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携帯に鈴 [随筆日記]

音に敏感な人と そうでない人がいる。
音痴とか、耳が遠いとかではなく、誰にでも気に触る音、嫌いな音があるものだろう。
それが1つ2つだけなら音に鈍感な人と言えるし、それが100以上もある人は音に敏感な人と言えよう。
例えば、エアコンの音やビニール製の買い物袋の音が耳障りでイライラするという人はよく聞くし、外人さんの中には、日本人の麺類をすする音や鼻を啜る音がたまらなくイヤと言うのをよく耳にする。

[るんるん]音楽をやっている人は音に対して敏感に反応してしまう人が多い。
私も以前音楽家(琴奏者)を志していた時、特に演奏会の前などは、ひどく音に敏感になっていて、メロディー(旋律のある音)は極端に遠ざけるようにしていた。

ドラマ「のだめカンタービレ」の中でも、のだめがコンクールに向かうバスの中で、乗り合わせた乗客の携帯着信音「キューピー3分クッキング」のメロディーを耳にしてしまった為に、コンクール本番の演奏中に思わず曲の路線がずれて、「ペトルーシュカ」と「3分クッキングのメロディー」がミックスしてしまったという場面があったが、あの気持ちは、すっっっごくよくわかる!!
集中しよう、集中しようと力めば力むほど雑音が気になって、余分なことばかりを記憶してしまうもの…
そうでなくても音楽家というものは全ての音(ノイズも)を音階で捉えてしまう習性があるので、どうしても敏感になってしまう。

私も音に対しては非常に過敏に反応してしまって、雑音にイラつくことも多々ある。
今日も電車の中で、座っている私の耳横で携帯メールを打っている乗客がいたのだが、彼女は携帯のボタン音をサイレンサーにしていないので文字を打つ度にピピピ…ピピピピピピ…ピピピ…とあわただしく鳴り続けている。
しかも、その携帯のストラップに鈴が付いている為、チリチリ、チリチリという音もする。
しかし当の彼女は全くその音が耳に入っていないようで…、 
でも、私は女性の発する音が気になって気になってイライラが募るばかりであった。
悔しいかな、何も言えずに耐えるしか能の無い私・・・・・

そうそう、話しは少々ずれるが、授業中・会議中・観劇中・聴聞中の人の話し声や雑音、特に子供の声には、全神経を奪われてしまうので非常に苦しい思いをする・・・・・
そんな時は、音に鈍感な人種を羨ましく思う。


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久々の原稿書き [随筆日記]

昨日、今日と、依頼されていた“インド・ネパール仏跡巡拝の旅”の感想文を書いていた為、BLOGの更新が出来なかった。
原稿書きはひさしぶりで、それも私という人間を知っている人たちが読者だと思うと、緊張してなかなかペンが進まない…。
結局、正直そのままに自分勝手に書きなぐった文章になってしまったので、何度読み返しても小恥ずかしいが、この文章を格好良く飾り立てるこのはもっと大恥ずかしいので、そのまんまの状態で会に提出することにした。

でも、原稿書きは本当に久しぶりだった。
ほぼ毎日BLOGは書いているものの、これは人に読ませる為ではなく、あくまで自分自身の為に書いているのであり、全く類の違うものである。
また、以前頻繁に書いていた原稿も、不特定多数の読者がいることはBLOGと同じだが、しかしBLOGとは対照的に、それは自分の為の文章ではなく、依頼者の期待に添った、読者を飽きさせない為の文章であることを要求された文章であった為、やはり類の異なったものである。

それが今回は、著者も読者も顔見知り・・・・・  それも本音の感想文・・・・・
何を、どう書いていいのがわからずに、初日は1,000字書くだけで、まる一日を要してしまった。
二日目、締切日のことだけを考えてあせりながら書いていたら、以外にも気持ちが吹っ切れて案外早く原稿は埋まっていった。 …が、その途中でハプニング勃発!
旅行中の気持ちがよみがえって来て、涙が溢れ出し、どうしよ~もない自分の心に嗚咽し、別の意味でペンが止まってしまった…
そして、書斎のデスクに置いてあった旅土産に買ったお釈迦様の彫像を胸に抱きしめながら、しばらくの間、涙を流しながら自分自身をただみつめていた。

そして改めて思ったことは、仏跡の巡拝は、時が立つほどにお味わいが深まってくるものだな~ぁと感じた。

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祇園精舎の鐘の聲 [随筆日記]

中学校の古典の授業で 初めて『平家物語』の冒頭を読んだ時、意味も何もわからないまま、ただそのリズムみたいなものに強く惹かれた。
十数年ほど前には、たまたま立ち寄った本屋で『平家物語』を手に取った際、やはり冒頭の言葉に懐かしさを覚えて思わず購入してしまった。
今日、その本が無性~に読みたくなって書斎を探したのだが、どうしても見つからずモヤモヤした気分だ…

祇園精舎の鐘の聲  諸行無常の響き有り
娑羅双樹の花の色  盛者必衰の理を顕す
奢れる人も久しからず  只春の夜の夢の如し
猛き者も終には亡びぬ  偏に風の前の塵に同じ

これを初めて耳にしてから二十数年の時を経て、“祇園精舎” のその地に自分が立つことになろうとは、ほんの少し前までは想像すらしていなかった…

ところで、軍記物語である『平家物語』 と 仏教の聖地“祇園精舎” との接点はどこにあるのかと、フッと疑問に思った。

『平家物語』の作者については古来より多くの説があるが、『兵範記』など多数の諸伝本や口伝を元に信濃入道という人が、生佛(しょうぶつ)という盲目の音楽家に教え語らせたのだと『徒然草』(吉田兼好)に記されているのが最古の記録だとされている。
(この信濃入道という人物についても定かではなく、一説には親鸞聖人の高弟で法然門下の僧とする説もある。)

その後、琵琶法師(盲目の僧)などによって口伝承され、「語り本」・「読み本」など、様々な内容・かたちで後世に伝えられるが、冒頭の 「祇園精舎の鐘の聲 … 」だけは共通しているのだそうだ。

その内容については、平家一門の栄華と没落を、仏教の因果観・無常観を基調として、和漢混淆文で書かれた叙事詩である。

出だしの一節について、たいていの人が一度は口にしたことがあるだろうが、その内容について語られることは少ないだろう。
私とて、『平家物語』冒頭の一節が好きで意味もなく暗記していたが、実際に“祇園精舎”に行ってみて、そこに‘鐘’の存在はないと知って、様々な疑問が湧いてきたのだから…。

そこで、私なりに『平家物語』冒頭の一節について解釈してみた。

祇園精舎の鐘の聲  諸行無常の響き有り
天竺(インド)に「祇樹給孤独園精舎」という、お釈迦様が御法(極楽浄土の世界と、諸仏方の存在を顕かにされた『阿弥陀経』)を説かれた聖地があるが、ここで鳴らされた鐘の音でさえも、永遠に響き続けるということはない。
すなわち、諸行は無常。 すべての現象は一刹那に(絶え間なく)変化し、永遠不滅なものなどこの世には存在しないということ。

娑羅双樹の花の色  盛者必衰の理を顕す
お釈迦様がクシナガラの地で涅槃に入られた(入滅された)時、臥床の四辺にあった四双八本の娑羅(沙羅・サーラ)の樹に、時ならぬ白い花が咲き乱れたというが、しかしやがて色あせて、これが永遠に咲き続けるということはない。
すなわち、どんなに勢い盛んな者であっても必ず衰えるという道理はあきらかである。

奢れる人も久しからず  只春の夜の夢の如し
今が盛りと得意気に奢っている者とて、その栄光は続くものではなく、たとえば一夜の夢の如く、目が覚めたとたんに消え去ってしまうものである。

猛き者も終には亡びぬ  偏に風の前の塵に同じ
血気盛んに激しく粋がっている者とて、結局最後には己自身も滅び去っていくいく身であり、例えるならば、風に吹き飛ばされアッという間に消え去る塵(ホコリ)と同じようなものである。

