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連続無窮のお働き  (2-6) [仏法]

2009.9.21 S先生 

     智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり  
          信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし   (『正像末和讃』)

     願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず  
          仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず     (『正像末和讃』)

求道者 「どうしたら信心獲得できますか?」
S先生 「例えば昨日のG先生の御法話をそのまま聞いたら、ご信心に徹底できると思います」
昨日だけじゃない…、G先生はいつだって御法座の度に手を合わせ、頭を下げて、「どうか、聞いてください!」 って、こんな私に向かって、こんな私のために、‘南無阿弥陀仏’の“南無”のお姿になって頼んで下さる。 そのお姿こそ如来さまのお姿そのもの。

さて…、 私はなぜこのお座に座っているのか…?
お金と時間のやり繰りをして、「仏法なんか聞きたくない」という気持ちにベールを被せ、心にもない「後生の解決」をうたい文句に、北陸くんだりまで来て聴聞しているのは何故だろう…?
S先生は問う、「こうして聴聞させていただけているのは誰のおかげですか?」

仏法の何も…、 まだ年端も行かぬ幼い頃から「私が私として生まれて来た意味」などというものを考え、今こうして「出て行く先を定めたい」などと口にするようになったのは何故だろう…?
S先生は問う、「そう思わしめる力は、どこから来ているんでしょうか?」

私は、自分で考え、自分の力で行動し、自分の努力で生きて来たと思っている…
私にはその力があって、智恵もあって、全~部 自分の力で何とか出来ると思っている…
「自惚れですよ…」 と、S先生は少しトーンを下げて呟くようにおっしゃった。
そして、「これは全部、如来さまの願力! 願いの御力が “無窮” である、法蔵願力の成せる技なんです!!」 と 力強くおっしゃられた。
「無窮」とは、無限に、窮まることのない、尽きることのない、いつまでも続いていくということ。

法蔵さまの願いの御力があればこそ、御浄土も、そこに生まれる人たちも、その荘厳も出来上がった。
そして、その御浄土に向かって仏道修行をせよというのが、お釈迦様の頭念であり、本来なら自分の力で、その御浄土にふさわしい人間、清浄心・真実心に仕上がった心で、嘘や悪心などが微塵もない自分にならねばそこの住人にはなれないのだ。
ところが私は私の欲望を満たす為に、この地球すらも汚し崩している…。
それに御浄土に生まれたいだなんて気持ちもないから仏道修行をしようとも思わない…。
私にあるのは、「運よくば極楽浄土に参りたい」という希薄な夢と欲深い心だけ…。
そんな私が御浄土へ…、なんて絶対無理! 聞けば聞くほど無理、無理、無理!
ところが、仏さまの願力の方から、仏さまの願力によってなされた極楽浄土の荘厳が力となって、この私に働きかけてくださっているのが浄土真宗の御法なのだとS先生はおっしゃられる。
どういうことなのだろう・・・・・? わからない・・・・・?

「自分がどう思っていようが、思っていまいが、そういう願力の御働きがあるんです!力があるんです!
分けることの出来ない器世間(国)と衆生世間(人)の、そのすべてが法蔵菩薩さまの願力によって出来上がっているんです!」
S先生の言葉に、私の頭ではわかるはずもないお話しを聞かせていただいているのだと、カーンッと頭を小突かれた気がした…。

私がな~んにも思わなくても、仏さまなんか嫌いよ!鬱陶しいわ!と毛嫌いしても、仏法なんて大嫌い!と逃げて逃げて逃げ続けても、如来さまは一方的にそんな私にかかりきりで、ず~っと、ず~っと、こなん私に願いをかけ続けてくださっている。
その如来さまの願力によって私はこうしてここに座らせていただいているんだ、そしてこの場が出来上がっているんだ、 それが答えなんだ。

法蔵菩薩さまの願力でないものなど何もない、それが「無窮」の願力。
一時として休むことなく、この私に働き続けてくださっている如来さまの呼び声、願いが、今、ここの私の身体に降り注いでいる。
片時も休むことなく、御光となって、声となって、今、この私に届けられている。 

これを「聞く」のが真宗の聞法。
どう聞くのかというと、これをそのまま、ありのままに聞かせてもらう!
「地獄行きの私」ということは、「地獄行きの私」と聞かせてもらう。
「地獄行きが救われて極楽往きになる」って聞くんじゃないし、「地獄行き」に、獲信や、後生の一大事や、罪悪観・無常観を足したり掛けたりせず、そのまんま「地獄行き」は「地獄行き」なんだと聞かせてもらうことが御聴聞。
また、「救うぞ~!」という願力は、「救うぞ~!」と聞かせてもらう。 「救われるんだ!」と聞くんじゃないんだ。

そのまんま、ありのまんま聞せていただくだけ。
だから、私の実感なんて関係ない。
それに、私は私を中心にしてしか考えることが出来ないし、こんなコロコロと変化し続ける心を当てにしたってしかたないしね!

