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『肩ぐるま』 [仏法]

今日、MRさんから、数枚のお手紙と分厚い本の贈り物が届いた。
お手紙から伝わる、MRさんの大きな優しさに、ホッと心があたたかくなった。
いただいた本の一ページ目に添えられていたしおりには、‘南無阿弥陀仏’の文字。
計らうことなく、差出されたそのまんまに「有り難う」と頂くことの、容易さと、難しさを知らされたような気がした。
「開いたページから読めばいいよ」とのMRさんの言葉通りに、パラパラっとページをめくって読み始める。
気負うことなく、何気なしに読み進めるも、数行ほど読んだ所で涙が溢れ出し、嗚咽し、私は両手で顔を覆って泣いた。
閉じられた本・・・  どこの何を読んでいたのかさえ思い出せない・・・
なのに私は何で泣いているんだろう・・・
以前、インドを巡拝している時にも、一度だけ、訳もわからずに涙が溢れ出したことがあった。
MK先生から、「それは、なっちゃんの涙ではないよ、仏さまが流されている涙だよ」と教えていただいた。
その時と同じ涙だと思った。
何もわからない私を、そっと包み込むような不思議な涙だった。

少し落ち着いて、最初のページに目を通す。
そこには、『肩ぐるま』という題名の、著者の詩が載っていた。

   南無阿弥陀仏をよくみると、 
   親の上に、子がいるよ、  阿弥陀様の南無の子が。

書き出しの、その三行の心すら わからん、わからんと、自分の方ばかり見ている私でも、一行一行読み進める内に、この御文の深さに引き込まれていった。

   南無阿弥陀仏は親子の名乗り。 
   必ず救うと、聞いてはいたが、  無明のまなこじゃ見えもせず。
   疑い深く、欲ふかく、  信心欲しいと逃げまわり、
   追われ、追われて、追いつめられて、  とうとう逃げ場を失って、・・・・・

私のことだ…
また溢れ出した涙で、次の言葉が読めなくなった。

   後生だ、罪だ、信心だのと、  難しいことはわからんけれど、
   知ってる親がついている。

この詩のままに、幼い頃を思い出す。

生まれたことも、死に行くこともわからん私…、
産声を上げることしかできなかった私…、
そんな何もわからん私にかわって、親は手を尽くし、心を尽くして育ててくださった。
お互い人間だもの…、親子と言えどもいろいろあったけど、絶対に私一人では生きては来られなかったという事実が存在する。
それなのに、一時の親孝行をしたつもりでいい気になって自惚れるばかりの私って・・・
感謝の気持ちより、愚痴の気持ちが口先にまとわりつくばかり・・・  でも、それが本心・・・

‘南無阿弥陀仏’の親様は、そんな私のままでいいと仰る。
そんなの信じられへん…、 そんなこと言われてもわからへん…、 と、
私から出てくるものは疑念ばかり・・・
だから、そんな何もわからん私だから、すべてを知ってくださっている親様がついていてくださるんだって…、
そんな疑うことしか出来ん私だから、まるまる信じてくださる親様がついていてくださるんだって…、
そう読ませていただいたら、また涙が溢れてきた。

MRさん、本当に本当に有り難うございます。

でもこの本、こんなに泣いてたら、きっと何十年かかっても読み尽くせないや~[たらーっ(汗)]

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億劫(おっくう)と兆載永劫(ちょうさいようごう) [仏法]

今朝、Yuさんからいただいたメールに、「眼鏡が壊れて、億劫だ」と書いてあった。
「億劫」を「おっくう」と読めても、改めて漢字を目にして、私はひどく感動した。
「億劫(おっくう)」って、「億(おく)劫(こう)」って書くんだ~! すご~い!!
ということで、早速その語源を調べてみた。

「億劫(おっくう)」という言葉は、もともと仏教用語から来ており、極めて長い宇宙論的な時間を表わしたものである。
「劫(こう)」というのはサンスクリット語の「Kalpa」の音写文字「劫波」を省略したもので、古代インドでは最長の時間を表わす単位として使われていた。
では、「一劫」の長さはどれ位かというと、Wikipediaには、循環宇宙論の中で、1つの宇宙(あるいは世界)が誕生し消滅するまでの期間と言われるとある。
ヒンドゥー教では、1劫の長さを、43億2000万年であると定めているが、仏教では具体的な長さについて特に決めてはいない。

先日の御法座ではG先生が、この「一劫」の長さについて、「磐石劫(ばんじゃくこう)」の喩えでもって次のように教えてくださった。
天女が舞い降りて、1辺40里(20km)四方の大岩を、3年に1度、その羽衣でサラッと撫でて、その岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間が「一劫」であると。 
また他にも、「芥子劫(けしこう)」の譬喩もあり、1由旬(20km・諸説あり)立方の城に芥子の実を満たし、これ100年ごとに一粒ずつ取り出して、そのすべての芥子の実がなくなっても一劫には満たないと喩えられている。

阿弥陀さまは、この私を救う為に仏の位から下りられて四十八の願を建てられ、その仏さまの願いを実現する為に、阿弥陀さまは兆載永劫という果てしなく永い永い永い間、この私の為にご修行をしてくださり、そしてこの私を救う方法を完成させてくださった。
「兆載永劫(ちょうさいようごう)」です!
「億(劫)」どころではありません!!
私といえば、怠け者で、言い訳と愚痴ばかり…、そのくせ自惚れ強く、欲深く…、
このように我が身の実相を聞かされたとても、素直にコクンと頷くことも出来ない私の為に、易しい方法を兆載永劫をかけて阿弥陀さまは考え造って下さった。
それが‘南無阿弥陀仏’なのだとG先生は教えてくださった。

「億劫(おっくう)だ、億劫だ」と、「面倒くさい」という意味で、私たちは簡単に「億劫」と口にするけれど、仏教で教えられた「一劫」の一億倍が「億劫」なのだから、チョットやソットの面倒くささで、容易く「億劫」という言葉を使うことに、少し抵抗を感じるな~と思った。
[ペン]今朝の雑感です

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