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心を弘誓の仏地に樹てる (6-6) [仏法]

2009.9.21 S先生

親鸞聖人の『教行信証』化身土・末にある、「 慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹(た)て、念を難思の法海に流す。」 というお言葉についてお話しをいただいた。

う~ん… でも…、実は御法話中、私の頭は迷子になって先生のお話しについていけなかった・・・
ただ抽象的なイメージだけが、ぼんやりと残った感じ…。
御法話の後の雑談で、Dr.Fさんは、「このお話しはわかりやすかった! 確かに自分の上に信心を樹(た)てても、骨組みからグラついてすぐに倒れちゃうよな~」と味わわれていたのに対して、私のイメージは、「私の硬い心には、樹(た)てるどころか、何にも刺さらんぞ?!」と思った。
そ~ゆ~私の思いは法海に流して行け、と言われれば、ヘイヘイと流せちゃう感じはするんだけど、「仏さまの土地って?」、「どんな信心を樹てるの?」って疑問は残っちゃう…。

と、言うことで、S先生のお言葉をそのまま頂戴する。

「私が樹(た)てていくのは、自分の土地にご信心を樹(う)えるんじゃない。
弘くて大きな阿弥陀さまのお誓いの上に、心を樹(う)えていきなさい、樹(た)てていきなさい、育てていきなさいとおっしゃってくださっている」

「そして私から出てきたいろいろな思いは、私議することの出来ない、私の頭で計らうことのできない、私の頭でトヤカク思うことの出来ない、不可思議の法の海に流していきなさいとおっしゃっている」

あぁ、私の間違いは、こんなグチャグチャとした自分の心の上に信心を樹(う)えようとしていること。 
まさに地獄を作り出している自分の心の上に信心を樹(た)てようとしていること。
こんな堕ちて行かねばならない自分の心の中で信心を育てようとしていること。
そんな、邪魔にこそなれ何もあてにもならん私の思慮などは、全~部、阿弥陀さまの不可思議の法海に流して、‘南無阿弥陀仏’の方に、阿弥陀さまの弘誓・ご本願の大地の上に信心を樹(う)えていきなさいと聞かせていただいた。

そっか、私の心に樹(た)てたら‘我法’になっちゃうもんね! だからすぐに崩れちゃう…
じゃ~、弘誓の仏地に樹(た)てるって…、 つまり…、 自分の思慮に捕らわれることなく、そのまま聞かせていただきましょ!ってことかしら…

なんだかS先生の御法話・最終回BLOGは、仏法というよりも単なる感想文になっちゃいました…(^.^ゞ
南無阿弥陀仏                                               (おわり)

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「生起」が先の‘南無阿弥陀仏’  (5-6) [仏法]

2009.9.21 S先生

親鸞さまは、「煩悩具足」 と 「聞不具足」 というお言葉をお示しになられた。
「具足」とは、欠け目なく備わっているという意味。
私は、煩悩こそ満ち満ちているが、半分だけ聞いて半分だけ喜んでいるようでは 「ちゃんと聞く」ということに徹底できていないじゃないか!というご指摘。 
たとえば、“照育”と“照護”のところを喜んでいるだけで、肝心の“照破”・ 闇が晴れるというところを聞いていない聞き方。 また、真実の道(お念仏の教え)があるということは聞いているが、しかしその道を歩んで信心を獲たという人があまりにも少ない為、その道だけを問題にした聞き方を「聞不具足」だといわれた。

その道を歩く人も、その道を達したという人も、あまりにも稀?
でも私は、真実の教え(道)と出逢い、その道を歩んでいる友同行がいて、その道を達して「獲たぞ!目を覚まさせていただいたぞ!」とその姿を示して下さる先輩同行もいて、そしてこの道に導いてくださる先生・知識ともめぐり合えた。
これって、私が思っている以上にスゴイことなんだね、きっと!!
私は、そういう方々のお導きのおかげで、わかるだのわからんだの、喜べるだの喜べんだのと駄々をこねることが出来るのだ。

でも、「そんな聞き方じゃダメでしょ!」 なんて言われたくないから、私は自分のもやもやっとした気持ちに背を向け自分を誤魔化して、飾ってみたり、隠してみたり…。
そんな私に、「最後に本当に死んで行かんならん時、大丈夫か?…、 堕ちて行かんならんという一大事があるで~!…」 と、教えてくださる先生がいる。
皆して寄ってたかって、「なっちゃん後生は大丈夫か?…、 一人で死んで行かんならんのやで~!…」 って、心配してくださる仲間がいる。
スゴイよ…!  やっぱりスゴイよ…!!
連続無窮のお働きと、そ~ゆ~方々のおかげによって、私はお念仏の御法を聞かせていただく身になったのだと…。  今、この身で聞けるのって奇跡だよね?!

S先生は、「わからんことがあったら、お念仏に相談していけばいいんですよ」と教えてくださった。
その‘南無阿弥陀仏’には二つの意味があり、一つは「親を呼ぶ声」で、もう一つは「子を呼ぶ声」なのだと。
「南無阿弥陀仏」と呼ばれたら、「南無阿弥陀仏」と答えていく。
あぁ、そうだ! G先生に、「阿弥陀仏さまとの会話は、すべて‘南無阿弥陀仏’ですよ」と教えていただいた。 S先生のおっしゃった「お念仏に相談する」って、そ~ゆ~ことなんだ!
親さまが 「南無阿弥陀仏」と呼ぶ声が、そのまま私が 「南無阿弥陀仏」と親さまを慕う声となり、そのまま親様が 「南無阿弥陀仏・・・ お前を浄土へ連れて往き、摂取不捨して、絶対に逃さへんぞ」 と、抱きとめてくださる声となる。
親さまはおっしゃる、「南無阿弥陀仏・・・ 救われない自分だと、よう 地獄行きの自分だと聞いてくれたな~。 一番イヤなことを、よう聞いてくれたな~」 と言って喜んでくださる。

私には救われる手がかりが微塵もなかったから、阿弥陀さまがご苦労をしてくださったのだ。
絶対に救われない私だからこそ、阿弥陀さまは立ち上がらずにおれず、そこにお目当てかかっているのだ。
S先生は大きな声でおっしゃった、「地獄一定を、地獄一定と聞くだけでええんですよ!」 と。

誰の為に 何の為に 如来さまが立ち上がってくださったかというのが 「仏願の生起」、それが先。
だから、まず私のすがたを聞かせてもらう。
お浄土からご覧になられた如来さまの目、真実のその目に映った、憐れでしかたのない私の姿を聞かせていただく。
自己中心的で、目先の小さなことしかわからない、そんな私にいったい何がわかるというのか。
‘南無阿弥陀仏’なんか嫌いのまんま、わからんまんまで、けっこう! けっこう!
私の思いも、私の智恵も、何も問題にならない。  そ~だよね! だって…、
「しっかりした如来さまがおられるんです! 絶対に間違いのない‘南無阿弥陀仏’があるんです!」
と言われたS先生の大きな声が、乾いた心に乾いたまんま吹き抜けた… あぁ、南無阿弥陀仏

私のカラカラに乾ききった心から出たお念仏であっても、ドロドロと汚物にまみれた心から出たお念仏であっても、「‘南無阿弥陀仏’は、功徳の全徳施名のかたまりなのだから、大いにカラ念仏をさせてもらいましょう」と先生はおっしゃった。
そして、カラ念仏をしたらわかること、「私はまた小さい念仏にしとるな~、こんな心じゃいかんと思ってる私がいるな~」と言う、如来さまのお目当てである自分というヤツを十分に味わってくださいと。
そして、その心を変えていくんじゃなくて、そこに如来さまの願力がかかっていて、そんな私の為に‘南無阿弥陀仏’が出来上がったのだと聞かせていただいた。

(つづく)
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照育・照護 、そして 照破  (4-6) [仏法]

2009.9.21 S先生

阿弥陀さまのご本心、ご本願というのは、なんとしても、この私の迷闇を破らずにはおかない。 それが救いの実現ということです。 そこを「ひかり」による照破と味わう。 照破とは、闇が破られるということ。  (中略)
では、そこで破られるものとは一体何か? それは疑いの心です。 無明の闇、つまり迷いの根本です。 疑いといっても世間一般の疑い、煩悩の一つとしての疑いではない。 本願、お救いに対する疑いです。 つまり、自力のはからい心というものです。 これが破られるのです。
この照破こそが、真宗でいう「救いにあう」ということですから、最も大事なところです。
                                               (『念仏の雄叫び』より)

「私はなんという自惚れの塊りなのか!」・・・ なんて、スッとは思えないけど、細かく見ていけば、そ~かもしれないな~程度に思うことは出来る。 が、まぁ~、あてにならん自分の‘思い’はさて置いて、先生のお言葉を聞かせていただく。
「何一つとして誰かから頂いたものでないものなどない、 何一つとして智恵となって教えてくださったものでないものなどない、 それなのに、全部自分の力でわかったような気がしているのが私なのだ」 と。

このような御法座に参加させていただけた御縁をいただいて、何もわからんなりにもこのような御法話を聞かせていただける身になれたのは、仏さまの御光を受け、その御光のお育てをいただいているからで、これを “照育” といい、それだけではなく、この御光はいつも陰となり日なたとなって私を照らし護ってくださっている、 これを “照護” というのだと教えていただいた。
でも、どれだけ手厚い“照育”や“照護”のお働きをいただいたとしても、何の為に私を育み、何の為に私を護ってくださるのかということを聞かせていただかねばならん。 それが一番肝心なことだから。
“照育”や“照護”の御縁だけをただ喜んでいては、縁他力に留まっているに過ぎない。
如来さまの願いは、縁他力に喜ぶことではないぞ!と、耳にタコが出来るほど言われ続けて来た私。
“照破”。  私には破っていただかんならんものがある…。

G先生がおっしゃる、腹底にドーンと居座っておる一度も死んだことのない「オレがー」という私の本心。
如来さまの“照育”や“照護”のお働きも撥ね付け、自己中心の強情我慢な心で、如来さまも御法も元気いっぱいに疑ってかかる心。 これを‘南無阿弥陀仏’によって破っていただかねばならん!
これは私が破るんじゃない! ‘南無阿弥陀仏’によって破っていただく!!
「ど~やって?」
「今、ここで!」
その御法を私は、今、聞いている! 破る‘南無阿弥陀仏’を、私は、今、聞かせていただいている。
私の称える‘南無阿弥陀仏’は、私を育み、護ってくださる‘南無阿弥陀仏’。
私の称える‘南無阿弥陀仏’は、私の迷闇を破り、私を浄土に連れて帰るという‘南無阿弥陀仏’。
私一人…、この私一人の為に、私の如来さまが、私を「救うぞー!」と誓ってくださっている。
他の誰の為でもない、この私一人を救う為に法蔵比丘となられ、超越した時間とご苦労の末に‘南無阿弥陀仏’になってくださった如来さま。
石・瓦・礫の如き私には、そんなことを聞いたとてピクリともしないけど、如来さまは、そ~ゆ~私だとわかった上で頼んでくださっている。
ただ「聞いてくれ」の一心で、食べ物となり着る物となって、永~い 永~い間、休むことなく、まさか聞けるような私ではないと知った上で、「聞いてくれ」と頼んでくださっている。

あぁ、私は全く石・瓦・礫だな~と味わう・・・・・  涙もため息も瞬く間にあさっての空に消えていく…
「そんなあなたがなぜお念仏をしているんですか?!」
こんな私に、「なんまんだぶつ」と言わせるお力が働いているから…、 
そう…、私の力じゃない… だって私は仏法なんて大嫌い! お念仏だって大っっっ嫌い!!
でも、こんな私にも連続無窮のお働きがかかっているって…、 絶対に、捨てん、離さへん、という願力がかかっているんだってS先生はおっしゃった。

