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照育・照護 、そして 照破  (4-6) [仏法]

2009.9.21 S先生

阿弥陀さまのご本心、ご本願というのは、なんとしても、この私の迷闇を破らずにはおかない。 それが救いの実現ということです。 そこを「ひかり」による照破と味わう。 照破とは、闇が破られるということ。  (中略)
では、そこで破られるものとは一体何か? それは疑いの心です。 無明の闇、つまり迷いの根本です。 疑いといっても世間一般の疑い、煩悩の一つとしての疑いではない。 本願、お救いに対する疑いです。 つまり、自力のはからい心というものです。 これが破られるのです。
この照破こそが、真宗でいう「救いにあう」ということですから、最も大事なところです。
                                               (『念仏の雄叫び』より)

「私はなんという自惚れの塊りなのか!」・・・ なんて、スッとは思えないけど、細かく見ていけば、そ~かもしれないな~程度に思うことは出来る。 が、まぁ~、あてにならん自分の‘思い’はさて置いて、先生のお言葉を聞かせていただく。
「何一つとして誰かから頂いたものでないものなどない、 何一つとして智恵となって教えてくださったものでないものなどない、 それなのに、全部自分の力でわかったような気がしているのが私なのだ」 と。

このような御法座に参加させていただけた御縁をいただいて、何もわからんなりにもこのような御法話を聞かせていただける身になれたのは、仏さまの御光を受け、その御光のお育てをいただいているからで、これを “照育” といい、それだけではなく、この御光はいつも陰となり日なたとなって私を照らし護ってくださっている、 これを “照護” というのだと教えていただいた。
でも、どれだけ手厚い“照育”や“照護”のお働きをいただいたとしても、何の為に私を育み、何の為に私を護ってくださるのかということを聞かせていただかねばならん。 それが一番肝心なことだから。
“照育”や“照護”の御縁だけをただ喜んでいては、縁他力に留まっているに過ぎない。
如来さまの願いは、縁他力に喜ぶことではないぞ!と、耳にタコが出来るほど言われ続けて来た私。
“照破”。  私には破っていただかんならんものがある…。

G先生がおっしゃる、腹底にドーンと居座っておる一度も死んだことのない「オレがー」という私の本心。
如来さまの“照育”や“照護”のお働きも撥ね付け、自己中心の強情我慢な心で、如来さまも御法も元気いっぱいに疑ってかかる心。 これを‘南無阿弥陀仏’によって破っていただかねばならん!
これは私が破るんじゃない! ‘南無阿弥陀仏’によって破っていただく!!
「ど~やって?」
「今、ここで!」
その御法を私は、今、聞いている! 破る‘南無阿弥陀仏’を、私は、今、聞かせていただいている。
私の称える‘南無阿弥陀仏’は、私を育み、護ってくださる‘南無阿弥陀仏’。
私の称える‘南無阿弥陀仏’は、私の迷闇を破り、私を浄土に連れて帰るという‘南無阿弥陀仏’。
私一人…、この私一人の為に、私の如来さまが、私を「救うぞー!」と誓ってくださっている。
他の誰の為でもない、この私一人を救う為に法蔵比丘となられ、超越した時間とご苦労の末に‘南無阿弥陀仏’になってくださった如来さま。
石・瓦・礫の如き私には、そんなことを聞いたとてピクリともしないけど、如来さまは、そ~ゆ~私だとわかった上で頼んでくださっている。
ただ「聞いてくれ」の一心で、食べ物となり着る物となって、永~い 永~い間、休むことなく、まさか聞けるような私ではないと知った上で、「聞いてくれ」と頼んでくださっている。

あぁ、私は全く石・瓦・礫だな~と味わう・・・・・  涙もため息も瞬く間にあさっての空に消えていく…
「そんなあなたがなぜお念仏をしているんですか?!」
こんな私に、「なんまんだぶつ」と言わせるお力が働いているから…、 
そう…、私の力じゃない… だって私は仏法なんて大嫌い! お念仏だって大っっっ嫌い!!
でも、こんな私にも連続無窮のお働きがかかっているって…、 絶対に、捨てん、離さへん、という願力がかかっているんだってS先生はおっしゃった。

そ~ゆ~御力が尽きることなく、ず~っとお育てとして私の上にかかり、先生やお同行や時には憎い人となって、「お前の腹底はこ~やぞ、お前の真の姿はこ~やぞ」と教えてくださっている。
善知識や先輩同行の言葉に手をひかれ胸を借りて、仏さまのお心を聞かせていただき、御法に照らされた自己を教えられた私が、これを言葉にして友同行に伝えることもまた連続無窮の絶え間ないお働き・御力なのだと聞かせていただいた。
尽きることなく、すべての迷っているもの、この生死界を尽くしてしまおうという願力のお働きが、具体的に人となり、具体的にお念仏の声となり、具体的に御法座の場となって、私に目のもの見せてくださっているのだと。

「ここに‘南無阿弥陀仏’があるんです! 他を探してもあかん!」 と、S先生は大きな声で叫ばれた。
そして、これを私一人と聞く。 私一人の為にその願力があったんだって聞かせていただくのだと。

