SSブログ

お花見2009 家康行列 と 岡崎城・桜まつり [随筆日記]

2695798三河国・岡崎城の春の風物詩「桜まつり」のMain Eventとして開催される戦国祭り「家康行列」は、戦乱の世を鎮めて天下を統一した徳川家康公の遺徳をしのぶとともに、三河武士の事績をたたえるため、江戸時代より龍城(たつき)神社の祭礼として伝わる伝統的な行事である。
岡崎城天守閣の横にある龍城神社は、徳川家康を祭神とした岡崎東照宮と、徳川四天王の一人・平八郎忠勝(本多忠勝)を祭神とした映世大明神を合祀し祭った神社で、江戸時代より毎年4月に大名行列の古札を持って神輿で町を練歩くという祭礼があり、これを起源として毎年1,000余名の武者等が、伊賀八幡宮を起点に岡崎城までの3kmを2時間かけて練歩くという時代絵巻「家康行列」が、市の主催で開催されている。

1542年に徳川家康公が誕生した岡崎城は、1455年に三河守護代の西郷弾正左衛門稠頼が築城し、これを1524年に松平清康(家康の祖父)が攻め落として松平家の居城とした城で、別名を龍城ともいう。
竹千代(家康)8歳の時、松平広忠(家康の父)が家臣の謀反によって殺害されたことで岡崎城は今川家の支城として城代が置かれたが、松平元康(家康)19歳の時に、桶狭間の合戦で織田信長によって今川義元が敗死したことで、岡崎城を取り戻して今川家から独立した。
その後、家康が本拠を浜松城に移した為、岡崎城には長男の松平信康が入ったが、信康は謀反の疑いをかけられて自刃させられ、徳川幕府を開いてからは、徳川家譜代大名等が居住するようになった。

1873年(明治6年)の廃城令によって岡崎城は破壊され、現在は本丸と周辺の曲輪や石垣、堀などの遺構を残すのみとなったが、しかし1959(昭和34年)、市民の要望によって天守閣が復元され、その敷地は岡崎公園として整備されて、日本の歴史公園100選、桜の名所100選、日本の都市公園100選に選ばれている。
特に桜の名所として知られ、天守閣を中心に約1,700本の桜が咲き誇り、毎年桜の季節は、多くの人々で賑わう。

以前、岡崎支店に二年間の勤務経験があり、その時 駅から支店まで 岡崎公園内が通勤コースの一部であったため、私にとって岡崎城はとても思い出深い場所である。
しかし、祭り=人混み が苦手であるが故に、「家康行列」は見物したことが無かったが、今年は何となく祭りに行く気になって、何となく岡崎「家康行列」に決めた。
最終候補まで残った静岡「大御所花見行列」は昨日行く予定だったが、その気にならなかったので、来年、機会と気持ちがあれば行こうと思う…。

岡崎市内は大渋滞で予定より遅れて到着したが、会場から遠く離れた岡崎市役所の駐車場所はまだガラ空き状態で、予定通りに駐車することが出来た。
A.M.10:15 さっそくウォーキングを開始!
先ずは大谷派三河別院を訪問して阿弥陀様にご挨拶 (これについては近日中に報告)

2695806市役所から北に1.5kmほど歩いて伊賀川の畔に到着。
伊賀川は昨年8月のゲリラ豪雨によって死者を出してしまったが、普段は水位も低く両川畔には2kmに渡って桜並木が続く静かな小川である。
一方、岡崎公園の南を流れる乙川は言わずと知れた桜の名所であるが、ここ伊賀川の方は隠れた桜の名所であるとの友人情報を頼りに今回初めて訪れた。
700本のソメイヨシノが作る桜のトンネルの中を静かに流れる川面には、いたずら好きな小鳥たちが落とした桜の花がゆらゆらと流れ行き、桜の木々花々の隙間をぬって差し込んだ木漏れ日の中を歩くと、この川の流れのように時間がゆっくりと流れているように感じられる。
ここには露店もないし、人出も少なく、友人の情報通り、とっておきの穴場であった。

