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建て前より本音の世界 [心]

今日は支部法座に出席[るんるん]
その後の仲間との飲み会は、かなり盛り上がってとても楽しい夜を過ごした。
特に最後のテーマ、“夫婦”についてのトークは、意外な人の意外な発言で、仲間の信密度がかなり深まった。

N村氏は、自分の本音を表に出すことなく、他人と話しを合わせることの得意な人で、世間では人当たりの良い人で通っていた。
しかし法座の席でHiちゃんが、「そんなN村さんでは、御法は聞けんよ!」と指摘したのをきっかけに、みんながN村氏の本心を引き出そうとした。
でも、社会の中で生きている以上、本音は隠して建て前で生きていくのが当たり前の世の中にいて、いきなり本心を語れと言われても、どう表現したらよいのもかと戸惑っていたN村氏だったが、
「本音を言えば人間関係は崩れてしまいます。自分はそれで失敗した経験があるから…」と口を開かれた。
そしてYu氏に、「世間ごとをどんなに取り繕ったとしても、それは所詮無常のもの。
しかし仏法は、そんな見せかけの自分では、誰とも、何も関われないよ」と言われて、少し間をおいてからこんな話しをされた。
「実は、わたしが本音を妻にぶつけてしまったことで、家庭は離婚の危機なんです…」と…。

私はすごいな~と思った。
世間では、夫婦といえども本音で付き合うことは難しいというのに、仏法の場では、本音でなければ付き合えないという現実に、ある意味感動を覚えた。
また、N村氏の離婚話しを聞いて、夫婦問題の仲裁をするアドバイスをする人もいなければ、離婚問題の原因となった出来事に良し悪しをつける人もいないというのも世間とは違う展開だなぁと思った。
法友が口にするのは、「他人の不幸って、聞いてて面白いな~」とか、「人の不幸は蜜の味ってか?!」などと笑いながら話している。
語る方も本音なら、聞いている方も本音を口にする。
これってすごい!って思った。

信の一念を得た人は、常に光明に照らされているから罪悪深重である本当の自分の姿、自分の値打ちというものを知っている。
そんな迷いの世界にいる“人間”というものをわかっているからこそ、この人たちの前ではどんなに取り繕ったとしても無駄、かっこよく演じたとしても道化でしかないのである。
だから一緒にいて楽なのだ。
私は、腹黒く、欲深く、自己中心的で、醜く、汚く、浅ましく、空恐ろしい人間であると既に知られて(聞かせていただいて)いるから、そのまんまの本音で付き合うことができる。
親鸞様が、「この世の臨終を迎えて後は、地獄一定の身でありながら、心は浄土で遊ぶなり」と仰られた世界がここにはあるのだなぁと思った。

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