そ~ゆ~御力が尽きることなく、ず~っとお育てとして私の上にかかり、先生やお同行や時には憎い人となって、「お前の腹底はこ~やぞ、お前の真の姿はこ~やぞ」と教えてくださっている。
善知識や先輩同行の言葉に手をひかれ胸を借りて、仏さまのお心を聞かせていただき、御法に照らされた自己を教えられた私が、これを言葉にして友同行に伝えることもまた連続無窮の絶え間ないお働き・御力なのだと聞かせていただいた。
尽きることなく、すべての迷っているもの、この生死界を尽くしてしまおうという願力のお働きが、具体的に人となり、具体的にお念仏の声となり、具体的に御法座の場となって、私に目のもの見せてくださっているのだと。

「ここに‘南無阿弥陀仏’があるんです! 他を探してもあかん!」 と、S先生は大きな声で叫ばれた。
そして、これを私一人と聞く。 私一人の為にその願力があったんだって聞かせていただくのだと。

連続無窮の御手回し、連続無窮のおせっかい。 ホントに鬱陶しいほど有り難い! 南無阿弥陀仏

(つづく)

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親のご恩徳 「へその緒」  (3-6) [仏法]

2009.9.21 S先生 

自分の都合だけで、親や他の命を平気で奪い、大きな顔をしているのが、今 ここにいる私なのである。      (中略)
「オレが」と威張り、悲嘆で怒り狂っても、すべてが親からの頂きものなのだ。 しかも、愚かにもそのご恩徳を忘れ、恥知らずの畜生同然の身ではないか。 その無慚無愧のわが身に、阿弥陀様の広大無辺のご恩徳が降り注いでいる。 そこ一つを、今お聞かせいただけるのは、一体、誰のおかげなのか。 ご法に会わない限り、この真実に目覚めることはなかったのだ。
                                             (S先生の『巻頭言』より)

以前、S先生が巻頭言で書かれた「へその緒」を読んで大泣きしたことがあった。
「ふるさとや へその緒に泣く 年の暮れ」 という芭蕉の句から親のご恩徳を説かれ、生まれる以前から「オレがー」の心を振りかざし、ご恩をご恩とも思えない私が、こうして御法に会わせていただいたのは、誰のおかげ? 何のため? というそのお話しに心を揺さぶられた。

御法座で先生は、「どれだけの御手回しや御方便があって私は育てていただいたのかを考えてみてください…」と提起された。
だけど…、 私が考え得る範囲なんて、たかが知れている・・・。
私の知らないところで、この私にかけられた願いや御手回しがどれほどのものなのか…、 私にははかり知れないし…、 考えたことすらなかった…。
S先生がおっしゃるように、一から十までの、一ということすらわからなかった私が、今はこうして一は云々、二は云々と生意気なことを口に出来るようになったのも、覚えるものが既に仕上げられており、これを教えていただいたからに他ならない…。 
この世に命をいただいたことに始まり、今日までお育ていただいた中で、私一人の力で成せたこと?…
思いつかない・・・・・   何一つとして、自分が生み出し、自分で作り上げたものなんて無いじゃん…。
それなのに私は、自分の意思で…とか、自分の力で…とか、すべて自分で成し得て来た様に錯覚して…。

S先生は「へその緒」のお話しをされた。
「私はエイリアンです。 お母さんとは違う物体(私)がそのお腹の中に宿るわけですから」 
父と母によって母の胎内に一つの細胞が宿り、その細胞(私)がまず最初にやることは我が身を守ること。
私は、私が生き・育つ為に、まず我が身を守る為の組織を母の胎内に作っていく。
胎盤をこしらえ、母から栄養や酸素を奪い取るパイプラインをこしらえ、そして不要になった老廃物だけを母へと返却する。 
誰の為でもない、この私、自分自身の為だけに生きようと、母の都合などお構いナシで、自分中心の考えの中で成長していく。 
こうして100%母に依存しながらも、私には微塵も母のことを思いやる心などなく、ただ自分の為だけに、十月十日間休むことなく母から奪い尽くしてきたのだ。

そして、母も 私も 命がけの出産の時を迎えると、私は ただ ただ 「産まれた~い!!」という欲の塊りで母の産道をくぐり抜ける。
母が私にかけてくださった願い、「無事に」、「元気に」、なんてものは知ったこっちゃない! 
私は私のことだけを考え、私が「生きた~い!!」という想い一つでこの世に出て来た。
「親が勝手に産んだんじゃない」、というS先生の言葉が、氷の欠片のように胸の底に沈んだ…。

生まれ出た後も、休むことなくアレコレとお育てをいただいたからこそ、ご恩徳があったからこそ、今、私はこうして生きていられるというのに、私は自分の都合で死にたくなったり…、生きたくなったり…
そして、こうして仏法を聞いている間だけは、「あぁ、私が今日まで生きて来られたのも、数知れぬご恩徳のおかけだ」とか、「私一人を生かす為に、今までどれほどの他の命を犠牲にしてきたのだろう」とか、ほんの少しばかりしんみりと思わせていただくだけで、そんなのすぐに忘れちゃう…、当たり前の如く忘れちゃう…。
「全部いただきものですよ!!」とおっしゃられた先生の言葉に反応するのも、僅か2,3秒の間だけ…

所詮、人様のご苦労なんて全然興味のない私…、 たとえそれが自分にかけられたご苦労であっても…、 という冷血な自分が知れてくる… 

お腹が空けば何か食べたくなり、私は私の空腹を満たす為に、何のためらいもなく他の命を食らう。
そこには罪の意識の欠片も無ければ、ご恩徳など感じるような心もない…。
ただ ただ お腹が空けば、「あぁ、私は生きていたいんだ…」と実感できて嬉しくなるだけ…、 いつでも、どこでも、私は私中心にしか考えていない…。
しかも、「どうせ食らうなら美味しいものを!」と、自分を満足させてあげることばかり考えている…。

食べ物どころか、親にすら、ご恩徳に心をはせることのない私が、「私はご恩徳の塊だなぁ~、全部が法蔵願力の塊りで私は出来ているなぁ~」などと…、とても味わえない自分だ…  先生のおっしゃる通りだ…

(つづく)

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連続無窮のお働き  (2-6) [仏法]

2009.9.21 S先生 

     智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり  
          信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし   (『正像末和讃』)

     願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず  
          仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず     (『正像末和讃』)

求道者 「どうしたら信心獲得できますか?」
S先生 「例えば昨日のG先生の御法話をそのまま聞いたら、ご信心に徹底できると思います」
昨日だけじゃない…、G先生はいつだって御法座の度に手を合わせ、頭を下げて、「どうか、聞いてください!」 って、こんな私に向かって、こんな私のために、‘南無阿弥陀仏’の“南無”のお姿になって頼んで下さる。 そのお姿こそ如来さまのお姿そのもの。

さて…、 私はなぜこのお座に座っているのか…?
お金と時間のやり繰りをして、「仏法なんか聞きたくない」という気持ちにベールを被せ、心にもない「後生の解決」をうたい文句に、北陸くんだりまで来て聴聞しているのは何故だろう…?
S先生は問う、「こうして聴聞させていただけているのは誰のおかげですか?」

仏法の何も…、 まだ年端も行かぬ幼い頃から「私が私として生まれて来た意味」などというものを考え、今こうして「出て行く先を定めたい」などと口にするようになったのは何故だろう…?
S先生は問う、「そう思わしめる力は、どこから来ているんでしょうか?」

私は、自分で考え、自分の力で行動し、自分の努力で生きて来たと思っている…
私にはその力があって、智恵もあって、全~部 自分の力で何とか出来ると思っている…
「自惚れですよ…」 と、S先生は少しトーンを下げて呟くようにおっしゃった。
そして、「これは全部、如来さまの願力! 願いの御力が “無窮” である、法蔵願力の成せる技なんです!!」 と 力強くおっしゃられた。
「無窮」とは、無限に、窮まることのない、尽きることのない、いつまでも続いていくということ。

法蔵さまの願いの御力があればこそ、御浄土も、そこに生まれる人たちも、その荘厳も出来上がった。
そして、その御浄土に向かって仏道修行をせよというのが、お釈迦様の頭念であり、本来なら自分の力で、その御浄土にふさわしい人間、清浄心・真実心に仕上がった心で、嘘や悪心などが微塵もない自分にならねばそこの住人にはなれないのだ。
ところが私は私の欲望を満たす為に、この地球すらも汚し崩している…。
それに御浄土に生まれたいだなんて気持ちもないから仏道修行をしようとも思わない…。
私にあるのは、「運よくば極楽浄土に参りたい」という希薄な夢と欲深い心だけ…。
そんな私が御浄土へ…、なんて絶対無理! 聞けば聞くほど無理、無理、無理!
ところが、仏さまの願力の方から、仏さまの願力によってなされた極楽浄土の荘厳が力となって、この私に働きかけてくださっているのが浄土真宗の御法なのだとS先生はおっしゃられる。
どういうことなのだろう・・・・・? わからない・・・・・?

「自分がどう思っていようが、思っていまいが、そういう願力の御働きがあるんです!力があるんです!
分けることの出来ない器世間(国)と衆生世間(人)の、そのすべてが法蔵菩薩さまの願力によって出来上がっているんです!」
S先生の言葉に、私の頭ではわかるはずもないお話しを聞かせていただいているのだと、カーンッと頭を小突かれた気がした…。

私がな~んにも思わなくても、仏さまなんか嫌いよ!鬱陶しいわ!と毛嫌いしても、仏法なんて大嫌い!と逃げて逃げて逃げ続けても、如来さまは一方的にそんな私にかかりきりで、ず~っと、ず~っと、こなん私に願いをかけ続けてくださっている。
その如来さまの願力によって私はこうしてここに座らせていただいているんだ、そしてこの場が出来上がっているんだ、 それが答えなんだ。

法蔵菩薩さまの願力でないものなど何もない、それが「無窮」の願力。
一時として休むことなく、この私に働き続けてくださっている如来さまの呼び声、願いが、今、ここの私の身体に降り注いでいる。
片時も休むことなく、御光となって、声となって、今、この私に届けられている。 

これを「聞く」のが真宗の聞法。
どう聞くのかというと、これをそのまま、ありのままに聞かせてもらう!
「地獄行きの私」ということは、「地獄行きの私」と聞かせてもらう。
「地獄行きが救われて極楽往きになる」って聞くんじゃないし、「地獄行き」に、獲信や、後生の一大事や、罪悪観・無常観を足したり掛けたりせず、そのまんま「地獄行き」は「地獄行き」なんだと聞かせてもらうことが御聴聞。
また、「救うぞ~!」という願力は、「救うぞ~!」と聞かせてもらう。 「救われるんだ!」と聞くんじゃないんだ。

そのまんま、ありのまんま聞せていただくだけ。
だから、私の実感なんて関係ない。
それに、私は私を中心にしてしか考えることが出来ないし、こんなコロコロと変化し続ける心を当てにしたってしかたないしね!

