新たにHP風のBLOGを始め、当初は恥ずかし気もなく独自の仏教理論なるものを展開して行った訳だが…、 ところがその一年後、今の会と出遇ったことによって本当の‘仏教’に触れさせていただくと、今度は、今まで自分が語ってきたこととは180℃違う正反対なことを書かねばならなくなり、また、今までとはあきらかに要点がズレてきたことから、これまでの延長線で書き続けることが出来なくなってしまった。
ましてや、教学や史学などではなく、自分の心を問題にしていかなくてはならないと教えられ、そんなことはとてもBLOGに書けるはずがないと…、 その結果 BLOGとの縁が遠退いてしまった…

仏法聴聞を始めて半年ほど過ぎた ちょうど一年前の年末、 何故だかわからないけれど、「書きたい!」という気持ちが一気に膨らんで来て、再びサイトを新調して始めたのがこのBLOGである。
この時は、ただ心に浮かんでくる自分の思いを自由気ままに書き綴っていただけだったが、去年のインド旅行をきっかけにして、このBLOGをS先生が読んでくださることになった。
私としては予想外のこの展開に始めの内こそ少々戸惑いはしたものの、次第にその心地よい緊張感にも慣れてきて、書くことを楽しみながらBLOGに綴って行くことに変わりはなかった。

しかし、そんな頃にYuさんとメール交換をし合うようになり、噂を聞きつけたYuさんにも私のBLOGの存在があきらかになると、Yuさんから一々BLOGの内容に突っ込まれて叱られたり、ケチ(;^-^)ゞを付けられたりするようになった為、一時はなかなか自分が思うそのままをBLOGに書き綴ることが出来なくなってしまったこともあった…。
そして、私の知らないところでこのBLOGの存在がどんどんとOPENになって行ったことにも小さく畏怖し、また、「なっちゃんのBLOGを読んで嫉妬心が燃え上がった」だとか、「BLOGで有り難いことを書けても声に出さなきゃ嘘」だとかいう声が耳にはいってくると、書くということ自体に恐怖を覚えBLOGなど止めてしまおうと思ったこともあった…。

それでも何とかこうして書き続けて来られたのは、このBLOGを応援してくれた人たちの温かい励ましの声によって、「私は、私自身の為にこれを書いているんだ!」と言うところにどっしりと腰を据えることが出来て来たからだと思う。

いつの間にか‘仏法’中心の生活環境が整えられて来ると、自ずとBLOGに書くことも‘仏法’もどきの ‘我法’が主だったテーマとなってきた。
これによって、「仏教カブレ」、「新興宗教オタク」と言って去っていた友達も少なくはない。
それに、たくさんの嫌がらせを受けることにもなった。
でも、「人生、コレ一つ!」と言うところに コクン と頷けた去年の夏頃からは、誰に何を言われようとも、どう思われようとも、私はこの道を進んで行くんだという決意も生まれた。

今、誰の為に私はBLOGを書いているのだろうと考えた時、それは、100%自分の為なんだと言える。
そして、何の為に書いているのかと考えた時、これが私の聞法のスタイルなんだと思った。
だから書かなくっちゃいけない!って気持ちにさせられるのかもしれない…。

私は、人と話しをする時に、無意識の内に相手の気持ちに自分を合わせようとしてしまう。 自分の思いよりも、相手の望む言葉を詮索してしまうことで、本当の自分を見失ってしまうのだ…。
でも、BLOGを書いている時は、誰に波長を合わせる必要もなく、‘私’というモノを見つめていられる。

そして私にとって、‘書く’と言う行為は、その‘私’というモノを知るための手段なんだと思う。
頭の中でただ思考を流して行くだけではなく、こうして文字にして行くことで新たに発見できることがたくさんある。
例えば、御法座にしても、その時リアルタイムで感じさせていただいたことのみならず、これを振り返ってBLOGに書き綴っている‘今’また新たに気付かせていただけることがたくさんある。
例えば、旅行記にしても、単なる日記を書いている時でも、その時には気付かなかったことが、BLOGに書き綴ることによって、‘今’ ‘ここで’ 新たに気付かせていただける。

そして何よりも、こうして自分自身をさらけ出すことで、間違いを指摘して叱ってくださる方々がいる。
先日の 「喜べない私」 ということを思案したBLOGでは、ご自身のところで優しく説いてくださったYSさん、厳しく叱咤してくださったYuさん、そんな先輩同行にBLOGを通してお育ていただけている私は本当に贅沢者、幸せ者だなぁと思う。

先生方、御同行方、どうぞこれからもご指導のほど、よろしくお願いいたします。
そして、こんな私のBLOGではあるけれど、少しでも何かを感じてくださる方があれば、私は とても とても嬉しく思います。

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「楽しい」の対語は? [心]

昨日、今日と、実に豊かな感情の嵐が吹き荒れた。
そんな中でただ何気なく、感情を表す言葉を思い浮かべてみた時、フッと、「楽しい」の対語って何だっけ?って思った…。
「悲しい」「辛い」「苦しい」「悔しい」「憎々しい」「腹立たしい」「寂しい」「虚しい」・・・・
プラスの感情を表現する言葉がおおざっぱであるのに対して、マイナスの感情を指し示す言葉は、実に事細かに現されているのだなぁ~と感じた。

しかし、実際の感情というヤツは、こんな言葉では表現しきれないほど多岐に渡り、しかもとても繊細なもので、それでいて絶対的な力を有してこの私を掻き動かしているのだ。

「感情」というか、「情動」というか、私はこんなモノに常に振り回されっぱなしで、自分にとって都合の良い、例えば「楽しい」という思いに関しては、自己満足の世界にドップリと浸かっていられるが、逆に「悲しい」とか「苦しい」だとかいう思いに見舞われると、自分勝手に落ち込んでみたり、逆にHighになって心のやり場を探してみたり…、要は、自分にとって不都合な感情が湧き立っている時には、自己責任というものは棚の上に置いて、当たり前の如く自分以外のモノに責任を転嫁している。

つまり、「快情動」は自分のおかげで、「不快情動」は他者・他物のせいであると位置づけているのだ。

これは、生きていくために必要な心(脳)のシステムなのかもしれないけれど、少し冷静になった時そんな自分を見せられる度に、「私、いったい何やってんだろう? 私って何様?」と考えさせられる。
まぁ~、考えてわかるものではないし…、 理屈をこねても意味のないことだから…、 「あ~ぁ… また、馬鹿が馬鹿をやって迷ってる…」とスリムに解して通り抜けている・・・。

もう少し言えば、「オレが~」の心を見せられても、また、因果の道理を少しもわかっていない自分を知らされても しらけた心しか私にはなくて、そんな私の中からは、「ごめんなさい」の言葉も出て来なければ、「如来さまのご苦労に感謝します」と頭の下がることもない。
ただ単に、「これが無明に迷っている私の姿なんだ。 だからご苦労をおかけしているんだ」と、聞いたままを復唱するだけ・・・
こんな私だから堕ちる! そしてこれを否定できるだけの手駒は一切持ち合わせていない・・・!
しかし、こんな私を「救う」と誓ってくださるお方がいて、そのお力でいつも私を包んでくださっているなんて…、摩訶不思議な話しだよな~

あれ? 何を書こうと思ったんだかわからなくなってきちゃった (^.^ゞ ・・・ なんだっけ???
まぁ~いいか!(^_^;)

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「愛」に期待するもの [心]

人はいつも自分の都合で、自分本位の期待を胸に抱き、それが叶わぬと、怒ったり悲しんだりする。
たとえ期待通りの結果が得られたとしても100%の満足感を得られるものではないし、またたとえ満点に近い満足感を得られたとしてもこれが長く続くものではない。
そんなことわかってる! そんなの当たり前じゃん! と頷いてみたところで、やはり期待に沿わぬ結果に見舞われると、嘆き、悲しみ、怒り、腹立ち、時には自己コントロールできなくなるほどの感情に振り回されたりもする。
そんな心に支配されている間は、冷静に自分を省みることなど出来ないから、すべてを誰かのせいにしてみたり、逆に自己嫌悪に押しつぶされそうになったり、人それぞれだけど、本当の意味で自分の懐を真向かいに見ることができず、思うがままの感情に飲み込まれてしまう。
悲しいかな、人間と言うヤツは、そんなふうにしか生きていくことができないのだろうね・・・・・

考えてみたら、「愛」だとか、「恋」だとかいう感情は、最も人間らしい心の産物なのかもしれない。
仏様の「慈愛」というものは、「常に一方的に与える愛」で、「永遠不変の愛」であるのに対して、私たちがめでたくも口にする「愛」と言うヤツは、「常に求める愛」で、「変化し続ける愛」である。
「一方的に与える愛」と言えば、親の愛がそれに近いかもしれないけど、所詮は人間の愛…、
とんでもない“縁”に催されれば一瞬にしてに吹き飛んでしまうだろう・・・
愛が冷めるだとか、愛するが故に憎しみに変わるだとか、私たちはそんな頼りない「愛」と知りつつも、「愛」を求めて止むことがない悲しき生き物なんだよね・・・・・

そうだね・・・、人間には、到底真似の出来ない「真実の愛」を仏様はこんな私に与えてくださっているんだよね。
だから私は生きていられるんだね。
こんなふうに、ある出来事をきっかけにして、人を通して気付かせていただいた「愛」について考えてみた時、実に多くのことが見えてきた。

そして、人間の「愛」を考えた時に、紙一重というか・・・、両極端というか・・・、
愛に「喜び」愛に「悲しみ」、「好き」の裏には「嫌い」があって、「始まり」の裏には「終わり」がある。
そして、「与える愛」の裏には「求める愛」が必ず存在している。 「愛」に期待をしてしまうのだ・・・・・

あぁ・・・、 「愛」は、人間の究極の欲望かもしれないね! 少なくとも私はそ~だな~ぁ・・・・・

そして、ど~しよ~もない感情が生まれるのも、「愛」ゆえなのかもしれないね・・・・・

ただ、今思うのは、凡夫の私には、凡夫としての愛し方、愛され方があって、たとえそれがどんな愛であったとしても、私なりの愛し方、愛され方しか出来ないのだということ。
「愛に期待するもの」も凡夫レベルなら、それによって得られる結果も決して凡夫の域を超えることはない。

胸に抱く期待は、刻々に変化して大きくもなり小さくもなる。
湧き起こる感情も、温かくなったり冷たくなったりと常に変化し続ける。
そんな動き続ける“今”を大切に、そして“今”を後悔しないように誰かを愛し続けていけたらいいね[黒ハート]

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まずは自身の聞法を  (追記) [心]