『平家物語』は、ただの軍記物語りにあらず。
平家一門の繁栄と消滅を、仏教の 『無常偈』 (「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」 諸行は無常にして これ生滅の法なり 生滅は滅しおはりて 寂滅なるを楽しみとなす) に添って説かれたお釈迦様の教えであると、今日、改めて発見した。

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Yuさんと初デート?! [随筆日記]

昨日は、家庭法座を希望されるKT家の下見をしたいというYuさんのお供 兼 運転手でKT家へ同行した。
待ち合わせ時間の20分前までに着けば大丈夫!と思っていたら、Yuさんは30分前に到着し、悔しくも負けてしまった(^.^;)
最寄の駅からKT家までの車で10分チョットの間、Yuさんに、「先週の高山法座はどうだった?」と聞かれて、「仏法は聞きたくなかったけど、会いたい人たちと再会できて嬉しかった」と報告すると、「聞法は、良き法友をもつことで9割は完成したといえる」と、高山法座でS先生が仰っていたことと同じことを言われた。
良き友に恵まれながらも、残りの1割をいつまでたっても完成できない私は何?と虚しくなる・・・・・

KT家では、いつも通りのご主人の長話にYuさんも私もうんざりしながら一応耳を傾けた後、やっと本題である家庭法座の話しをするが、おしゃべり好きなご夫婦故に何度も話しが脱線する・・・

1時間半ほど滞在してKT家をあとにし、「さ~ぁ、インドの話しはどこで聞こうか?」とYuさん。
そう、第二の目的は、インド・ネパール仏跡巡拝旅行の報告をまだYuさんにはチャンと聞いてもらってなかったので、Yuさんはそれを聞かせてほしいと私を誘ってくれたのだった。
「喫茶店かファミレス、どっちに行きますか?」と私が聞くと、
「どっちもダメ! なっちゃんに泣かれると困るから仏法の話しはそ~ゆ~所ではしないの!」とYuさん。
「じゃ~、どこをご希望で?」  
「カラオケボックスに行こう!」
「歌うの?」
「何言ってんの! 仏法だよ! 個室になっていれば気楽にパソコン広げれるし、泣けるだろ?!」
「でも、こんな田舎町にはカラオケボックスなんてないよ(^^ゞ 廃業跡地ならあるけど…」
「無い訳無い! なっちゃんが知らないだけ! とにかく賑やかな通りを走ろう」
ということで国道を東に向かって走り始めたが市を越えてもカラオケボックスは見つからず…、道を変えて今度は南東に走ってもカラオケボックスなるものは発見できず…、あげくの果てには[車(セダン)]道に迷ってさまよって(^_^;)・・・・・
「そうだ! 法成寺に行こうよ!!」という私の提案に、
「どこでもいい…、朝食も昼食も抜いて来たんで腹減った~」とYuさん[わーい(嬉しい顔)]

隣町の法成寺に到着して、しばらくは住職と歓談しながら三人でS先生が写されたインド・ネパールの写真をパソコン画面で見た後、まだ仕事中の住職と別れてYuさんお気に入りのいつものお好み焼き屋さんに二人で向かった。
ここでまたパソコンを広げて、今度は私の撮って来た写真を見てもらいながら、お好み焼きや鉄板焼きなどを食べて、旅の思い出話しをしつつ、仏法讃談に花を咲かせた。
Yuさんの心配をよそに、私は涙のカケラも出てこないが、熱く語るYuさんの目頭は時折潤みそうで、こっちの方がヒヤヒヤした(^^ゞ
[ひらめき]なるほど~ぉ、カラオケボックスを探していた訳がわかったぞ(*^^)v

Yuさんと仏跡巡拝旅行の話しや、高山法座の話しをしていたら尽きることがなく、時間も忘れて語り合い、フッと気がついたら夜の8時半を回っていた。
いったい[時計]何時間ここに居座っていたのだろう~(^_^;)[exclamation&question] 

この後Yuさんを駅まで送り届けて自宅に帰り着くと、なぜかものすごい頭痛に襲われた。
Yuさんから聞かせてもらった御法や、その時気付いたことなどをBLOGに書こうと思ってパソコンに向かったが、頭痛と睡魔に襲われて思考回路は爆発寸前の状態だったので、やむ無くベッドへ潜り込んだ。

そして今朝目覚めると、頭痛はまったく無くなっているが、昨日の記憶の大半も無くなっていた…。[ふらふら]
ただ一つ、
「インド・ネパールの仏跡巡拝の旅では、「法を聞く」という意気込みも日々薄れ行き、結局は「凡夫の私」しか見て来れなかった・・・・・」 という私に、Yuさんは、
「そんなもん頭で感じなくてもいいんだよ! なっちゃんはしっかり楽しんで、しっかりと肌で仏法を感じているじゃん! それが一番大事だよ!」と[黒ハート]
「なっちゃんの中にはチャンと御法が入ってる」とYuさんに言われてすごく嬉しくって、それだけはしっかり記憶に残っている。

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デジカメ写真NETプリント [随筆日記]

今週に入ってからず~~~っと、時間をみつけてはインド・ネパール旅行で撮影した写真をパソコン上で整理していたのだが、今日やっと、デジカメ写真をプリントする為にNETでOrderできた。

最近は写真を撮ってもプリントすることはまずなかったので、久しぶりのOrderで、どのサイトにしようかといろいろ検索をしてみたが、大型Chain店から個人のShopまで様々なサイトがあり、値段もL判で無料~38円(一枚)まで開きがあって、さてはて…、どこで頼もうかと迷ってしまった。

以前、一枚/¥8のところでプリントしてもらったら、捨てたくなるような写真に仕上がって来たので(ホントに捨てたけど)、結局別のサイトでプリントをし直すことになって無駄な出費となってしまった。
この時、一枚/¥38のところでプリントをし直したのだが、本当にきれいな仕上がりで、同じファイルなのにど~してこんなに差が出るのかと叫びたくなるくらいに仕上がりに差が出た。
しかし、枚数が多い時に一枚/¥38はキツイので、一枚/¥18でまずまずの写真に仕上げてくれるフジカラーのサイトを時々利用していた。
今回も、枚数が枚数だけに安くは仕上げたいけど、でも失敗はしたくなかったので、迷いながらも時々利用していた安いサイトの方でにてOrderすることにした。

久しぶりにログインしてみたらポイントが500円分残っていたので、送料の足しに出来てLUCKY[手(チョキ)]
おまけにキャンペーン中で、一枚/¥15になっていてW LUCKY[手(チョキ)][手(チョキ)]

今回の旅で撮った写真の総枚数は2,500枚を越えていて、ピンボケ等の理由で200枚ほど削除したが、それでも2,000枚をゆうに超えている。
単純計算してもすごい金額になるよな~・・・[がく~(落胆した顔)][たらーっ(汗)]
だけど、私の撮った写真を見たいと言ってくれてる人もいるのでプリントをせねば・・・・・[あせあせ(飛び散る汗)]
それでも何とか2,120枚までに減らして、早速NET Orderのサイトに写真をUPしたのだが、量が多過ぎてなかなか処理が進まない・・・
1時間が経過しても処理済36%・・・、 2時間が経過したところで処理済78%・・・、 
結局3時間近くかけてやっとUPが終了し、今日は、写真のOrderだけで一日が過ぎてしまったような気がする[ー(長音記号2)]
そんでもって驚いたのが、請求金額 ¥32,325 な~り~[爆弾] 痛い出費だ[ふらふら]
しかも、ちょうど夫が帰ってきて金額を見られてしまったので、イヤミの一つ、二つ、三つくらい言われた[失恋]
この他にアルバムとかも用意しなくちゃいけないし、他のMemberの写真をプリントしたいものもあるし、個別にお返ししなくちゃいけない写真もOrderしないといけないし・・・ まだまだお金がかかるけど…、
夫には内緒にしとこ[猫]

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春の訪れ (ミモザ) [随筆日記]

2592426昨日の晴天で庭のミモザが開花した。
マメ科の樹木で 鮮やかな黄色の花をいくつも咲かせる、とても可憐な植物である。
以前スペインに行った時、日本では見ることの出来ないほどの大きなミモザを目にし、その大木に咲く無数の花々が、街を黄色の雲で覆うように咲いていたのを見て一目ぼれをして以来、我が家の門前に植わっている。
梅の花がほころび、ミモザの木が黄色く染まればもう春だ。
嬉しいような・・・・・[グッド(上向き矢印)]  寂しいような・・・・・[バッド(下向き矢印)]

