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浄土真宗 三河別院 [随筆日記]

先週末、岡崎さくら祭り見物の前と後に、浄土真宗の三河別院へ参拝した。

お花見に行く前に訪れたのは、大谷派三河別院(お東)。
国道一号線より2本北に別院通りと呼ばれる道があり、その通りに面して建つ大谷派三河別院は、この近辺で一番の面積を誇るのではないだろうか…? とても立派な本門が視界に入った。

実は今回、計画的に別院へお参りに来た訳ではない。
ネタをバラせば、トイレを探してウロチョロしていた訳でして… (^^ゞ  
しかし見渡せどもコンビニエンスは見当たらず…
この時目に付いたのが寺院らしき立派な塀と鐘楼だった。
お寺ならトイレがあるぞ!と入り口まで行くと、正門前にそそり立った石柱に、「真宗大谷派 三河別院」と彫られた文字を見て、「へ~ぇ、ここが!」 ということでその門をくぐって、…トイレへ行ったわけである。

2705494境内に設置された立派なトイレを拝借してスッキリしたところで、「せっかくだから阿弥陀様にご挨拶でもして行こう!」と思い立って本堂へと上がった。

誰もいない、ひっそりと静まり返った本堂で、少し遠慮気味に「なまんだぶつ、なまんだぶつ…」と称えると、二つの心が湧いてきた。
「阿弥陀さんはすごいな~、ホントに私を引っ張って、引き寄せて、付きまとっておられるんだなぁ~。
今日、ここで、‘なまんだぶつ’が出てくるなんて予想もしてなかった…、有り難いなぁ~」 という心と、
「自分の口から出てくる念仏が、ど~しても好きになれん…
‘この汚い口から飛び出す念仏が私に耳に届くなんて、何て有り難い!’ な~んて、思えへん…
だからブツブツっとしか‘なまんだぶつ’が言えんの…」 という心。
相反する自分の心と、目の前の阿弥陀様の像をただボーっと眺めていたら、事務所の方からおじいちゃんが出て来て、「寒かろ~でストーブ付けたるわな~ぁ」と言って石油ストーブに火を入れてくれた。
そんなに寒くはなかったけど、ストーブの近くに行っておじいちゃんと言葉をかわす。
「御本尊の阿弥陀様像は随分古そうだけど、いつ頃のものなの?」
「さ~ぁ、ワシではよ~わからんでの~ぉ。 これにおおよそのことは書いてあると思うが、ワシは読んだことがない」 と言いながらこの別院のチラシを一枚手渡してくれた。
そのチラシに目を通しながら確認形式でおじいちゃんとの会話をまとめると以下のようになった。
1889年(明治22年)に第21世本願寺法主・嚴如上人が三河国に訪れ、赤羽別院(幡豆郡一色)と暮戸会所(岡崎)を統廃合して三河別院にするという通達を出したが、地元門徒から撤廃の反対を受けた為、代わりに翌1890年(明治23年)に丹後峯山別院の御本尊を移して新たに建てられたのがここ三河別院の起源とされている。

しかし、1945年(昭和20年)の太平洋戦争の時に、岡崎地区一帯は空襲によって焼け野原となり、この時伽藍も焼失してしまったが、御本尊は門前の門徒さんたちの機転によって守られたとのことであった。
つまり私が質問した御本尊の阿弥陀様像は、丹後峯山別院の起源まで遡らなければわからないほど古いものだということはわかった。

そして戦後20年を経て1965年(昭和40年)から復興工事が始まり、5年の歳月をかけて現在のかたちに再建されたとのことであった。

この後おじいちゃんに、奥の書院や庭園などを案内していただいた。
しかし、チョット驚いちゃったのは、
「こちらには何人くらいの僧侶の方がお勤めをされているんですか?」と聞いたところ
「今は10人の門跡さんが朝晩修行されていますよ」と聞いて、「門跡」? 「修行」? とビックリした!(◎o◎)! が、聞き流すことにした(^.^ゞ

そして、お花見の後に参拝したのが、本派三河別院(お西)

2705493こちらも計画的にお参りに来た訳ではなく、ネタをバラせば、花見を終えて駐車場まで戻ってきた時に、たまたま駐車場の目の前にあった不思議な形状をした建物が気になって門前の石柱を見てみたら、「本派 三河別院」と彫られてあったので、「へ~ぇ、ここが!」 という訳でその門をくぐった次第である。
そこで、「せっかくだから阿弥陀様にご挨拶を!」と思って本堂に入ろうとしたが、鍵がかかっていて中に入れない…

「浄土真宗のお寺は、どなた様でもお参りが出来るように、門には敷居などの段差を設けず、日中はお堂の錠も外して、誰でも阿弥陀さんを拝めるようにしてあるんですよ」
と、以前、浄土真宗の僧侶から聞いていたので、浄土真宗のお寺を見つける度に本堂へ上がらせて頂く習性になっていたが、時々、進入禁止のお寺もある。
しかし、ここは別院だし、「そりゃないよ~ぉ」と大きな声で愚痴ったら、本堂の隣りの建物から、「今、開けま~す」との声がした。
そして中から出てきた初老のおばあちゃんに本堂の鍵を開けてもらって、阿弥陀様の前に座し、またボソボソっと「なまんだぶつ」を称えさせて頂く。
そしてまた、おばあちゃんに2,3質問をしたけれど、やっぱり、「さ~ぁ、わたしじゃわからんね~」と予想通りの返事をもらう。

おばあちゃんの話しと頂戴したここのチラシをまとめると、本願寺三河別院は、1886年(明治19年)に岡崎説教所として設立されたのが起源で、本派三河別院に昇格したのは1918年(大正7年)のこと。
その後、やはり1945年(昭和20年)の岡崎空襲の際に建物は全焼してしまい、バラック小屋の仮本堂を建てて、そこに戦火で家を失った門徒らが共同生活していたそうで、話しをしてくれたおばあちゃんも3年間下宿されたそうだ。
1953年(昭和28年)にようやく本堂が再建されるも、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風によって再び本堂は大破し、現在の建物は、翌1960年(昭和35年)に再建されたものだそうだ。
その本堂の形状がお寺らしからぬ外観で、チラシによるとインド風の建物ということだが、一見、さびれた新興宗教の建物の様にも見え、なぜインド風なのかはおばあちゃんにもわからないとのことだった。
本派三河別院には僧侶の方はおらず、行事がある時だけ近くの本派の寺から僧侶が出張されるのだとか。
大谷派三河別院との格差は歴然で、おばあちゃんは痛くこのことを気にしておられた。

思いがけず両派三河別院を参詣することができて、ただ「南無阿弥陀仏」・・・・・

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