久しぶりの発熱・・・  ボ~ッとしていてBLOGが全然進まない・・・ 書きたいことは山とあるのに・・・。
精神的に不安定になっている時は眠れなくなるから、眠らない分、書く時間は出来るけれど、マイナスだらけの自分に囚われて、そこのところの自分でしか書くことが出来なくなる。 だからどっちにしても書きたいことは書けない状態・・・。 
だけど、そんな心境を打破したくて、ツラツラツラとただ書き綴る…。

こんな気持ちの時は、本当は独り孤独のカラの中に閉じこもって耳も口も目も塞ぎたくなる・・・。 
だけどその反面で、誰かの声が聞きたくて、自分の胸の内を開かしたくもなる・・・。
今日もそんな感じ・・・  私は、灰色の霧の中で時間が過ぎるのを独りポツリと待っていた・・・
そんな時届いたのがOGさんからのプレゼントだった。 私の大好きな和洋菓子。 すごく すごく 嬉しくて、そのGoodなTimingに、思わず不思議なお手回しを感じずにはいられなかった…。

夜になって半泣き状態でOGさんに電話をすると、OGさんはご自身の体調が思わしくないにもかかわらず自分の事としてお話しを聞いてくださった。
最初は泣きべそをかきながら右も左もわからずにまとまりなく話していた私だったけど、しばらくお話ししている内にだんだんと自分が見えてきて、そんな自分の思いを声に出していくことで、「この先、どうしよう?」ではなく、「今、私はどうなのか!」ということが薄ぼんやりと見えてきた。

結論から言うと、私、「自身の聞法もままならないうちから、外に向かうべからず!」というのは、やっぱり飲み込めない。

私は、その人の後生を心配して御座でお念仏をお勧めしたわけではないし、懇親会や交流会などに参加しているわけでもない。 ましてやその人の後生をどうこうしようだなんて腹など思いも及ばない! 
だって、自分の後生すら心にかからないような私だもの、そんな高尚な心など湧くはずもなく・・・
湧き立ったものと言えば、「私が聞かせていただくんだ」という欲張りなニセモノの聞法欲と、「自分の方向に間違いはないか」と確かめて安心したいばかりの我欲しかない。
そして、先生や先輩同行に、「間違いないよ」と誉められればすぐ自惚れて少しは聞法が進んだかな?なんて勘違いしてしまうような大馬鹿者。
その上、自分のところを一歩下がって語りながらも、その実は、「教えてあげる」という高慢な心の芽も頭をもたげていたりする。

そんな傲慢な自分というものを知らされたのも、やっぱり人に向かって言ったからであって、今までのように一人押し黙ったままでいたら知り得なかった・気付かなかった自分であった。

「まずは自身の聞法を!」って・・・、 人に語るのは、自身の聞法がど~なってからにせよ!と言われるのか、正直私にはわからないし、第一、私はここ一ヶ月前から、ただ聞いているだけではなく、自分から言葉に出すようにしたことで、今まで見えなかったものをたくさん観せていただき、今まで気付かなかった多くのことに気付かせてもらっている。

例えば、Yuさんからいただくメールや言葉には、「後生、後生・・・」と並んでいるけれども、ただ受け取っているだけの内は、「後生」という文字を、「私の後生」と聞くことはなかなか出来なかった。
ところが、私から人に向かってメールや言葉を発した時に、「あなたの後生」というのが、「私の後生」と返って来た。
そうなんだよ! 阿弥陀さまは、この私の後生を心配して、ここ一つに願いをかけてくださったんだ!

私は、法に背を向け、今生事の喜びに身を費やし、“死”という現実を自分の理想の世界に塗り替え、真実に耳を傾ける気などサラサラなく、悪を悪とも思わずに当たり前に生きている。
そんな私一人の為に、「おまえの後生を救ってみせる!」と立ち上がり、はかり知れない時間と心を費やし ‘南無阿弥陀仏’になってくださった如来さまに対して、私はしらけた心で‘我’を盾にし矛にしそのお心を踏みにじるばかり。
そんな私が、自分でも嫌悪して見ぬふりをしているドス黒いところ、その一つ一つに如来さまは張り付いて全てを投げ出してくださっているんだってことを、縁に触れ折に触れてホンの少しだけ感じさせていただくことのできる不思議。

これらを今まで耳に聞いていながらも、「私は何にも聞けていなかった…」って、人に向かった時、その人を通して初めて自分のところで頷けたような気がした。

「人に向かう前に、まずは自分の聞法を!」と言ってくださったけど、ごめんなさい、私、どうしても飲み込めない。
ただ、私は、聞けないなりにも 「自分はどう聞かせてもらったのか」ってところを、やっぱり頑張って言葉に出していって、「それで自分自身はど~なのよ!」 ってところを聞いていきたいって、少なくともこの瞬間の私はそう思っている。
夜が明けたら、ど~変わる自分なのか全然想像できないし、また、たった一言で埋没できちゃう私だけどね・・・・・
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まずは自身の聞法を [心]

やる気がない・・・  何にもやる気がしない・・・  年の瀬だというのに・・・、 やらなきゃならないことは山とあるのに・・・、 身体が動かない・・・・・
たった一言を受けきれずに動けなくなっちゃう私って、いったい何なんだろう・・・
とても信頼していた人だったからこそ、その一言は、私には重すぎて・・・・・
着飾っていた自信を剥ぎ取られたら、後悔の波に飲み込まれて、自己嫌悪の海に埋没・・・ ドボン・・・
そんな私に優しい言葉で励ましてくださったメールにも、暗く捻くれた読み方しか出来なくて・・・、 自分でもどうしたらいいのかわからなくて・・・・・、  ごめんなさい、ごめんなさい。

その一言を言われるほんの少し前までは、それなりに幸せで、それなりに前向きで、自分に出来る範囲のことを頑張ってやって行こう!って宣言していたのに・・・・・、 その、良かれと思ってやってきたことを否定されたら一気にこれだもの・・・、 自分でも嫌になるよ! だから自己嫌悪・・・・・。 


今日はクリスマス! みんなが教会の行事を楽しむのなら、私はお寺に行きましょ♪ ってことで、ポク ポク チーン ってしに、G願さんのお寺へ遊びに行ってきた。 
G願さんとお話しをするのはとっても楽しい。 一から十まで仏法を基軸にお互いが感じたところを語り合え、聞き合えて、二人の会話には休む間がなく、いつも時間を忘れてしまう。
今日も、今のところの私をG願さんにお話ししながら自分に聞かせていただき、またG願さんのお話しを聞きながら私自身を観せていただき、言葉に出して聞いていくことの大切さを語り合った。

それに、ここ最近立て続けに参加させていただいている聞法交流会でも、わからん、わからんと言って求めておられる友同行に、私自身のところを振り返りながら、今のところの私をお話しさせていただくことで、私自身が聞かせてもらうことの出来ているご縁を、すごいな~、不思議だな~と感じさせていただき、言葉に出して聞いていくことの大切さを実感しているところだった。

最初のきっかけは、今月初頭の高山報恩講の時かな。
座談会の前にKnさんから、「BLOGで書いていることを言葉に出してみて!」って言われ、YMさんからも、「今日こそは自分を出してね!」って言われて、その座談会ではUDさんを通して見せてもらった自分、今伝えたい私のところを言葉に出したことが第一歩となった。
この時、「あぁ…、自分に返って来るんだ…」 ってことを知った。

それからは、友同行のすがたを通して観せてもらった今のところの私を言葉にしようと心がけ、西光寺ではG先生の前で、聞法交流会ではYuさんの前で、今のところを言葉にしていけば、もし私が間違ったことを言っても訂正してもらえるし、その場で私が聞かせていただけるんだと、その機会を無駄にすることなく言葉に出すようにしていった。
すると、‘今’が動いて行くのがわかった!
‘今’、ここの私が動いている。 過去に捕らわれ、未来に怯えていた私の‘今’を発見することが出来た。
だから私は、間違ったことをやっているとは思わなかった・・・・・

G願さんともそんなお話しをしながら、とにかく言葉にして行こう! 頑張って声にしよう! って意気込んでいたのだけど・・・・・・

クリスマスの夜に届けられたメールには、「まずは自身の聞法を!」 とあり、私はその一言で・・・  自分が恥ずかしくて、恥ずかしくて、後悔の海に溺れた・・・
「その口で何ヌカス! おまえにはまだ語る資格などないだろう!」 と 聞こえた・・・・・・
言うべきじゃなかった! 自分を出すべきじゃなかった!  後悔…、 後悔…、 自己嫌悪・・・・・・

そんな青黒い雲に心が覆われている中、YZさんより「メールで言うよりも言葉で言いたかったんだ」って電話が入った。
「わたしの阿弥陀さんが喜んでおられるんだ♪」 と、とても とても 嬉しそうに語っておられた。

私は、喜べない私を知らされた。 
だから喜んでいる人を見ても羨ましいとは思わないし、喜べない自分を卑下もしていない。
ただ、「喜んでいるだけでいいの?」といらぬおせっかい心の出てきた自分をおこがましいと思った。

そう・・・、 人と接することで自分を知らされる。 そうして知らされた、自分でも嫌悪する醜いところで如来さまのご苦労を聞かせていただき、縁あればこれを口に出して、「私は こうだよ」と伝えていこうと思ったが…。
でも、言われてみれば分不相応、おこがましい話だよね。 

「まずは自身の聞法を!」  ‘まず’は、どこまでが‘まず’なんだろう? どうなったら‘次は’になるんだろう? 
なんてくだらない疑問・・・、 愚かだね…、 笑っちゃうね…、 でも私、怒ってる・・・  誰に? 何に? 
よくわからない・・・・・  でも私、きっと納得できていない・・・・・

だけど、後悔はしている。  言われたように、私なんかが人に語るべきじゃなかった。
後悔…、 後悔…、 自己嫌悪・・・・・・
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初めての夢… 今日の幸せ(#^^#) [心]

久しぶりの OFF DAY ! お天気もまずまずだし、今朝は夢見も良くって気分は上々(^-^)v かな?
ただ、チョットばかり睡眠不足… 
こないだの日曜日、高山から帰ってきてから三日連続して真夜中に嫌な夢で何度も目が覚めてしまい、睡眠不足がなかなか解消しないままに昨夜は明け方の近くまでナンやカンやとやっていて床に着いたのは4時近くになっていた。
でも、今朝はビックリ嬉しい夢で目が覚めて、チョット幸せ~♪

三夜続けて見た夢と言っても連続性のある夢ではなく、とても現実的なショートストーリーを夢の中で幾つも体験した感じ・・・
でも、共通してそこにあるのは、 辛い…、 苦しい…、 悲しい…、 寂しい…、 恐い… という負の感情・・・
リアルな夢の中で、孤独に泣きながら苦悩する自分に耐えられず、必死で夢の中から逃れて覚醒した時…、 ベッドの上にただ横たわっている自分に気付いて呆然とした・・・・・
「夢でよかった…」 とは思えなかった・・・・・
生きているとも、死んでいるとも実感しないままに、自我に捕らわれた感情だけがそこに横たわっているような気がした・・・・・
そして、窓から差し込む青白い月の明かりが、瞳の奥に夢の残像を描いた時、「これは夢なんかじゃない…」と思った。

私ね…、 私しか自分のことをわかってあげられない…、 私が誰よりも一番自分をわかってあげられるんだ って思っていた。
でもね…、私は何もわかってなんかいなかった…。 ‘自分の都合’というものを取り外したら、私は私のことなんて全然わかっていなかった…。
今、確かなことは、そんな私がここに居る ってことかなぁ…?