(つづく)

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信心獲得の方程式  (1-6) [仏法]

2009.9.21 S先生  
御讃題は、親鸞聖人 の 『教行信証』化身土・末 より

慶ばしいかな、心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て、念(おもい)を難思の法海に流す。
深く如来の矜哀を知りて、良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ。 慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。 これに因(より)て、真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。
ただ仏恩の深きことを念(おもい)て、人倫(じんりん)の嘲(あざけり)を恥じず。 もしこの書を見聞せん者、信順(しんじゅん)を因として疑謗(ぎほう)を縁として、信楽(しんぎょう)を願力に彰(あらわ)し、妙果を安養に顕(あらわ)さんと。

『安楽集』(道綽)に云わく、信言を採り集めて、往益(おうやく)を助修せしむ。
何(いかん)となれば、前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え、連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。 無辺の生死海(しょうじかい)を尽くさんがためのゆえなり、と。

御法話のテーマは、連続無窮のお働きを軸に、身で聞く(竹内敏晴氏)ということ、そして親の御恩徳(へその緒)についてお話しくださった。

他宗には「行」というものが用意されているが、親鸞さまが、「何れの行も及び難き身」とお示しくださった通り、私は「行」など出来るモノガラではないとお聞かせにあずかるのが浄土真宗であり、つまり、「行」ではなく「信」を重視し、その「信」というのは、「信じること」ではなく「聞くこと」であるとお話しくださった。

この「信心」とは、私が「信じている・信じていない」という自己信心ではなく、聴聞することによって起こってくる「信心」である。 と、聞かされて湧き出てくるのが、「理屈では理解できたという頭」と、「これを承知せぬと言っている腹底」との不一致である。   
そして、この頭で思っていることを腹底でも頷けるようにとアレコレ計らいながら苦労していることを求道・聞法だと勘違いしているのが私。

その計らいをS先生は、‘獲信の方程式’ と名付けられ、その組み立ての一例をあげられた。
聴聞すれば‘罪悪深重’も理屈の上では理解でき、これでは地獄行きだ~、くらいのお育てはいただいたとしても、そう頭の先の方で思っているだけで、実は身にはついてはいない…。
ご聴聞に合えば、‘無常’ 死んで行くということも、ピンとは来ずとも否定もできず、地獄行きと聞かされれば、それじゃ~往生極楽の身にならせていただこうと思うだけ…。
しかし、地獄行きがそのまま極楽往きになるはずもないし…、と、計らって、地獄行き = 極楽往き になる為の方程式、言い替えれば、信心獲得をして往生一定の身となる為の方程式をアレコレと考える。

例えば、獲信するには、後生の一大事を身に取り詰めねばならん! → 後生の一大事を身に取り詰めるには、‘罪悪観’・‘無常観’を深めねばならん! → ‘罪悪観’・‘無常観’を深めるには、しっかりと聴聞せねばならん! → しっかり御聴聞するには、命がけで聞かねばならん! ・ ・ ・ ・ ・  などと計算し、地獄一定の私が、往生一定の身となるために信心獲得をせねば! との努力を試みる。

はぁぁ~・・・  S先生のお話しを聞きながら、大きなため息が出た…。
このお話し、他人事で聞いている分にはとても可笑しな話しで笑えてもくるし、これで求道だ、聞法だというにはあまりにもお粗末ではないかと呆れてもくる。
だけど自分はどうだろう…。 「獲信」という言葉こそなおざりにしているけれど、「信心が欲しい」、「安心な身になりたい」という思いが無いとは言い難いじゃないか… 
「そんなこと言えるような私ではない…」と、ただ単に自分に言い聞かせているだけではないか… と、不安になってくる…。

そんな気持ちを見透かされたようにS先生のお話しは続いた。

往生極楽の喜びが、腹底から喜べない…、往生一定の安心も、不安でモヤモヤとする…。 
このモヤモヤをスッキリさせて安心したい、腹底から喜びたい、有り難い念仏を称えたい、・・・・・  
そして・・・・・、  そうね…、あの人のように…、 と他人に目をやる…。
涙を流して有り難がっている人や、湧き出るお念仏が止まらない人を見て…、  羨ましいな~
私はあんな心境にはなれんし…、 私もハッキリと喜べる身にならねば…、 と・・・・・ 自分の頭の中で一人勝手に七転罵倒しているだけ…。
いつも、なんでも、私の都合に合わせ、私の手元でど~しようかと思案し、自分の良し悪しの世界の中で答え合わせをしているだけ…
「いくら真剣に聴聞しようとも、自分の頭の中でお説教を聞いているだけではダメ!」 というS先生の言葉がチクリと痛かった…。 そうだよね、我法に持ち替えちゃったら、仏法じゃ~なくなっちゃうもんね…。

ただ一つ、「私は死んでいく…、そうして堕ちて行く…」 という如来さまの教えを、そのまま聞いていく。
‘罪悪観’・‘無常観’がわかろうがわかるまいが、‘後生の一大事’がわかろうがわかるまいが、私は死んで行かなあかん!
私が感じられようが、感じられまいが、どう思おうとも、思わなくても、私は死んで行かんならん!
真実の目からごらんになられた如来さまの言葉を聞く、「私は死んで堕ちて行く…」ということをお聞かせにあずかるのが聴聞。
私の心に法を合わせ、これをこねくり回すことは、信心でもなければ聞法でもない!
如来さまのお声を、私がこの身で聞かせていただくことが御聴聞なのだとS先生はお話しくださった。

(つづく)

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第十八願のこころ ② [仏法]

『仏説無量寿経』上巻 「第十八願・本願文」

   説我得仏・十方衆生・至心信楽・欲生我国・乃至十念・若不生者・不取正覚・
   唯除五逆・誹謗正法

さてさて、御法話のつづき… だが、お話しは少し難しくなってきた…。
“南無”は、仏に成るという原因 = 仏因  ← そしてこの‘仏因’には、 「信」 と 「行」 がある。
「信」の真意は、「至心」「信楽」「欲生我国」の三心 、 「行」の真意は、「乃至十念」の称名に収める。
“阿弥陀仏”は、その結果 = 仏果  ← そしてこの‘仏果’には、 「往生」 と 「成仏」 がある。

この『御本願』の御文は、法蔵菩薩様が、仏々相念で世自在王仏様にお誓いくださったもので、私に言われているのではない。 この仏さまのお言葉を説き開いてくださったのが親鸞聖人。
‘南無阿弥陀仏’のお心を説かれた親鸞さま著作の『教行信証』において、法然さまが十八願の一願のみで御法門をお建てになったのに対し、親鸞さまは四十八願の中から、五願開示をもって御法門を建てられた。 「開示」とは、第十八願の御文のお心を深く堀りあてて五願に分解し明示されたとのこと。
その五願とは、

第十一願 (必至滅度の願) 必ず滅度に至らす(正定聚不退転の仲間入りをさせる)と誓われた願。
第十二願 (光明無量の願) 光明が無量の仏さまの御徳を誓われた願。
第十三願 (寿命無量の願) 寿命が無量の仏さまの御徳を誓われた願。
第十七願 (諸仏称名の願) 十方諸仏の讃談供養を誓われた願。
第十八願 (至心信楽の願) 仏さまの真意が誓われた願。

G先生は、「阿弥陀仏に救われる」 というのは、「“南無”の心をいただくということ」とよくよく仰られる。
“南無”の心(信じる心)一つで往生の一大事が平生の時に定まって報恩のお念仏をさせていただける、その為に人間に生まれさせていただいたのだと。

六道の内、地獄・餓鬼・畜生の三悪道は、あまりにも苦しく、愚痴に追われている為に仏さまのお話しを聞くことができず、修羅は戦いに明け暮れ、天上界は楽に酔い、この人間界でしか仏法は聞かれない。

六道をへめぐって何度も生死を繰り返し、「オレがー!」という一度も死んだことのない「この私」という‘我(が)’が、久遠劫来 ず~っと ず~っと迷い続けて、今、やっと人間界に生まれさせていただけた。
それなのに私は、「それがど~した!」とふんぞり返るばかりだけど、ここにどれほどの仏さまのご苦労があったのだろう・・・・・
そんな私の「オレがー!」という心の中に、阿弥陀さまは、「早くその我執を破ってくれ! 破ってみせる!」と言って、‘南無阿弥陀仏’となって飛び込んで来てくださった。

阿弥陀さまは、いつも いつも ここ(我)に居て、私が地獄に堕ちた時には、私の‘我(が)’の中から飛び出し、「わたしの修行が足らなかったためにお前を地獄に落してすまなかった、許してくれ」と、血の涙をこぼして謝ってなさる。
しかし、地獄で苦しむ私にはそんな如来さまが鬼や閻魔さまにしか見えない・・・
私が餓鬼道にいた時にも、私の我執の心から飛び出した阿弥陀さまは、「わたしが悪かった、すまなかった」と謝りなさっているのに、私はひもじくてしょうがないから如来さまを丸かじりに食いついてしまう・・・
私がどの世界に居ようとも、阿弥陀さまは ず~っと ず~~~っと、私の「オレが~!」の腹底にいてご辛抱してくださった…
待って、待って、待ちぬいてくださったお方が、‘南無阿弥陀仏’さまですよ。

G先生のお言葉に、 涙が…、 ポロリとこぼれ落ちた…     誰の涙? 何の涙?

私は、人間として生まれてきたことも、こうして仏法を聞かせていただけていることも、当たり前にしか思えないし、それがどれほど尊いことなのか微塵もわからない…
でも、 「本当に信じ難い御法を私は聞かせていただき、なまんだぶつ なまんだぶつ とお育てをいただいたおかげで、‘南無阿弥陀仏’が称えられ、‘南無阿弥陀仏’と聞かせてもらえるようになった。  友、同行、先生、そういう善き方々に囲まれているのが私なのですよ」 と、G先生は教えてくださった。

このあと、G先生の求道時代のお話しでは、 「信心が欲しい!」というのもお育てをいただいから出てきた心だけれども、自分が走る前から一等賞の印「有り難い!救われた!」という褒美をもらいにかかっていた。 そんな自分に「あぁ、間違っていた! 反対だった! 仏さまに求め続けさせたんや!」と、文句の一つもなく気付かせていただいたのが獲信の時の思いだったとお話しくださった。

これも、あれも、すべてが永い永~い間の仏さまのお手厚い宿善のおかげであり、お育てのおかげ。
も~~~ぉ! どれだけご苦労をかけて来たのかわからん!!
それなのに仏さまの方から私に手を合わせて、「助かってくれ~、信じてくれ~、称えてくれ~」と頭を下げて、私の為に‘南無阿弥陀仏’となってくださった。
そして私は 「行」も「信」もないのに、その御教え、‘南無阿弥陀仏’のおいわれを聞けるこの場に座らせていただけている。  南無阿弥陀仏

最後にG先生は、「自分が一番大事と思っているが、わたしの考えていることは、みんな嘘、反対で、一息 一息が地獄に向かって真っ逆さまに堕ちて行くしかないお前だぞ、と言ってくださっているのが御法。
でも、決して難しい法ではなく、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と叫ばせてもらうだけで仏凡一体の世界が開けてくるんだ」とお話しくださった。

G先生は、「だいぶ話しが横にそれた」と仰ったけど、私は、G先生を通して『第十八願のこころ』に触れさせていただけたように思う。 南無阿弥陀仏

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第十八願のこころ ① [仏法]

2009.9.20 G先生  
御讃題は、蓮如上人 『御文章(御文)』 五帖 五通 より

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。

いただいたプリントには、『大無量寿経』より 「第十八願文」、及び「本願成就文」、また、蓮如さまの『御一代記聞書』 や 天親菩薩さまの『願生偈』 などが記されてある。

御法話は、お釈迦さまが万善万行のご修行の末に、この地球上で唯一成仏してくださったおかげで、阿弥陀さまの御説法をお説きくださり、これをこの末法の世にて親鸞さまが、「」(お釈迦さまご出世の本懐である阿弥陀さまの御本願が説かれた浄土三部経)と、「」(私に代わって阿弥陀さまがやり遂げてくださった大行)に加えて、「」(他力回向の信心一つ)で、「」(仏果である仏の悟り)を得させていただくのだと説き開いてくださった、というお話しから入られた。

「私の命は、他の命を奪い取らねば生き続けることが出来ない…」と、G先生はいつもお示しくださる。
因果の道理に従えば、とても生きながらえることなど叶わない私がこうして生きていられるのは、無量寿(死なない命)・無量光(私の迷いを断ち切る力)を完成させてくださったからである。 それは何故か・・・。
阿弥陀さまが魚や食肉に姿を変えられ、「われを食え!」とご自身の命を投げ出してくださっているのは、無明の世界で苦しんでいる私をあまりにも憐れと見られて、「どうか迷いの世界から飛び出してくれ!」と願われ、五劫思惟して建ててくださったのが四十八願であり、その中の私を救う方法として十八願(本願)を起こしてくださった。 これをいかにいただくかが今日のお話し。

