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義母は善知識 [心]

義母とはよく仏法の話しをする。
義母は浄土真宗の家に生まれて育ち、浄土真宗の家に嫁いで、現在も本家の嫁として浄土真宗という名のもとに先祖を敬っている。
しかし、浄土真宗が何なのか、はたまた仏教とは何なのかは全く知らずにいた。
この点では、仏教のブの字も知らなかった私と何も変わりはない。
私は、私の母親の死をきっかけにして、導かれるように、と言えば聞こえはいいが、ただ成り行きで浄土真宗へとたどり着いた。
元来、中途半端なことが嫌いで、知識欲旺盛な性分ということもあって、それをきっかけに仏教とは何ぞやということに興味を持ち始めて今に至っている。
しかし、仏教と共に過ごしたこの1,2年を振り返っただけでも、数々の御慈悲・ご縁を頂いたことに頭の下がる思いであるが、心底、頭の下がっていないのが本当の私の相(すがた)である、という御意見に遇うまでにお育て頂いたのは実感としてある。

そんな私の影響で、義母も仏教に興味を持つようになった。
ところが義母は、仏教は道徳の教えであって、今生を心豊かに過ごす為の手段であるという捉え方でしか仏教を聞く事が出来ずにいる。

仏教は三世因果を貫く唯一真実の教えであり、今、私が“私”と思っている私自身も、実は無始より迷いに迷ってきた魂の、ホンの一瞬の仮の姿でしかないと私は聞かせてもらっている。
しかし、この世のことしか知らない・信じられない私は、その一瞬の仮の姿こそが自分のすべてであるという錯覚から抜け出ることが出来ずにいる。
だから私はこの肉体を着飾って、きれいに見られたい、少しでも若く見せたい、人から好い人だと言われたい、尊敬されたい、などということに一生懸命になっているのだ。
そう、 この自己満足をいかに充実させ、持続させるかが唯一の使命のように思って生きているのが私の相(すがた)なのである。
義母も、私も、結局は同じであるのだが、少しだけ違うとするならば、
こんな私にむかって、
「人間に生まれさせて頂いた奇跡を喜びなさい。
そして、人間として生きているからこそ獲られる永遠の幸せを、この弥陀より、早く早く受け取って下さい」
と言って下さっている阿弥陀様と、その教え、仏教に出遇わせて頂いたこの奇跡を、偶然と捉えて聞き流すか、必然と捉えて頂戴できるかの、それぞれの都合、思いの違いでしかないと私は思う。

義母は、仏法なんかわざわざ聞きに行くものじゃないと言う。
法座にマメに通い聴聞をしている私を、馬鹿にさえすることもある。
それなのに、法座から帰ってきた私に、「どんなことを聞いて来たの?」と聞きたがる。
だからといって、私の話しを素直に聞ける義母ではない。
義母は、自らが自慢をするほどの超頑固者である。
自分が見たもの、信じたものでなければ決して信じようとしないし、自分の経験した世界だけがこの世のすべてだと思い計らうことしかできないでいる。
なので、どんな話しも、聞きたがる割にはほとんどすべての事柄に反発をする。
そんな義母を、「わからず屋! 話すだけ時間の無駄!」と疎ましくさえ思ったこともあった。
しかしそれは過去のこと。

私は義母に、御法座で聞いてきた御法の受け売りをしながら、こんな自分に気付かせて頂いた。
義母に聴聞してきた内容を話すことで、他人事ではなく、自分のこととして繰り返し御法を確認させて頂けている。
また、義母と仏法談議をすることで、私自身の聴聞の聞き誤りを、義母の言葉を通して聞かせて頂けている。
それに、家庭の中で仏法を語れるというのは、まこと、私は幸せ者である。
そして何よりも義母は、私が知らない私の心を映し出してくれる“法の鏡”のような存在であるということ。

「仏教では、死んだら地獄へ堕ちるという一大事の解決、これ一つを説いているんだよ」と言っても、
義母は、「後生なんてないよ! 人間死んだら終わりなの! 死んでからの話しをしたってしょうがない!」と言う。
また、「誰もが死ぬのは当たり前! みんな一緒に地獄に堕ちるんなら怖くないじゃん!」ともいう。
どうしたって義母の考えを変えることは不可能であった。
その理由を自分なりに考えてみると・・・・・
私も義母と同じであることに気が付いた。
私は、知識や言葉では御文を口にしながら、えらそうに仏法を伝えている気になっているが、この私自身、心の底から死んだら地獄だなんて思えないし、地獄と聞いても、怖いとも思えない、そんな私がここにいる。
私は、義母の頑固さを通して、そんな私自身に気付かせて頂くことができた。
それに、私が何を言っても、どんなに説明しても、自分の考えを変えようとはしない義母に、「どうにかわかってほしい」という思う私の気持ちは、そのまんま、阿弥陀様が、この私に言って下さっている言葉なんだと今は理解している。

私は今まで、義母を導こうと自惚れていたが、実は私が義母に導かれていのだ。
こうして義母の嫁になれたことも、すべては阿弥陀様のお手回しであった。南無阿弥陀仏
私はなんと深いご縁を賜ったものか・・・・・
それなのに、いつまでたっても頭の下がらん私がここにいる・・・・・

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今、まさに堕ちている私 [心]

前日記述した夢の話しを、御同行の一人に報告した。
彼女は優しい言葉で、端的に私の行く道を示して下さる善知識であり、私の憧れの人である。
その御同行から頂いた言葉が、私の心に暖かく突き刺さった。

阿弥陀様は24時間、私に付きっきりで、私と一緒に地獄の果てまでもついて来て下さるという。
阿弥陀様は十劫の昔から、ずっとずっと私一人にめがけて、呼び尽め、叫び尽め。
私が阿弥陀様のことを思う時も、思わん時も、寝ている間でも、ずっとず~っと呼び続けて下さっているというに、私は「知らん」とばかりに全く気付かない。
仏様の目から見た私は、今まさに地獄へと真っ逆さまに堕ち続けているとのご意見。
この世の命、次の一息が吸えずば(吐けずば)、立待ちに地獄の底へと到達する。
私は私が造った業で、いつ、どんな死に方をするかわからないけど、そうなってからでは、もう手遅れなのだ。
だから、「今」「ここで」「私が」聞かせて頂くのだ、自分の口から出てくださる「なまんだぶつ」を!
どうしたらも、こうしたらも、言っておる場合ではない!
どうにも出来ない、何にも出来ない、ただ堕ちてゆくしかない私なのだから。

そんな私の口を通して「なまんだぶつ」が飛び出て下さったんじゃないか!
乾いたお念仏、味気の無いお念仏、心の伴わないお念仏、、、、、
そんなのは全部自分の思い。
お念仏に「いいお念仏」も「悪いお念仏」もない!
「南無阿弥陀仏」のお念仏は、阿弥陀様のものだもの、この私が良し・悪しと沙汰をするものでは決してない!
私がどう思おうと、この私の口から飛び出して下さったお念仏を、この私の耳で聞かせて頂ける身に、既になっているじゃない。
そして、この事実を何よりも阿弥陀様が一番喜んで下さっているじゃないか!
私が満足する為のお念仏じゃない。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀様の願いであり、阿弥陀様の御心そのものなのだから。
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