三夜続けて見た夢は、きっと包み隠しのない素の私なのだろうなぁ~
自分自身で造り上げた苦悩の世界にドップリと浸かりながら、外へ外へとその原因や答えを見つけようとしてモガキ苦しんでいる…、 そんな夢を幾多のパターンで見せ付けられてもなお、ボケタ~ンとしたアホ面をさらしながら、さも賢そうに知ったかぶって・・・  私はいったい何をしているんだろうねぇ・・・・・

でも、私が私のことを全然わかっていなくっても、誰よりも私のことをわかってくださっている方がいる。

その方は、誰よりも私を愛して下さって…、 こんな私を信じきって…、 そして包み込んでくださって…

孤独を孤独と認めた時、どうして私は孤独に怯えながらも孤独を好むのかがわかったような気がした…。
それは、幼い頃から毎晩、独り月を見上げながら孤独に泣いていた私…、その答えとピッタリと重なり合って、今、ここに解き明かされたような気がする…。

物心着く頃から、毎夜、毎晩、得体の知れないモノに追われる夢を見続け、恐怖に怯えていた私…。
でも、高校生になったある日、私は自分が何に追われているのかを知りたくなって、ありったけの勇気を振り絞り逃げることをやめ、フッと立ち止まったその日から、十数年間毎晩見続けて来た‘逃げる夢’にピリオドが打たれた。
それからは様々な夢を見るようになった。 でも、一つだけ叶わない夢があった…。 それは・・・・・

法友に、こんな冗談話しをしたことがある。
「私ね、前世で餓鬼界にいた時の記憶があるみたい!  だってね、夢の中でどんなご馳走が目の前に現われても、これを口に入れようとする寸前で夢から覚めちゃうの! 一度だって口に入れたことがないのよ!」 って。
私、こんなに食いしん坊なのに、夢の中でモノを口に出来た試しがない…、食べる夢が完結したことが未だかつて一度もないのだ。

それが今朝・・・・・・
私は夢の中でアメリカのスーパーマーケットに居て、そこの惣菜コーナーを散策していた時に美味しそうな焼き菓子を作っている店の前で立ち止り、試食用に店前に置かれたバスケット中より一つ摘まんでそれを口にした。
と同時に、今、私は夢の中にいて、初めて‘食べる’ということが叶ったのだと知り、ものすごくビックリして飛び起きた!  今朝の第一声が、「食べた…」 だった!
味?  味なんかわかんない!
ただ、食べることの出来た夢を見るのは初めてだったからかな? 何だかスッッッゴク嬉しくて!!!

他人にとってはど~でもいいことだよね! でも、私は嬉しかったんだ! とっても嬉しかったんだ!!
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成道会 [心]

ここ最近、めちゃめちゃ忙しい…(^_^;) 
書斎に落ち着いている暇がなく、外に飛び回っているからBLOGネタには事欠かないが、これを書いている暇のないほどに詰めたスケジュールをこなしながらも、まだまだ足りん… と、何につけても欲望の追加要求は止むことを知らず…。

今、書きたいこと、書き留めておかなければと思うこと、書くことで整えたいことなどなどが、たくさんありすぎて頭がパンクしそうな状態で、メールなどのやり取りをしていても文章が飛んでしまい・・・  まぁ~、今もそんな状態で、ハチャメチャな文面になりそうだが、とりあえず今、2時間弱でもデスクにつける時間ができたので、一つ 二つと吐き出しておこうと思う。

S先生のBLOGから、またYuさんのメールから、12月8日が「成道会」だということを知った。
正確に言えば、知っていたというか…、 スケジュール帳には書いてあったが、自分には無関係な日とばかりに、まったく関心を寄せていなかった・・・
でも、S先生、Yuさんの文面から、「誰のための成道か、誰のためのご苦労か」と問われた時に頭の下がる思いがして、とにかく「今の所(私)」を書いてみたくなった。

12月8日の「成道会」は、お釈迦さまが29歳でご出家なされて、難行・苦行の末に35歳で正覚を開かれ仏陀(覚者)となられた日である。
もし、お釈迦さまが仏陀となられなかったら…、 もし、お釈迦さまが御法を説いてくださらなったら…、 今、 この私の口から‘南無阿弥陀仏’が飛び出すはずもなく…、「誰のための成道か」と問われ、「私一人のためのご苦労でありました」との答えの前には、何の文句の付けようもない、ただコクンと頷くしかない。

昨日は、予定外の外出に、予定外の幸運に恵まれて、予想以上に素敵な一日を過ごすことが出来た。
私はすべてのことに予定を立てているなぁ~・・・  時間的にも・・・、感情的にも・・・。
その予定基準で、それよりも良かった・悪かったと言っては、運・不運、幸・不幸などとほざいている…。
そんな私が、今生レベルの話ではあるが飛びっきりの幸せを感じた時に、「‘因果の道理’なんてものはよくわからないけど、自分と言うモノを知れば知るほどに、私には、善果(幸せ)なんてモノに縁がなくても当然なんじゃないか…」って思っていたところ、今、こんなにも無邪気に幸せを感じている私がいて、それが とても とても 不思議に思えた。

ここ最近、‘業’という言葉が、私の胸にペンダントのようにくっ付いている。
自分の三業(身業・口業・意業)でしてきたことの総てに、自分で責任を取らねばならない世界があると聞かされ、その業の一つ一つを具体的に観ていくということが大切だと教えていただいた。
そして、私の造り続けている業のその一つ一つに如来さまのお心が寄り添っていてくださるのだと聞かせていただき、「あぁ~、すべてお見通しなんだな…、 逆に言えば、隠す必要などないんだな…」と感じるに至り…、
そこに立って考えた時に、私が自ら受けていかねばならない‘自因’による‘自果’の全てにも如来さまは居てくださって、私が、苦しい、辛いと泣き叫んでいる‘悪果’のその全て…、 いや、何もかも…、 私の存在の全てが、「ただ、聞いてくれよ」の一本の道になっているじゃないか! と、思わさせられる瞬間ある。

そんな中で、「あぁ、私は幸せだなぁ~」と感じた時に、「なんで?」という疑問がフツと湧いた。
苦労性なのか、不幸好きなのか、幸せボケと自分を騙すことが上手いからなのかはわからないけど、「この幸せは誰のおかげ?」と問うた時に、「どこどこまでもご苦労をおかけすることしか出来ない自分なのだなぁ・・・」という漠然とした答えが心をよぎった。

お釈迦さまのご苦労も、阿弥陀さまのご苦労も、この私の為のご苦労なのだと聞かされ、感じさせていただきながらもなお、当の本人は知らぬ存ぜずで自分の苦労ばかりを愚痴っている・・・
手を変え、品を変えて、「ただ、聞いてくれよ」と自らの苦労を苦労ともせずに願って働いてくださっている如来さま方のお心・お力を、先生やお同行のお言葉から聞かせていただいて、「成道会は、ぜんぜん他人事なんかじゃないじゃん!」 って、チョットだけ思いつつ・・・ も・・・・・

「遅刻だ~!!」と、今生事のスケジュールに追われている私なのである・・・
あ゛ぁ゛、ホントに遅刻だ!!! (>_<) まずい!!!!!

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老いたるえびのうた [心]

        老いたるえびのうた     室生犀星

     けふはえびのやうに悲しい
     角(つの)やらひげやら
     とげやら一杯生やしてゐるが
     どれが悲しがってゐるのか判らない。

     ひげにたづねて見れば
     おれではないといふ。
     尖(とが)つたとげに聞いて見たら
     わしでもないといふ。
     それでは一体誰が悲しがつてゐるのか
     誰に聞いてみても
     さつぱり判らない。

     生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋(いつぴき)。
     からだぢゆうが悲しいのだ。


金沢出身の文豪、室生犀星(M.22年~S.37年)氏の 遺作 「老いたるえびのうた」は、犀星さんが 74才で亡くなる1週間前に書き残された詩である。

私は、大嘘つき者だから、自分を誤魔化すことだって大得意! だったんだけど…  でも、今はダメ・・・ 
嘘つき者の、良い格好士には違はないけど、 自分を誤魔化すことは、苦手になっちゃった・・・・・
でも…、その 悲しみ ・ 苦しみ に 耐えられず、結局は、また自分に嘘をつき続けるんだけどね…。 
そ~やって アレコレ自分を騙し、誤魔化し続けていたら、何が本当に悲しいんだか、わからなくなってきちゃった…。
「つの」が悲しいんだろうか、「ひげ」が悲しいんだろうか、「とげ」が悲しいんだろうか、本当の悲しみは、いったいどこからくるんだろうか… って…、
一つ一つのに問うてみても、「一体誰が悲しがっているのか、さっぱり判らない」って、犀星さんと同じ…

でも、犀星さんは、その答えを見つけたんだよね…、
枝葉のように 次から次へと生え伸びてくるものが、本当の悲みなんかじゃないって…
泡(アブク)のように 止めどもなく沸き上がってくるものが、本当の悲しみなんかじゃないって…
「つの」でも、「ひげ」でも、「とげ」でもない…、 コロコロと変化する私の付属品たちが悲しみの根源なんかじゃ~ ないんだって!