『仏説無量寿経』上巻 「第十八願・本願文」

たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生まれんと欲(おも)いて、乃至十念せん。 もし生まれずば、正覚を取らじ。 ただ五逆と正法を誹謗(ひぼう)するものをば除く。

阿弥陀如来さまは、一番最初に成仏なされた仏さまであられるが、その本師本仏の阿弥陀さまがその位から降りられ、法蔵比丘となって世自在王仏さまのもとに行かれ頭を下げられた。
誰の為に?  この私の為に・・・
私は、善も積めないし、悪を止めることも出来ない…、仏に成りたいという心などまったく無いし、ただ ただ 悪業を重ねることしか出来ないヤツだと知った上で、法蔵菩薩さまは、「それならば、こちらでお前が仏になるだけの種を全部作ってあげよう」と、五劫という永い間、私の為に考えに考えて考え抜かれて結果出来上がったのが四十八願であり、根本願である十八願である。

この願を実行させる為に、今度は兆載永劫という果てしなく永い永い間、この私一人の為にご修行をして下さり、そしてついに出来上がったのが、‘南無阿弥陀仏’ である。

無量寿 ・ 無量光 のお力を “阿弥陀” といい、私の為に仕上げられた ‘南無阿弥陀仏’を 信じる心が “南無” の心、この心をいただかねばならんとG先生はお説きくださる。
私は‘信じる心’など一欠けらも持ってはいない…。 そんなこと私よりも阿弥陀さまは百もご承知。
だから‘南無阿弥陀仏’にすべてを込めて仕上げたものを私に届けて下さった。 
阿弥陀さまの方から手を合わせ、頭を下げられ、「どうか‘南無阿弥陀仏’と親子の名乗りをしておくれ。 どうかわたしにお前を助けさせておくれ。 お願いです、お願いです」と…
これを信じる心など皆無の私に向かい、必ず救うと信じて、十劫の昔から立ちづめ、呼びづめ、招きづめ。

このお話しをされる時、G先生は いつも いつも 立ちづめ、呼びづめ、招き詰めのお姿で手を合わせて、何度も 何度も 頭を下げられる。
驚く心も、感謝の心もない私だけれども、G先生という姿になって私の目の前に立たれた阿弥陀さまが、「どうか、わたしを信じておくれ! そして‘南無阿弥陀仏’を受け取っておくれ! そうしたらお前の罪業はすべて引き受け、この世で‘南無阿弥陀仏’と称えずにはおられない身にしてあげる」 と 手を合わせ頭を下げて拝まれれば、こんな強情頑漫な私でも何か居心地が悪くムズムズしてくる。
そんな私の口からポツリと 「‘南無阿弥陀仏’」と出てきたならば、如来さまは大喜びをしてくださる。
「あぁ~、そうでしたか! 私には何の力もありませんでした。 如来さまの悟られたお宝ものを、ただ そのまんまいただくんですね~!」 と、自分の中には絶対に有り得ない、“南無”の心(信じる心)を先にいただく。 ハッキリと親子の名乗りをさせていただく。 すると“阿弥陀仏”がくっついて来てくださるのだと…。

親鸞さまは、師匠であられる法然さまの下で念仏の教えを聞いておられたほとんどのお弟子方が、阿弥陀如来さまに任せきっていない! 信じる心など持ち合わせていないのに、自力の心で信じている人ばかり! スッキリと 「‘南無阿弥陀仏’一つでええんや!」と言える人が、あまりにも少ないと見られ、法然さまの念仏往生の本心は、信心往生である、信じる心一ついただくと、‘南無阿弥陀仏’と称えずにはおれんようになるのだ、と、あきらかにしてくださった。

( つづく )

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『仏説無量寿経』下巻 三毒段 「愚痴」 ② [仏法]

2009.9.20 MO先生  
『仏説無量寿経』 下巻 「愚痴之誡」 

かくのごときの世人(せにん)、善をなして善を得、道(どう)をなして道を得ることを信ぜず。 人死してさらに生じ、恵施(えせ)して福を得ることを信ぜず。 善悪の事(じ)すべてこれを信ぜずして、これをしからずと謂(おも)うてつひに是(ぜ)することあることなし。 ただこれによるがゆゑに、またみづからこれを見る。

<意> そもそも私には、仏になりたいなどと思う心などないので、世間事を捨てて仏道修行をしよう、善根(仏法三学「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」)を積んで仏果を得えようなどとは思わない。
ただ ただ 人間レベルでの楽果(無苦・安楽)をタダ貰いしたいだけで人間的枠組から逃れられない。
また、死んだら再生があるということを信じ切れず、 つまりは善悪因果の道理を否定し、自分の枠組みにしがみ付いてこれを受け入れられず(=謗法)、因果の道理を否定する見解を自分の意見としている(=邪見)のである。

たがひにあひ瞻視(せんじ)して先後同じくしかなり。 うたたあひ承受するに父の余(のこ)せる教令をもつてす。 先人(せんにん)・祖父もとより善をなさず、道徳を識(し)らず、身愚かに神(たましい)闇く、心塞り、意(こころ)閉ぢて、死生の趣、善悪の道(どう)、みづから見ることあたはず、語るものあることなし。 吉凶・禍福(かふく)、競ひておのおのこれをなすに、ひとりも怪しむものなし。

<意> 前述の邪見が、先祖から子孫へと教え伝えられ、善悪因果を信じないが故に仏道修行をせず、死んだら終わりだとか、死んだら成仏するだとか、因果の道理を否定した見解が脈々と受け継がれ、真実の仏教をかたくなに聞こうとしない。
善悪因果に従ってどうなるかを見る智恵がないために、これを語る者もなく、しかるに吉凶・禍福の根本原因を怪しむ者さえいない。

生死の常の道(みち)、うたたあひ嗣(つ)ぎて立つ。 あるいは父、子に哭(こく)し、あるいは子、父に哭す。 兄弟・夫婦たがひにあひ哭泣す。 顛倒上下することは、無常の根本なり。 みなまさに過ぎ去るべく、つねに保つべからず。 教語し開導すれどもこれを信ずるものは少なし。 ここをもつて生死流転し、休止(くし)することあることなし。

<意> 生あるものは必ず死に帰することは常の道理。 その通りだと思う。 そう、ただそう思うだけで、全然自分の身についていない。 だから泣く。 親子も夫婦も互いに死に別れて泣き合う。
いつかは死ぬと思っても、我が身に明日は訪れると決め込んで毎晩眠りにつく。
では、いつ死に帰すか? 年配者からとは限らず、病人からとも限らず、元気な若者でもコロッと死んでしまうことがあるというが無常の根本である。 …と言うのを頭ではわかっていても、腹底はピクリともしてない。
まぁ、明日私が死ぬということはないだろう…と、毎日 毎日 自分の死は先延ばしにするばかりで、結局、私が死ぬだなんて腹底では少しも思っていない。 老少不定と言っても口先ばかりで、いつまででも生きていられるんだと邪見し、私は全然無常がわかっていないのだ…。
だから生まれ変わり死に変わりを繰り返し、これがいつまでも止まないのである。

かくのごときの人、矇冥(もうみょう)抵突(たいとつ)して経法を信ぜず、心に遠き慮(おもんぱか)りなくして、おのおの意(い)を快くせんと欲(おも)へり。  愛欲に痴惑せられて道徳を達(そと)らず、瞋怒(しんぬ)に迷没し財色を貪狼(とんろう)す。 これによつて道(どう)を得ず、まさに悪趣の苦に更(かえ)り、生死窮(きわ)まりやむことなかるべし。 哀れなるかな、はなはだ傷むべし。

<意> 私は、因果の道理も、無常も、根本的にわかっていないから、仏道修行をする気も起こらず、したがって輪廻転生が止まない。
この私の心は愚かで、道理には背き、仏の教法も口先だけで信じていないし、後生のことなど心にかけることもなく、ひたすらに目先の快楽のみを追求するばかりである。
腹を立てては財欲・色欲を貪って、それはまるで獣のようだ。 
だから迷いから離れられず、来世もまた地獄一定で、出離の縁あることなしとお示しくださった。

あるときは室家(しつけ)の父子・兄弟・夫婦、ひとりは死しひとりは生きて、たがひにあひ哀愍し、恩愛思慕(おんないしぼ)して、憂念結縛(うねんけっぱく)す、心意痛着(しんいつうじゃく)してたがひにあひ顧恋(これん)す。 日を窮め歳を卒(お)へて、解けやむことあることなし。 道徳を教語すれども心開明せず、恩好を思想して情欲を離れず。 昏矇閉塞(こんもうへいそく)して愚惑に覆はれたり。 深く思ひ、つらつら計り、心みづから端正にして専精に道を行じて世事を決断することあたはず。 便旋(べんせん)として竟(おわ)りに至る。 年寿終りつきぬれば、道を得ることあたはず、いかんともすべきことなし。

<意> 目先の快楽の中で最も強烈な快楽である恩愛・情愛は、仏道に入る最大の妨げになっている。
愛する家族の誰かが死ねば、残された者は死別を悲しんで思い出と愛着が募るばかり。 その執着から離れら切れないので、仏道の功徳を教えたとてもこれに専念することができず、我が寿命が尽きてしまえばいかんともし難いとお示しくださっている。

総猥憒擾(そうわいけにょう)にしてみな愛欲を貪る。 道に惑へるものは衆(おお)く、これを悟るものは寡(すく)し。 世間怱々(そうそう)として憀頼(りょうらい)すべきものなし。 尊卑・上下・貧富・貴賤、勤苦怱務しておのおの殺毒を懐く。 悪気窈冥(あっけようみょう)にしてために妄りに事を興(おこ)す。 天地に違逆し、人心(にんしん)に従はず。 自然の非悪、まづ随ひてこれに与(くみ)し、ほしいままに所為を聴(ゆる)してその罪の極まるを待つ。 その寿(いのち)いまだ尽きざるに、すなはちたちまちにこれを奪ふ。 悪道に下り入りて累世に勤苦す。 そのなかに展転して数千億劫も出づる期(ご)あることなし。 痛みいふべからず、はなはだ哀愍すべし。

<意> 『阿弥陀経』に‘五濁惡世’と説かれているように、この世は乱れきっていて心安らぐことがない。
私は愛欲を貪るばかりで、進むべき道に迷い、またこの世には頼れるべきものなど何もない…。
世渡りに苦労し、忙しく、心の底には毒を含んだ恐ろしい思いを抱きながら、今はそれを隠せていても、縁がもよおせばいつ表に現われるとも知れず、この悪心が表面化すればこの世にいる内から地獄の苦を負うことになる。
非行悪業が悪果と現われ、こうした罪業が雪ダルマ式に増えて行き、その罪は行き着くところまで行き着く。
そして突然命奪われ地獄に堕ちて生死に苦しみ、苦悩の世界で転生を重ねて何千億劫もの永い間出ること叶わず、その痛ましさは言葉にならず、まったくもって哀れであるとお示しくださっている。

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『仏説無量寿経』下巻 三毒段 「愚痴」 ① [仏法]

2009.9.20 MO先生  
御讃題は、親鸞聖人の 『教行証文類』 信文類三(末) より

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを「聞」といふなり

<訳> 『大無量寿経』下巻 の 『本願成就文』 に 「聞其名号 信心歓喜 (その名号を聞きて、信心歓喜せん)」 という言葉があるが、その「聞」というのはどう言うことかというと、「この私が、‘生起’― 阿弥陀さまの起された願いの根本、なぜ法蔵菩薩さまとなって御本願を起さなければならなかったのか、ということ、 ‘本’― 法蔵菩薩さまが私一人の為にどのようなご苦労をして下さったのかということ、 ‘末’― その仕上げとして私一人の為にどのような姿になってくださったのかということを、聞かせていただいて、これがそのままスッキリと心に入りました」 と言うことが、名号を聞くということである。