しかし、今月(2月)は速かったな~ぁ。
前半はインド旅行で、後半はその後処理・・・  それだけで終わってしまったような気がする。
こうやって、何をやっていても…、イヤ、何もしていなくても…、時は流れて行くんだな~ぁ
な~んて、しみじみ感じてしまう一日であった。[猫]

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弱・外出恐怖症 [随筆日記]

仏跡巡礼の旅ブログの更新が、予想以上に手間取ってしまい、夫から一言、
「なっちゃん、帰国してからもず~っとインドにいるみたい・・・・・・
時間が空くと書斎に篭もっちゃうから、一緒にどこへも行けないじゃん[失恋]」 と・・・
(^^ゞ ウン、確かに[たらーっ(汗)]
日々の日記もUP出来ていないし、家事も少々サボりぎみだし、趣味いろいろもご無沙汰だ~ぁ。
と、いうことで、今日は久しぶりにお天気も良いので、大掃除…ならぬ、中掃除をすることにした。

いつもの何倍もの家事をひと段落させた後のお茶とおやつは美味しいね~
昨日、桜饅頭を買っておいてよかった[黒ハート]
気がつけば、インドからず~っとひきずっていた風邪で昨日までグズグズしていたのだが、今日は何だか調子がいい。
[晴れ]お天気のせいかな?  花粉症の方々にはお気の毒だけど、早春の晴天は気持ちが良いね~
でも、[雪]冬好きの私にとって、冬の終わりを告げる春の訪れは、結構苦々しいのだが・・・・・(^_^;)

こんな日は近くの公園にでも出かけて、木陰でのんびりとくつろぎながら木々や花々と戯れたいね[かわいい]
でもね、何だか最近、軽~い外出恐怖症。[バッド(下向き矢印)]
帰国してからは疲れもあってか、全然外に出たくなくって・・・・・
せいぜい自宅の門のポストまで、新聞や郵便物を取りに行くのみ。
近所のスーパーへ買い物に出かけても、「外出しなきゃよかった!」ってことになりそうで…、何だかすごくイヤな予感に縛られている感じ…。

んん~~~~~・・・・・・
漠然とだけど、「“死”の予感」 というか…、 “死”に対する恐怖心が芽生えてきた感じがする。
やっぱりインドの影響だよね~、きっと。[ふらふら]
お釈迦様の最後の教え、「諸々の事象は移り行く」 というお言葉…。
つまり、諸行(すべてのもの・すべてこと)は無常(常が無い)であるというその教えが、私の心にピターっと張り付いちゃっているのかな~ と感じる、今日この頃。

久しぶりの中掃除に、腕が筋肉痛です!  (まだ筋肉があってよかった![ダッシュ(走り出すさま)]

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友情にも歳の差あり [随筆日記]

昨日に引き続いて、Kちゃん宅の家庭法座の件が、こじれにこじれてしまった。

昨夜、私はこの件について、私が最も信頼をしているYu氏にメールですべてを報告した。
そして今朝、そのメールに対してのYu氏からの返事が届いた。
「君はそういう調整は苦手ですか?」という冒頭の一行で、「なぜ私が…?」という思いに囚われ、私はひどく落ち込んでしまった。
Yu氏は私に何を望んでいたのだろう・・・・・
でも、当事者でもない私が、これ以上シャシャリ出るべきではないと思うし、また私には支部長の真意を確認する義務も権利もない。
ましてや支部長を差し置いて、私が立ち回って支部の調整をするなど、もってのほかであると思っているのに・・・。
なのに、なぜYu氏は私に調整を求めるのだろう・・・・・
訳わかんない!!
第一私は、ただKちゃんから相談を受けて、Kちゃんのヘルプをしているだけという立場にいながら、これ以上いったい何を調整したらいいというのか?!
「Kちゃんのわがままに巻き込まれてしまった…」、そんな感じが拭えなかった。

悪いことは重なるもので、今朝からメインのパソコンが壊れてしまった…。
朝の9時から昼の2時までかかって、結局、マザーボードがイカレテいるという結論に達した。
先月修理に出して、ハードを全部取り替えたばかりなのに・・・・・(涙)
ということで、またしばらくはこの予備パソコンに世話になることになった。

朝一でのYu氏からのメールに落ち込んで、その後の半日はパソコンに振り回された末に落ち込んで、今日はいいことがないな~ぁと思っていたところに、Kちゃんからの電話が入った。
Kちゃんは第一声で、「〇月〇日の家庭法座の件だけど、あんたの顔を立てて、あんたが言ったとおりに、支部の人は一人も誘わないようにして行うと決心したから」という。
「えっ・・・?????」
私は話がよく飲み込めず、一つ一つ紐解くようにKちゃんに質問していくと、またもやKちゃんお得意の、早とちりによる思い込みで、自分に都合よく、恩着せがましい結果を出したということがわかった。
まず、Kちゃんが誤解した思い込みとは、
昨夜Kちゃんが、「支部の主要の面々を家庭法座に呼びたい」と言ったことに関して、
私は、「Kちゃんそれはずるいよ~。 支部の月例法座がある日を承知の上で、あと出しじゃんけんをしておいて自分のわがままを通そうだなんて!
自分一人だけでも会長先生のお話しを聞きたいんだって位の心構えじゃなければ、同じ日に家庭法座なんか計画すべきじゃないと思うよ。
ましてや支部の一員として席を置くなら、支部が分裂するようなことをすべきじゃないと私は思うよ」と私はアドバイスをしたのだが・・・・・
しかしKちゃんはこれを自分なりの聞き方に変換して、「支部の人を一人でも家庭法座に誘ったならば支部が分裂してしまうから、自分一人だけで聞けとあんた(私)に言われて、一度は落ち込んでみたものの、今まで相談にのってくれたあんたの顔を立てる為にも、あんたの命令に従うことにした」と言うのだ。
私はマジに驚いてしまった。
でも、Kちゃんの聞き間違い、解釈の誤解は今に始まったことではなく、いわばKちゃんの専売特許のようなもの。
この誤解は時間をかけて解いていこうと思っていたところに、
「そうやって支部長さんにも電話しておいたから…」とKちゃんが言った。
「?!?!?!・・・・・ Kちゃん、支部長に何て言ったの?!?!?!」
私は、驚きを通り越して呆れてしまった。
どうやら支部長には、自分が支部の月例法座を知ってしながら家庭法座の日程を入れてしまったことを内緒にしておくために、今日はじめて私から月例法座の日程を聞いて、私から支部を分裂させない為にも支部の人を一人も呼ぶなと言われて、自分もその通りだと思ったから、昨日お願いした支部の人を呼ぶという話しは撤回すると、今朝、支部長に電話をしたそうなのだ。

‘お人良し転じて災いとなる’、である。
私は、Ku氏には不信を抱かせ、Yu氏からの信頼を失って、支部長にも誤解され、私自身、第三者の立場でありながら、いつの間にか悪のキーマンにされていた。
それでもKちゃんは恩着せがましく、「あんたの言うとおりにしてあげたんだから、あんたも顔が立つよね」と言ってくる。
もう、何も言う気がなくなった・・・・・
もうこれ以上、Kちゃんにかかわるのはやめようと心に決めた。
歳が離れていても友情は成立すると思っていたが、やはり七十過ぎの老人の考えにはついていけないと思った。
あ~ぁ、私はバカだ・・・・・
やっぱり今日は、最悪Dayだ・・・・・

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“徳”は無いけど、“得”な水筒 [随筆日記]

インド旅行の準備をしだしたら、なかなか落ち着いていられない。
あれも、これもと、頭の中は常にフル回転しているのに、チッとも前に進まない。
報恩講の御法座のまとめも、いいかげんにしたのだが、どうやら仏法どころではない毎日である。

そんな中、今日、インドへ持参する水筒を買いに行ったら、先日の報恩講でS先生がお話くださった御法とピッタリ添う、そして考えさせられる出来事があった。
MLで公表したメールをブログに転記して、今日はチョット手抜きをしよう[手(チョキ)]