本当に悲しいのは、 この“私”という存在そのもの…
「生きて、たたみを這っている、えせエビ一匹   その、からだじゅうが、悲しいのだ」
人生は苦なり、 水無き畳の上で、死にとうもないが、生きとうもないと必死でモガキ続けている独りぼっちの私…  そんな“私”という存在そのものが悲しいんだ… って、 そういうことなんだよね?犀星さん…。

からだじゅうが悲しくて、 からだじゅうが苦しくて、 からだじゅうが孤独なんです…
だから自分に嘘をついて、自分を誤魔化すんです…  そうしなければ生きて行かれないから…

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捨てられない… 見切れない… [心]

昨日から、クローゼットの中身をひっくり返している。
昨日は、勢い余って次から次へとゴミ箱へと送り出したのに、今日は一転、なかなか捨てられない…。
心ってヤツは、ホンにいい加減なもんだ!
しかし・・・、自分でも嫌になるほど服が有り過ぎる。 いったい、総額いくらになるんだ?!
多分、昨日捨てた(ゴミ袋2つ)分だけで十万円位と換算すると・・・、 いやいや、計算するのはやめておこう… 捨てられなくなってしまう…σ(^_^;)ゞ ‘見切る’ことが肝心!

そ~なんだ・・・・・・  「自分を見切れ!」と四方八方から言われる…。
そして、去年の夏、初めて法座に出た時に、「捨ててください」 と おっしゃったS先生の言葉も、あれから ず~~~~~~っと、喉元に引っかかったまんまだ。

捨てられないんだ…、 私は何にも捨てられない…
何を捨てるの? ど~やって捨てるの? って…、それ以前の問題! 私は、何も捨てられない・・・・・

見切れないんだ…、 私は私を見切ることが出来ていない…
こんな自分…、も~ぉ、ど~にでもなっちまえ! と 自暴自棄になったって、結局、捨てられなかった…。
目を背けたくなるような嫌悪する自分、切り刻みたいような自分をも、結局、捨てることが出来ずにいる…

それなのに、死んでいく時には、それらを 全~部 捨てて行かねばならないのだから…、
えっ?! じゃ~ぁ、そんなものに執着して、捨てられずにしがみ付いていたって、意味ないじゃん…!
今夜にでも…、 いやいや、早ければ次の瞬間にでも、すべてを捨てて行かなきゃならない…

しかし、そ~は言ってもな~ぁ・・・・・  その瞬間までは、しがみ付いていたいんだ…。

そ~言えば先日、ドライブの帰り道でのこと…、 私は自分の両手のひらを、ただぼんやりと眺めていた。
そして両手を、握っては開いて、開いては握って…。 そうしている内にフッと気づいたことがあった。
人間、この世に生まれた時には、両手はグーをつくってしっかりと握りしめたかたちで生まれて来る。
しかし、死に行く時には、今まで握りしめていた全てのものから見放されて、手放しで堕ちて行くんだ。

だけどね…、私はきっと両手のひらを生まれた時と同様にしっかりとグーを作って、「放すまい! 放すまい! 私が掴んだ幸せも、私が作った信心も、決して、決して放すまい! この命すら、手放すものか!!」 って、グーを握りしめたまま死んで行くんだろうな~。
ただ、後生で手のひらを開いてみたらば・・・・・、 その手の中にギュ~ッっと握りしめられていたものは、私が造った業ばかり・・・、 後生大事と握りしめてきたものは、地獄へ堕ちる種ばかり・・・

死んでく時には、何もかも捨ててかんならん…。 私が捨てるんじゃない…、 捨ててかんならんの…

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霧の中  ヘルマン・ヘッセ [心]

     不思議だ…、霧の中を歩くのは…
     どの茂みも石も、皆、孤独で、
     どの樹木も、他の樹木と分かたず、
     皆、それぞれが独りぼっちだ。

     私の生活がまだ明るかった頃、
     私にとって、この世は友達であふれていたが、
     今、辺りに霧が立ち込めてくると、
     もう、誰一人として見ることはできない…。

     この世の一切のものと自分とを
     ひとり静かに孤絶する。
     まこと、暗闇を知らない者は、
     賢いとは言えまい…。

     不思議だ…、霧の中を歩くのは…
     生きるとは、孤独である。
     皆誰も、互いに他の人を知らず、
     皆、それぞれが独りぼっちだ。                             (私訳)

MRさんからいただいたMailを読んだ後に、フッと、何の意図もせずに本棚から手に取った本、ヘルマン・ヘッセ の詩集の中にみつけた、『霧の中』 という詩である。

「なっちゃんは〝孤独〟と、ど~ゆ~ふ~に付き合ってるの?」 ・・・・・

私は、〝孤独〟に背を向けて、見ないよう、聞かないよう、誤魔化しながら逃げることしかしていない…
でも、昔は違った。 
子供の頃は、独りでいることが好きで、自分が孤独であることが幸せだと思っていた。 
〝孤独〟と向き合うことが出来なくなったのは、ここ最近からかな…。 
胸ぐらをえぐって、握りつぶしたくなるような孤独感を、自分に誤魔化すことが出来なくなってから・・・・・・
それは、一人でいる時よりも、心寄り添う人、愛する人と一緒の時間を過ごしている時ほど、より強烈な孤独感に襲われる…。 
その孤独感を、自分自身が認めてしまえば、大声を上げて発狂してしまいそうで恐い…。
だから誤魔化すことに必死になっている…、 必死で、自分を守ってあげる…。

でも、ダメだった・・・・・  自分では、この〝孤独〟を癒すことなど出来ない・・・・・・

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ゴキブリだって仏さま… [心]

命…、 いのち、いのち、いのち ……  今まで、“命”について、深く考えたことなどなかった・・・・・
自身の生死について多少は思案することがあっても、己の僅かばかりの智恵を最大限に駆使して出て来る答えは、いつも いつも 「私の命は私のモノ」 という考えの基に、今生レベルで、自己中心的で、その時々の思いに大いに左右された不確定な空想物語りでしかない…
深く考えれば考えるほど、「本当に何にもわからない」 という答えに収まってしまう。
どうして生まれて来たのか…、何のために生きているのか…、そしてなぜ死ぬのか…、死んだらどうなるのか…、 それらの答えを自分の中に探しても、私の中に揺るぎのない答えなどなかった・・・・・

それがどうだろう…、 お釈迦様の教えの中には、ちゃ~んとその答えが、明確に示されている。
仏教の「ぶ」の字も知らない私が、たまたま目にした 「人身受け難し今已に受く、仏法聞き難し今已に聞く」という言葉に、意味も何もわからないままに強烈に惹き付けられて、そしていつのまにか「南無阿弥陀仏」と称えさせていただいているこの不思議…
それを今日、改めて教えていただいたように思う。

今日、夕食を作っている時、目の前を一匹のショウジョウバエが通り過ぎた。
一度目はこれを見過ごした。 
しかし、二度目に目の前で騒がれた時にはチョットばかりムッとして、
そして、三度目に料理の邪魔をされた時、思わず飛び出した私の左手は、その小さな命を握りつぶしていた。
「あ~、スッキリした!」
小さい頃から虫の命を殺すことなど極当たり前にしていたし、今だってヤツ等を生かしておくことこそが悪とばかりに殺しまくっている。
ところが仏法を聞き始めると、命の平等を教えられ、それと同時に地獄の世界を聞かされる。
これは自分にとって都合が悪い…。
それからは虫を殺しながらも口先だけでゴメンネと誤って、覚えた‘なまんだぶつ’を利用する。
ただ単に、「虫は殺しましたが、地獄には堕ちませんように!」という祈りの‘なまんだぶつ’だ。 
その心根は、「私の前に現われるからいかんのだ! あ~ぁ! 私に殺生をさせたお前が悪い!」 と…。

ショウジョウバエを殺して、「あぁ…、頭で思うよりも先に、平気でその命を握りつぶしたこの手こそが我が本性…」 と、少しは後ろめたい気持ちにもなったが…、  
その時、カサカサカサっと嫌な音が耳に飛び込んでくると、既にショウジョウバエのことなどすっかり忘れ去り、戦闘態勢に構える私…。
時々、隣家のゴミ屋敷から飛んでくるゴキブリが、今日も我が家に不法侵入したもよう!
案の定、ドでかいゴキブリが壁づたいの床をダッシュするのを確認して殺虫剤を噴射する!
これでもか! これでもか!というほど殺虫剤を浴びせて、「早くクタバレ! 早く死ね!」と念を込める。
こんな時には命の平等も、地獄の恐怖もカケラもない…
壁づたいに苦しそうに歩いていたゴキブリの動きがフッと止まり、死んだかな? っと思った次の瞬間、そのゴキブリが壁を背にして私の方へと向き直り、そして今にも飛びつかんばかりに体を前後させて視線で威嚇してくる。 私も負けじと止めの一噴射で応戦する。
そして 「来る!」 っと思った瞬間、 ゴキブリは仰向けにひっくり返って息絶えた…。
戦いには勝ったが、なんだか後味が悪い…。 最後のあの視線があまりにも強烈だった…。
「覚えておけ! いつか目にモノみせてやる!」と言わんばかりの最後であった…。

それと同時に、「あぁ、私は今まで何一つとして自分の力で成し得たものなどなかった…」 という思いが湧いて来た。 とても奇妙な同一感だった。

私は今まで、御法話やお同行の話しを聞きながら、あ~してみよう、こ~してみようと様々に計らって来たけれど、結局は、自身の思いの中でアレコレと思案をこねくり回すばかりで、何一つとしてその通りにしたこと・出来たことなどなかった…。
知ったとか、覚えたとか言っても、それは一時的なことで、次の瞬間にはすぐ忘れちゃうし…
だけど思い返してみると、自分では理解できず、何一つとして実践できなかったことの数々が、その数日後にはまるで仕組まれたように、この身で感じさせていただけることが何と多かったことか…
頭ではわからない、自分は何も出来ない・していない、罪悪深重、命の儚さ、孤独、そんな様々な教えをこの身で感じさせていただける出来事が、近時な未来にちゃ~んと用意されていて、私はそれらをいつだって自分の所で受け取っては、その都度放り投げてきた…

でも何だか今日は少しだけ違う。
G先生がよくお話しくださる御法に、「仏さまが無量の命となって、私どもに食べられてくださる」と教えてくださるが、「あぁ、食べ物だけじゃなかった…」 と思った。
私はショウジョウバエを殺した。 ゴキブリも殺した。 私にとって不都合な敵だったから…
でも、私はそうやって 何度も 何度も 仏さまを殺し続けてきたんだ…
仏さまは、私が食べる生き物の命だけじゃなくて、時にはショウジョウバエとなり、時にはゴキブリの命にもなって私に殺され、そして教えてくださっているんだ…
すべてが私の為に用意され、すべてを私の為に投げ出してくださっている…
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏   今日もカラ念仏を称えさせていただけた。 

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‘孤独’ と ‘死’ の 虚実 [心]

久しぶりにお会いしたOGさんと夜遅くまでたくさんお話しをした。
話した… と言うよりも、お話しを聞かせていただいたと言った方のが妥当かな?!
くすぐられたり、突っつかれたり、時にはグサッと刺されたり、(^.^ゞ  数々の大切なお話しも、私にとって都合のいいことしか覚えていないけど…、貴重なお時間をいただいたことに感謝!