「誰の為に起された御本願なのか?」 と 問われれば、頭の上では 「罪悪深重・煩悩熾盛の私の為です」 と 言葉には出来るけれども、はたしてこの身に問うてみたならばどうなのか?
ここをえぐって具体的に‘私’というモノガラを説かれたものが“三毒段”であり、お釈迦さまは 『大無量寿経』下巻において、「こんなお前の為に! こんなお前だから!」 と繰り返し、様々な面から説いてくださっている。
“三毒”とは、三つの根本的な煩悩のことで、「貪欲(欲しいの心)」・「瞋恚(憎いの心)」・「愚痴(自己愛の心)」をいい、今回の御法話では、この“愚痴”についてご解説くださった。

“愚痴”の‘愚’も‘痴’も、愚か・無智という意味で、仏教の真理を知らないということ。 これが煩悩の親玉。
“三毒段”の‘愚痴’で取り上げられている仏教の真理とは、“因果の道理(罪悪)”と“無常”の二つについての無智であり、これを 「お前は頭の上で知ったと言っているだけで、根本的な愚かさが身についていないじゃないか!」とお示しくださり、また「今後とも身に付かないぞ」という私の姿を照らし出してくださった経文であるとお話しくださった。

 ( 中略 ― BLOG 『仏説無量寿経』下巻 三毒段 「愚痴」 ② )

三毒段 「愚痴」 のまとめとしてお話しくださったのが、『本願文』 の最後にある、「唯除五逆 誹謗正法 (ただ五逆と正法を誹謗する者をば除く)」 と言われた阿弥陀さまのお言葉であった。
お前は、五逆罪を犯しているから救いようがないんだ!  
お前は、謗法罪を犯しているから救いからは除かれているんだ! 

「“唯除五逆 誹謗正法” とは、汝の名なり!!」 こう叫ばれたMO先生の大きな声が頭に突き刺さって、一瞬背筋がピンッと伸びた…。
「私の名前は、“唯除五逆 誹謗正法” …、 私だけは除かれている…」 そう聞いた次の瞬間に、伸びた背筋は一気に小さく丸くなった…。

「唯除五逆 誹謗正法」は、“仮除”ではなく、“実除”である。 「除く」は、「除く」! 「お前は、除く!!」
「逆法の死骸」という言葉も、「死骸」は「死骸」であって、形容詞などではない!
「逆法の死骸!」という事実! 「聞かんヤツだ!」という事実! だから私は唯除されている…

『親指のふし』 より

「私に限って大丈夫」と思っている人も、もう一ぺん考えてみませんか。 そうしたら何が出てくる。
本物の信心だったら、どれほど叩いても心配ないですよね。 「疑ったらいかん」と臭いものにフタをしているのが、そもそも自分のはからいというもの。
真にまかせきっているのなら、素っ裸になれましょう。 
ご教化もほかし、喜びもほかし、念仏もほかし、聞いたとか、ありがとうなったのも、全部ほかしてしまって、「サア、出かけていかんならん」 となって、出てくるのが本物です。 そこで勝負をせんならん。
それが「信心のみぞさらえ」というものでしょう。 「あの体験があるから」という、それもほかしてみたらどうですか。 持ち物があると、通るところも通られん。 (中略)
後生の関所は、荷物があると通れませんよ。 素っ裸になって救われるというのが念仏の教えです。
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貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵め難し [仏法]

2009.9.19 MK先生  
御讃題は、善導大師 の 『観経疏』散善義 より

外(ほか)に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現ずることを得ざれ、中(うち)に虚仮(こけ)を懐ければなり。 貪瞋(とんじん)、邪偽(じゃぎ)、奸詐百端(かんさひゃくたん)にして、悪性(あくしょう)侵(や)め難しこと、蛇蝎(じゃかつ)に同じ。

<訳> 上辺だけ賢者や善人の如く振舞ってはならない。 なぜならば心の中には偽りを抱いて、貪り・怒り・邪ま・欺きの心が絶えず起こり、悪い本性は変わることがなく、それはあたかも蛇や蠍のようである。

先々月、不思議な体験をされたというMK先生。 今回の御法話は、その体験を通して知らされた‘南無阿弥陀仏’のお心をお話しくださった。

仏教は、自分の心を問題にしていくのだと教えていただいたとおり、私の本心を覗いて見ると、外に表わしている笑顔や優しい言葉とは裏腹に、心の中にはそれとは逆の虚仮の心、貪欲・瞋恚・愚痴の心で渦巻いているということが、ほんのちょっとだけ見える。
善導大師は、「一人一日の中に八億四千の念あり」 と示されたが、その全部が見えていたら、自分の恐ろしさにきっと生きてはいられないだろう…。 何せ、一つ残らずそのすべてが悪業なのだから…。
そんな私の中なる世界(心の中)で絶えず造り続けている悪業の一つ一つが三悪道に落ちる種となって、中なる世界のそのまた奥にある未耶識(マナシキ)・阿頼耶識(アラヤシキ)と言う世界に一つ残らず納められて行き、そこに積もりに積もった過去世からの悪業の種が、私の次に行く世界を造り出しているのだと…。 つまりは、日々刻々に自分で自分の後生の因を造っているのだと聞かせていただいた。

それは私の理解をはるかに超えた世界で、私にはこれを思議することは出来ない。 智恵がないのだ。
でも、悟られた仏さまには、この原因のところに、今、ここで、私の後生がどのように展開していくのかという、その結果がハッキリと見えておられる。 だから、「お前の後生は一大事だぞ~!」 と 叫ばずにおれないのだと…。

私の心の中は、何でもありの私(オレが)の独裁王国である。
我欲のままに貪り、何にでも手を伸ばし、誰でも何度でも平気で殺す…。 自分の都合に合わせて仏法だって、何だって利用して、その欲が達せられなければ当たり前のように腹を立てる。
それなのに自分は、まともで善人だと思っているのだから、自分の後生に一大事があるだなんてツユ・チリほどにも思えない…。
そんな私だから…、 そんな私の為に、阿弥陀如来さまは、五劫もかけてご思案くださり、兆載永劫と言う永い間ご修行をしてくださった。 それも私一人の為のご苦労であったと…。

しかし、そんなこと、私からお願いをしたわけでもなければ、望んだことすらない。
仏さまからの一方通行の愛の手を、疎ましいとさえ思っている私がいる。
こんな私の後生を心配して、どうか救われてほしいと願われ、こんな私を悟りの世界に生まれさせるだけの力を‘南無阿弥陀仏’に封じ込めて届けてくださった仏さま。
その‘南無阿弥陀仏’をどうか受け取ってくれよと、阿弥陀如来さまは、立ち詰め、呼び詰め、招き詰!

それなのに、それなのに、‘南無阿弥陀仏’に遇わせていただく時に立ちはだかる自力の心…。
外には賢く善人ぶって自分はまともな人間だと思い装っている私であるが、心の中では、ありとあらゆる悪の世界を造りに造って、後生は地獄へ堕ちるしかない、そんな心を当て・頼り・拠り所にし、そんな心でお救いを鷲づかみにしよう・助かりたい・幸せになりたいと穢い手を伸ばすばかり…。
阿弥陀さまは、こんな醜い私であることは百も承知の上で ‘南無阿弥陀仏’を仕上げてくださった。
そんな心しかない私だからこそ、‘南無阿弥陀仏’になってくださったのに、私は、邪見・驕慢の自力の心で阿弥陀さまのお救いに立ち向かい、計らい、邪魔することしかできない…。
それが唯除された、五逆・誹謗謗法の私の相(すがた)なのだとお聞かせいただいた。

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仏に成るこそ不思議よ [仏法]

先日参加させていただいた御法座の御讃題で、蓮如上人の『御一代記聞書』より、

法敬坊、蓮如上人へ申され候ふ。 あそばされ候ふ御名号焼けまうし候ふが、六体の仏になりまうし候ふ、不思議なることと申され候へば、前前住上人(蓮如)そのとき仰せられ候ふ。  それは不思議にてもなきなり。 仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。  悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。

との御文をいただいた。  
あぁ、このお話し、以前聞かせていただいたことがある…。

(私訳) 法敬坊というお弟子さまが、蓮如上人に申し上げた。
「蓮如さまより頂戴した‘南無阿弥陀仏’ の名号本尊ですが、先日の火事で焼けてしまいました。
しかし、その‘南無阿弥陀仏’の六つの文字が、炎の中で六体の仏さまになったのでございます。
不思議なことでございました」 
と申し上げると、蓮如上人は、こうお答えになられた。
「それは不思議なことではない。 ‘南無阿弥陀仏’の六つの文字はもともとが仏さまなのだから、仏さまが仏さまになることには、何の不思議もない。
それよりも、罪悪深重の泥凡夫であるこの私が、‘南無阿弥陀仏’の御救いで、仏にならせていただくことこそ、まことに不思議なことよ」  と。

ずっと前、初めてこの御文をいただいた時には、「六字の名号が六体の仏になる不思議」こそ不思議だと思い、後半の、「悪凡夫が仏になる不思議」というところには、全然見向きもしていなかった。
だって、六つの文字が炎の中で仏像のようなシルエットを描くという場面は空想できても、 ‘悪凡夫の私’ ということも ‘仏に成る’ ということも、まったくわからないのだから、想像のしようがない・・・・・

仏法聴聞を始めて一年経つが、やっぱりまだまだわからない。
だけど、以前は見向きもしなかった、「仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。
悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。」 の部分だけが、クローズアップされたようにとても気になる。

そして、 「‘南無阿弥陀仏’ が、仏さまそのものだよ」 と聞かせていただけば、「なまんだぶつ」 と私の口から出てくることが不思議に感じられる。
また、 「私は泥凡夫・悪凡夫だ」 と聞かせていただけば、「そうは思えんから泥凡夫なんだろうな~ぁ、 それが迷っている私と言われる所以なのかな~ぁ」 くらいの軽い知識で聞き流しているだけの私が見える。
でもやっぱり、 「弥陀をたのむ一念にて、仏に成る不思議」 と聞いても、ぼやけてしまう・・・・・・

ただ、‘南無阿弥陀仏’が証拠で、‘私’ が証拠。 私が仏になるという、不思議な不思議な教えが仏教なのだと聞かせていただいて、ほんの少しだけ腹を据える気になった。

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心より 心を縁と心得て 心に迷う心なりけり [仏法]

今朝は思いがけない梅雨の晴れ間に家事もはかどり、そのテンションのままお出かけしたくなってお友達のお寺まで車を走らせた。
ちょうど法要から帰院したG願さんと駐車場でバッタリと会ってそのまま本堂へ。 
今日はいつものラフなジャージスタイルと違って、黒袈裟の衣装がピッカピカにかっこよかったよ[黒ハート]
G願さん、午後には所用で出かけなければならないとのことで、今日は2,3時間ほどおしゃべりをした後お別れして、私は一旦帰宅してからお買い物に出かけよう… と思っていたところで急に体調が崩れた。 今日の蒸し暑さのせいかな…? 
結局、夕刻まで何もできないまま今日が終わってしまった・・・・・  どうしよう~[たらーっ(汗)]
夜になって徐々に血圧も安定し、元気復活?!  家事の後、明日からの旅の準備を整える。

今日は、G願さんとお話したおかげでお念仏が易く出てきてくださる。 有り難い。

  こ こ ろ よ り  こ こ ろ を 縁 と 心 得 て  こ こ ろ に 迷 う  心 な り け り

これは一遍上人のお言葉で、「私がどんなに尊い想いを心に湧き発てたとしても、私自身(私の心)が迷いの張本人なのだから、そんな迷っている私の心から縁・折に触れて出てきたものなんか偉くも何ともない、何の役にもたたんぞよ」 という意味なのだそうだ。