そろそろインド旅行の準備を始めなければと、持ち物リストとにらめっこ(#^.^#)
先週末、買お~かど~しようかと迷って、結局購入しなかった水筒を、今日、買いに出かけた。
そこで~、
あの日、3,980円で売っていた水筒が、在庫1個限りとなって、ワゴンセールの棚の上に一つだけ、さみしそ~に置かれているのを偶然に見つけてしまった。
手にとってみると、3,980円の値札に赤線が引かれ、定価の30%OFFで、2,940円という値札に張り替えられていた[exclamation]
「ラッキ~![揺れるハート] あの日に買わなかった私は、とっもおりこうさんね!」と、S先生の御法話じゃないけど、とっても“得”した気分になって、その水筒を持ってレジに行くと~、
レジのお兄さんが、その水筒のバーコードを機械に通そうとして箱をひっくり返してみたら、なんと、バーコードの上に、50%OFFのシールが貼ってあるではないか[exclamation][exclamation]
「スペシャルラッキ~[ハートたち(複数ハート)]
定価4,200円の水筒を、1,470円で購入することが出来て、スッゴイ、スッゴイ得した気分に酔いつつも、S先生が報恩講の時に話された御法話が、耳鳴りのように響くショッピングでありました~[わーい(嬉しい顔)]

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難波でランチ♪ [随筆日記]

今日は久々に夫婦でデート[黒ハート]
大阪ミナミで食べ歩き[レストラン]&ショッピング[カバン]

サミー戎プラザが閉館前に、入場料無料キャンペーンを実地しているというニュースを聞いて、「タダで入れるならば♪」と行ってみることにした。
5・6・7階にある道頓堀極楽商店街は、昔ながらの街並みの中に30数店舗が出店しているフードテーマパークである。
私のお勧めは、七階にある十八番というお店の塩で食べるたこ焼きである。
モッチリとしていながらサッパリしていて、塩だから外のカリカリ食感も楽しめる。
う~ん[るんるん] ナイス[手(チョキ)]

大阪に来ると何故か食欲の虫が治まらない。
昼前から、千日前商店街 → 黒門商店街 → 戎橋商店街 と、食のハシゴをして、夕食は京都に戻ってお気に入りのパスタのお店でLサイズのパスタをペロリと平らげ、結局今日は一日中食べ通し[わーい(嬉しい顔)]
「ダイエットは明日から[exclamation]」と、言い続けて、はや●十年・・・[猫]

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ブログの責任 [随筆日記]

今日のS先生のブログに、こんな一文があった。
「各人のブログに個人名や団体名を出すことを制限することは出来ないし、出す出さないは個人の自由だとは思うが、名前を出された個人や団体が、それになりに誤解や迷惑を受けているのは事実である」 と。
確かにそのとおりだと思う。
“ブログ”というのは、個々人が日々の出来事を記録するだけのただの日記ではない。
不特定多数の人が閲覧する、公開することを目的とした日記である。
非公開の日記ならば、他人が読むことのない文章だから、説明書きもいらないし、心の内をありのままに書いても誰も傷つくこともなければ、迷惑もかからないだろう。
しかし、ブログは書いているその先に特定されていない相手が存在する。
誰が読むのかわからないし、誰も読まないかもしれないが、書き手は常に公開するということを前提としたその責任というものを忘れてはならないと思う。

私はいつもブログを書きながら思うのだが、こうやって好き勝手に書いている文章でも、やっぱり人目を気にした文面になってしまい何だか堅苦しいな~と思う反面、それでも誰かが読んでくれるのは嬉しいな~と思って書いている。
以前のブログでは、まるで売り物の本のように、人に読ませる為だけの文章になってしまっていて、おおよそ日記と称せるような代物ではなくなっていた。
それがコッ恥ずかしくてサイトを移転させ、心機一転させたつもりだったが、やっぱり腹黒い本心まではなかなか表現することは難しい。
故に毎年のようにブログのお引越しをするハメになるのだが・・・(^^ゞ
だからこそ、知人には自分のブログだと絶対に知られたくないとも思っている。

しかし、S先生はすごい!
周囲の人に自分のブログを公表していることもすごいと思うが、またその内容がとても濃いことにも脱帽する。
他人のプライバシーについては、仲間内でもわかりにくくしてしっかりと守っておられるのに、ご自身のことはかなりストレートに表現されている。
私はそんな師のブログが大好きだ。
新聞は時々しか読まなくても、師のブログは毎日楽しみにして読んでいる。

だから今日の師のブログの一文には、ちょっとドキッとした。
私も個人名や団体名をそのままブログに書くことは無いが、自分の覚書の為に自分にわかりやすい頭文字表記をよく使用するので、もしかしてこのことで師に迷惑がかかってはいないかと心配になった。
ブログは、書いているこちらがいくら好意的に書いたとしても、それを読んでいる相手が否定的に読めば、悪意のある文章になってしまう。
ブログには、それだけの責任があるのだということを、改めて確認させられた。
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母を想う Ⅴ  “死”という別れ (独り逝くということ) [随筆日記]

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父を病室に残して、私は、弟を探しに出た。
弟は、人気の無い階段の踊場の窓から、どんよりと曇った冬の風景を眺めていた。
私の呼びかけに振り返った弟の目は、私と同じように赤く腫れ上がっていた。
そして弟は私に、「あいつ(父)を許すのか?」と聞いた。
私は、「わからない…」と答えた。

看護師長が私を呼び出して、母の担当医師でもある老健の施設長から重要な話があると言われた。
施設長は、単刀直入に聞いてきた。
「お母さんを今から病院の方に移して、延命治療を始めますか?」 と、・・・・・
この施設に入所した時からずっと聞かれ続けていたことなのに、私は、いつまでたっても答えを出せずにいた。
母の寿命を、私が決めてしまうようで怖かったから・・・・・。
私が願うことは、母には一日でも長く生きていて欲しいということ。
でも、もし、死ぬことで本当に楽になれるのなら、私の願いは、母の苦しみを日一日と延ばすことになってしまう。
しかし、私が母の延命治療を拒否すれば、まだ生きられるはずの母を、私が殺してしまうことになるのではないか…。
母自身、「生きたいけど、死にたい」 と 決められなかったことを、私が決められるはずが無いじゃないか! 
そうやって答えを引き伸ばしては今日まで逃げてきた。
でも、今日はもう逃げ場が無かった。
私は施設長に、「母の命は、機械ではなく、母の生命力に任せます」 と答えた。
施設長は、「最後まで、お世話します」 と言って下さった。

老健は、短期のリハビリ施設である為、ここで死を迎える人は稀であろう。
しかし、私が出会ったこの老健のスタッフは、法律という冷たい枠を超えて、血の通う人間としての対応をしてくださった。
母は、そんな人たちに囲まれて、今、必死で最後の力を振り絞り、一人戦っていた。

この日、本来なら有り得ない、家族の同伴宿泊を許可してもらった。
病院の方から簡易ベッドが一台、母の部屋に運び込まれて、私の寝床を作ってもらった。
夕方には、父も弟もそれぞれの家へ帰って、病室には、母と私と夫の三人だけになった。

父の来訪を確認した母の目からあふれ出した涙は、あれからず~っと、夜になっても止まることがなかった。
でも、母の目は、もう開かない。
ただ、涙だけが、止めどもなくあふれ出ていた。
母が最後に見たもの…、   
それは、母が恨みながらも恋焦がれひたむきに待ち続けた父の顔だった。
母の涙は、そんな何もかもを許して、すべてのものに懺悔をしているように見えた。

夜の9時を過ぎて夫が自宅に帰り、部屋には母と私の二人きりになった。
昨日まで硬直して氷のように硬く冷たかった母の手が、今は、とても柔らかく温かかった。
一時間おきに看護師が見回りに来てくれる。
夜の10時を過ぎた頃、昨夜も夜勤だったはずの施設長が来てくれた。
吸う息、吐く息、吸う息、吐く息、・ ・ ・ 次の一息が最後かもしれない・・・・・
母の一息一息を見守る私に、施設長は、「今夜からそんなに根を詰めていたら、明日・明後日ともたないよ」と声をかけた。
この時私は、どの人にも“明日”は来ると思っていた・・・・・

