まずは自身の聞法を [心]
やる気がない・・・ 何にもやる気がしない・・・ 年の瀬だというのに・・・、 やらなきゃならないことは山とあるのに・・・、 身体が動かない・・・・・
たった一言を受けきれずに動けなくなっちゃう私って、いったい何なんだろう・・・
とても信頼していた人だったからこそ、その一言は、私には重すぎて・・・・・
着飾っていた自信を剥ぎ取られたら、後悔の波に飲み込まれて、自己嫌悪の海に埋没・・・ ドボン・・・
そんな私に優しい言葉で励ましてくださったメールにも、暗く捻くれた読み方しか出来なくて・・・、 自分でもどうしたらいいのかわからなくて・・・・・、 ごめんなさい、ごめんなさい。
その一言を言われるほんの少し前までは、それなりに幸せで、それなりに前向きで、自分に出来る範囲のことを頑張ってやって行こう!って宣言していたのに・・・・・、 その、良かれと思ってやってきたことを否定されたら一気にこれだもの・・・、 自分でも嫌になるよ! だから自己嫌悪・・・・・。
今日はクリスマス! みんなが教会の行事を楽しむのなら、私はお寺に行きましょ♪ ってことで、ポク ポク チーン ってしに、G願さんのお寺へ遊びに行ってきた。
G願さんとお話しをするのはとっても楽しい。 一から十まで仏法を基軸にお互いが感じたところを語り合え、聞き合えて、二人の会話には休む間がなく、いつも時間を忘れてしまう。
今日も、今のところの私をG願さんにお話ししながら自分に聞かせていただき、またG願さんのお話しを聞きながら私自身を観せていただき、言葉に出して聞いていくことの大切さを語り合った。
それに、ここ最近立て続けに参加させていただいている聞法交流会でも、わからん、わからんと言って求めておられる友同行に、私自身のところを振り返りながら、今のところの私をお話しさせていただくことで、私自身が聞かせてもらうことの出来ているご縁を、すごいな~、不思議だな~と感じさせていただき、言葉に出して聞いていくことの大切さを実感しているところだった。
最初のきっかけは、今月初頭の高山報恩講の時かな。
座談会の前にKnさんから、「BLOGで書いていることを言葉に出してみて!」って言われ、YMさんからも、「今日こそは自分を出してね!」って言われて、その座談会ではUDさんを通して見せてもらった自分、今伝えたい私のところを言葉に出したことが第一歩となった。
この時、「あぁ…、自分に返って来るんだ…」 ってことを知った。
それからは、友同行のすがたを通して観せてもらった今のところの私を言葉にしようと心がけ、西光寺ではG先生の前で、聞法交流会ではYuさんの前で、今のところを言葉にしていけば、もし私が間違ったことを言っても訂正してもらえるし、その場で私が聞かせていただけるんだと、その機会を無駄にすることなく言葉に出すようにしていった。
すると、‘今’が動いて行くのがわかった!
‘今’、ここの私が動いている。 過去に捕らわれ、未来に怯えていた私の‘今’を発見することが出来た。
だから私は、間違ったことをやっているとは思わなかった・・・・・
G願さんともそんなお話しをしながら、とにかく言葉にして行こう! 頑張って声にしよう! って意気込んでいたのだけど・・・・・・
クリスマスの夜に届けられたメールには、「まずは自身の聞法を!」 とあり、私はその一言で・・・ 自分が恥ずかしくて、恥ずかしくて、後悔の海に溺れた・・・
「その口で何ヌカス! おまえにはまだ語る資格などないだろう!」 と 聞こえた・・・・・・
言うべきじゃなかった! 自分を出すべきじゃなかった! 後悔…、 後悔…、 自己嫌悪・・・・・・
そんな青黒い雲に心が覆われている中、YZさんより「メールで言うよりも言葉で言いたかったんだ」って電話が入った。
「わたしの阿弥陀さんが喜んでおられるんだ♪」 と、とても とても 嬉しそうに語っておられた。
私は、喜べない私を知らされた。
だから喜んでいる人を見ても羨ましいとは思わないし、喜べない自分を卑下もしていない。
ただ、「喜んでいるだけでいいの?」といらぬおせっかい心の出てきた自分をおこがましいと思った。
そう・・・、 人と接することで自分を知らされる。 そうして知らされた、自分でも嫌悪する醜いところで如来さまのご苦労を聞かせていただき、縁あればこれを口に出して、「私は こうだよ」と伝えていこうと思ったが…。
でも、言われてみれば分不相応、おこがましい話だよね。
「まずは自身の聞法を!」 ‘まず’は、どこまでが‘まず’なんだろう? どうなったら‘次は’になるんだろう?
なんてくだらない疑問・・・、 愚かだね…、 笑っちゃうね…、 でも私、怒ってる・・・ 誰に? 何に?