もう一つ、G願さんから教えていただいたことで、ムギュッと来た言葉!…

  言 葉 あ り き

お経のどこかにある言葉なのだそうだが…。
「‘南無阿弥陀仏’という御言葉になって届けてくださっているのに、どうして心を問題にするの?
「‘南無阿弥陀仏’と称えよ」と言われているのであって、「‘南無阿弥陀仏’の心を理解せよ」とは言っておられない。
心ありきではなく、まず、言葉ありき。  だから、‘南無阿弥陀仏’という御言葉になってくださった。
小さな話になっちゃうかもしれないけれど、例えば、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉も、真っ黒な心を持った私たちには、到底本心からそう思うことなんて出来ない。
心底 「ありがとう」「ごめんなさい」の心になってから言葉を発せよとは教えられず、まず言葉ありきで、そう言いなさいと教えられてきた。
‘南無阿弥陀仏’だって、「南無阿弥陀仏の心になってから称えよ」とは仰っておられない。
そんな心になれないことくらい仏さまは百も承知の上で、だから‘南無阿弥陀仏’という御言葉になってくださったんだ。
有り難くても、有り難くなくても、まず ‘南無阿弥陀仏’」

「これは僕の自論だけどね!」と、注釈した上で、G願さんが教えてくださったこと、忘れないうちに書き留めておきたかった。
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小さな私の大宇宙 [仏法]

今夜は風が冷たくて少し寒い…
だけど、夜風に包まれるのが好きだから、今夜もバルコニーに一人立ち、五感を全開にして風を受ける。
見上げた空に輝く星が、風にそよいで揺れているように見える。
目の錯覚・・・・・
私が、今、こうして目にしているあの星の光も、もう、はるか昔に放たれた輝きだなんて、ホント信じられないな~ぁ …
宇宙の中の、太陽系の中の、地球の中の、ほんの小さな小さな私。
でも、私にとっての自己というヤツは、‘我’ という地軸を芯にして、俺が・私がと、自画自賛の小宇宙を形成してるんだ!

先日の御法座ではKY先生が、「一」について御法話くださり、KY先生にとっての「一」とは、only one (唯一)の一大事が、「後生の一大事」であるとお話し下さった。
そしてこの後 G先生がお話くださって、G先生にとって「一」とは、「己、可愛いの心」であり、これは信前信後に関わらずに貫いていると説いてくださった。
この「己、可愛いの心」が、仏法を聞かさないようにしていて、これは信後もなくならないのだと…。
KY先生の説かれた、「後生の一大事」=「地獄一定」の前に、まず「己、可愛いの心」があるから「地獄一定」なんだと教えて下さり、「汝自身を知れ!」という教えの通りに、「自己」というものを見ずして仏法は聞けず、「己、可愛いの心」の一本軸を持っているのが私(自己)であると見せていただくことが先であると説いて下さった。

こうして、星を見上げながらも、私の心は星よりもはるか上空から星云々と大宇宙を論理的に見下して、それどころか仏さまよりも偉そうに御法だ何だとぬかしながら、「私が一番!」と自惚れた自己を可愛がって行くんだな~ぁ、これからも・・・ 
と、思いながら、今夜も夜風に包まれた。

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『肩ぐるま』 [仏法]

今日、MRさんから、数枚のお手紙と分厚い本の贈り物が届いた。
お手紙から伝わる、MRさんの大きな優しさに、ホッと心があたたかくなった。
いただいた本の一ページ目に添えられていたしおりには、‘南無阿弥陀仏’の文字。
計らうことなく、差出されたそのまんまに「有り難う」と頂くことの、容易さと、難しさを知らされたような気がした。
「開いたページから読めばいいよ」とのMRさんの言葉通りに、パラパラっとページをめくって読み始める。
気負うことなく、何気なしに読み進めるも、数行ほど読んだ所で涙が溢れ出し、嗚咽し、私は両手で顔を覆って泣いた。
閉じられた本・・・  どこの何を読んでいたのかさえ思い出せない・・・
なのに私は何で泣いているんだろう・・・
以前、インドを巡拝している時にも、一度だけ、訳もわからずに涙が溢れ出したことがあった。
MK先生から、「それは、なっちゃんの涙ではないよ、仏さまが流されている涙だよ」と教えていただいた。
その時と同じ涙だと思った。
何もわからない私を、そっと包み込むような不思議な涙だった。

少し落ち着いて、最初のページに目を通す。
そこには、『肩ぐるま』という題名の、著者の詩が載っていた。

   南無阿弥陀仏をよくみると、 
   親の上に、子がいるよ、  阿弥陀様の南無の子が。

書き出しの、その三行の心すら わからん、わからんと、自分の方ばかり見ている私でも、一行一行読み進める内に、この御文の深さに引き込まれていった。

   南無阿弥陀仏は親子の名乗り。 
   必ず救うと、聞いてはいたが、  無明のまなこじゃ見えもせず。
   疑い深く、欲ふかく、  信心欲しいと逃げまわり、
   追われ、追われて、追いつめられて、  とうとう逃げ場を失って、・・・・・

私のことだ…
また溢れ出した涙で、次の言葉が読めなくなった。

   後生だ、罪だ、信心だのと、  難しいことはわからんけれど、
   知ってる親がついている。

この詩のままに、幼い頃を思い出す。

生まれたことも、死に行くこともわからん私…、
産声を上げることしかできなかった私…、
そんな何もわからん私にかわって、親は手を尽くし、心を尽くして育ててくださった。
お互い人間だもの…、親子と言えどもいろいろあったけど、絶対に私一人では生きては来られなかったという事実が存在する。
それなのに、一時の親孝行をしたつもりでいい気になって自惚れるばかりの私って・・・
感謝の気持ちより、愚痴の気持ちが口先にまとわりつくばかり・・・  でも、それが本心・・・

‘南無阿弥陀仏’の親様は、そんな私のままでいいと仰る。
そんなの信じられへん…、 そんなこと言われてもわからへん…、 と、
私から出てくるものは疑念ばかり・・・
だから、そんな何もわからん私だから、すべてを知ってくださっている親様がついていてくださるんだって…、
そんな疑うことしか出来ん私だから、まるまる信じてくださる親様がついていてくださるんだって…、
そう読ませていただいたら、また涙が溢れてきた。

MRさん、本当に本当に有り難うございます。

でもこの本、こんなに泣いてたら、きっと何十年かかっても読み尽くせないや~[たらーっ(汗)]

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億劫(おっくう)と兆載永劫(ちょうさいようごう) [仏法]

今朝、Yuさんからいただいたメールに、「眼鏡が壊れて、億劫だ」と書いてあった。
「億劫」を「おっくう」と読めても、改めて漢字を目にして、私はひどく感動した。
「億劫(おっくう)」って、「億(おく)劫(こう)」って書くんだ~! すご~い!!
ということで、早速その語源を調べてみた。

「億劫(おっくう)」という言葉は、もともと仏教用語から来ており、極めて長い宇宙論的な時間を表わしたものである。
「劫(こう)」というのはサンスクリット語の「Kalpa」の音写文字「劫波」を省略したもので、古代インドでは最長の時間を表わす単位として使われていた。
では、「一劫」の長さはどれ位かというと、Wikipediaには、循環宇宙論の中で、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの期間と言われるとある。
ヒンドゥー教では、1劫の長さを、43億2000万年であると定めているが、仏教では具体的な長さについて特に決めてはいない。

先日の御法座ではG先生が、この「一劫」の長さについて、「磐石劫(ばんじゃくこう)」の喩えでもって次のように教えてくださった。
天女が舞い降りて、1辺40里(20km)四方の大岩を、3年に1度、その羽衣でサラッと撫でて、その岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間が「一劫」であると。 
また他にも、「芥子劫(けしこう)」の譬喩もあり、1由旬(20km・諸説あり)立方の城に芥子の実を満たし、これ100年ごとに一粒ずつ取り出して、そのすべての芥子の実がなくなっても一劫には満たないと喩えられている。

阿弥陀さまは、この私を救う為に仏の位から下りられて四十八の願を建てられ、その仏さまの願いを実現する為に、阿弥陀さまは兆載永劫という果てしなく永い永い永い間、この私の為にご修行をしてくださり、そしてこの私を救う方法を完成させてくださった。
「兆載永劫(ちょうさいようごう)」です!
「億(劫)」どころではありません!!
私といえば、怠け者で、言い訳と愚痴ばかり…、そのくせ自惚れ強く、欲深く…、
このように我が身の実相を聞かされたとても、素直にコクンと頷くことも出来ない私の為に、易しい方法を兆載永劫をかけて阿弥陀さまは考え造って下さった。
それが‘南無阿弥陀仏’なのだとG先生は教えてくださった。

「億劫(おっくう)だ、億劫だ」と、「面倒くさい」という意味で、私たちは簡単に「億劫」と口にするけれど、仏教で教えられた「一劫」の一億倍が「億劫」なのだから、チョットやソットの面倒くささで、容易く「億劫」という言葉を使うことに、少し抵抗を感じるな~と思った。
[ペン]今朝の雑感です

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最も愛おしいもの [仏法]

『相応部経典』の中に、こんなお話しがある。

お釈迦様が成道なされた年、インド2大強国の一つであるコーサラ国の王に即位なされたプラセーナジット王は、ある日、宮殿の高楼で第一王妃であるマッリカー夫人とこんな会話をなされた。

「マッリカーよ、 この世にそなた自身よりも愛しいと思えるものはあるか?」 
「王さま、 わたくしはこの世で自分よりも愛しいと思えるもなどないと考えております。
王さまにはご自身よりも愛おしいものがおありですか?」
「マッリカーよ、 わたしも自分よりも更に愛しいものなど存在しない」

二人とも同じ考えではあったが、それで良いのかどうか… 不安であった為、祇園精舎におられるお釈迦様を訪ねて、その心を打ち明けられた。
お釈迦様は、「この世に自分より愛しいものはない」という二人の考えを聞いた後、このように説かれた。

「人の思いは果てしなく、縦横無尽に転がり続ける。
しかし、どちらの方向に行こうとも、常に自分が一番愛おしいという思いだけは変わらない。
心のどこを探してみても、己よりも更に愛おしいものなど見つけることは出来ない。
だから相手も同様に、みなそれぞれ自分が最も愛おしいと思っているのだから、自己を愛するものは、他のものも害してはならないのです」
と。

この教えに、屁理屈をつけようと思えば、なんぼでも付けることが出来るだろう。
でも、ここ一つ、「私が最も愛おしい」の心こそ私の自性なんだという事実だけは、変えがたい真実の教えであると実感する。

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2009年4月の支部法座 [仏法]

今日は、二ヶ月ぶりの支部法座があった。 
と、言っても、二ヶ月前の支部法座はインドへ旅行中だった為に参加できず、私にとっては四ヶ月ぶりの支部法座であった。

御法話のテーマは、“二種深信”。 講師は大好きなS先生。[るんるん]
なのに、気分はBLUE![バッド(下向き矢印)]
それに、先週の‘真宗の集い’法座から、「何につけても、ありがたい!ありがたい!」な~んて気持ちがここ数日続いていたのに、御法座を前にして、「ありがたい」っていう気持ちが、どっかに行っちゃった!
法座に向かう電車の中でも憂鬱ならば、会場入りしてからでも気分が乗らず…、
「逃げちゃいたい…」って気持ちが、ニョキっと顔を出す。
でも、ま~ぁ、今日の御法座があってもなくても、「ありがたい」なんて気持ちは、一週間と持たないものだな~ぁ…、我ながら呆れるばかり。

でも、御法座の前後に会場を満たすお同行のお念仏は、「有り難いな~」としみじみ思う今日この頃!
なのに、今日はみんな、いつもより短め少なめ、なぜだろう…?