11時過ぎ、弟に電話をした。
母の容態の変わりないことを告げると、弟は、「今夜は眠れそうにない」と言った。
私は、眠気覚ましの缶コーヒーを飲もうか飲むまいかと、手の中で転がしながら、用意してくれた簡易ベッドに上に腰掛けて、母にたわいもない話しをしていた。

辺りがザワザワとあわただしく動いている。
1月7日を5分ほど過ぎた頃、母の部屋に看護師が慌ただしく飛び込んで来た物音で目を覚ました。
私は、全く無意識の内に眠ってしまったらしい。
「どうしたの?」と聞くと、看護師は、「モニターの心電図が止まったの」と言って、あわてて先生を呼びに行った。
私はベッドから立ち上がり、ゆっくりと母の元に歩み寄り、母の手に触れた。
まだ温かかった。
でも、母の表情は、凝視できないほどの苦しみに歪んでいた。
さっきまでは閉じていた目を大きく見開き、最後の一息を必死で吸い込もうとして、無念の内に力尽きたような形相であった。
間もなく医師である施設長が来て、静かに母の臨終を告げた。

私は泣かなかった。
悲しむ気持ちも、涙もなかった。
弟に電話をすると、寝起きの声がして、「あれ? オレ、いつの間に寝ちゃったんだ?」と言った。
私と同じだった。
母の死を告げると、弟もそっけなく、「今から行くわ」と言った。

看護師から、「死後硬直が始まる前に、パジャマから着替えをさせましょう」と言われたので、夫に電話をして、私のクローゼットから、真っ白なドレススーツを持ってきてもらった。
そして看護師と一緒に母の着替えをさせる。
パジャマの中の母の身体は、思いもよらないほど無残にも痩せこけていた。
頑張って、頑張って、一日中食べ続けても、お茶碗半分ほども食べ切れなかった母であったが、顔だけは丸く健康的に見えていたので、こんなに痩せ細っていたことに驚きを隠せなかった。
着替えをすませると、看護師はエンジェルセットを持ってきて、「娘さんも一緒に、お母さんに最後のお化粧をしましょう」と言ってくれた。
私は母に、まるで旅行にでも出かけるかのような会話をしながら、母に化粧を施して母の身支度を整えた。

深夜二時近くになって弟が老健に到着し、今後の、現実的な話を二人で始めた。
私も弟も、実に淡々と事を進めていった。
父には私から連絡をし、「弟を喪主に、母の実家の宗派で葬儀をとり行うので、親族として参列して下さい」と告げ、父もこれを了解した。

1月7日の、まだ夜も明けぬ頃、「お母さん、帰りたかったお家に帰れるよ」と話しかけ、今度は葬儀屋の車で実家へ母を連れて帰る。
半年前の、あの夏の日が思い出された…。
27歳で喪主を務める弟の補佐をする私にも大きな責任が肩にかかって、泣く暇は無かった。 
と言うより、自宅に帰って来た母の姿を見ていると、死んでしまったとは思えず、「ね~、お母さん、あの湯飲みはどこにしまってあったっけ?」と何度も話しかけてしまうほどだった。

翌8日の夕方、葬儀屋が母を御棺に入れるという。
私は、「いやだ!」と泣き喚いた。
母が死んでから初めて泣いた。
まるで小さな子供のように、「お母さんを連れて行かないで!」と大声で泣いた。
それから涙が止まらなくなった…。

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母を想う Ⅳ  “死ぬ”ということ = 生きているということ [随筆日記]

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母の夢が実現してから間もなく、母の声は、とうとう言葉にならなくなった。
わずかに動くのは、指先と眼球だけ。
母との会話は、クリアーボードに書いた五十音のボード越しに、眼球振動をともなう母の視線の先をこちらが読み取り、一文字一文字、YESなら瞬き一回、NOならノーリアクションというルールの中で行われた。
脊髄小脳変性症という病気は、自律神経を含めたすべての運動神経が破壊されるが、認知症やアルツハイマー病とは異なり、思考能力は少しも衰えない。
もし私が、ベッドの上に雁字搦めに縛り付けられ、もの一つ言うことが出来なかったら、いったい何分耐えられるのだろうか・・・・・・
母はそんな状態の中で、何年も、いつ来るとも知れぬ死を待つしかないのだった。
少し前、「もう、自殺も出来なくなっちゃった・・・・・」 と母が言った。
私は何も答えることができなかった・・・・・
この時の母にとって “生きる”とは、いったいどんな意味をもっていたのであろうか。
今までの人生は、いったい何の為だったのであろうか。
その時その時を充実させ、楽しく過ごせればよい、なんていう人生など、まったく無意味なものだと思った。
しかし、それは母の人生を客観的に見た私の独断と偏見であり、「自分はどうなの?」と自問自答すれば、今を生きる今生ごと以上に大切なものなど、何も見当たらないというのが現状である。
そしてこの時はまだ、“生きる” ということも、“死ぬ” ということも、直面している母自身の問題であって、私には無関係な運命、他人事であると思っていた。
でも、私が今、生きているということは、私の死は、いつとは知らぬが必ず訪れるのであって、“生きる” も “死ぬ” も、決して他人事などではない、私自身の問題であると、今やっと思い知らされた私であった。
しかし、あの頃の私にとって、“死” = “離別” ということ以上に考えることなど出来なかった。

秋も深まり、老健の規約では、三ヶ月以上の連続入所は出来ないことになっていたが、「母の在宅介護は不可能である」という施設長の判断で、私の家で在宅介護をすることは事実上打ち切られた。
同時に施設長は、母の最後のその日まで、この老健で母の世話をしてくれることを約束してくれた。
有り難かった。 また私の知らない所で大きな力が私のみかたをしてくれた。

11月になると、母は口から物を食べることが困難になっていた。
しかし施設長は、胃ろうカテーテルの使用は、筋力の退化や細菌の問題などから勧められないと判断し、母の唯一のリハビリは食べることとなった。
12月に入る頃には、自発呼吸をする力もなくなってきて、酸素マスクが欠かせないものとなった。
心電図も取り付けられ、母の容態は24時間体制で介護ステーションで監視できるようになった。

12月24日 クリスマスイブ
母の大好きな苺のショートケーキを持って、母の夕食介助のため老健に向かう。
母は、夕食よりもケーキが食べたいと言った。
私が持参したコージコーナーの小さな小さなショートケーキを、母は美味しそうに口にした。
一口飲み込むのに10分も20分もかかって、二時間ほど頑張ったが、その半分も食べきることは出来なかった。
しかしこれが、母が口にした最後の食べ物となった・・・。
その翌日からはすべての食べ物・飲み物が喉を通らず、点滴だけが頼りとなった。
部屋も介護ステーションに一番近い個室に移された。

2005年
年が明けたその日を、母は、唯一動くまぶたを開けて天井を見ていた。
初雪。  雪が降り出した。
母の身体を窓が見えるように傾けるが、母に取り付けられた計器の異常が介護ステーションで確認され、無理をさせないようにと注意をされる。
何も出来ない、何もしてあげられない・・・。
母だって話したいことはいっぱいあるだろうに、何も伝えられず・・・・・
痛いも、痒いも、寒いも、暑いも、何も言えない母と、何もわかってあげられない私。

1月3日
点滴の針を刺せる場所がもう無く、母は首から点滴の針を入れられていた。
酸素レベルも最高値にセットされているのに、それでもとても息苦しそうであった。
この日、看護師長から呼び出され、「そろそろ親戚の人に声をかけて下さい」 と言われた。

翌4日、5日で母のゆかりの人たちが母の元を訪れた。
祖母は、母の病気を知ってからアルツハイマーの症状が見られるようになっていて、母の傍らで、「いつ退院できるの?」と何度も尋ねていた。
一通りの親戚縁者が会いに来て、母はいったいどのように思ったであろうか。
そして母は、自分の死と、どのように向き合っていたのであろうか。
母は生きていながらも、もう、何も語れない・・・・・
そんないくつかの疑問を胸に、私は母の心に耳をかたむけてみた。
一言・・・・・   「夫に会いたい・・・・・」    そんな言葉が聞こえたような気がした。