よくわからない・・・・・ でも私、きっと納得できていない・・・・・
だけど、後悔はしている。 言われたように、私なんかが人に語るべきじゃなかった。
後悔…、 後悔…、 自己嫌悪・・・・・・
たった一言を受けきれずに動けなくなっちゃう私って、いったい何なんだろう・・・
とても信頼していた人だったからこそ、その一言は、私には重すぎて・・・・・
着飾っていた自信を剥ぎ取られたら、後悔の波に飲み込まれて、自己嫌悪の海に埋没・・・ ドボン・・・
そんな私に優しい言葉で励ましてくださったメールにも、暗く捻くれた読み方しか出来なくて・・・、 自分でもどうしたらいいのかわからなくて・・・・・、 ごめんなさい、ごめんなさい。
その一言を言われるほんの少し前までは、それなりに幸せで、それなりに前向きで、自分に出来る範囲のことを頑張ってやって行こう!って宣言していたのに・・・・・、 その、良かれと思ってやってきたことを否定されたら一気にこれだもの・・・、 自分でも嫌になるよ! だから自己嫌悪・・・・・。
今日はクリスマス! みんなが教会の行事を楽しむのなら、私はお寺に行きましょ♪ ってことで、ポク ポク チーン ってしに、G願さんのお寺へ遊びに行ってきた。
G願さんとお話しをするのはとっても楽しい。 一から十まで仏法を基軸にお互いが感じたところを語り合え、聞き合えて、二人の会話には休む間がなく、いつも時間を忘れてしまう。
今日も、今のところの私をG願さんにお話ししながら自分に聞かせていただき、またG願さんのお話しを聞きながら私自身を観せていただき、言葉に出して聞いていくことの大切さを語り合った。
それに、ここ最近立て続けに参加させていただいている聞法交流会でも、わからん、わからんと言って求めておられる友同行に、私自身のところを振り返りながら、今のところの私をお話しさせていただくことで、私自身が聞かせてもらうことの出来ているご縁を、すごいな~、不思議だな~と感じさせていただき、言葉に出して聞いていくことの大切さを実感しているところだった。
最初のきっかけは、今月初頭の高山報恩講の時かな。
座談会の前にKnさんから、「BLOGで書いていることを言葉に出してみて!」って言われ、YMさんからも、「今日こそは自分を出してね!」って言われて、その座談会ではUDさんを通して見せてもらった自分、今伝えたい私のところを言葉に出したことが第一歩となった。
この時、「あぁ…、自分に返って来るんだ…」 ってことを知った。
それからは、友同行のすがたを通して観せてもらった今のところの私を言葉にしようと心がけ、西光寺ではG先生の前で、聞法交流会ではYuさんの前で、今のところを言葉にしていけば、もし私が間違ったことを言っても訂正してもらえるし、その場で私が聞かせていただけるんだと、その機会を無駄にすることなく言葉に出すようにしていった。
すると、‘今’が動いて行くのがわかった!
‘今’、ここの私が動いている。 過去に捕らわれ、未来に怯えていた私の‘今’を発見することが出来た。
だから私は、間違ったことをやっているとは思わなかった・・・・・
G願さんともそんなお話しをしながら、とにかく言葉にして行こう! 頑張って声にしよう! って意気込んでいたのだけど・・・・・・
クリスマスの夜に届けられたメールには、「まずは自身の聞法を!」 とあり、私はその一言で・・・ 自分が恥ずかしくて、恥ずかしくて、後悔の海に溺れた・・・
「その口で何ヌカス! おまえにはまだ語る資格などないだろう!」 と 聞こえた・・・・・・
言うべきじゃなかった! 自分を出すべきじゃなかった! 後悔…、 後悔…、 自己嫌悪・・・・・・
そんな青黒い雲に心が覆われている中、YZさんより「メールで言うよりも言葉で言いたかったんだ」って電話が入った。
「わたしの阿弥陀さんが喜んでおられるんだ♪」 と、とても とても 嬉しそうに語っておられた。
私は、喜べない私を知らされた。
だから喜んでいる人を見ても羨ましいとは思わないし、喜べない自分を卑下もしていない。
ただ、「喜んでいるだけでいいの?」といらぬおせっかい心の出てきた自分をおこがましいと思った。
そう・・・、 人と接することで自分を知らされる。 そうして知らされた、自分でも嫌悪する醜いところで如来さまのご苦労を聞かせていただき、縁あればこれを口に出して、「私は こうだよ」と伝えていこうと思ったが…。
でも、言われてみれば分不相応、おこがましい話だよね。
「まずは自身の聞法を!」 ‘まず’は、どこまでが‘まず’なんだろう? どうなったら‘次は’になるんだろう?
なんてくだらない疑問・・・、 愚かだね…、 笑っちゃうね…、 でも私、怒ってる・・・ 誰に? 何に?
よくわからない・・・・・ でも私、きっと納得できていない・・・・・
だけど、後悔はしている。 言われたように、私なんかが人に語るべきじゃなかった。
後悔…、 後悔…、 自己嫌悪・・・・・・
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