そして帰り際、駅の改札口へと向かう途中で行き交う人の波をぼんやりと眺めながら 私がポツリと、「みんな楽しそうに見えるね…。 世間の人たちは、皆それぞれに苦労を背負ってはいても、幸せそうに見えるのは何故だろう…」と呟いた。
別に答えを求めたわけではないけれど、OGさんは一呼吸おいてから、「そうだね…、 きっと皆幸せなんだよ…」とおっしゃった…。
私も、そ~なんだ・・・・・
私って、 自分は幸せ! 恵まれてる! 愛されてる! って…、 いつも いっつも、そう自己暗示をかけて自分の心を誤魔化しながら生きてるんだよね・・・・・
私は…、 ‘孤独’という現実を認めたくなくて、目を背けてるんだ・・・・・

この30分ほど前のことだった…、
笑顔をこぼしながら淡々とお話しをされていたOGさんが急に言葉を詰まらせて、「自分の心は誤魔化せない… 自分には嘘が付けないんだ…」と、大粒の涙を流された…。
この時私はすごく自惚れた心で、OGが 今 目にしている辛い現実を包み隠してあげられないか…って思った。 
どうしてそんなもの見ちゃうの? 見なければいいのに!! 認めなきゃいいのよ!! って、 そう思いながらも、そんなOGさんを見て少し羨ましく思う私もいた。
自分に正直になるって、すごくツライことだと思う…。
でも、自分に嘘をつきながら生きているのも結構キツイ…。
自分で自分を誤魔化していることに気がついていない時は、それはそれで、それなりに幸せだった…。
でも・・・・・ 認めたくない自分、 受け入れ難い現実、 そんなものを突きつけられて、これらから逃げ続けているというのも楽なことじゃない…。
 
世間も、私も、虚仮不実。
そんなこと知らなきゃ幸せでいられたのに…、 皆と一緒に泣き笑い出来たのに…  って・・・
嬉しい時も、悲しい時も、そんな思いがいつまでたっても抜けやしない・・・。 
「それじゃ~私は不幸なの?」 と、そんな自問自答には、「私は幸せよ! いつだって幸せだわ!」って胸を張って答えるのだが、その胸の奥に不気味に蠢いているものは、日々成長を続けるばかり・・・。
これを認めちゃったとたんに、気分は Low mode に突入して、泣きたい気持ちと、苛立ちが頭をもたげた。

その上、OGさんも Yuさんも、「早くこの世との縁を切りたいね~」みたいな事を言うものだから、「私も~ぉ♪」 な~んて 明るく同意したものの、「ホントに死んじゃいたい…」って、また死にたがり病が再発しちゃってますます気分は滅入るばかり・・・

「‘この私が死ぬ’っていう、本当のところの自死と向き合ったならば、わたしは生きてはいられないだろう…」 と OGさんはおっしゃった。
フッと思った・・・  「歳をとる」って、 仏さまが、遠まわし 遠まわしに、「この私は死んで行かなくっちゃいけないんだよ」って、 私が傷つかないように、私がショックを受けないように、ゆっくり ゆっくりと、 いつ訪れるとも知れぬ無常の風を教えてくださっている ってことなのかな~ って・・・・・

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仏法なんて知らなきゃよかった! [心]

3022751今日…、  仏さまに暴言を吐いた。  
溢れ出るまま、勢いのままに罵った。
そうしたら、久しぶりに泣けた。
でもアレは、私の涙じゃなかった・・・・・ 
それが、よくわかった・・・・・

馬鹿みたい…  仏法、仏法、仏法、って…! 
世間の人から見たら変人だわ!
「仏法なんて知らなきゃよかった!!!」
時々そう思うことはあっても、ここまで強く思ったことは今までになかった・・・・・

世間は虚仮で不実だって心底そう思うけど、仏法のみぞ真だなんて、今は思いたくない…。
私の思いなんて関係ないよね、無意味だよね。  そう教えてもらったし、自分でもそう思うよ。
でも私は、私の思いから逃れられない・・・  いつも いつも 振り回されっぱなし・・・

もし、仏法と出遭ってなかったら、こんなにも嫌な思いをすることはなかっただろうし、言葉に傷付き、言葉に振り回されて、自分を見失うこともなかったはず…!
仏法は、私の 生きる権利も 死ぬ権利も 否定して、私に 孤独と 悲しみと 苦しみを与えた。
も~ぉ これ以上、自分を苦悩の沼に埋もれさせたくない…、 
も~ぉ これ以上、自分を悲哀の渦に巻き込みたくない…、
そう思った時、私には仏法は重すぎると感じた。
でも、そんな弱音も、疲れ果てた心も、人格さえも、すべて否定し拒否する仏法って、いったい何なの?!

仏法など聞く気のない自分なのだと知らされることが正しい聴聞だと聞かされて、でも、そんな仏法嫌いの私にも届けられる御法があるんだと感じた時に、すごいな~ぁ、有り難いな~ぁ、という思いは否定されて、それなのに仏法を聞く気のないヤツには何も話す気になれない!と言って拒否される。
だったら最初から仏法なんて聞かなきゃよかった!  聞けないままに知らなきゃよかった…

阿弥陀さまって何なの?!   
阿弥陀さまなんて大嫌いよ!!
阿弥陀さまのお心なんて全然わからないし、私にはどうしたって聞くことが出来ない!
阿弥陀さまのどんな願いも、私にとっては苦しいだけで、大きなお世話でしかない!!
阿弥陀さまなんて知らないままでいい!  私は何もわかりたくもない!!
仏法なんて、知らなきゃよかった・・・・・  そうすれば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう [心]

3022602   そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう
   わたくしというのはいったい何だ
   何べん考えなおし 読みあさり
   そうともきゝ こうも教えられても
   結局まだはっきりしていない
   わたくしというのは    〔以下空白〕

宮沢賢治の 『疾中』詩篇より、「そしてわたくしは
まもなく死ぬのだろう」 という題名の詩である。

>> 君は、自分が死んで行かねばならないという
ことに照準が合っていない!
と言われた時に、ただなんとなく思い出して書棚より詩集を引っ張り出してきただけ…。

“詩”の意味なんてどうだっていい・・・  私が知りたいのは、“死”の意味・・・  なんてね、 嘘 … !

も~、どうだっていい・・・・   生きることも…、 死ぬことも…。
後悔にまみれて狂気の中で死んでいく自分の姿が想像できる・・・・・。  それは幸せなこと。
狂ってる・・・ 私・・・・・。  そう思えることもまた幸せ。
笑えない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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今、生きているということ [心]

「 生きているということ  いま生きているということ 」 
という書き出しで始まる、谷川俊太郎氏の 『生きる』 という詩を、数日前に偶然目にした。

そして先週末の支部法座ではOG先生が、「‘生きている実感’というのを表現するとしたら、どのように答えられますか?」と質問をされた時、私はこの詩のことをフッと思い浮かべた。
OG先生は、「五感に触れる感覚を通して‘生きている実感’というのを感じられたとしても、‘生きている’とハッキリと実感できるものはなく、どこかぼんやりとしてしまうのではないだろうか…」 と、話された。
この詩には作者の谷川氏が、「生きている」と実感できた瞬間のいくつかが、「生きているということ いま生きているということ」 という頭出しの繰り返しで、五段に分けて書きつづられている。

  生きているということ  いま生きているということ
  それはのどがかわくということ
  木漏れ日がまぶしいということ
  ふっと或るメロディを思い出すということ
  くしゃみをすること
  あなたと手をつなぐこと   

というのが一段目。  そして、二段目の〆には、こんな言葉がある。

  すべての美しいものに出会うということ
  そして かくされた悪を注意深くこばむこと

「隠された悪」、これを 「注意深く拒むこと」 。 それが、「今、生きているということ」。
なるほど、なるほど、と 私なりに納得!!
自分にとって都合の良いものだけを求め、都合の悪いものはことごとく拒み、そうして自分自身を守り抜く。
それが、 生きているということ、 いま 生きているということ ・・・
そうしなければこの世を生き抜くことは出来ないし、生きている限りはこの世の幸せを求めたいものね…
でも、それだけでいいの? それが ‘生きている’ということなの? 
何か納得できないものが、私の胸の奥で深く突っかかった・・・・・

  生きているということ  いま生きているということ
  泣けるということ  笑えるということ

云々と、詩はまだ続く。 
そして四段目の最後の一文で、 あぁ、これが引っかかっているのだと感じた…。

  いま  いまが  すぎてゆくこと

今、今、今、今、という “今” の点が継続する途上に、常に動き続ける “今” がある。
一瞬で “過去” の産物になってしまう “今” と、 一瞬で “未来” へと転換する “今” の表裏した “今” が、「過ぎて行ったと自覚できる間」 は、確かに 「今を生きているということ」 になるのかもしれない…。
“今” は、決して掴み取ることができない・・・・・  
大切なのは、未来でも過去でもなく、現在進行の “今の私” を知.ることなのかもしれないと、ただ漠然とそう思った・・・・・
でも私は、自身でPickupした優しく温かい過去の想い出に依存し、美しく輝ける未来を夢見るばかりで、“今” を 生きていないのではないか… と、感じることが多々ある。
フッとした瞬間に、自分自身を必死になって守り抜こうと苦悩している自分の姿を垣間見た時、「私って、何のために生きているの?」って自問自答する・・・・・・

  生きているということ  いま生きているということ

と、再び繰り返されたこの詩の五段目、最後の言葉には、

  人は、愛するということ
  あなたの手のぬくみ  命ということ

という言葉で締めくくられている。 
そうだね・・・・・  愛を求めて生きさまよい続け、それによって悩み苦しんだ挙句、結局はその何もかもを火宅無常のこの世界に捨て置き、この手のぬくみ、この命の灯が消えた時には独り行かねばならない世界がある。
これを身に置かずして、、‘生きている実感’だけを追い求めたとて、果たして‘生きている’意味があるのだろうか・・・・・・
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君は、何の苦労もしていない [心]

ある法座に参加した時、KHさんより、「なっちゃんは、今まで苦労なんてしたことないだろう?!」 と言われた。
思わず言葉に詰まった・・・・・・
「苦労」なんてものは量れない…、  それ故に、受ける人によって度合いが異なるものだと思う。
KHさんの言われる「苦労」の意味を考えるため、私は私の知り得る過去を頭の中で遡ってみた。