1月6日の早朝
老健から、母の容態が急変したとの電話が入った。
急いで老健の母の部屋に飛び込むと、今までに無く、母は必死で呼吸を繰り返していた。
昨夜から母に付き添ってくれていたという施設長から、「ここ一週間が限界だろう」と言われた。
しかし、看護師長からは、「先生は一週間と言ったけど、私の経験から見ると、後2,3日だと思う…」と言われた。
私は介護ステーションで泣いた。
大声で泣き続けた。
そしてやっと、父に電話をする決心を固めた。
「お母さんが死んじゃうかもしれない…。 お母さんの為に会いに来てあげて…」
とだけ父に告げて電話を切った。

お昼過ぎには弟が来たが、母は相変わらず必死で呼吸をしながら、かすかに視線を弟へとむけるだけだった。
弟は、何も言わなかった。  何も言わずに、母をジッとみつめていた。
私は、母と弟を二人きりにしてあげようと部屋を出て、一人廊下に立っていた。
フッと顔を上げると…、
一瞬、目を疑ったが、父がこちらに向かって廊下をゆっくりと歩いてくる姿が見えた。
そして父は、私の前で立ち止まって、一言、「どうなんだ?」と聞いた。
私は言葉にならなかった。
ただ、父の顔を見たとたんに涙が溢れ出して、人目もはばからずに、廊下で大声をあげて泣いた。
そんな私の肩に、父はそっと手を添えて、「すまなかった」と一言つぶやいた。

私は自分を落ち着かせてから父を母の元へと連れて行った。
父のことを許してはいない弟は、父の顔を見ると、無言で部屋から出て行った。
私は母に、「お母さん、お父さんが会いに来てくれたよ」 と告げた。
母は、息が止まるほどの大きな目を見開いて、必死で父に視線を向けた。
父が母の名前を呼び、「頑張れ!」と言った。
私は父に、「お母さんは、一人きりで、ずっと、ず~っと頑張っていたよ」と言った。
母の目に涙があふれた。
大きな大きな涙の粒が、いくつもいくつも、止めどもなくこぼれ落ちた。

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母を想う Ⅲ  母の涙 [随筆日記]

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病気の母でも受け入れてくれるという老人ホームに入居の予約はしてあるものの、最短のところで40人待ち、早くて二年後だろうと言われた。
この先の不安をあおるように、一年以上も世話になっている老健の施設長が代わってしまった。
しかし、母の事情を理解してくれた新施設長も、引き続き母の入所を快く許可してくれ、今まで以上に力になってくれた。

ある日、いつものように母に会いに行くと、老健の職員から呼び止められて、
「さっき、お父さんがお見えになったのだけど、その後からお母さんの元気がなくて…」
と報告してくれた。
母に、「お父さんは何をしに来たのか」と聞いても、「怒っていた」としか言わない。
要領を得ないので、しかたなく父に電話をする。 一年ぶりの電話だった。
聞くと、父宛てに自宅の固定資産税の督促状が届いたことを怒っての訪問であった。
母は、自分の通帳をなかなか私に渡してくれなかった。
「自分の財産は墓場まで持って行きたい」というのが人間の本性であるということをつくづく感じてはいたものの、だからといってこのまま母が自分自身で財産管理をすることは不可能であるし、私も母の介護費用に対して金銭的なストレスをかなり感じていたので、この際ハッキリさせようと思った。

まず、母とはじっくり話しをして、母の通帳は私が管理することになった。
そして父のこと・・・
自宅の名義はもちろん父の名前のままになっているが、父は母の病気を機に家を出て、退職金で建てた別宅に、愛人と二人で住んでいたので、自宅にかかる税金や公共料金は、父の名義でありながらすべて母が支払っていた。
しかし母が入院を機に自宅を出てからもう一年半が過ぎ、公共料金の引き落とし口座の残高も底をついていた為、名義人である父の元に督促状が送られたのだ。
父はそれを怒って、母の居場所を探し出して怒鳴りに来たのであった。
私は母に言った。
「お父さんと離婚して…」 と、・・・・・
母は、しばらく考えた後、小さくコクンとうなずいた。

しかし、父はこれに猛反発した。
「子供のおまえに、夫婦のことでとやかく言われる筋合いはない!!」 と、・・・・・
でも父は、母に自分の人生をつぶされたくないといって家を出て、愛人との生活を満喫しているし、今さらなぜに離婚を拒否するのか、まったく理解できなかった。
結局、弁護士に相談しても、母が物言えぬ状態となってしまった以上、子供が何を言っても無理だと言われた。
私は、自分の運命を呪った。
どうして私だけが親の運命を背負わされなきゃならないのかと、・・・・・
どうしてこんな父と母の元に生まれて来てしまったのかと、・・・・・
私は、両親によって自分の人生が握りつぶされていくように感じていた・・・・・

7月、次回の在宅介護を相談する席で、老健の担当相談員から、
「そろそろ、お母さんの声がまだなんとか出る内に、最後の願いを聞いてあげてはどうですか?」 と言われた。
母の願い ・・・・・   それは聞かずとも私にはわかっていた。
母の口癖だったから ・・・・・  
「自宅に帰りたい」 と、・・・・・
でもそれは不可能に近いと思っていた。 それに、私一人ではどうにもならない。
しかし、これを老健の担当相談員に伝えると、彼は、「出来る限り、力になります」と言ってくれた。
嬉しかった。 
小さな希望の灯火が点灯したようだった。
しかし、それは簡単なことではなかった。
一年以上も空き家になっている実家には、何の介護設備も無いし、真夏の体温調節は非常に難しく、汗の出せない母にとっては命にかかわる。
それに、片道2時間のベッドでの移送や、膀胱洗浄などの医療行為や、地元での新しいヘルパーが母の病気に対応できると思えないなど、問題点は山積みであった。
しかし、その一つ一つを解決すべく努力をしていく内に、いつしか母の夢の実現が、私の夢へと変わっていた。

すべての条件が整うのに、一ヶ月も要しなかった。
誰に拒否されることも無く、老健の職員、介護事業所の関係者、市の職員まで、こちらの予想を超えて惜しみない協力を申し出てくれた。
実家に帰る日にちも決まって、後は、担当医師である老健の施設長が、母の体調をみて、OKのサインが出されれば、母の夢は実行へと歩き出す。

2004年8月7日の朝
母は不安げな表情で老健のベッドに横たわっていた。
意味もわからずに、朝食を途中で打ち切られて、外出着に着替えさせられたのだから当然不安で心細かったであろう。
実は、母の夢の実現は、母には内緒で進めていた。
母の体調如何によっては、いつ取り止めになるかわからない夢であった為、その時にショックを与えないよう、また、実現した日には大喜びをしてもらおうと、みんなには内緒にしてもらっておいたのだ。
実行の前日、施設長からの許可が下りて、今日、母の夢は実現へと動き出した。

「今から自宅に帰るんだよ」
と、何度言っても、母は信じられない様子で、不安げな表情を浮べ、「本当に?」「大丈夫?」と、何度も何度も確認をしてきた。
施設から実家までの移送は、いつも利用している介護タクシー会社の社長が、家族ぐるみで協力してくれて、途中、七夕祭りの会場にも立ち寄ってくれたが、母は、実家に帰れるということが、まだ信じられない様子で、施設のベッドの上では見たがっていた七夕祭りも、今は上の空といった感じだった。
実家に着くと、数日前からの大掃除や介護ルームの設置などで応援に駆けつけてくれていた私の学友らに、「おかえり」と出迎えられると、母の表情からは不安が消え、嬉しそうに、そしてとても懐かに、穏やかな表情に変わっていった。

