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ありのままに、見れない私・聞けない私 [心]

先ほど見ていたテレビ番組で、 “視覚のトリック” というのをやっていた。
私たち人間というのは、これまでの経験で蓄え続けてきた“私の常識” という枠に囚われて、実際に目を通して見ているものを、自分自身の“思い込み”によって、正しく見ることができないという、心理的に非常に興味深いことを教えてもらった。

視覚の錯覚(思い込み)ということを考えた時、テレビ番組で実地されるような実験用のだまし絵などを用いなくても、日常生活の中から実感できることがたくさんある。
例えば、レモンや梅干を視覚でとらえた瞬間に唾液の量が増える。
それが食べられない食品サンプルのレモンであったり、甘い砂糖菓子で出来ていた梅干だと聞いても、レモンはすっぱいという自分の常識や、梅干はすっぱいという自分の思い込みによって、脳から伝達された偽りの情報に身体は反応してしまう。
また、お茶碗で食べるお米は美味しいけど、お皿に盛られたお米は美味しくないだとか、
ラーメンをフォークで食べたり、ケーキをお箸で食べたりすると、まずく感じるなど、私たちは常に自分の常識や思い込みを正しいものとして判断してしまうのだ。

視覚は目で見ているのでなく、脳で認識したものを見ているのだそうだ。
私たちは目を通して、色・形・動き、などの種々の情報を脳に届けて、脳はこれらバラバラの情報を一つに組み立てる作業をする。
この作業工程で、自分の“思い”が侵入してくる。
つまり私たちは、実際に目を通して見ているものの色や形を、真実そのままの状態で受け取ることは出来ずに、常に、自分の脳で組み立てられたものを真実の姿だと思い込んで見ているだけなのだということがわかった。
私には脳の専門的な知識が無いので詳しいことまではわからないが、私が見ているもののすべてが、真実そのままに見えているのではなく、自分の小さな知識の中からはじき出された自分の思い込みによって、常に間違ったものの見方をしているという点で、仏教にも通じるものがあるなぁと思った。

親鸞聖人は『正信偈』中に、邪見驕慢悪衆生 とお示しになっておられる。
私(親鸞)は、驕慢な心で間違ったものの見方しか出来ない悪の衆生であると嘆かれたお言葉であると味あわせてもらった。
自分の考え方は正しいとしか思えないという驕り高ぶった私を、このまま見捨ててはおけんと立ち上がって下さったのが阿弥陀様であられる。
こんなどうしようもない私一人をお目当てに、阿弥陀様は仏の位から降りられて、修行などまるで出来ない私とわかって、私に代わって苦しいご修行をして下さり、こんな私を救うため法を造ってくださったのだという。
でも、当の私は、自分の考えが間違っているとは思えないし…、
まあ~時々は驕慢な心になることもあるけれど、常々のことじゃないし…、
まして、私を救って下さると言う阿弥陀様なんて信じられないし…、
それに何よりも、別に救ってほしいなんて思ってもいない私だし…。

「喝!!!!![爆弾]

その心こそ、まさに自分の考えが正しいと邪見し、驕慢している自分の姿そのものじゃないか!
私が、そう思えるとか、思えないとか、そんなことは関係ない!
お釈迦様が教典に説かれたことを、親鸞様が実体験なされて、「これぞ真実!」と私に届けて下さったご意見が、私の目の前にあるのだ。
でも私は、自分の邪見で驕慢な心ばかりを見て、目の前にある真実を、チッとも見ようとしない!!
どこまでも、どこまでも、どこまでも、邪見で驕慢な私でしかないのだ・・・・・

そんな私のままでいい… と。
邪見驕慢な私のままでいい… と。
だって阿弥陀様は、そんな私がいたから、これを見て不憫に思い、御本願を建てて下さったのだ。
そんなどうしようもない私だったからこそ、頭の下がらん私に向かって、「救わせてくれよ」と、阿弥陀様の方から先に頭を下げて頼んでいなさるのだと聞かせてもらった。
そんな私だと阿弥陀様は重々知っておられるからこそ、ご自身の御名に力を封じ込めた“南無阿弥陀仏”を、ただ受け取らせるだけに仕上げて下さったのだと聞かせてもらった。

阿弥陀様は、すべて何もかも承知してなさる。
いまだ邪見驕慢な自身の心にばかり目を向て、泣くしかないこんな私を・・・・・

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