順おじいちゃんと発芽玄米 [仏法]
先週末の法座の集いの中で、妙~に心に残っているのが、順おじいちゃんが話してくれた発芽玄米のお話だ。
おじいちゃんが暇つぶしと健康のために発芽玄米を育て始めて、その時に感じたことをお話してくださったShort Short Story
「乾燥した玄米にね、水を加えて置いておくだけで数日後には小さな芽が出てくる。
その発芽した玄米を見ていたらね、“あぁ~、玄米だって、お米だって、その一粒一粒が生きているんだな~”って感じたんだ… 」
おじいちゃんのその短いお話は、私の心に深く深く染み込んで、いろんなことを知らされた。
それを言葉にするとすごく安っぽいものになっちゃうと思うけど、私なりの想いを列記するならば、
「生き物を食らう」ということを罪と戒め、聖道門の人たちや葬儀の席上では、今も生ものをご法度としているところがあるようだが、これを基本として考えた場合、肉や魚を食らうことは罪であっても、豆や野菜を食らうことは罪ではない、ということになってしまう。
私自身、御法話の中で、「このお肉は私が生きる為・食べる為に犠牲にした命で、因果応報、今度は私が食べられなあかん。
私がさばいた魚のように、因果応報、今度は私がまな板の上で頭を切り落とされてさばかれなあかん。」
と聞かせてもらって、殺された動物たちの気持ちを想像しながら、「嫌じゃ、怖い」と思うことはあっても、殺した植物たちの命まで考えたことなどなかった。
例えばコンビニでおにぎりを買う時など、「たらこのおにぎりよりも、梅干のおにぎりの方が殺す命は少ないのだから罪は軽い?」な~んていうバカな思いが涌き出て来たことがあったが、米粒一つ、海苔一枚の命のことなんて思いもよらなかった。
だから、おじいちゃんの、「お米だって、その一粒一粒が生きているんだな~」という言葉が、心にグサッときた。
以前、S先生が御法話の中で有福の善太郎さんのお話をしてくださって、その時教えてくださった善太郎さんの残されたお言葉の一節がまざまざとよみがえった。
私は、煮られにゃならん、焼かれにゃならん、突かれにゃならん、
何万劫も、この私は、苦しみ受けて かなわんのこの私なれども、
ここに阿弥陀如来の、助けてやろう、救うてやろうのお慈悲 ・・・
私は、日々、他の命を食ろうて食らい続けなければ生きてはゆけない。
この私ひとつの命を生かすために、私はいったい幾つの命を奪い続けねばならないのだろう。
それを悪とも罪とも思わんで、私が思うことはただ、因果応報と教えられてこの報いを受けるのは嫌だ・怖いと言うばかり…
なぜ、そ~までして私は生きるのか
なぜ、こんなことが私には許されているのか
今まで考えてもみなかったことが知らされて、その先にあるのはやっぱり阿弥陀様の御慈悲でしかないと、私はそう聞かせていただいた。
おじいちゃんが暇つぶしと健康のために発芽玄米を育て始めて、その時に感じたことをお話してくださったShort Short Story
「乾燥した玄米にね、水を加えて置いておくだけで数日後には小さな芽が出てくる。
その発芽した玄米を見ていたらね、“あぁ~、玄米だって、お米だって、その一粒一粒が生きているんだな~”って感じたんだ… 」
おじいちゃんのその短いお話は、私の心に深く深く染み込んで、いろんなことを知らされた。
それを言葉にするとすごく安っぽいものになっちゃうと思うけど、私なりの想いを列記するならば、
「生き物を食らう」ということを罪と戒め、聖道門の人たちや葬儀の席上では、今も生ものをご法度としているところがあるようだが、これを基本として考えた場合、肉や魚を食らうことは罪であっても、豆や野菜を食らうことは罪ではない、ということになってしまう。
私自身、御法話の中で、「このお肉は私が生きる為・食べる為に犠牲にした命で、因果応報、今度は私が食べられなあかん。
私がさばいた魚のように、因果応報、今度は私がまな板の上で頭を切り落とされてさばかれなあかん。」
と聞かせてもらって、殺された動物たちの気持ちを想像しながら、「嫌じゃ、怖い」と思うことはあっても、殺した植物たちの命まで考えたことなどなかった。
例えばコンビニでおにぎりを買う時など、「たらこのおにぎりよりも、梅干のおにぎりの方が殺す命は少ないのだから罪は軽い?」な~んていうバカな思いが涌き出て来たことがあったが、米粒一つ、海苔一枚の命のことなんて思いもよらなかった。
だから、おじいちゃんの、「お米だって、その一粒一粒が生きているんだな~」という言葉が、心にグサッときた。
以前、S先生が御法話の中で有福の善太郎さんのお話をしてくださって、その時教えてくださった善太郎さんの残されたお言葉の一節がまざまざとよみがえった。
私は、煮られにゃならん、焼かれにゃならん、突かれにゃならん、
何万劫も、この私は、苦しみ受けて かなわんのこの私なれども、
ここに阿弥陀如来の、助けてやろう、救うてやろうのお慈悲 ・・・
私は、日々、他の命を食ろうて食らい続けなければ生きてはゆけない。
この私ひとつの命を生かすために、私はいったい幾つの命を奪い続けねばならないのだろう。
それを悪とも罪とも思わんで、私が思うことはただ、因果応報と教えられてこの報いを受けるのは嫌だ・怖いと言うばかり…
なぜ、そ~までして私は生きるのか
なぜ、こんなことが私には許されているのか
今まで考えてもみなかったことが知らされて、その先にあるのはやっぱり阿弥陀様の御慈悲でしかないと、私はそう聞かせていただいた。
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