連続無窮の御手回し、連続無窮のおせっかい。 ホントに鬱陶しいほど有り難い! 南無阿弥陀仏

(つづく)

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親のご恩徳 「へその緒」  (3-6) [仏法]

2009.9.21 S先生 

自分の都合だけで、親や他の命を平気で奪い、大きな顔をしているのが、今 ここにいる私なのである。      (中略)
「オレが」と威張り、悲嘆で怒り狂っても、すべてが親からの頂きものなのだ。 しかも、愚かにもそのご恩徳を忘れ、恥知らずの畜生同然の身ではないか。 その無慚無愧のわが身に、阿弥陀様の広大無辺のご恩徳が降り注いでいる。 そこ一つを、今お聞かせいただけるのは、一体、誰のおかげなのか。 ご法に会わない限り、この真実に目覚めることはなかったのだ。
                                             (S先生の『巻頭言』より)

以前、S先生が巻頭言で書かれた「へその緒」を読んで大泣きしたことがあった。
「ふるさとや へその緒に泣く 年の暮れ」 という芭蕉の句から親のご恩徳を説かれ、生まれる以前から「オレがー」の心を振りかざし、ご恩をご恩とも思えない私が、こうして御法に会わせていただいたのは、誰のおかげ? 何のため? というそのお話しに心を揺さぶられた。

御法座で先生は、「どれだけの御手回しや御方便があって私は育てていただいたのかを考えてみてください…」と提起された。
だけど…、 私が考え得る範囲なんて、たかが知れている・・・。
私の知らないところで、この私にかけられた願いや御手回しがどれほどのものなのか…、 私にははかり知れないし…、 考えたことすらなかった…。
S先生がおっしゃるように、一から十までの、一ということすらわからなかった私が、今はこうして一は云々、二は云々と生意気なことを口に出来るようになったのも、覚えるものが既に仕上げられており、これを教えていただいたからに他ならない…。 
この世に命をいただいたことに始まり、今日までお育ていただいた中で、私一人の力で成せたこと?…
思いつかない・・・・・   何一つとして、自分が生み出し、自分で作り上げたものなんて無いじゃん…。
それなのに私は、自分の意思で…とか、自分の力で…とか、すべて自分で成し得て来た様に錯覚して…。

S先生は「へその緒」のお話しをされた。
「私はエイリアンです。 お母さんとは違う物体(私)がそのお腹の中に宿るわけですから」 
父と母によって母の胎内に一つの細胞が宿り、その細胞(私)がまず最初にやることは我が身を守ること。
私は、私が生き・育つ為に、まず我が身を守る為の組織を母の胎内に作っていく。
胎盤をこしらえ、母から栄養や酸素を奪い取るパイプラインをこしらえ、そして不要になった老廃物だけを母へと返却する。 
誰の為でもない、この私、自分自身の為だけに生きようと、母の都合などお構いナシで、自分中心の考えの中で成長していく。 
こうして100%母に依存しながらも、私には微塵も母のことを思いやる心などなく、ただ自分の為だけに、十月十日間休むことなく母から奪い尽くしてきたのだ。

そして、母も 私も 命がけの出産の時を迎えると、私は ただ ただ 「産まれた~い!!」という欲の塊りで母の産道をくぐり抜ける。
母が私にかけてくださった願い、「無事に」、「元気に」、なんてものは知ったこっちゃない! 
私は私のことだけを考え、私が「生きた~い!!」という想い一つでこの世に出て来た。
「親が勝手に産んだんじゃない」、というS先生の言葉が、氷の欠片のように胸の底に沈んだ…。

生まれ出た後も、休むことなくアレコレとお育てをいただいたからこそ、ご恩徳があったからこそ、今、私はこうして生きていられるというのに、私は自分の都合で死にたくなったり…、生きたくなったり…
そして、こうして仏法を聞いている間だけは、「あぁ、私が今日まで生きて来られたのも、数知れぬご恩徳のおかけだ」とか、「私一人を生かす為に、今までどれほどの他の命を犠牲にしてきたのだろう」とか、ほんの少しばかりしんみりと思わせていただくだけで、そんなのすぐに忘れちゃう…、当たり前の如く忘れちゃう…。
「全部いただきものですよ!!」とおっしゃられた先生の言葉に反応するのも、僅か2,3秒の間だけ…

所詮、人様のご苦労なんて全然興味のない私…、 たとえそれが自分にかけられたご苦労であっても…、 という冷血な自分が知れてくる… 

お腹が空けば何か食べたくなり、私は私の空腹を満たす為に、何のためらいもなく他の命を食らう。
そこには罪の意識の欠片も無ければ、ご恩徳など感じるような心もない…。
ただ ただ お腹が空けば、「あぁ、私は生きていたいんだ…」と実感できて嬉しくなるだけ…、 いつでも、どこでも、私は私中心にしか考えていない…。
しかも、「どうせ食らうなら美味しいものを!」と、自分を満足させてあげることばかり考えている…。

食べ物どころか、親にすら、ご恩徳に心をはせることのない私が、「私はご恩徳の塊だなぁ~、全部が法蔵願力の塊りで私は出来ているなぁ~」などと…、とても味わえない自分だ…  先生のおっしゃる通りだ…

(つづく)

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