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母を想う Ⅰ  難病と言う運命 [随筆日記]

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2000年6月、私は出世を約束されつつも、これをけって退職し、その三日後にはアメリカで単身赴任をしていた夫の元へと渡米した。
そして二年半後の2002年の年末、アメリカでの任務を終えた夫と共に帰国し、再び日本での生活が始まったのだが、それは私に与えられた、新たなる試練の始まりでもあった。

母は、NTT民営化による人員調整の為、53歳で希望選択定年退職をした後、地域の婦人会会長として任期二年を勤め上げた。
そんな母が体調の異変を訴え始めたのは、ちょうどその頃からであった。
初めは更年期障害と診断され、ホルモン治療が施されたが、四肢失調や歩行・会話障害など、日増しに症状の悪化が見られた為、受診科や病院を転々とする生活が続き、病名もハッキリしないまま放射線によるガンマナイフ治療も受けた。
しかし、症状は回復することなくますますひどくなっていった。

母には夢があった。
夫婦共に定年退職を迎えたら、父の実家に近い東北の静かな温泉地に新居を構えて、夫婦二人でのんびりゆったりと余生を過ごすんだって・・・・・
体調の異変を感じ始めてから二年が過ぎ、来年は父も定年退職を向えるという頃、とうとう母の病名が明らかになった。
「孤発性(非遺伝性)の多系統萎縮症です。 治る見込みのない病です…」
大学病院の医師は、母にハッキリとこう告げた。

『1リットルの涙』というTVドラマや本で名の知れた、脊髄小脳変性症という病気である。
医学的に言えば、小脳・脳幹・脊髄などの神経細胞が徐々に破壊されながら変形萎縮して、10年ほどで自発呼吸すら出来なくなって死に至る病である。
でも、言葉で言うほど簡単なことじゃない。
癌のように治る希望も可能性も皆無で、ただ死に向って進行するのみである。
何よりも、大脳部分はまったく破壊されない為、自分の身体機能が衰退していくことを、死ぬまでハッキリと自覚し続けるのである。
完全な意識・心を保ったままで植物状態となって、ただ死を待つのである。
いまだ原因もわからない為、何の薬も治療法も無い難病である。

治ると信じていたからこそ探し回った病院なのに・・・
病名の告知があってからの母は、心まで壊れてしまった・・・
自分の病気を、この運命を受け止めることが出来ずに、母は家族に当り散らし、自分さえも見失ってしまった。
「病気の治る水」だと騙されて三百万円でその水を購入した上に、その新興宗教に、治療だ祈祷だと一千万円近くも財産を吸い取られてしまったこともある。
母は、自分の運命の重さに絶えられず、誰かに責任転嫁をすることで自分を保ち、何かにすがりつくことで生き甲斐を見出そうと必死だった。
そうすることでしか生きていられなかったんだと思う・・・。

私と妹は、既に結婚をして家を出ていた。 そして弟も転勤で家を出ることになった。
そんな時、父までもが家を出て行ってしまった。
父は言った、
「自分の人生を、妻の犠牲となってつぶされたくない」
と・・・・・
父は退職金で隣町に新居を購入し、病気の母を一人置いて家を出て行った。
それは、母が思い描いた夢とはかけ離れた現実であった。

一人暮らしとなった母の世話は、近所に住む老齢の祖母がしていた。
弟は県外に勤務。 妹はアメリカに嫁ぎ、私までもがアメリカ行きを決めてしまった。
渡米前、実家に立ち寄った私に母は、「親不孝者!」と言って包丁を振り上げた。
あんなに優しかった母の変貌ぶりに、私は、ただ泣くことしか出来なかった・・・

アメリカから母へ、手紙やプレゼントを贈ると、母からはFAXでレターが返ってくる。
唯一、母の書いたその文字が、母の病気の進行を知る手段となっていた。
母の病気は確実に進行し、「ありがとう」の一言を書くだけでも、どれほど苦労をしているか、どれほど悔しい思いをしているかが読み取れた。
でも私には、母の気持ちの一割ほども量り知ることは出来てはいないであろう・・・
早く日本に帰らねば・・・・・  でも… 帰りたくない・・・・・   と、・・・・・
結局私は、我が身が一番・・・ 大恩のある親よりも、自分のことしか愛することが出来ないのだ・・・・・

2003年 正月。
アメリカから帰国して母の元へ。
母は、穏やかな笑顔で私たち夫婦を迎えてくれた。
しかし、渡米していた二年半で、母の病状はかなり進行をしていた。
もう歩くことは出来なかった。 赤ちゃんのように這い這いをしながらの移動。
言葉も上手くしゃべれない。 ゆっくり、何度も繰り返し聞き取る。
もう、一人暮らしをするのは明らかに限界であると見て取れた・・・・・
これから母の介護をどうするかが、私の一番の悩みとなった。

帰国してから二週間が過ぎた日の朝、繋がったばかりの電話が鳴った。
親戚の叔母から、「母が救急車で運ばれた」との連絡であった。
昨夜、母はトイレまでは這い這いをしながらも行くことが出来たが、便座に腰掛けようとしたところでバランスを崩し倒れこんだまま体に全く力が入らず、今朝、祖母が発見するまで10時間近くも、トイレでうつ伏せた状態で倒れていたそうだ。
意識はちゃんとあったものの、倒れた時の開脚状態のまま、氷点下に近い気温の中を一晩中、尿で濡れたパジャマ一枚で過ごした為、股関節の筋を痛めて肉離れをおこし、肺炎となって高熱を出していた。
私のせいだ!
私が母のことを後回しにして、グズグズとしていたからだ…
この時の後悔を打ち消したくて、私はこの後二ヵ月半、毎日病院へと通った。

この頃の生活は、車を一台レンタルして、朝は夫を会社まで送って行き、そのまま通勤ラッシュの中を二時間かけて母の病院へ行き、再び帰宅ラッシュの中を二時間、夫を会社まで迎えに行って、帰宅後は、アメリカから届いた引越し荷物の処理に深夜まで費やした。
渡米前も同じような状態だったが、帰国後の今の方が精神的にはきつかった。
母の入院も一ヶ月半が過ぎた頃には、病院側から退院勧告を言い渡された。
母は、病気でありながら病院にはいられない。
なぜならば、母の病気は、治す薬も、治療法もないから、病院にいる必要がないのだと言われた。
「そんな患者はとっとと出て行ってくれ!」というのが国の、政治の言い分である。
しかし、自力で起き上がることすら不可能となってしまった母を一人暮らしに戻すわけにはいかないし、ダンボールだらけの我が家で介護をするにしても、義両親の手前、そう上手くはいかない。
障害者施設も、特養も、長期療養型病床すら、数百人待ち・何十年待ちかであって、さしあたって、今、どうしたらいいのかが五里霧中であった。
とりあえず、寝る間も惜しんで日本の介護実情や介護保険法を調べ、空いた時間には手当たり次第に病院や施設などを回って直談判した。
これに一ヶ月ほど費やしたが、偶然にも私の住む街に老人保健施設が新設され、そこが三ヶ月間の約束で母をあずかってくれることに決まった。

四月、満開の桜が咲く中、母は初めて、生まれ育った街を離れて、老健へと入所した。

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