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母を想う Ⅲ  母の涙 [随筆日記]

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病気の母でも受け入れてくれるという老人ホームに入居の予約はしてあるものの、最短のところで40人待ち、早くて二年後だろうと言われた。
この先の不安をあおるように、一年以上も世話になっている老健の施設長が代わってしまった。
しかし、母の事情を理解してくれた新施設長も、引き続き母の入所を快く許可してくれ、今まで以上に力になってくれた。

ある日、いつものように母に会いに行くと、老健の職員から呼び止められて、
「さっき、お父さんがお見えになったのだけど、その後からお母さんの元気がなくて…」
と報告してくれた。
母に、「お父さんは何をしに来たのか」と聞いても、「怒っていた」としか言わない。
要領を得ないので、しかたなく父に電話をする。 一年ぶりの電話だった。
聞くと、父宛てに自宅の固定資産税の督促状が届いたことを怒っての訪問であった。
母は、自分の通帳をなかなか私に渡してくれなかった。
「自分の財産は墓場まで持って行きたい」というのが人間の本性であるということをつくづく感じてはいたものの、だからといってこのまま母が自分自身で財産管理をすることは不可能であるし、私も母の介護費用に対して金銭的なストレスをかなり感じていたので、この際ハッキリさせようと思った。

まず、母とはじっくり話しをして、母の通帳は私が管理することになった。
そして父のこと・・・
自宅の名義はもちろん父の名前のままになっているが、父は母の病気を機に家を出て、退職金で建てた別宅に、愛人と二人で住んでいたので、自宅にかかる税金や公共料金は、父の名義でありながらすべて母が支払っていた。
しかし母が入院を機に自宅を出てからもう一年半が過ぎ、公共料金の引き落とし口座の残高も底をついていた為、名義人である父の元に督促状が送られたのだ。
父はそれを怒って、母の居場所を探し出して怒鳴りに来たのであった。
私は母に言った。
「お父さんと離婚して…」 と、・・・・・
母は、しばらく考えた後、小さくコクンとうなずいた。

しかし、父はこれに猛反発した。
「子供のおまえに、夫婦のことでとやかく言われる筋合いはない!!」 と、・・・・・
でも父は、母に自分の人生をつぶされたくないといって家を出て、愛人との生活を満喫しているし、今さらなぜに離婚を拒否するのか、まったく理解できなかった。
結局、弁護士に相談しても、母が物言えぬ状態となってしまった以上、子供が何を言っても無理だと言われた。
私は、自分の運命を呪った。
どうして私だけが親の運命を背負わされなきゃならないのかと、・・・・・
どうしてこんな父と母の元に生まれて来てしまったのかと、・・・・・
私は、両親によって自分の人生が握りつぶされていくように感じていた・・・・・

7月、次回の在宅介護を相談する席で、老健の担当相談員から、
「そろそろ、お母さんの声がまだなんとか出る内に、最後の願いを聞いてあげてはどうですか?」 と言われた。
母の願い ・・・・・   それは聞かずとも私にはわかっていた。
母の口癖だったから ・・・・・  
「自宅に帰りたい」 と、・・・・・
でもそれは不可能に近いと思っていた。 それに、私一人ではどうにもならない。
しかし、これを老健の担当相談員に伝えると、彼は、「出来る限り、力になります」と言ってくれた。
嬉しかった。 
小さな希望の灯火が点灯したようだった。
しかし、それは簡単なことではなかった。
一年以上も空き家になっている実家には、何の介護設備も無いし、真夏の体温調節は非常に難しく、汗の出せない母にとっては命にかかわる。
それに、片道2時間のベッドでの移送や、膀胱洗浄などの医療行為や、地元での新しいヘルパーが母の病気に対応できると思えないなど、問題点は山積みであった。
しかし、その一つ一つを解決すべく努力をしていく内に、いつしか母の夢の実現が、私の夢へと変わっていた。

すべての条件が整うのに、一ヶ月も要しなかった。
誰に拒否されることも無く、老健の職員、介護事業所の関係者、市の職員まで、こちらの予想を超えて惜しみない協力を申し出てくれた。
実家に帰る日にちも決まって、後は、担当医師である老健の施設長が、母の体調をみて、OKのサインが出されれば、母の夢は実行へと歩き出す。

2004年8月7日の朝
母は不安げな表情で老健のベッドに横たわっていた。
意味もわからずに、朝食を途中で打ち切られて、外出着に着替えさせられたのだから当然不安で心細かったであろう。
実は、母の夢の実現は、母には内緒で進めていた。
母の体調如何によっては、いつ取り止めになるかわからない夢であった為、その時にショックを与えないよう、また、実現した日には大喜びをしてもらおうと、みんなには内緒にしてもらっておいたのだ。
実行の前日、施設長からの許可が下りて、今日、母の夢は実現へと動き出した。

「今から自宅に帰るんだよ」
と、何度言っても、母は信じられない様子で、不安げな表情を浮べ、「本当に?」「大丈夫?」と、何度も何度も確認をしてきた。
施設から実家までの移送は、いつも利用している介護タクシー会社の社長が、家族ぐるみで協力してくれて、途中、七夕祭りの会場にも立ち寄ってくれたが、母は、実家に帰れるということが、まだ信じられない様子で、施設のベッドの上では見たがっていた七夕祭りも、今は上の空といった感じだった。
実家に着くと、数日前からの大掃除や介護ルームの設置などで応援に駆けつけてくれていた私の学友らに、「おかえり」と出迎えられると、母の表情からは不安が消え、嬉しそうに、そしてとても懐かに、穏やかな表情に変わっていった。

今回の在宅介護では、いつも利用している二つの介護事業所の馴染みのヘルパーさんたちが遠路はるばる交代で協力してくれることになった。
また、老健の職員やケアマネさんも、私用と称して応援に来てくれた。
しかし、母が何よりも喜んだのは、たくさんの訪問客であった。
私が、母の帰省を知らせたのは、母が自宅に帰る日の前日、施設長の許可が下りてからであり、実家の近くに住む叔母と、母の職場の同期の親友の、たった二人に母の一時帰宅の連絡をしただけであった。
にもかかわらず、「母、帰省する」の伝言ゲームは、たった一日で四方に広がっており、母帰宅の初日から最終日まで、ひっきりなしに懐かしい人たちが母の元へとかけつけてくれた。
実家の室内には入りきれずに外で待つ人もいて、母は食事をする暇すらないほどであった。

そんな母が泣いた。
初めて見た、母の嬉し涙だった。
思えばこの一年半、私が帰国してから、母は一度として私の前で涙を見せたことが無かった。
辛い運命を宣告され、たった一人この家に残されて、母はどれだけ寂しかっただろう・・・、母はどれほど悲しんだであろう・・・、
私はそんな母の姿を、母の気持ちを、真剣に考えたてみたことなどなかった。
いつも母の犠牲になっている自分を恨み、心の中で母を殺し続けてきた。
お母さんのせいで私の人生は苦しめられているんだって、・・・・・
お母さんに母親としての愛情を求められない自分は不幸だって、・・・・・
それでも、お母さんには生きていて欲しい…、ずっとずっと生きてて欲しいって、・・・・・
自分勝手な欲で母を恨み、自分の都合のいいように母を利用して、自己満足に自惚れていた自分を、この時はまだ、知る由もない私であった・・・・・

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