(つづく)

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信心獲得の方程式  (1-6) [仏法]

2009.9.21 S先生  
御讃題は、親鸞聖人 の 『教行信証』化身土・末 より

慶ばしいかな、心を弘誓(ぐぜい)の仏地に樹(た)て、念(おもい)を難思の法海に流す。
深く如来の矜哀を知りて、良(まこと)に師教の恩厚を仰ぐ。 慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。 これに因(より)て、真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。
ただ仏恩の深きことを念(おもい)て、人倫(じんりん)の嘲(あざけり)を恥じず。 もしこの書を見聞せん者、信順(しんじゅん)を因として疑謗(ぎほう)を縁として、信楽(しんぎょう)を願力に彰(あらわ)し、妙果を安養に顕(あらわ)さんと。

『安楽集』(道綽)に云わく、信言を採り集めて、往益(おうやく)を助修せしむ。
何(いかん)となれば、前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え、連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。 無辺の生死海(しょうじかい)を尽くさんがためのゆえなり、と。

御法話のテーマは、連続無窮のお働きを軸に、身で聞く(竹内敏晴氏)ということ、そして親の御恩徳(へその緒)についてお話しくださった。

他宗には「行」というものが用意されているが、親鸞さまが、「何れの行も及び難き身」とお示しくださった通り、私は「行」など出来るモノガラではないとお聞かせにあずかるのが浄土真宗であり、つまり、「行」ではなく「信」を重視し、その「信」というのは、「信じること」ではなく「聞くこと」であるとお話しくださった。

この「信心」とは、私が「信じている・信じていない」という自己信心ではなく、聴聞することによって起こってくる「信心」である。 と、聞かされて湧き出てくるのが、「理屈では理解できたという頭」と、「これを承知せぬと言っている腹底」との不一致である。   
そして、この頭で思っていることを腹底でも頷けるようにとアレコレ計らいながら苦労していることを求道・聞法だと勘違いしているのが私。

その計らいをS先生は、‘獲信の方程式’ と名付けられ、その組み立ての一例をあげられた。
聴聞すれば‘罪悪深重’も理屈の上では理解でき、これでは地獄行きだ~、くらいのお育てはいただいたとしても、そう頭の先の方で思っているだけで、実は身にはついてはいない…。
ご聴聞に合えば、‘無常’ 死んで行くということも、ピンとは来ずとも否定もできず、地獄行きと聞かされれば、それじゃ~往生極楽の身にならせていただこうと思うだけ…。
しかし、地獄行きがそのまま極楽往きになるはずもないし…、と、計らって、地獄行き = 極楽往き になる為の方程式、言い替えれば、信心獲得をして往生一定の身となる為の方程式をアレコレと考える。

例えば、獲信するには、後生の一大事を身に取り詰めねばならん! → 後生の一大事を身に取り詰めるには、‘罪悪観’・‘無常観’を深めねばならん! → ‘罪悪観’・‘無常観’を深めるには、しっかりと聴聞せねばならん! → しっかり御聴聞するには、命がけで聞かねばならん! ・ ・ ・ ・ ・  などと計算し、地獄一定の私が、往生一定の身となるために信心獲得をせねば! との努力を試みる。

はぁぁ~・・・  S先生のお話しを聞きながら、大きなため息が出た…。
このお話し、他人事で聞いている分にはとても可笑しな話しで笑えてもくるし、これで求道だ、聞法だというにはあまりにもお粗末ではないかと呆れてもくる。
だけど自分はどうだろう…。 「獲信」という言葉こそなおざりにしているけれど、「信心が欲しい」、「安心な身になりたい」という思いが無いとは言い難いじゃないか… 
「そんなこと言えるような私ではない…」と、ただ単に自分に言い聞かせているだけではないか… と、不安になってくる…。

そんな気持ちを見透かされたようにS先生のお話しは続いた。

往生極楽の喜びが、腹底から喜べない…、往生一定の安心も、不安でモヤモヤとする…。 
このモヤモヤをスッキリさせて安心したい、腹底から喜びたい、有り難い念仏を称えたい、・・・・・  
そして・・・・・、  そうね…、あの人のように…、 と他人に目をやる…。
涙を流して有り難がっている人や、湧き出るお念仏が止まらない人を見て…、  羨ましいな~
私はあんな心境にはなれんし…、 私もハッキリと喜べる身にならねば…、 と・・・・・ 自分の頭の中で一人勝手に七転罵倒しているだけ…。
いつも、なんでも、私の都合に合わせ、私の手元でど~しようかと思案し、自分の良し悪しの世界の中で答え合わせをしているだけ…
「いくら真剣に聴聞しようとも、自分の頭の中でお説教を聞いているだけではダメ!」 というS先生の言葉がチクリと痛かった…。 そうだよね、我法に持ち替えちゃったら、仏法じゃ~なくなっちゃうもんね…。

ただ一つ、「私は死んでいく…、そうして堕ちて行く…」 という如来さまの教えを、そのまま聞いていく。
‘罪悪観’・‘無常観’がわかろうがわかるまいが、‘後生の一大事’がわかろうがわかるまいが、私は死んで行かなあかん!
私が感じられようが、感じられまいが、どう思おうとも、思わなくても、私は死んで行かんならん!
真実の目からごらんになられた如来さまの言葉を聞く、「私は死んで堕ちて行く…」ということをお聞かせにあずかるのが聴聞。
私の心に法を合わせ、これをこねくり回すことは、信心でもなければ聞法でもない!
如来さまのお声を、私がこの身で聞かせていただくことが御聴聞なのだとS先生はお話しくださった。

(つづく)

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