自分では、人並みの苦労はしてきたつもりだった…、  父との関係、病気のこと、母の介護、等々・・・・・  
でも、時代は戦時中というわけではないし、途上国の難民キャンプで生活しているわけでもない…
「苦労知らず」と言われても仕方のないことかもしれないと思った・・・・・
メンバーの中には、「なっちゃんは、いつも笑顔で苦労を隠しているだけだよね」と慰めてくれる人もいたけど…、なんとなく素直に受け取れなかった。

今日から二日間の日程で、また法座に参加させて頂くご縁をいただいた。
「そんな幸せいっぱいの苦労知らずでは、仏法は聞けないよ」、と言われた前回の法座でのことをフッと思い出して、また気持ちが滅入る・・・・・     はぁ~~~~~~~~~~

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心の中には黒魔術 [心]

Internet News の トピックスで、「体の一部をお守りにするために、ナイジェリアで子どもの誘拐・殺害が急増」 という記事を目にした。

【AFPBB】の記事によると、ナイジェリア北部のカノの町では、2~5歳の子供の誘拐がここ3ヶ月で2倍以上に急増しているという。 その数は、週平均50人にもなる。
誘拐された子供たちは、労働力として使われるのではなく、彼らを待ち受けているものは “死” である。
身勝手な大人たちの「利欲」を満たすため、それも「迷信」によって殺害されるのだ。
ナイジェリアを含めた西アフリカでは未だ黒魔術が信仰されていて、富や権力を手に入れるため、また自分の目的を達成させるためには、黒魔術に依るしかない、 そしてその儀式に使用するために子どもを殺すしかないと考えている人も少なくはないそうだ。

黒魔術の儀式では、幼い子供の臓器や血が必要とされる。
貧困にあえぐ親たちによる子供の放置と、貧困故に利欲に目のくらんだ大人たちの身勝手が、非現実的な「生け贄」という形で現実社会に存在しているのである。
子供であろうと人間として生まれた一つの命を、なんて軽々しく考えているのかと腹の立つ思いでこの記事を読んだ。

自分が生きていくためには何だってする自分!
これを一歩越えて、自分が「幸せ」に生きていくためには何だってする自分!!
自分さえ幸せならばそれでいい…。 
自分の幸せのためには、他の命の犠牲は仕方がない…!!!
そんな身勝手で強欲な心が、自分の中にも存在しているのだと思うと自分自身に嫌気がさす・・・・・・!

現在、先進国と言われる国々でもかつては「迷信」なるものが横行していたのは事実であり、この「迷信」を打ち消してきたものは、裕福な環境と、科学や医学などの学問や技術の進化であろう。
今、私は、そうした時代の、そうした環境の中にいて、このニュースも他人事としてしか受け取れないし、かつ、自分の置かれたこの環境を有り難いと思える心も無い・・・・・
自分にとって都合の悪いことは全部他人事で、都合の良いことは自分のおかげと自惚れるばかり…。
「すべてが私一人のために、  あぁ、おかげ様 おかげ様、  すべてのものに有り難う」 だなんて気持ちは微塵も出てこない・・・・・

あぁ…、 今日は朝から自己批判ばかりしている ・・・・・・・・・・

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七夕 ―笹の葉燃えて― [心]

今日は、七夕(たなばた)。 
と言っても、グレゴリオ暦(新暦)の7月7日なので、伝統的七夕(旧暦の七夕)とは違うけど…(^.^ゞ
今は梅雨の真っ只中、おまけに今日は雨のち曇り、それでもって今夜は月齢15日のほぼ満月。
これだけの悪条件が揃っていれば天の川どころか、大半の星すら見られない・・・・・

子供の頃、7月に入ると近所の竹林から笹竹を一本いただいて、これを庭のパーゴラの柱にくくりつけ、五色の短冊にお願い事をいっぱいいっぱい書き連ね、笹竹の枝が折れてしまいそうになるほど飾りつけたことを思い出す…。

あの頃、私はどんな願い事をしていたのだろう…  それは、叶えられたのだろうか…
ただ覚えているのは、日、一日一日と経つうちに笹竹の水々しさは徐々に失われ、7月7日を迎える頃には、幹も枝も緑を失い、葉は薄茶色になって縮こまったまま散っていく…。
そのことが無性に寂しく感じられた…。

七夕の日の夜、その笹竹を持って近所の小川まで行き、その畔で父が笹竹に火をつけると、笹竹も、願い事を書いた短冊も、アッという間にみるみると燃えていく…
それが、とても悲しかった…。
私の願いは炎となり煙となって、天高く届けられるのだと聞かされた時…、 私は、私の願いだけではなく、私自身も天高く昇って行きたいという思いにかられた。
炎に、灰に、立ち昇る煙に取り残されて、一人置き去りにされたような悲しみに泣いた・・・・・

7月7日の夜に天の川を見れたことはない。
雲の張り巡らされた夜空を見上げながら、ただ 「帰りたい…」 と ・・・・・  そう願ったことだけは覚えている。   
そして、その願いは、今も変ることなく持ち続けている ・・・・・・

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云わぬは鬼の「業魂」 [心]

「人が云う」、と書いて 『伝』(つたえる) という字になる。
「鬼が云う」、と書いて 『魂』(たましい) という字になる。

「云」という字の語源は、「雲」を表した象形文字であるが、『詩・経』などでもわかるように、「雲」という意味合いはなく、「音」を表し、また「これ」・「ここに」などの意味を持つ。
一方、「鬼」という字は、隠れて人の目に見えないものという意味の、「隠(おん)」が転じて「鬼」になったのだと言われ、これは「霊」と同じような意味を持ち、目には見えないが死んでも残る霊魂を意味し、また万物に宿る精霊を表すこともある。
この「云」という字と「鬼」という字を組み合わせて、「魂(たましい)」という形声文字が作られた。

「人が云う」と書いて『伝』(つたえる)という意味になることを考えた時、これは大いに納得できる。
「云う」は、「言う」の旧仮名遣いである。
人は言葉を言(云)い表わすことによって、思い・考えを伝えるという手段を持っている。
逆に、何も言(云)い表さなければ、その心も考えも相手には伝わらないのである。
もちろん、言葉には限界があるのは事実だ。 
だからこそ、言葉では伝えきれないものまで伝える時には、手紙や電話などではなく、人と人とが直接会って言い伝えることが大切だと私は思う。

では、「魂」とは何か?
ある辞書によると、「魂とは、死しても残る心である」とあり、また別の辞書では、「鬼(死者の霊)が云(めぐる)という語源を元に、休まずにめぐる霊魂」と書かれてあるものもあった。

『伝』という字と同様に漢字のつくりで考えた時、「鬼が云う」と書いて『魂』(たましい)という字になる。
「鬼」という字を語源通りに、「人の目には見えない“私という霊魂”」、または、「死しても残る“私という霊魂”」であると解するならば、“私という霊魂・本質”が持っているその思い・考えを云い伝えてこそ、『魂』といえるのであって、「云わぬ」はただの「鬼」であるともいえる。

では、“私の霊魂” “私の本質” とはどんなものなのか ・・・・・・?

さて・・・・・・  これが、自分の事ながらさっぱりわからない ・・・・・

その時々の縁によって出てくる、常にコロコロと変化し続ける、いわゆる“心”というものは、私の本質とは違う。
仏教では、この “私の魂・本質” を、『業魂(ごうだましい)』 というのだと教えてもらった。 
「業(ごう)」というのは、「自業自得」の「業」と同じで、私がやったこと・行いであり、その「業」のすべてを溜め込んだ“蔵”のようなものを 『業魂』 というのだと聞いた。
日々の生活の中で、言ったこと、行ったこと、思ったことの全てが 私の『業魂』となり、これが死しても残る“魂”であり、私の“本質”なのだと・・・。

[ひらめき]あぁ、そうか!!!
三日前からず~~~っと心にひっかかっていた 「“魂”って何?」という疑問を解決する糸口が見えてきたような気がする[exclamation]


私にとって、「書きつづる」という行為は、自分との対話のような気がする。
頭で考えているだけではわからないことも、文字にすることで気付かせてもらえることが多々ある。
「人に云う」ことが『伝える』ということならば、私にとって「鬼が云う」ということは、私という鬼が私に『魂』の存在を云い伝えてくれることなのかもしれない。

今、「“魂”って何?」という引っ掛かりから、 「“業魂”って…?」という疑問に変った。

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「水」は万物の根源なり [心]

インドではお釈迦様がお生まれになった頃、約2,500年前の古代ギリシアでは、“神話”が歴史であり、科学でもあり、倫理・法律でもあった時代に、この神話的摂理に異論を唱えた人が、「最古の哲学者」といわれるタレスであった。
この世のすべてのものは神によって創造されたのだ、と信じて疑わなかった世界観の中にあって、タレスは、物質を構成する基本的要素を合理的に説明しようと試みた最初の人であった。
そのタレスが導き出したものは、「万物の根元は「水」であり、存在する全てのものは「水」から生成され、そして水に帰り消滅していくのだ」という考えである。

地球生命の誕生を考えた時、この星・地球に水が存在したからこそ命が芽生えたのだということは、現在ではごく当たり前の常識として周知されている。
すべての地球生命体の起源をたどれば水中生物であると考えられているのが定説であり、この意味でタレスが唱えた、「「水」は万物の根源なり」という説は、肯定するにあたうであろう。

でも、なぜかそれでは満足できない私がいる。

「私という肉体」を考えた時、これは生物化学での定説や、タレスの哲学に異論を唱える術はない。
しかし、「私は私であると思っている心」、言い換えるなら「肉体を抜けた魂」ということを考えた時、生物学でも哲学でも医学でもその答えは見つけられない。

不思議なもので、この私の肉体の寿命が尽きた後、死後の世界があると考える人も、死んだら皆無であると考える人も、現在の自分にとって都合のよい答えにとどまることで満足してしまっている。
必ず死に行く自分なのだと知りながら、「今日、私が死ぬとは思えない…」と、毎日毎日、自分の死を先へ先へと追いやって…、 必ず迎える我が身の死については、真剣に考えることが出来ずに、今を生きることだけに一点集中をしている。
つまり、自分の死後の世界に恐怖を抱いている人は、稀有な人であるといえる。

そう言っている私とて、仏教を聞かせていただいても、地獄に堕ちると聞かされても、馬の耳に念仏・・・・・
これを恐怖に思う心も無く、「いつまでたっても信じられん! との一点張りの自分だな~ぁ」と、自分の思いに耽ることしか出来ずにいる。
「それがどうした!?」とばかりに、その先へと進めない・・・・・

「一息切れた(死んだ)ならば、この肉体はもちろんのこと、愛する人も、大切に守ってきたものも、この心さえも切り離されて、裸一貫で行かねばならない先がある」。
そう聞かされた時、これに恐怖するどころか、これに憧れを抱いてしまうような私なのだ・・・・・

あぁ・・・・・  水になりたい・・・・・
落ちるまま…、 流されるまま…、 消えるまま…  の、 水になりたい・・・・・

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魂の重さ [心]

20世紀の初頭に、危篤状態の人を精密な秤の上に乗せて、死の直前の体重と、臨終後の体重を計測した医師がいた。 アメリカ・マサチューセッツ州のDr.ダンカン・マクドゥーガル博士である。
この時の実験結果は新聞や医学雑誌に取り上げられたものの、実際は実験基準もいい加減で学術的には認められていない。
しかし、彼が実験で得た、「人間の魂の重さは21グラムである」 というデーターは、俗説として世間に広まった。

「魂」って何なのだろう?