今回の在宅介護では、いつも利用している二つの介護事業所の馴染みのヘルパーさんたちが遠路はるばる交代で協力してくれることになった。
また、老健の職員やケアマネさんも、私用と称して応援に来てくれた。
しかし、母が何よりも喜んだのは、たくさんの訪問客であった。
私が、母の帰省を知らせたのは、母が自宅に帰る日の前日、施設長の許可が下りてからであり、実家の近くに住む叔母と、母の職場の同期の親友の、たった二人に母の一時帰宅の連絡をしただけであった。
にもかかわらず、「母、帰省する」の伝言ゲームは、たった一日で四方に広がっており、母帰宅の初日から最終日まで、ひっきりなしに懐かしい人たちが母の元へとかけつけてくれた。
実家の室内には入りきれずに外で待つ人もいて、母は食事をする暇すらないほどであった。

そんな母が泣いた。
初めて見た、母の嬉し涙だった。
思えばこの一年半、私が帰国してから、母は一度として私の前で涙を見せたことが無かった。
辛い運命を宣告され、たった一人この家に残されて、母はどれだけ寂しかっただろう・・・、母はどれほど悲しんだであろう・・・、
私はそんな母の姿を、母の気持ちを、真剣に考えたてみたことなどなかった。
いつも母の犠牲になっている自分を恨み、心の中で母を殺し続けてきた。
お母さんのせいで私の人生は苦しめられているんだって、・・・・・
お母さんに母親としての愛情を求められない自分は不幸だって、・・・・・
それでも、お母さんには生きていて欲しい…、ずっとずっと生きてて欲しいって、・・・・・
自分勝手な欲で母を恨み、自分の都合のいいように母を利用して、自己満足に自惚れていた自分を、この時はまだ、知る由もない私であった・・・・・

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母を想う Ⅱ  母の人生 と 私の人生 [随筆日記]

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五十歳代の母にとっては、“老人”と名の付く施設に入ることには抵抗があった。
また、日々、一つ一つ出来なくなってくる行動を、自分に確かめるようにして受け入れている母の口からは、「しかたがないね・・・」という言葉が繰り返し聞かれるようになった。
闘うことの出来ない難病と向き合いながら、母は自分自身と戦っていた。
昨日まで使えていたスプーンが、今日はもう持てなくなってしまった…。
昨日まではコップで飲み物を飲めたのに、今日はもう、口の端から飲み物がこぼれてしまう…。
昨日までしゃべれていた言葉が、今日はもう相手には伝わらない…。
自分はいつまで、何ができるのだろう・・・・・
母は、そんな恐怖と四六時中戦っていたのだと思う。

私といえば、渡米前まで勤めていた銀行からの再就職の要請を、受けるか受けまいかと悩んでいたが、仕事と家事と介護を落ち度なく両立させるのは不可能だと考え、再雇用はあきらめ、そのやり場のない気持ちに苛立つばかりであった。
しかし、嘆いている暇など無く、今は母をあずかってくれる新たな施設を、一日も早く探さなければならなかった。
そんな時、奮闘しながらも頭をかかえている私に、入所先の老健の施設長が、
「自分の在任中は、できる限りの協力をしますよ」 と言って下さった。
有り難かった。
施設長の厚意のおかげで、母は7月には一度退所はしたものの、一ヶ月ほど私の家で在宅介護した後、8月からの三ヶ月間、再度その老健への再入所を認めてもらい、今後もこのパターンで母をあずかってくれると約束してくれた。
この間に入居できそうな老人ホームを探すと言うことで、私にも希望が見えてきた。

しかし、そう甘くはなかった・・・・・
病気でありながら治療法のない母は病院ではあずかってもらえない。
なのに、病気であるが為に老人ホームでも母の受け入れは出来ないというのだ。
完全に寝たきりになれば、当然24時間体制での医療行為が必要となってくる為、そんな母をあずかってくれる施設など、どこにもないのだ。
どうしたらいい・・・・・
私では答えなど見つけられるはずもなかった。
社会や法律を前に、個人の存在など小さすぎて目に入らないのだ。

7月、初めての在宅介護は、オムツ交換やリハビリ・マッサージなど、不慣れなことばかりであったが、ヘルパーさんの力を借りながら何とかこなすことができた。
しかし今後のことも考えると、早急に介護ルームが必要であると考え、新たに一部屋、母専用の介護ルームを増築するという大きな選択に迫られた。

8月、母を老健に再入所させると、今まで忙しかった分、少し時間に余裕が感じられ、ちょうどこの頃、以前勤めていた銀行からの誘いもあって、パートとして再就職をすることが出来た。
このまま何も変らずに、ただ時間だけが流れていくように思えた。
そんな時、予約をしておいた長期療養型病床をもつ病院から連絡が入り、ベッドが一床空いたので明後日までに入院の手続をしてくれと言われ、翌日その病院を訪れた。
その病院は、私の家から一時間半ほどの距離にある内科と整形外科の病院で、母が必要とする神経内科はなかった。
また何よりも空いたとされるベッドは、元々二人部屋だった病室にベッドを三床に並べて、その三人の足元に縦に一床ベッドを押し込んだかたちになっていて、そこが母のベッドだと説明された。
悔しかった・・・・・
病人なのか、囚人なのか・・・・・、 どうしてこんな扱いをされなきゃいけないのか!
もちろん入床は断った。
帰り道、私は車の内で一人大声で泣いた。

こうなったら私が最後まで母の介護をするんだと心に決め、自宅のリフォームを急ピッチで進めてもらい、11月には増築した介護ルームが完成して、二度目の在宅介護のため母を退所させた。
しかし、毎日仕事帰りには老健に寄って母の様子は見ていたものの、実際三ヶ月ぶりに体験した母の介護は、とても大変なものであった。
嚥下障害も進み、料理をするのにも気を使い、食事介助の時間も長くなった。
病状は確実に進行をしている。
次回の在宅介護への不安が大いに増した。

年が明けて2004年、入所先の老健から、次回の在宅介護はもう少し暖かくなってから、期間も二週間を限度にしましょうと提案された。
体温調節の出来ない身体で、免疫力も低下している為、在宅介護ではリスクが高いというのだ。
そんな話しをしていた矢先に、母はインフルエンザにかかって、老健から病院へと移された。

私は仕事を辞めた。
完全看護の病院では、本来、洗濯物以外は家族の手を要しないのだが、嚥下障害のひどくなってきた母の食事介助は、この頃一日5時間を要した為、この間ずっと看護師を独占することは出来ず、家族の手を必要とした。
入院は三週間ほどだったが、職場にはこれ以上の迷惑はかけられなかった。

母のことを相談できる家族は私にはいなかった。
父は、母に自分の人生を邪魔されたくないと言う。
妹は、何もしなくったって何とかなるのだから、放っておけばいいと言う。
弟は、専業主婦になったのなら暇だろうからまかせるよと言う。
夫には、介護ルーム増築の件でも、在宅介護の件でも、そして私の実家の家族に対しても、言いたい愚痴を山ほどあるだろうに、それを我慢してくれているのがわかるから、これ以上の負担はかけられない。
私は一人ぼっちだった。
こんな生活がいつまで続くんだろう・・・・・
私は・・・・・、 私の人生は、母に殺されてしまった・・・・・・

5月、久しぶりに母を退所させて自宅で介護をする。
既に自律神経の失調もひどく、汗どころか、尿も出すことが出来ない状態となっており、3日に一度は、訪問看護をお願いして膀胱洗浄を必要とした。
便通も下剤を使って介助が必要となり、リハビリ・マッサージは、骨折の危険が伴う為、素人が行うことを禁じられた。
在宅介護での負担は、病気の進行と正比例していく。
今は、「痛い」「痒い」という言葉すら、もう発することが困難になってきているが、いつの日かその声も聞けなくなってしまうだろう。
体中の痛みを訴える母に、私は何もしてあげられないのがもどかしかった。
ただ、母の笑顔を絶やさぬように、私はふざけたことを言っては母を笑わせる。
それは母の為ではなく、私自身のためだった。
いつの日か、母は自分の顔の表情までも失ってしまうだろう・・・・・・
私は、少しでもたくさんの母の笑顔が見ていたかった。
在宅介護で一番気を使ったのは食事で、食物を喉に詰まらせて窒息という事態を避ける為にも、料理にも食事介助にも注意を要した。
でも、いつか何も食べられなくなってしまう母に、せめて自宅にいる間は、美味しいものを食べさせてあげたかったので、施設食のように、ミキサーをかけて原型のわからないような料理は出したくなかった。
在宅介護は、朝食作りに始まって夕食介助まで、食に一日の大半の時間を費やした。

