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母を想う Ⅱ  母の人生 と 私の人生 [随筆日記]

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五十歳代の母にとっては、“老人”と名の付く施設に入ることには抵抗があった。
また、日々、一つ一つ出来なくなってくる行動を、自分に確かめるようにして受け入れている母の口からは、「しかたがないね・・・」という言葉が繰り返し聞かれるようになった。
闘うことの出来ない難病と向き合いながら、母は自分自身と戦っていた。
昨日まで使えていたスプーンが、今日はもう持てなくなってしまった…。
昨日まではコップで飲み物を飲めたのに、今日はもう、口の端から飲み物がこぼれてしまう…。
昨日までしゃべれていた言葉が、今日はもう相手には伝わらない…。
自分はいつまで、何ができるのだろう・・・・・
母は、そんな恐怖と四六時中戦っていたのだと思う。

私といえば、渡米前まで勤めていた銀行からの再就職の要請を、受けるか受けまいかと悩んでいたが、仕事と家事と介護を落ち度なく両立させるのは不可能だと考え、再雇用はあきらめ、そのやり場のない気持ちに苛立つばかりであった。
しかし、嘆いている暇など無く、今は母をあずかってくれる新たな施設を、一日も早く探さなければならなかった。
そんな時、奮闘しながらも頭をかかえている私に、入所先の老健の施設長が、
「自分の在任中は、できる限りの協力をしますよ」 と言って下さった。
有り難かった。
施設長の厚意のおかげで、母は7月には一度退所はしたものの、一ヶ月ほど私の家で在宅介護した後、8月からの三ヶ月間、再度その老健への再入所を認めてもらい、今後もこのパターンで母をあずかってくれると約束してくれた。
この間に入居できそうな老人ホームを探すと言うことで、私にも希望が見えてきた。

しかし、そう甘くはなかった・・・・・
病気でありながら治療法のない母は病院ではあずかってもらえない。
なのに、病気であるが為に老人ホームでも母の受け入れは出来ないというのだ。
完全に寝たきりになれば、当然24時間体制での医療行為が必要となってくる為、そんな母をあずかってくれる施設など、どこにもないのだ。
どうしたらいい・・・・・
私では答えなど見つけられるはずもなかった。
社会や法律を前に、個人の存在など小さすぎて目に入らないのだ。

7月、初めての在宅介護は、オムツ交換やリハビリ・マッサージなど、不慣れなことばかりであったが、ヘルパーさんの力を借りながら何とかこなすことができた。
しかし今後のことも考えると、早急に介護ルームが必要であると考え、新たに一部屋、母専用の介護ルームを増築するという大きな選択に迫られた。

8月、母を老健に再入所させると、今まで忙しかった分、少し時間に余裕が感じられ、ちょうどこの頃、以前勤めていた銀行からの誘いもあって、パートとして再就職をすることが出来た。
このまま何も変らずに、ただ時間だけが流れていくように思えた。
そんな時、予約をしておいた長期療養型病床をもつ病院から連絡が入り、ベッドが一床空いたので明後日までに入院の手続をしてくれと言われ、翌日その病院を訪れた。
その病院は、私の家から一時間半ほどの距離にある内科と整形外科の病院で、母が必要とする神経内科はなかった。
また何よりも空いたとされるベッドは、元々二人部屋だった病室にベッドを三床に並べて、その三人の足元に縦に一床ベッドを押し込んだかたちになっていて、そこが母のベッドだと説明された。
悔しかった・・・・・
病人なのか、囚人なのか・・・・・、 どうしてこんな扱いをされなきゃいけないのか!
もちろん入床は断った。
帰り道、私は車の内で一人大声で泣いた。

こうなったら私が最後まで母の介護をするんだと心に決め、自宅のリフォームを急ピッチで進めてもらい、11月には増築した介護ルームが完成して、二度目の在宅介護のため母を退所させた。
しかし、毎日仕事帰りには老健に寄って母の様子は見ていたものの、実際三ヶ月ぶりに体験した母の介護は、とても大変なものであった。
嚥下障害も進み、料理をするのにも気を使い、食事介助の時間も長くなった。
病状は確実に進行をしている。
次回の在宅介護への不安が大いに増した。

年が明けて2004年、入所先の老健から、次回の在宅介護はもう少し暖かくなってから、期間も二週間を限度にしましょうと提案された。
体温調節の出来ない身体で、免疫力も低下している為、在宅介護ではリスクが高いというのだ。
そんな話しをしていた矢先に、母はインフルエンザにかかって、老健から病院へと移された。

私は仕事を辞めた。
完全看護の病院では、本来、洗濯物以外は家族の手を要しないのだが、嚥下障害のひどくなってきた母の食事介助は、この頃一日5時間を要した為、この間ずっと看護師を独占することは出来ず、家族の手を必要とした。
入院は三週間ほどだったが、職場にはこれ以上の迷惑はかけられなかった。

母のことを相談できる家族は私にはいなかった。
父は、母に自分の人生を邪魔されたくないと言う。
妹は、何もしなくったって何とかなるのだから、放っておけばいいと言う。
弟は、専業主婦になったのなら暇だろうからまかせるよと言う。
夫には、介護ルーム増築の件でも、在宅介護の件でも、そして私の実家の家族に対しても、言いたい愚痴を山ほどあるだろうに、それを我慢してくれているのがわかるから、これ以上の負担はかけられない。
私は一人ぼっちだった。
こんな生活がいつまで続くんだろう・・・・・
私は・・・・・、 私の人生は、母に殺されてしまった・・・・・・

5月、久しぶりに母を退所させて自宅で介護をする。
既に自律神経の失調もひどく、汗どころか、尿も出すことが出来ない状態となっており、3日に一度は、訪問看護をお願いして膀胱洗浄を必要とした。
便通も下剤を使って介助が必要となり、リハビリ・マッサージは、骨折の危険が伴う為、素人が行うことを禁じられた。
在宅介護での負担は、病気の進行と正比例していく。
今は、「痛い」「痒い」という言葉すら、もう発することが困難になってきているが、いつの日かその声も聞けなくなってしまうだろう。
体中の痛みを訴える母に、私は何もしてあげられないのがもどかしかった。
ただ、母の笑顔を絶やさぬように、私はふざけたことを言っては母を笑わせる。
それは母の為ではなく、私自身のためだった。
いつの日か、母は自分の顔の表情までも失ってしまうだろう・・・・・・
私は、少しでもたくさんの母の笑顔が見ていたかった。
在宅介護で一番気を使ったのは食事で、食物を喉に詰まらせて窒息という事態を避ける為にも、料理にも食事介助にも注意を要した。
でも、いつか何も食べられなくなってしまう母に、せめて自宅にいる間は、美味しいものを食べさせてあげたかったので、施設食のように、ミキサーをかけて原型のわからないような料理は出したくなかった。
在宅介護は、朝食作りに始まって夕食介助まで、食に一日の大半の時間を費やした。

そんな私の手料理を、母は小さく喜んだ。
でも、私のその手料理をヘルパーさんが羨ましそうに誉めると、母は、とても嬉しそうな笑顔を見せて大きく喜んだ。
この時私は、「母は、私のお母さんなんだ」って、実感できた・・・・・


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