「私」って何なのだろう?

すごく無意味な疑問でもあり、 すごく重要な問いかけでもある・・・  ただ、そんな気がする・・・。

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キジも鳴かずば撃たれまい [心]

昨日の、「カエルの結婚式」のNewsを見て、もう一つ心に思ったことがある。

インドのみならず、日本でも古来より雨乞いの儀式は各地で執り行われていた。
たとえば山野など何かを焼いたり、芸能を奉納したり、水神の住む湖沼に動物を投げ入れたり、大音量で太鼓を叩いたりと、地域によってスタイルこそ違えども、祈ることで雨は降るものだと信じられていた。
また、雨乞いの儀式の一環として道教呪術儀礼が広まると、家畜を捧げた位ではまだ信仰が足らぬとして、「人身御供」、つまり人間を生贄として供える慣習もかつては存在した。
この「人身御供」は、雨乞い信仰のみに留まらず、橋や土岸工事、また築城に際しても、水害・敵襲によって破壊されぬようにと、神に祈願するその生贄として「人柱(ひとばしら)」、つまり生きながらにしてその建造物近傍に人を埋めるという人身御供もあった。

各地に昔話として伝わる「人柱」となった犠牲者の多くは、まだ若く美しい女性たちであった。
これは、神は男であるという男尊の考えのもとに、美しい女性を差し出して男神のご機嫌をとろうとする、まことに浅ましき人間レベルの浅知恵に他ならない。
「松江城や長浜城の人柱」、また「お糸やお石の人柱伝説」などがそれであるが、まだ小さかった私の心を深く貫いたのは、「お千代のあずきまんま」の物語りであった。
小学生の時に読んだ本で、諺にもなっている石川県に伝わる民話、「キジも鳴かずば撃たれまい」である。

昔々…で始まるこの物語の概要は以下の通りである。
年幼い少女・お千代の母親が洪水の犠牲となって死しんだ翌年の梅雨の頃、お千代は重い病にふせっていた。
父親である弥平は幼いお千代の身を案じて、貧しい暮らしながらもアワ粥などを作って看病するのだが、お千代の食はいっこうに進まない。
そんなある日病床のお千代が、「あずきまんまが食いてぇ」とうわごとのように言った。
「あずきまんま」とは、亡き母が一度だけ作って食べさせてくれたお赤飯のことだが、弥平には、あずきどころか米粒すら買えないほど生活は貧窮していた。
しかし弥平は娘可愛さのあまりに、地主様の倉からほんの一握りの米と僅かばかりのあずきを盗んでしまう。
そのお陰かお千代は次第に元気を取り戻し、庭に出て、「♪おいしいあずきの入ったまんま食うたでな~ぁ♪」と歌いながらマリつきをして遊べるまでになった。
しかし、このお千代のマリつき歌をある村人が聞いていて、「なぜ貧乏な弥平があずきまんまを娘に食わすことが出来ただか…?」と疑念を持たれてしまうのであった。
そしてこの年もまた大雨で村が洪水の危機にさらされ、その対策に村人たちが寄り集まって相談する中、この大雨を鎮めるためには「人身御供」しかあるまい…、という結論に達したのだった。
しかし、誰を人柱にするか…。
この時、お千代のマリつき歌を聞いていた村人が、「弥平は盗みを働くような悪人じゃ! 娘のお千代が歌っておったマリつき歌が何よりの証拠じゃ!」と公言したことで、弥平が人柱として決まってしまった。
そして弥平は生贄として殺され、一人残された娘のお千代は、自分が安易なことを口走ったせいで父親の弥平は生きたまま人柱にされたのだと、何日も何日も後悔の内に泣き暮れたが、ある日泣くことを止めると、その日から一切声を出さなくなってしまい、これ以降、お千代は口のきけぬまま成長していった。
そんなある日、キジ狩の猟師が山に入り一羽のキジを仕留めてその獲物に駆け寄ってみると、そこには猟師の仕留めたキジを胸に抱いたお千代が立っていた。
そしてお千代は一言、声に出してこういった、「キジよ、お前も鳴かなければ撃たれなかったのに…」 と・・・・・。
この一言を最後に、これ以後、お千代の姿を見たものはいないという。

といった物語を読んだのが小学校2,3年生の頃だったが、私はこの昔話に強烈な印象を受け、「しゃべることは罪なのだ…」とハッキリと認識したことを今でも記憶している。

「キジも鳴かずば撃たれまいに…」  この物語が、自分にどれほどの影響を及ぼしたのかは知れないが、小学校3,4年生の頃の私は、とにかく無口で必要最小限度のこと、あいさつ程度のことしか声に出すことが出来ない子であった。
他人と会話をした記憶はほとんどなく、ただ、父親に何かを聞かれる度に、これを答える時、「父は今、私にどんな発言を望んでいるのだろうか…」 と 考えて、考えて、考え出した言葉を一言二言、全身で勇気を振り絞って、やっとの思いで口にすることが精一杯だった…。
自分の心・思いなどを見ている余裕はなく、ただただ相手が、父が期待している言葉を探し出して、それを声にすることで必死だった…。

もちろん、この物語のせいでそうなったのでは決してない。
厳しい父親をもった故に、もともとの性格がひねくれていただけの話だ。
今現在は、人との会話も好きになったし、自分の思いも口に出来るようになったけど、でも時々、子供時代の体験が今でも抜け切れないでいるのだろうな~っと思うことも多々ある。

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カエルの結婚式 [心]

2942772「インド北東部のアッサム州でカエルの結婚式が行われた」 という動画ニュースのトピックをNETで目にして、「インド」と「カエル」というキーワードに興味を惹かれ、さっそく閲覧してみた。
この村では、二ヶ月も雨に恵まれず、付近一帯の干ばつの解決策として、自治体主催で「カエルの結婚式」が執り行われたそうだ。
何故「カエルの結婚式」かと言うと、これはヒンドゥー教の儀式の一つであり、アッサム地域に古くから伝わる信仰で、カエルが結婚式をすると雨神様がお喜びになり雨を降らしてくれるという教えがあるのだとか…。
ヒンドゥー教でカエルは、雨神・バルンディヴァタの使者であるとされ、牧師ならぬ聖職者がヒンドゥー教のしきたり通りに儀式を進行して、参列した多数の村人たちが見守る中、新郎「バルン(風)」と、新婦「ビジューリ(雷)」の二匹のカエルは、目出たくも滞りなく婚儀を終えたのだとか。
結婚式を見守った参列者は、「これで雨が降るはずだ!」とホッと笑顔を見せていた。
カエルの気持ちをまったく無視した人間本位の形だけの結婚式で雨なんか降るわきゃない!と思うのだが、日照が続けば農作物にも多大な影響が出るとあって、村人たちは真剣そのもので、「この土地に雨を降らすにはこの手段しかない!」と言い切っていた。

この人が、どれくらい本気でこの慣わしを信じているのかはわからないけど、あて・頼りにするもののビジョンが明確であって羨ましいな~ぁ、などと思えた。
だって私は、不明確なものは信じることが出来ずに、自分だけは!と自身を信じ、自分ばかりをあて・頼りにして今まで生きてきたように思うから…。
自分だけは決して自分を裏切らないと・・・・・

それが、仏法を聞かせていただいて、私には何の力もない、真実とはまるで逆さまの自分だと聞かされ…
また、一寸先には、信じている自分自身にも裏切られ、見捨て見捨てられて独り落ちて行かねばならない世界があると聞かされ…
大きな恐怖と孤独を感じずにはいられなかった・・・・・
信じられるものは真実の御法だけですよ、 南無阿弥陀仏こそが唯一の真実ですよ、 あて・頼りに出来るのは、これひとつしかないのですよ!
と聞かせていただいても、私には想像も出来ないし、理解も出来ないしと、反発してもがくことしかできない。

私が信じて救われるんじゃない、 阿弥陀さまが信じて、思いとられること。

それが、全然聞けていない私・・・・・   もう、イヤ!!・・・・・

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雨、だから・・・ [心]

今日、出かける前に書斎の本棚から本を抜き出す際、その端に飾ってあった写真たてを床に落としそうになって、あわててキャッチした。
ホコリまるけになった写真たて…
毎日視界に入っていたはずなのに、全然目にしていなくて、すっかり忘れ去られていたその写真…
写真に積もったホコリを掃って、久しぶりにその一枚の写真と、ちゃんと向き合う。
私と、母と、そして祖母の三人で旅行をした時に写したその写真。
写真の中の三人は、止まったままの時間の中で微笑んでいて・・・、
でも、今、動いた時間の中に存在しているのは、私一人だけ・・・・・・
四年前に母が逝き…、 二年前には祖母が逝った…。

この時…、 この写真を撮った時には、“死” なんてことなど、全然考えたこともなかった…。
ただ漠然と、そして当たり前のように、まず祖母が逝き、そして母が逝き、いつかは自分もこの世を去るのだと…、 それが筋の通った話しだとして、何の疑問も持たずにいた。
でも…、
病に倒れた母が最初に逝き、その事実に堪えかねたように祖母は自身の死を認識できぬままにこの世を去った…。

そして、次は私の番だ・・・・・

母と祖母がそうであった様に、今度は私が独りで逝かねばならない・・・・・
それがいつなのか…、どのような状態でなのか…、 それは誰にもわからないが、
ただ確かなことは、次は私なのだという事実・・・・・  これに間違いはない・・・・・・

