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母を想う Ⅴ  “死”という別れ (独り逝くということ) [随筆日記]

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父を病室に残して、私は、弟を探しに出た。
弟は、人気の無い階段の踊場の窓から、どんよりと曇った冬の風景を眺めていた。
私の呼びかけに振り返った弟の目は、私と同じように赤く腫れ上がっていた。
そして弟は私に、「あいつ(父)を許すのか?」と聞いた。
私は、「わからない…」と答えた。

看護師長が私を呼び出して、母の担当医師でもある老健の施設長から重要な話があると言われた。
施設長は、単刀直入に聞いてきた。
「お母さんを今から病院の方に移して、延命治療を始めますか?」 と、・・・・・
この施設に入所した時からずっと聞かれ続けていたことなのに、私は、いつまでたっても答えを出せずにいた。
母の寿命を、私が決めてしまうようで怖かったから・・・・・。
私が願うことは、母には一日でも長く生きていて欲しいということ。
でも、もし、死ぬことで本当に楽になれるのなら、私の願いは、母の苦しみを日一日と延ばすことになってしまう。
しかし、私が母の延命治療を拒否すれば、まだ生きられるはずの母を、私が殺してしまうことになるのではないか…。
母自身、「生きたいけど、死にたい」 と 決められなかったことを、私が決められるはずが無いじゃないか! 
そうやって答えを引き伸ばしては今日まで逃げてきた。
でも、今日はもう逃げ場が無かった。
私は施設長に、「母の命は、機械ではなく、母の生命力に任せます」 と答えた。
施設長は、「最後まで、お世話します」 と言って下さった。

老健は、短期のリハビリ施設である為、ここで死を迎える人は稀であろう。
しかし、私が出会ったこの老健のスタッフは、法律という冷たい枠を超えて、血の通う人間としての対応をしてくださった。
母は、そんな人たちに囲まれて、今、必死で最後の力を振り絞り、一人戦っていた。

この日、本来なら有り得ない、家族の同伴宿泊を許可してもらった。
病院の方から簡易ベッドが一台、母の部屋に運び込まれて、私の寝床を作ってもらった。
夕方には、父も弟もそれぞれの家へ帰って、病室には、母と私と夫の三人だけになった。

父の来訪を確認した母の目からあふれ出した涙は、あれからず~っと、夜になっても止まることがなかった。
でも、母の目は、もう開かない。
ただ、涙だけが、止めどもなくあふれ出ていた。
母が最後に見たもの…、   
それは、母が恨みながらも恋焦がれひたむきに待ち続けた父の顔だった。
母の涙は、そんな何もかもを許して、すべてのものに懺悔をしているように見えた。

夜の9時を過ぎて夫が自宅に帰り、部屋には母と私の二人きりになった。
昨日まで硬直して氷のように硬く冷たかった母の手が、今は、とても柔らかく温かかった。
一時間おきに看護師が見回りに来てくれる。
夜の10時を過ぎた頃、昨夜も夜勤だったはずの施設長が来てくれた。
吸う息、吐く息、吸う息、吐く息、・ ・ ・ 次の一息が最後かもしれない・・・・・
母の一息一息を見守る私に、施設長は、「今夜からそんなに根を詰めていたら、明日・明後日ともたないよ」と声をかけた。
この時私は、どの人にも“明日”は来ると思っていた・・・・・

11時過ぎ、弟に電話をした。
母の容態の変わりないことを告げると、弟は、「今夜は眠れそうにない」と言った。
私は、眠気覚ましの缶コーヒーを飲もうか飲むまいかと、手の中で転がしながら、用意してくれた簡易ベッドに上に腰掛けて、母にたわいもない話しをしていた。

辺りがザワザワとあわただしく動いている。
1月7日を5分ほど過ぎた頃、母の部屋に看護師が慌ただしく飛び込んで来た物音で目を覚ました。
私は、全く無意識の内に眠ってしまったらしい。
「どうしたの?」と聞くと、看護師は、「モニターの心電図が止まったの」と言って、あわてて先生を呼びに行った。
私はベッドから立ち上がり、ゆっくりと母の元に歩み寄り、母の手に触れた。
まだ温かかった。
でも、母の表情は、凝視できないほどの苦しみに歪んでいた。
さっきまでは閉じていた目を大きく見開き、最後の一息を必死で吸い込もうとして、無念の内に力尽きたような形相であった。
間もなく医師である施設長が来て、静かに母の臨終を告げた。

私は泣かなかった。
悲しむ気持ちも、涙もなかった。
弟に電話をすると、寝起きの声がして、「あれ? オレ、いつの間に寝ちゃったんだ?」と言った。
私と同じだった。
母の死を告げると、弟もそっけなく、「今から行くわ」と言った。

看護師から、「死後硬直が始まる前に、パジャマから着替えをさせましょう」と言われたので、夫に電話をして、私のクローゼットから、真っ白なドレススーツを持ってきてもらった。
そして看護師と一緒に母の着替えをさせる。
パジャマの中の母の身体は、思いもよらないほど無残にも痩せこけていた。
頑張って、頑張って、一日中食べ続けても、お茶碗半分ほども食べ切れなかった母であったが、顔だけは丸く健康的に見えていたので、こんなに痩せ細っていたことに驚きを隠せなかった。
着替えをすませると、看護師はエンジェルセットを持ってきて、「娘さんも一緒に、お母さんに最後のお化粧をしましょう」と言ってくれた。
私は母に、まるで旅行にでも出かけるかのような会話をしながら、母に化粧を施して母の身支度を整えた。

深夜二時近くになって弟が老健に到着し、今後の、現実的な話を二人で始めた。
私も弟も、実に淡々と事を進めていった。
父には私から連絡をし、「弟を喪主に、母の実家の宗派で葬儀をとり行うので、親族として参列して下さい」と告げ、父もこれを了解した。

1月7日の、まだ夜も明けぬ頃、「お母さん、帰りたかったお家に帰れるよ」と話しかけ、今度は葬儀屋の車で実家へ母を連れて帰る。
半年前の、あの夏の日が思い出された…。
27歳で喪主を務める弟の補佐をする私にも大きな責任が肩にかかって、泣く暇は無かった。 
と言うより、自宅に帰って来た母の姿を見ていると、死んでしまったとは思えず、「ね~、お母さん、あの湯飲みはどこにしまってあったっけ?」と何度も話しかけてしまうほどだった。

翌8日の夕方、葬儀屋が母を御棺に入れるという。
私は、「いやだ!」と泣き喚いた。
母が死んでから初めて泣いた。
まるで小さな子供のように、「お母さんを連れて行かないで!」と大声で泣いた。
それから涙が止まらなくなった…。

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