御讃題は、善導大師のお言葉より、
一には決定して、深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこの方、常に没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して、深く、彼の阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受して、疑いなく、慮りなく、彼の願力に乗じて定んで往生を得と信ず。

御法話のテーマ “二種深信” については、先月の講習会でG先生からお聞かせいただいたが、あの時は出鼻から置いてきぼりを喰らってしまい、苦手意識が芽生えてしまったので、小さな不安を感じながら法座に臨んだ為、何を聞かれてもなかなか声に出せなかった。
でも、講習会で躓いた“三心”のお話しから丁寧に説いてくださって、御法話はとてもわかりやすく、教学的ではない聞き方、「先生が私に一番仰りたいことは何なのかな~ぁ」という聞き方をしようという余裕があったように思う。

まず、一見、自力のような『観無量寿経』の三心も、『大無量寿経』と同じ他力による三心であり、その三つの心は、深心(信楽)という一つの心に収まるということ、また、口で称えるお念仏こそが大事であるということを、初めて善導様の御苦労であきらかにしてくださったのだと教えていただいた。
その深心の中身を開いて、仏様の御本願に遇った人の、他力廻向の信相(信じる人のすがた)を二つに分けて教えてくださったのが“二種深信”であり、これは、知った・覚えたではなく、自分がこの二種深信の心とピッタ~っと一つになるという体験をするまで仏法は聞かんといかんということをお話し下さって、初めて、やっと、講習会のG先生のお話しと重なった。
それまで“二種深信”は、信後の人しか理解できないお話しなんじゃないかな~と思っていたその間違いに気付き、「この“二種深信”こそがものさしなんや」と言われたことに、コクンと頷けたような気がした。

そして、“二種深信”の内容に部分にお話しが移って、まず胸にドキュンと来たのは、「自身は」 という“機の深信”の主体のところだった。
仏法は、「人間は」とか「衆生は」などと聞いている内はわからへん!
仏法は、世間一般の話しとして聞くんではなく、「自分は」と、この「私」のすがたを聞かなあかん、というところに大きく頷いた。
善導様は、この“二種深信”の中に、「自身(私)」を、三世に分けて説かれたと教えていただき、
現在 = 現に是れ、罪悪生死の凡夫、
(私は、今まさに、罪悪を積み重ね、生き死にを繰返している、煩悩まみれの者柄なんだ。)
過去 = 曠劫よりこの方、常に没し、常に流転して、
(私は、無始よりず~~~っと、常に生死の苦海に沈没し、常に迷いを繰返してきた。)
未来 = 出離の縁、あることなし 
(私には、これから先も永遠に、この生死の苦海、この迷いの世界から離れ出るご因縁のそのカケラすら、あることが絶っっっ対に無い!)

これも、今までは信後の人の心だから…、な~んて他人事で聞いていた時には何も感じなかったけれど、何度も何度も、「私は」と読み返す内に、すごいキツイな~と思った。
これを深く信ずる心を廻向されるだなんて・・・・・・ 
逃げるしかないじゃん!
そんな逃げることしか出来ない私を、救う手がかりのまったく無い私を、どこどこまでも追いかけて、「必ず救い摂るぞ」と言われたって、当の私は、「迷惑じゃ!」、「信じられん!」としか言えん…
それなのに、「ど~にかしてくれ!」とばかりに、「疑いなく、慮りなく」などの美味しい言葉にはしがみ付きたくて手を伸ばす私…
阿弥陀様の御心を聞かせていただいても、ちっともピンとこない自分に嘆いてみたり、それじゃ~ど~したらと計らってみたりと、横に置いといたはずの自分の心の中に、いつの間にかドップリと浸かっている私…
今日の御法話では、そんな私を見せていただいた。
そして、「願力 = 仏様の深い深い願い(人間に生まれてきた本当の意味にめざめてもらいたいという願い)が力となって私に届く御法である」と聞かせていただいて、「あぁ、私の願いなんじゃなく、仏様の願いなんだな~ぁ」と聞かせていただいた。

御法座の後は、楽しい楽しい懇親会[ビール]  これで元気を回復したなっちゃん[黒ハート]
そして今日は、懇親会の後に時間が余っちゃったんで、YuさんとNKさんを誘ってミスド懇親会をした。[手(チョキ)]
これが結構グッときた。
いただいたプリントの“二種深信”の御文を前に、あ~だ、こ~だと雑談をしているうちに、“二種深信”って第十八願そのものじゃん[exclamation] 仏願の生起本末じゃん[exclamation] って所にピントがピッタと合った感覚がした。

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片思いの包容 [仏法]

先週末の法座の集いではいくつもの初体験があった。
まずは定員制であったこと。 少人数制であるという安心感と、半面どんな顔ぶれになるのかという不安感が同居したが、この不安感についてはそろったメンバーを見て逆に安心感へと変わった。
しかし、御法話の無い法座であること。 それ故に「受身ではない法座を!」との主旨説明があったが、それがどのようなものであるのか検討もつかずに緊張ばかりが高まっていった。

参加の数日前、前回の法座の集いを振り返られたS先生のBlogを読ませていただいたが、どのようなスタイルであるのかは要領を得ず、ただ漠然とS先生のグループに入ろうということだけは心に決めて参加した。
しかし、驚いたことにこの法座は、「自分自身がそのスタイルを作り出していく法座である」ということで、まったくの未経験者である私はど~したらよいのかまったくわからず…、
ただアタフタとしているままにグループ分けが進められ、成り行き任せの私は流されるままに一つのグループに落ち着いて、これも阿弥陀様のお導きと受け入れたもののS先生のグループには入れず、でも、私の希望の半分は満たされたグループだった。
しかし最終的にブループ分けは難航し、重たい荷物を背負わされた形でUMさんが行き場を見失ってしまわれた。
私としてはUMさんに同じグループに入って欲しいと思ったが、UMさんがそれを望んでいないことを遠まわしに聞いていたので、正直すぐには足が動かなかったが、片思いでも私の希望を伝えるとUMさんはこれを快く承知してくれて、私の希望は叶って三姉さんと共にこの法座に参加することが出来て、これは本当に嬉しかった。

初回の法座では、少しの緊張と初めて味わう安堵感の中で、アッという間に法座は終了してしまい、その後の懇親会に持ち越す形で、私はUMさんにくっついて御法を聞かせていただいた。

何を聞いていた時だったか覚えてはいない。
でも、UMさんが私の肩を抱き寄せて包み込んでくれた時、ほんの少しの緊張の後に、ものすごくあたたかい気持ちになって、UMさんが耳元で、「どんななっちゃんだって阿弥陀様はず~っと昔から、こ~やってなっちゃんを抱きしめてくれているんだよ」と囁いてくれた言葉に、涙が溢れ出して止まらなくなった…
UMさんの腕の中にいながら、阿弥陀様に包まれているみたいで・・・・・

いつも遠くに追いやっていた阿弥陀様が、本当はいつも包んでくれていたんだって感じた。
阿弥陀様は、ずっとず~っと片思いのまま私を抱きしめていてくれていたんだって感じた。

この時UMさんに心の内を聞かれたけど答えることが出来なかったのは、私の中で不安の灯火が消えることなく揺らめいていたから・・・
でも、UMさんとKYさんに、「感じることが大切なんだ」って言われて、とても安心できた。

何も考えたくなかった…、 ただ感じていたかった…、 あの包容のあたたかさを…

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順おじいちゃんと発芽玄米 [仏法]

先週末の法座の集いの中で、妙~に心に残っているのが、順おじいちゃんが話してくれた発芽玄米のお話だ。
おじいちゃんが暇つぶしと健康のために発芽玄米を育て始めて、その時に感じたことをお話してくださったShort Short Story

乾燥した玄米にね、水を加えて置いておくだけで数日後には小さな芽が出てくる。
その発芽した玄米を見ていたらね、“あぁ~、玄米だって、お米だって、その一粒一粒が生きているんだな~”って感じたんだ…

おじいちゃんのその短いお話は、私の心に深く深く染み込んで、いろんなことを知らされた。
それを言葉にするとすごく安っぽいものになっちゃうと思うけど、私なりの想いを列記するならば、

「生き物を食らう」ということを罪と戒め、聖道門の人たちや葬儀の席上では、今も生ものをご法度としているところがあるようだが、これを基本として考えた場合、肉や魚を食らうことは罪であっても、豆や野菜を食らうことは罪ではない、ということになってしまう。
私自身、御法話の中で、「このお肉は私が生きる為・食べる為に犠牲にした命で、因果応報、今度は私が食べられなあかん。
私がさばいた魚のように、因果応報、今度は私がまな板の上で頭を切り落とされてさばかれなあかん。」
と聞かせてもらって、殺された動物たちの気持ちを想像しながら、「嫌じゃ、怖い」と思うことはあっても、殺した植物たちの命まで考えたことなどなかった。
例えばコンビニでおにぎりを買う時など、「たらこのおにぎりよりも、梅干のおにぎりの方が殺す命は少ないのだから罪は軽い?」な~んていうバカな思いが涌き出て来たことがあったが、米粒一つ、海苔一枚の命のことなんて思いもよらなかった。
だから、おじいちゃんの、「お米だって、その一粒一粒が生きているんだな~」という言葉が、心にグサッときた。

以前、S先生が御法話の中で有福の善太郎さんのお話をしてくださって、その時教えてくださった善太郎さんの残されたお言葉の一節がまざまざとよみがえった。

     私は、煮られにゃならん、焼かれにゃならん、突かれにゃならん、
     何万劫も、この私は、苦しみ受けて かなわんのこの私なれども、
     ここに阿弥陀如来の、助けてやろう、救うてやろうのお慈悲 ・・・

私は、日々、他の命を食ろうて食らい続けなければ生きてはゆけない。
この私ひとつの命を生かすために、私はいったい幾つの命を奪い続けねばならないのだろう。
それを悪とも罪とも思わんで、私が思うことはただ、因果応報と教えられてこの報いを受けるのは嫌だ・怖いと言うばかり…
なぜ、そ~までして私は生きるのか
なぜ、こんなことが私には許されているのか
今まで考えてもみなかったことが知らされて、その先にあるのはやっぱり阿弥陀様の御慈悲でしかないと、私はそう聞かせていただいた。

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泥中に咲く蓮の花 [仏法]

先週末、インド・ネパール仏跡巡拝TourのMemberとの交歓会をS先生が催してくださり、ひと月ぶりに再会して楽しいおしゃべりと美味しい食事で再び素敵な時間を共有することが出来た。
そして、この交歓会を通してS先生がご自身のBLOGで説いてくださった言葉が、今の私の心に、深く、深く、染み入った。
S先生の言葉をお借りしながら、もう少し自分なりに考えてみようと思う。

今回の旅行では、初めて尽くしの体験の中で本当にたくさんの事を学ばしていただき、良い面も悪い面も、その全てが私にとって実りのあるものだったと自負している。
しかし、S先生に言われて初めて気付いたことがある。
それは、主たる私を取り巻く人たちの存在と、その関わりである。
プラス思考に満足している私の周囲には、マイナスの気持ちを患ってしまった人もいる訳で、私はそれら様々な人たちとの関わり合いの中にいて、そこにこそ凡夫の人間模様が存在している…、
私と接する全てのご縁の中から聞かせてもらえる御法があるのだと読ませていただいた。