そんな私の手料理を、母は小さく喜んだ。
でも、私のその手料理をヘルパーさんが羨ましそうに誉めると、母は、とても嬉しそうな笑顔を見せて大きく喜んだ。
この時私は、「母は、私のお母さんなんだ」って、実感できた・・・・・


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母を想う Ⅰ  難病と言う運命 [随筆日記]

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2000年6月、私は出世を約束されつつも、これをけって退職し、その三日後にはアメリカで単身赴任をしていた夫の元へと渡米した。
そして二年半後の2002年の年末、アメリカでの任務を終えた夫と共に帰国し、再び日本での生活が始まったのだが、それは私に与えられた、新たなる試練の始まりでもあった。

母は、NTT民営化による人員調整の為、53歳で希望選択定年退職をした後、地域の婦人会会長として任期二年を勤め上げた。
そんな母が体調の異変を訴え始めたのは、ちょうどその頃からであった。
初めは更年期障害と診断され、ホルモン治療が施されたが、四肢失調や歩行・会話障害など、日増しに症状の悪化が見られた為、受診科や病院を転々とする生活が続き、病名もハッキリしないまま放射線によるガンマナイフ治療も受けた。
しかし、症状は回復することなくますますひどくなっていった。

母には夢があった。
夫婦共に定年退職を迎えたら、父の実家に近い東北の静かな温泉地に新居を構えて、夫婦二人でのんびりゆったりと余生を過ごすんだって・・・・・
体調の異変を感じ始めてから二年が過ぎ、来年は父も定年退職を向えるという頃、とうとう母の病名が明らかになった。
「孤発性(非遺伝性)の多系統萎縮症です。 治る見込みのない病です…」
大学病院の医師は、母にハッキリとこう告げた。

『1リットルの涙』というTVドラマや本で名の知れた、脊髄小脳変性症という病気である。
医学的に言えば、小脳・脳幹・脊髄などの神経細胞が徐々に破壊されながら変形萎縮して、10年ほどで自発呼吸すら出来なくなって死に至る病である。
でも、言葉で言うほど簡単なことじゃない。
癌のように治る希望も可能性も皆無で、ただ死に向って進行するのみである。
何よりも、大脳部分はまったく破壊されない為、自分の身体機能が衰退していくことを、死ぬまでハッキリと自覚し続けるのである。
完全な意識・心を保ったままで植物状態となって、ただ死を待つのである。
いまだ原因もわからない為、何の薬も治療法も無い難病である。

治ると信じていたからこそ探し回った病院なのに・・・
病名の告知があってからの母は、心まで壊れてしまった・・・
自分の病気を、この運命を受け止めることが出来ずに、母は家族に当り散らし、自分さえも見失ってしまった。
「病気の治る水」だと騙されて三百万円でその水を購入した上に、その新興宗教に、治療だ祈祷だと一千万円近くも財産を吸い取られてしまったこともある。
母は、自分の運命の重さに絶えられず、誰かに責任転嫁をすることで自分を保ち、何かにすがりつくことで生き甲斐を見出そうと必死だった。
そうすることでしか生きていられなかったんだと思う・・・。

私と妹は、既に結婚をして家を出ていた。 そして弟も転勤で家を出ることになった。
そんな時、父までもが家を出て行ってしまった。
父は言った、
「自分の人生を、妻の犠牲となってつぶされたくない」
と・・・・・
父は退職金で隣町に新居を購入し、病気の母を一人置いて家を出て行った。
それは、母が思い描いた夢とはかけ離れた現実であった。

一人暮らしとなった母の世話は、近所に住む老齢の祖母がしていた。
弟は県外に勤務。 妹はアメリカに嫁ぎ、私までもがアメリカ行きを決めてしまった。
渡米前、実家に立ち寄った私に母は、「親不孝者!」と言って包丁を振り上げた。
あんなに優しかった母の変貌ぶりに、私は、ただ泣くことしか出来なかった・・・

アメリカから母へ、手紙やプレゼントを贈ると、母からはFAXでレターが返ってくる。
唯一、母の書いたその文字が、母の病気の進行を知る手段となっていた。
母の病気は確実に進行し、「ありがとう」の一言を書くだけでも、どれほど苦労をしているか、どれほど悔しい思いをしているかが読み取れた。
でも私には、母の気持ちの一割ほども量り知ることは出来てはいないであろう・・・
早く日本に帰らねば・・・・・  でも… 帰りたくない・・・・・   と、・・・・・
結局私は、我が身が一番・・・ 大恩のある親よりも、自分のことしか愛することが出来ないのだ・・・・・

2003年 正月。
アメリカから帰国して母の元へ。
母は、穏やかな笑顔で私たち夫婦を迎えてくれた。
しかし、渡米していた二年半で、母の病状はかなり進行をしていた。
もう歩くことは出来なかった。 赤ちゃんのように這い這いをしながらの移動。
言葉も上手くしゃべれない。 ゆっくり、何度も繰り返し聞き取る。
もう、一人暮らしをするのは明らかに限界であると見て取れた・・・・・
これから母の介護をどうするかが、私の一番の悩みとなった。

帰国してから二週間が過ぎた日の朝、繋がったばかりの電話が鳴った。
親戚の叔母から、「母が救急車で運ばれた」との連絡であった。
昨夜、母はトイレまでは這い這いをしながらも行くことが出来たが、便座に腰掛けようとしたところでバランスを崩し倒れこんだまま体に全く力が入らず、今朝、祖母が発見するまで10時間近くも、トイレでうつ伏せた状態で倒れていたそうだ。
意識はちゃんとあったものの、倒れた時の開脚状態のまま、氷点下に近い気温の中を一晩中、尿で濡れたパジャマ一枚で過ごした為、股関節の筋を痛めて肉離れをおこし、肺炎となって高熱を出していた。
私のせいだ!
私が母のことを後回しにして、グズグズとしていたからだ…
この時の後悔を打ち消したくて、私はこの後二ヵ月半、毎日病院へと通った。

この頃の生活は、車を一台レンタルして、朝は夫を会社まで送って行き、そのまま通勤ラッシュの中を二時間かけて母の病院へ行き、再び帰宅ラッシュの中を二時間、夫を会社まで迎えに行って、帰宅後は、アメリカから届いた引越し荷物の処理に深夜まで費やした。
渡米前も同じような状態だったが、帰国後の今の方が精神的にはきつかった。
母の入院も一ヶ月半が過ぎた頃には、病院側から退院勧告を言い渡された。
母は、病気でありながら病院にはいられない。
なぜならば、母の病気は、治す薬も、治療法もないから、病院にいる必要がないのだと言われた。
「そんな患者はとっとと出て行ってくれ!」というのが国の、政治の言い分である。
しかし、自力で起き上がることすら不可能となってしまった母を一人暮らしに戻すわけにはいかないし、ダンボールだらけの我が家で介護をするにしても、義両親の手前、そう上手くはいかない。
障害者施設も、特養も、長期療養型病床すら、数百人待ち・何十年待ちかであって、さしあたって、今、どうしたらいいのかが五里霧中であった。
とりあえず、寝る間も惜しんで日本の介護実情や介護保険法を調べ、空いた時間には手当たり次第に病院や施設などを回って直談判した。
これに一ヶ月ほど費やしたが、偶然にも私の住む街に老人保健施設が新設され、そこが三ヶ月間の約束で母をあずかってくれることに決まった。

四月、満開の桜が咲く中、母は初めて、生まれ育った街を離れて、老健へと入所した。

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一人正月 [随筆日記]

昨日、ビッチリと書いたブログが、「投稿(アクセス)に失敗しました」の一言で、全部消えてしまい、すごいショック・・・・・
すっかり書く気がすっかり失せてしまった・・・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

しかし、今日もよい一日だった。[るんるん]
夫は一人で実家に帰って、今頃、親戚一同よろしくやっているだろう。
私は一人気楽に、特上のお寿司をとって、ビールで一人正月を満喫している。
うん♪、なかなかいいもんだ![揺れるハート]

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