訳もわからず涙がこぼれた…

なぜ…、なぜ仏さまは、こんなに辛い事実を私に突きつけるのか…

あぁ、涙がとまらない・・・・・

今夜の雨のように、独り、静かに泣くことしかできない・・・・・

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晴れのち、曇りのち、晴れのち、雨のち・・・ [心]

「今、この瞬間の自分の心の動きを見ていくことが肝心」 とYuさんに教えていただき、
私は、まずそれを、頭で考えてしまった。
私の心って?  どれが本当の私?  本心って何なの?
私は、自分の本音の所在すらわからない・・・・・  自分のことなのに・・・・・
内なる心の四方八方を手探りしながら私の本心を探すという無意味な作業を繰り返す。
その結果、BLOGを書いては消して、書いては消してと迷いにハマって、更新が出来なくなって、一週間・・・・・
でも、これも私が作った言い訳にしか過ぎない。
私の本心は?
私が私の本心だと思っている本当の心は、やっぱり本心とは違うんだろうな…
そんな自問自答を繰り返すばかりの毎日・・・・・

先日、そのわからない私の本心というものを、Yuさんがとても丁寧に教えてくださった。
そして昨日の支部本座では、OG先生やIKさんが、「今、動いている私の本心を見ていくことが必要」と教えてくださった。
また今日は、HMさんからも同じ教えをいただいた。
多分、私にかけている、とても大切なところを見抜いて、諸先達方が重ね重ね説いてくださる、その仏さまのお手回しに、ほんの少しだけ本心が見えてきた。

いつも独りで泣いている心を、表の笑顔で隠し続けて生きてきたから、そこには無理も苦労も無い。
だけども本当は、いつも独りが寂しくて、泣きながら駄々をこねている我儘ばかりの私がいて、
その自分中心の我欲の心を軸にして、些細な出来事や、相手の言葉に一喜一憂する心が存在する。
それは頭で考えるよりも早く出てくる私の思い・・・ それが私の本心・・・

晴れていたと思ったら、次の瞬間には曇りだし、また晴れ出したら次は雨・・・・・
そいつは、予想を超えた速さで変化し、掴み取った瞬間に過去の遺物となって腐り果てる。

それが嫌、 それが嫌い、   でも、それが私なのだと言う。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、・・・・・・・・・・

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蓮華の香りの贈り物 [心]

ここしばらく、元気指数のアベレージが下の方でくすぶっていたが、今日、本をいただいて元気指数も右肩上がり。[グッド(上向き矢印)]
お浄土の蓮華の香りのする本を前に、外出も家事も忘れて、ず~っと読みふけりたい気分[るんるん]

ただ、せっかくの御本を、頭で読んでしまう自分自身にガッカリ…、と言うのが正直なところ…。
自分にとって都合のよい読み方しかできないんじゃないかという不安もある…。

そういえば、中学生の時だったか…、現代文の授業で先生と論争したことがあったっけ…
テストなどで、「作者の気持ちを答えなさい」などの質問の解答に、何故かいつも減点をつける先生がいて、「お味わいは人によって様々だ!」との異議を申し立てたことを思い出した。

[ひらめき]ああ、そうか!!! 
考えてみたら、「自分の意見が正しい!」と主張し始めたのは、生まれた時からず~っとなんだ!
「お腹が空いたよ」、「寒いよ、暑いよ」、「愛情くれよ」と泣き叫び、このわがままを満たしてくれたとて、御礼を言わず、御恩も感じず、「もう十分だ!」、「まだ足りない!」などと自己中心的なわがままを更に積み重ねて、いつだって己可愛いの心のままに周囲の人・物のせいにして生きてきた。

「嫌なもの(汚い自分)を見ちゃったな・・・・・・[ふらふら]
そう自己嫌悪したとたんに、目をつむり、耳をふさいで、泥悪な心を隠しながら反省することなく、愛おしい自分のためにまたわがままの上塗りをして罪を重ねる。

だめだ~ぁ、 またパワーレベルが下降しそう・・・・・・[バッド(下向き矢印)]

今夜は、たくさんの本を眺めながら、ホクホクしよっと[黒ハート]

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二匹のトラと二人の私 [心]

夢を見た・・・・・  何匹もの大きなトラに追われる夢。

何故そうなったのかは覚えていない…
ただ、トラたち追っ手から逃れる為に、私たち十数人の仲間は、行き先の無い、ただ逃げるという目的の旅に出た。
いつ、トラたちが襲ってくるかわからない…
どこで見つかってしまうかわからない…   極度の緊張感の連続…
見つかればたちどころに捕らえられ、食い殺されてしまう。

見知らぬ土地を、一時の油断もなく、周囲の様子を慎重に窺いながら旅を続ける私たち。
もう、半数近くの仲間がトラによって命を奪われてしまった…
私たちは、時には仲間を助けることもあったが…、 時には仲間を見殺しにしながら、それでも自分の命を守る為に旅を続けた。
仲間に頼りたい…、 頼りたいのに、でも… 結局自分しか信用のできない私…

白い砂煙の立ち上る乾いた村にさしかかった時、その村の人々が私たちを遠目に見ながらヒソヒソ話しをしているのが気になったが、私たち仲間は、その村にある一軒の干草の納屋の中に身を隠すことになった。
その納屋の入り口はとても小さくて、人一人がやっとの思いで通り抜けれるかどうかといったおおきさであった。
そして一人目の男性がその納屋の入り口の穴に身を突っ込んで、上半身だけを何とか潜り込ませたところで、「どうして入れないんだ! 通り抜けできないぞ! これじゃ~戻ることも出来ない!!」 と、大声でもがいていた時、フッと後方に視線を感じた私が村の広場の方を振り返って見ると、その目に、冷たい視線を向ける幾人かの村人の姿と、二匹の大きなトラの鋭い視線が飛び込んできた。
仲間は大声で叫びながら四方八方に散らばって逃げ惑う!  
あぁ、また一人仲間が犠牲になった…  あぁ、あちらでもまた一人やられてしまった…
そして私は・・・・・・
   
その夢の中には、二人の私がいた。
一人の私は、一番初めに干草の納屋に潜り込もうとして、でも潜り込めずに今も必死でもがいている男性その人が私自身であり、自分の背後で如何なる惨事が起こっているのかは全くわからずとも、迫り来る恐怖をヒシヒシと肌で感じ、その恐ろしさに胸が押し潰されそうになっている…、
誰よりも早く安全な場所に逃げ込みたい、死にたくない、助けてくれと必死で泣き叫んでいるその人自身が私であると感じた。
そしてもう一人の私は、その男の傍らに立って、振り返ったその面前で繰り広げられる人々の裏切りや、仲間の死という無残な光景を目にしながらも、ただただ傍観しつつ、「自分だけは大丈夫」とタカをくくっているその人も、私自身に違いないと感じた。

その二人の私が、いよいよトラの視線と絡み合ったその瞬間、私はその恐怖で気を失いかけた。
その時、「すべて夢ですよ」 というやさしい言葉が届いた。

その声に、トラも、納屋も、その光景のすべてが一切消え去って、私は一通の手紙を読んでいた。
お会いしたことも、お聞きしたことも無いし、そのお名前すら知らないが、その手紙は、MRさんのお母様からのものであった。

「起きている時(人として生きている間)は、欲にまみれ、それ故に苦しみ、後悔することばかりの私です。
でもそれは、眠っている(人として生きている)からこそ見ていられる夢を、今、見続けているだけなのです。
でも、いつかは目覚め、その夢も終わるでしょう・・・・・・・・」

手紙にはまだまだ続きの言葉が綴られていたが、それを読む前に、窓から差し込んだ朝日によって、私は夢から目覚めてしまった…
「起きている時も、眠っている時も、夢?・・・・・  今はまだ、私は夢の途中?・・・・・
どうしてトラ?  なぜ、MRさんのお母様?  手紙の続きにはいったい何が・・・・・」 
そんな疑問を布団の中で問うたとて、答えなど何も出て来やしないことはわかっている…

いつも見ている夢とは違うなぁと感じたので、ここに、覚えている限りを記録しておこう[パスワード]










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満月 [心]

今夜は満月
穏やかな夜風が、少し酔った頬に心地いい

ただ月を眺めながら、ぼんやりとした時を過ごす

この月明かりに照らされた、私の目にしているものすべてが、
そして、この私自身も、
そのすべてが、私の後生のためにあるなんて・・・・・・

私は、私の道を遮るすべてのものが煩わしかった・・・・・・
音も、光も、言葉も、心も、   そして愛する人も…


TKさんと二人で、夜遅くまで飲み明かした。
話せることが嬉しかった。
聞いてもらえることが嬉しかった。
話してくれることも嬉しかった。
それを聞けることも嬉しかった。
TKさんの笑い声につられて、消えてしまった私の笑顔も戻ってきた。

話しはすべて、同じところに辿り着き、そしてまた迷っていく・・・
まるでメビウスの輪のよう
結局、私の力ではどうにもならない…
何のタネも手立てもない…
ここに辿り着くと次に出てくるのが、「じゃ~どうすれば?」の自力心
迷いの泥濘から、空想の光の世界に手を伸ばすことも、もうできない…

帰り道、二人で見上げた満月がやさしく感じた。
TKさん、どうもありがとう
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真如一実 [心]

[雨]雨、どんどん強くなる…   夕方からは、[雷]雷さんも応援に駆けつけて…
ピカッて光った夜空、 きれい
止まない雨音、 優しい

HMさんに電話でお話しを聞いてもらえて、不安な気持ちを言葉に出来て、思いっきり泣いて、とても気持ちが楽になった。
「そのまんまの私を見せていただくんだよ」と教えていただき、その言葉に、すごく救われた。

私だけかな~ぁ?
マイナスの感情って、際限が無くて、どんどん広がって落ちて行っちゃうんだよね~
でも、プラスの感情には限界があって、一山越えるとしぼんでしまう・・・
いかに自分が暗く底深いかを垣間見た気がする。

NOさんから言われた通り、メールじゃ本当の気持ちなんて伝わらないんだって実感した…。
声に出してみることで、逆に知らされることがたくさんある。
あぁ、 これをSK先生は教えてくださったんだな~と、改めて聞かせていただく。

だけども逆に、ここ数日で、いかに人間の言葉が当てにならないかということも、手痛く知らされた。
縁によってコロコロと変わる心。
そのコロコロ転々の心によって生み出された言葉なんて、不実そのもの。
そんな言葉に一喜一憂して、信じたあげくに裏切られて、傷ついて・・・・・
虚仮不実・・・。   それが人間なんだ・・・    これが私なんだ・・・

だけど、そんな私に届けられた、真如一実の‘南無阿弥陀仏’だけは、変わらないんだな~
と聞かせていただく。

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