最初にS先生は、心(煩悩)について説いてくださっている。
自身の中には、108の貪欲・愼恚・愚痴どころか、84,000もの煩悩が渦巻き、それが縁にふれては幾多の形で現れて来る。
「瞋恚(しんに)」にも、
 忿(ふん・自分の気に入らぬ事に激怒する心。)
 恨(ごん・自分の気に入らぬ人を怨み続ける心。)
 悩(のう・立腹して、人を恨む心。)
 嫉(しつ・自己利益や名聞利養を希求し続け、他者の栄達等によって起こす深い嫉妬心。)
 害(がい・他者を思いやる心が無い状態。)
があり、それをごまかしたり、悩み苦しんだりしているのが私であると…。
「貪欲(とんよく)」だって、
 樫(けん・自己利益を希求し続け財宝に耽着して、人に施す気持ちのないケチ心)
 憍(きょう・自身に自惚れて、驕り、誇り、我欲のままの高飛車な心) 
 覆(ふく・不利益を蒙ることを恐れて、自分の罪を隠す心)
 誑(おう・自己利益や名聞利養を得る為に、様々に謀って徳のある者と見せかける偽りの心)
 諂(てん・自己利益や名聞利養得る為に、他者を騙して媚びへつらい従順を装って操縦する心)
などの心で、妬んだり、ケチったり、騙したり、へつらったりで、時にのぼせあがり(悼挙・たくこ)、時に落ち込み(惛沈・こんじん)、それでいて無慚・無愧(むざん・むぎ)悪いことをしても恥じること無き心…、正しいことを知らない私…、とS先生は教えて下さった。
聞きなれない難しい言葉の意味はよくわからないけど、人には言えない…、自分自身で見るのもおぞましい貪欲・愼恚・愚痴の心が私の中にも確かに存在していて、さも当たり前のようにふんぞり返っているではないか・・・・・
私自身、人のことをトヤカク言える輩ではないのだということを聞かせていただいた。

S先生のお言葉そのままに、
「切り無く、死ぬまで絶えることのない煩悩(身を煩わし心を悩ますもの)が私自身なのだ。
そんな正真正銘のドロ凡夫同士が寄り合って、互いに「我」をぶつけ合いながら、様々に組織を形成している。
そして、縁に触れ、折に触れ、幾多の人間関係に触れては、種々の煩悩が見事に毒花を開花させ、百花繚乱である」
このお言葉を受けて、私の心は少し癒された気がした。

2660296昨日までは、ただ今生事に捕らわれて、大切な人を傷つけるくらいなら支部を抜けた方のがいいのかな~ぁ、これからどう接すればいいんだろう…、なんて悩み、落ち込んで、逃げ腰になっていたけど、そこが問題なんじゃない!!
そこに咲く華…、
S先生が教えて下さった「仏法を聞く心のない私に咲く、他力回向の無根の信」という真実の存在を、私はすっかり見失っていた…。
今生事の些細な苦に、悩み振り回され続けている私というものと、今一度ちゃんと向き合わねばならないと聞かせていただきました。

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2009年 報恩講 [仏法]

先週初めに、報恩講のお勤めと御法話が二日間にわたって催された。
ずいぶん日数が過ぎてしまったが、今日から少しずつまとめてみようと思う。

“報恩講”とは、親鸞聖人(浄土真宗の祖)の祥月命日で、大谷派なら11月に、本願寺派なら1月にとり行われる、報恩謝徳の法要のことである。
覚如上人(本願寺三世)が、親鸞様の三十三回忌に‘報恩講私記式’をなされたことが起源であるとされている。
報恩講で何よりも大切なのは、荘厳でも勤行でもなく、親鸞様が命をかけて説き開かれたお念仏のおいわれを聞かせて頂いて、このわが身に真実信心を頂くことこそが親鸞様の御恩に報いる唯一の道であると聞かせていただいた。

 [かわいい] 『御文(章)』 五帖目第十一通 「御正忌章」 (P1197~)[かわいい] 
そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまいらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。
もってのほかの大事なり。
そのゆえは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。
されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。
人間は不定のさかひなり。
極楽は常住の国なり。
されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。
されば当流には信心のかたをもって先とせられたるそのゆえをよくしらずは、いたづらごとなり。
いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。
それはおほきにおぼつかなき次第なり。
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。
南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいふなり。
そもそも信心の体というは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「<南無>といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。
<阿弥陀仏>といふはすなはちこれその行」(玄義分)といへり。
「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。
これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。

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2009年 修正会 (つづき) [仏法]

御讃題は『執持鈔』の、〔平生の時、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって娑婆の終わり臨終と思うべし〕である。
覚如上人は、親鸞聖人の御教えは “平生業成の教え”であると要約して下さった。
往生が定まるのは、臨終間際でも、死んでからでもない、平生の今である。
聖道門・浄土門を問わず、お釈迦様をはじめとしてどの仏様方も平生の時に悟りを開かれたのであり、肉体を失ってから往生浄土の約束をされた仏様は一人としておられない。
生きているからこそ善知識とのご縁を頂けるのであり、お釈迦様より受け継がれた言葉によって、阿弥陀様のご苦労と、唯除された五逆・誹謗正法の私をお聞かせに預かれるのである。
これを聞く一つで阿弥陀様のお救いに預かったその時こそ、この世の臨終であり、これこそが人間として生まれさせて頂いた、今ここで果さなければならない大仕事であるとお示し下さっている。

一休禅師は元旦に、杖の先に髑髏をくっつけたものを振りかざしながら街中を、「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と大声で歌って歩かれたそうな。
生まれた時を旅立ちとするならば、一里ごと(一年ごと)に塚(新年)を通り過ぎて、旅の終わり(わが身の死)へと近づいていくことを、めでたがっている人もあれば、そうでない人もあると歌われたものである。
一休禅師の真意はわからないが、「明けましておめでとう」と言われても、「何がおめでたいの?」と問われると答えに詰まってしまう。
大半の人は、年をとることを好んではいないだろう。
現に誕生日など、高齢になるほど「あめでとう」といわれることに抵抗を感じてしまう。
ましてや、日々、一時一時と寿命は縮まってゆくのだ。
時には死にたくなることもあったけれど、本気で、自分の為に死のうとは思えなかった。
つまり私の腹底は死にたくないのだ。
一休禅師が言われたように、冥土の旅の一里塚は、誠にもってめでたくない。
では、めでたいと思えるのはどんな人だろう?
自殺志願者? ・・・イヤ、違う。
そもそも自殺を考えている時というのは、幸せに生きたいからこそ不幸である現実を呪って自己逃避に夢を馳せているに過ぎない。
本心は生きていたいのだ。 不幸でありたくないのだ。
思うに、冥土の旅の一里塚を心の底からめでたいと思っている人などいないのではないか。
日本人的考えのもと何の意識も無く、ただ慣わし・風習にのっかているだけ、人と足並みをそろえていた方が楽とばかり「めでたい、めでたい」と連呼しているが、少しはちゃんと考えたいものだ。

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2009年 修正会 “宿善”と“善知識” [仏法]

今日は、久しぶりに独身時代さながらのお正月を過ごすことができた。
初参詣となった修正会(しゅしょうえ)の御法座。
こうして元旦早々から仏法を聴聞させて頂けるとは、仏様のお導きに唯々感謝である。
昨夜の義父や夫との諍いを縁にして、今日、こうして御法に出会わせていただけたこと、本当に阿弥陀様のお手回しでありました。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・・・

御讃題は『執持鈔』より、〔平生の時、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって娑婆の終わり臨終と思うべし〕であった。

まず、蓮如上人の御文 『五重の義』 〔一つには宿善、 二つには善知識、 三つには光明、 四つには信心、 五つには名号。 この五重の義、成就せずは往生はかなうべからず〕よりお話にはいられた。
一つ目の“宿善”については学派において、自力による宿善開発か、他力による宿善の開発かが論じられているが、蓮如上人は御文にもハッキリとお示し下さっている。
平生に弥陀如来の本願の、われらを助けたまうことわりを聞き開くことは、宿善の開発によるが故なりと心得て後は、 わが力にてはなかりけり
自力でこしらえた宿善なんぞ、何一つとして救いの足しにはならないと。
聞書には、〔宿善めでたしというはわろし。 御一流には宿善有り難しと申すがよくそうろう〕と仰っている。
「宿善めでたし」と、いかにも自力で得たかのようにめでたいというのは間違っている。
浄土真宗の宿善開発というのは、ただただ阿弥陀様より差し向けられた宿善を、有り難しと頂戴する他力廻向であるぞと教えて下さっている。

そもそも私は、無始曠劫より悪業を造り続けて迷いに迷ってきた極悪人である。
この悪凡夫が「そうは思えない」と否定したところで、仏様の目からご覧なった私というヤツは、「身・口・意で悪を造り続け、善のカケラも出来ないが故に流転輪廻を繰り返しているのだ」とお釈迦様は教えて下さっている。
私は昨夜、義父は自分中心主義者で、自己愛が激しく、自分は常に正しいと思って反省もしない自惚れ屋であり、強欲者であるが故に、心の中は常に他人をののしり、口には愚痴しか出てこず、その思いのままに行動していると非難した。
でも、私も根は同じではないか?
人はみな、意識するしないにかかわらず、誰よりも何よりも自分が一番大好きで、一番大切で、自分の欲から逃れられないでいる悪凡夫ではないか!
それを外面に表す人(義父)と、内面に隠す人(私)との違いだけなのだ。

仏教は因果の道理を説く。
私が一つの命を奪ったならば、この私の命をもってその罪を償わねばならない。
しかし私は、この私が生きる為、この命一つを生かす為に、数限りない命を食い尽くすなどして、無数の命の犠牲の上にあぐらをかきながらも、罪の意識のカケラも無い、そんなヤツである。
そう聞かせてもらっている。
アレもコレもいつだって、まったくもって自分の罪は棚上げ状態だ!
義父のことを責められたもんじゃない!!
私の方こそ、自分は正しいと自惚れ、義父の見下していたではないか!!!
そう気付かせてもらっても、素直に謝ることもできないでいる・・・・・

そんなヤツが、どうして宿善など積めようか?!
何を寝ぼけて、自力の善が救いの足しになると言えるのか?!
お釈迦様も、親鸞様も、蓮如様も、みな口をそろえて「自力を捨てよ、弥陀頼め」と言われているのに、私は何様のつもりで法も願力も善知識も踏みにじるのか・・・・・

そんな私だからこそ仏願の生起がたったのだと師は説く。

二つ目の“善知識” について蓮如上人は、〔善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよと言える使なり〕とお示しになった。
では、善知識とは誰のことか?
「三世を貫き、阿弥陀様ただお一人が、この悪凡夫を救うとお誓い下さり、その為のお力を修得して下さったのだ」とお示し下さったのがお釈迦様であられる。
もしお釈迦様がこの世に興出されなかったら、私は私の後生も、そこから出離する法も知らずに、迷い苦しみ続けたであろう。
阿弥陀様のお手回しの下に、お釈迦様を始めとする善知識方があったなればこそである。
南無阿弥陀仏。
しかし、ここで聞き誤ってはならないのが、どんなにお釈迦様を頼っても、いくら師や先達の同行にすがり付いたとても、〔善知識の能(役目)といふは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人をすすむべきばかりなり〕とお示しのように、善知識のお役目は、「唯除されているこの悪凡夫を救って下されるのは、阿弥陀如来様だけですよ」と、道を示してくれることであり、あくまで救いは阿弥陀様のお仕事である。
「仏法は一人しのぎだ」と言って、すがり付こうとする私の手を握っては払いのけてきた幾人かの師や同行に、恨み言しかいえない私がそこにいた。
しかし、この御法話で、
「あぁ、私はなんと素晴らしい善知識に恵まれていたことか」と改めて思い知らされたと共に、それでもなを「孤独は怖い」と泣きながら善知識にすがり付こうしている私がいる。
蓮如様が、〔宿善開発して善知識にあわずば、往生はかなうべからざるなり。 しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大きなる誤りなりと心得べきものなり〕とお示し下さっている通り、私が頼るべきは、私を救って下さる力をおもちの阿弥陀様ただお一人である。
にもかかわらず私は、阿弥陀様が感じられないと言っては、手に届く善知識を追っかけ回している。
まこと、浅ましい限りである。

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