桜のトンネルの中でお弁当を食べていると、ボチャン! という大きな音と共に目の前に落ちてきたものは・・・・・  ヒヨドリの運…、ではなくウンチっち  これには要注意[どんっ(衝撃)]

食後に向かった先は伊賀八幡宮である。
ここ伊賀八幡宮、1470年、松平四代親忠が松平家(徳川将軍家の祖)の氏神として家運長久・子孫繁栄を祈願する為、三重県伊賀国から社を移したのが始まりと伝えられる神宮で、「家康行列」の出陣式がとり行われる行列のスタート地点である。
境内は既に数百人の行列体と見物客でごった返しており、人波をかき分けながら奥に進むと、拝殿前には徳川家康をはじめ徳川四天王等が現代式のセレモニーに参加していた。
面白いのは、境内にたむろしていた三河武士たちで、タバコをふかしたり、携帯電話をしたりと、身形が甲冑を身につけた武士姿であるだけに、そのアンバランスさには苦笑した[わーい(嬉しい顔)]

2695797鉄砲隊のPerformanceで出陣式は幕を閉じ、「家康行列」がいよいよSTARTした。
ParadeのCourseが3kmもあるので、観客は道の両サイドに散らばって、沿道から余裕で見物できるのが嬉しい。
「家康行列」の先頭は、江戸より伝わる慣わしにより、神輿と宮司の隊列から始まって、続く時代絵巻隊は、“竹千代”(家康の幼年期)と少年武者列を先頭に、大型車の荷台に乗車したお姫様方が後に続く。
先ずは、“於大の方”(14歳で岡崎城主松平広忠に嫁いだ家康の生母) の車を先頭に、次の車には、“築山御前”(今川義元の姪(瀬名姫or鶴姫)で、家康の正室。
後に信長の命により家康に処刑される) と “亀姫”(家康と築山御前との間に生まれた長女)。
その後には、“千姫”(家康の孫娘。家康の三男・徳川秀忠と正室・江の長女) と “珠姫”(家康の孫娘。家康の三男・徳川秀忠と正室・江の次女) が乗る車が続く。

そしていよいよ三河武士の隊列が登場するが、その先頭は、“水野勝成”(家康の破天荒な従兄弟)。
次に、“岡崎三郎信康”(家康と正室・築山の長男で、織田信長の娘の徳姫と結婚したが、母・築山の嫁イビリに端を発し、信長の命により、父・家康によって処断された)。

この後、徳川四天王を前後に二人づつ配した、主役の徳川家康が登場した。
まず、“井伊直政”(徳川四天王・徳川氏きっての政治家・外交官)。
次に、“本多忠勝”(徳川四天王・本能寺の変の後、堺に滞在していた家康に伊賀越えを行わせた名将)。
この後にメインである “徳川家康” が登場!
そして、“榊原康政”(徳川四天王・幼くして松平元康(家康)に見出され小姓となり、「康」の字は家康より武功を賞されてを与えられたもの)。
最後に、“酒井忠次”(徳川四天王・家康の父・松平広忠に仕え、家康が今川の人質となった時、最高齢者として同行) の一隊が通過して行った。

2695807私たちはゆっくりと行進する「家康行列」を追い越しながら沿道を岡崎城へと向かった。
こちらはやはりすごい人手で、ビックリ仰天である! 思うようになかなか前へ進めない・・・
取り合えず人波をかきわけながら公園を一周して早々に退散し、乙川河川敷に腰をおろした。
乙川の、殿橋より西は露店や人が溢れてまったく落ち着けないが、殿橋より東側では、思いがけずのんびりとお花見を楽しめることができた!
特に明代橋を越えてからは花見客もまばらで、しかも桜の木が古いのでとても見応えがあり、こちらも穴場スポットである。
桜の木の下には黄色い菜の花と鮮やかな緑の草地が広がり、空には青空! 最高のお花見日和であった。
桜は8~10部咲きで、もうしばらくは楽しめそうだ。

お花見ウォーキングの締めくくりは本派の三河別院で阿弥陀様にご挨拶をしてから帰路についた。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。