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年賀状 [心]

S先生から頂いた年賀状に一言、「急接近という言葉、ピッタリやね」とあった。
?・・・・・ 今日一日考えてみたけど、何が接近してくるのかわからない・・・・・[ふらふら]
仏師というのは実に不思議なもので、私以上に私のことをよくご存知で、また、私が何も言わなくても今の私に沿った御法をお話し下さる。
時にはチンプンカンプンな御法もあるが、それは私の側の問題であって、数日後には自らの体験によって、「あぁ、このことだ! これを先生はお説き下さったのだ」と、後日、明らかにされる御法もある。
阿弥陀様の御声は、寺で聞けるもんじゃない。
この私の、今の生活の中で聞かせて頂くのだということがよくわかる。

私は、御法座でよく泣く。
もともとが泣き虫ということもあるが、泣くまいと思っていても涙があふれる。
“泣く”といえば、嬉し泣き、悔し泣き、悲し泣きなど種々あるが、聴聞によって流す涙は、今生事の涙とは違って、ミックスジュースみたいに一種類に絞れない。
御法座に来させて頂けたご縁に感謝する喜びの涙。
御法を自力の計らいによって素直に受け取ることのできない悔し涙。
何もわからん、何もできん、ど~にもならん自分を哀れむ悲し泣き。
こんな私に御慈悲をかけて下さる阿弥陀様に対するご恩の涙など・・・
そんな色々な思いが一粒の涙となって瞳から、心からあふれ出す。
だから、きち~んと化粧をして出かけても、法座が終わる頃には、ほぼスッピンになってしまう…
由々しき問題である。

そう言えば、年賀状を頂く枚数が、年々に減ってきている。
E-メール年賀が増えているのも事実だが、それでもやはり出した数以上に頂くことはなくなった。
年賀状を出す時、この人は出そうか出すまいかと悩んだ挙句に出すことが多いが、年に一度の年賀状だけの御付き合いという関係もいかがなものか・・・
そんな時には、やはり無常というものを強く感じる。
今、一番の親友といえる人とも、いつまでもこの状態が続くということは決して無い。
もちろんこれは、夫婦にしても親子にしても同じことが言える。
今、私がすがり付いているすべてのものは、いつかは消え去ってしまう。
私が先か、相手が先か、そんなことはわからないが、どんなに愛情を注いでも、金銭を費やしても、この世に永遠というものは存在しない。
これは他人事ではない。
この私自身もである!
私が私のことをどんなに愛したとても、お金をかけて着飾ったとても、心を磨くといって努力慢心したとしても、いつかは私もこの肉体に、そしてこの心に裏切られる時が必ず来るのだ。
何といっても日本は死ねば火葬が義務付けられている。
私もいつかは焼かれて灰になる身だ。
他人の心に私の思い出を植えつけたとしても、その人もいつかは灰になる身だ。
人間として生きた証を残すのだと言って、たとえ名前や子孫をこの世に残せたとしても、私という人間は消えてなくなってしまうのだ。
死んでしまえば、自己満足も喜びもむなしく消滅してしまう。
それなのに、「だから生きている間は精一杯楽しむのだ」と人は言うが、本当にそれで幸せなのだろうか?
一時的な幸せを追い求めては裏切られ、幸せと不幸の追いかけっこをしながら、自分はまだ死なないとたかをくくっていて、現在の欲を満たすことに一生懸命になっているだけで、それがどうして幸せだと言えよう・・・
追い求めるものが間違っている。

S先生は、私が求めているものは、捨てモノだと教えて下さいました。
ではいったい何が急接近なのでしょうか?
うぅぅぅん・・・ まさか信心なんて事は~[パンチ]
[むかっ(怒り)]また自惚れ心が暴発しそうです。

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2009年 修正会 (つづき) [仏法]

御讃題は『執持鈔』の、〔平生の時、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、その時をもって娑婆の終わり臨終と思うべし〕である。
覚如上人は、親鸞聖人の御教えは “平生業成の教え”であると要約して下さった。
往生が定まるのは、臨終間際でも、死んでからでもない、平生の今である。
聖道門・浄土門を問わず、お釈迦様をはじめとしてどの仏様方も平生の時に悟りを開かれたのであり、肉体を失ってから往生浄土の約束をされた仏様は一人としておられない。
生きているからこそ善知識とのご縁を頂けるのであり、お釈迦様より受け継がれた言葉によって、阿弥陀様のご苦労と、唯除された五逆・誹謗正法の私をお聞かせに預かれるのである。
これを聞く一つで阿弥陀様のお救いに預かったその時こそ、この世の臨終であり、これこそが人間として生まれさせて頂いた、今ここで果さなければならない大仕事であるとお示し下さっている。

一休禅師は元旦に、杖の先に髑髏をくっつけたものを振りかざしながら街中を、「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と大声で歌って歩かれたそうな。
生まれた時を旅立ちとするならば、一里ごと(一年ごと)に塚(新年)を通り過ぎて、旅の終わり(わが身の死)へと近づいていくことを、めでたがっている人もあれば、そうでない人もあると歌われたものである。
一休禅師の真意はわからないが、「明けましておめでとう」と言われても、「何がおめでたいの?」と問われると答えに詰まってしまう。
大半の人は、年をとることを好んではいないだろう。
現に誕生日など、高齢になるほど「あめでとう」といわれることに抵抗を感じてしまう。
ましてや、日々、一時一時と寿命は縮まってゆくのだ。
時には死にたくなることもあったけれど、本気で、自分の為に死のうとは思えなかった。
つまり私の腹底は死にたくないのだ。
一休禅師が言われたように、冥土の旅の一里塚は、誠にもってめでたくない。
では、めでたいと思えるのはどんな人だろう?
自殺志願者? ・・・イヤ、違う。
そもそも自殺を考えている時というのは、幸せに生きたいからこそ不幸である現実を呪って自己逃避に夢を馳せているに過ぎない。
本心は生きていたいのだ。 不幸でありたくないのだ。
思うに、冥土の旅の一里塚を心の底からめでたいと思っている人などいないのではないか。
日本人的考えのもと何の意識も無く、ただ慣わし・風習にのっかているだけ、人と足並みをそろえていた方が楽とばかり「めでたい、めでたい」と連呼しているが、少しはちゃんと考えたいものだ。

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