SSブログ

夢の御法 [心]

私はよく夢を見る。
ほとんどの夢は目覚めてすぐに忘れてしまうが、一晩で何種類かの夢を見る。
今朝方の夢も最後の場面しか覚えてはいないが・・・
どんよりと曇った空の下、私は見知らぬ山の中腹にいた。
その山の頂を見上げたその時、山肌が不自然に削りえぐられるように崩落を始めた。
それを見て、あわてて逃げ出そうとする私と、何故に山が崩れてゆくのかと冷静に考えている私と、もうすぐ目が覚めると客観的に見ている私がいた。
どの私も私自身である。
私というヤツは、実にバラエティーに富んでいる。
私が私と思っている私もいれば、私の知らない私もたくさんいる。
そんなたくさんの私が、あ~だ、こ~だと心の中で各々に思いを述べ合って、定まることがないのだから、“私の思い”というヤツは、まったくあてにも頼りにもならない。
心コロコロ♪心コロ♪合わせてコロコロ♪心コロ♪
 
夢と言えば、最近、忘れられない夢を見た。
ひと月ほど前、11月30日に見た夢である。
実家?の母の部屋で、一人、テレビを見ている私。
隣の居間にはアメリカに嫁いだはずの妹がいて、キッチンでは他界したはずの母が夕食の支度をしていた。
私は床に座って何かのテレビ番組を見ていたのだが、その番組の中である言葉を聞いた途端に、
「あ゛ぁぁ、このことだったのか~! そ~だったのか~!」と、かつて無い衝撃を受けた。
と同時に、座っていた座布団や床が砂地獄のように崩れはじめて、私は「ギャー!!!」と叫びながら真っ暗な地底に吸い込まれて行った。
暗黒で冷たい底なしの闇の中を真っ逆さまに堕ちてゆく私の周りで、何かが私と共に堕ちている。
底知れない恐怖の中で、かすかな輝きを放つ、その、私と共に堕ち行くものは何かと目を凝らして見たならば、それはガタガタに削られた、大小さまざまな、「南」・「無」・「阿」・「弥」・「陀」・「仏」 という六つの文字であった。
客観的にこの夢を見ている私は、「今こそ『南無阿弥陀仏』と称えよ!!」と叫ぶのだが、堕ち行く私は、「ギャーーー!」しか言わない。
私の悲鳴を聞いて、妹が隣の部屋から駆け寄り私の名前を何度も呼んだ。
その声に闇は徐々にかき消され、私の意識は元の部屋のテレビの前の私へと戻ったが、それでもまだ目を剥きながら悲鳴は治まらない。
そんな自分の悲鳴で目が覚めた。
まだ真夜中であった。
私は布団にうずくまりながら、今見た夢を思い返してみたが、覚えているのはここまで・・・
どんな言葉をきっかけにして足元が崩れていったのかも思い出せないし、何がわかって「そ~だったのか!」と納得したかも思い出せない。
でも、私は「死んだら堕ち行く身」なのではなく、「まさに今、堕ちている身」なのだということと、
そして、「南無阿弥陀仏」も私と共に堕ちて下さっているのだということは鮮明に覚えている。
それに、南無阿弥陀仏の御いわれを聞かせてもらっていながらも称えられなかったのは、「知った、知った」と知識が知っていただけで、私は何もわかっていなかった・・・・・
「南無阿弥陀仏」を疑って、自力を頼っている私の姿がそこにあった・・・・・
布団の中で、心の添わない乾いたお念仏を称えながら、私は再び眠りに落ちていった。

「いつだって、何をしていたって、阿弥陀様は、この私一人のために24時間かかりっきり。
乾いたお念仏でも、血の通わないお念仏でも、それは私のコロコロ心がそう思っているだけのこと。
南無阿弥陀仏がこの私の口から出ることの奇跡に、自分の思いは関係ないよ。」
と、YM支部長に教えていただきました。
南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。