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母を想う Ⅳ  “死ぬ”ということ = 生きているということ [随筆日記]

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母の夢が実現してから間もなく、母の声は、とうとう言葉にならなくなった。
わずかに動くのは、指先と眼球だけ。
母との会話は、クリアーボードに書いた五十音のボード越しに、眼球振動をともなう母の視線の先をこちらが読み取り、一文字一文字、YESなら瞬き一回、NOならノーリアクションというルールの中で行われた。
脊髄小脳変性症という病気は、自律神経を含めたすべての運動神経が破壊されるが、認知症やアルツハイマー病とは異なり、思考能力は少しも衰えない。
もし私が、ベッドの上に雁字搦めに縛り付けられ、もの一つ言うことが出来なかったら、いったい何分耐えられるのだろうか・・・・・・
母はそんな状態の中で、何年も、いつ来るとも知れぬ死を待つしかないのだった。
少し前、「もう、自殺も出来なくなっちゃった・・・・・」 と母が言った。
私は何も答えることができなかった・・・・・
この時の母にとって “生きる”とは、いったいどんな意味をもっていたのであろうか。
今までの人生は、いったい何の為だったのであろうか。
その時その時を充実させ、楽しく過ごせればよい、なんていう人生など、まったく無意味なものだと思った。
しかし、それは母の人生を客観的に見た私の独断と偏見であり、「自分はどうなの?」と自問自答すれば、今を生きる今生ごと以上に大切なものなど、何も見当たらないというのが現状である。
そしてこの時はまだ、“生きる” ということも、“死ぬ” ということも、直面している母自身の問題であって、私には無関係な運命、他人事であると思っていた。
でも、私が今、生きているということは、私の死は、いつとは知らぬが必ず訪れるのであって、“生きる” も “死ぬ” も、決して他人事などではない、私自身の問題であると、今やっと思い知らされた私であった。
しかし、あの頃の私にとって、“死” = “離別” ということ以上に考えることなど出来なかった。

秋も深まり、老健の規約では、三ヶ月以上の連続入所は出来ないことになっていたが、「母の在宅介護は不可能である」という施設長の判断で、私の家で在宅介護をすることは事実上打ち切られた。
同時に施設長は、母の最後のその日まで、この老健で母の世話をしてくれることを約束してくれた。
有り難かった。 また私の知らない所で大きな力が私のみかたをしてくれた。

11月になると、母は口から物を食べることが困難になっていた。
しかし施設長は、胃ろうカテーテルの使用は、筋力の退化や細菌の問題などから勧められないと判断し、母の唯一のリハビリは食べることとなった。
12月に入る頃には、自発呼吸をする力もなくなってきて、酸素マスクが欠かせないものとなった。
心電図も取り付けられ、母の容態は24時間体制で介護ステーションで監視できるようになった。

12月24日 クリスマスイブ
母の大好きな苺のショートケーキを持って、母の夕食介助のため老健に向かう。
母は、夕食よりもケーキが食べたいと言った。
私が持参したコージコーナーの小さな小さなショートケーキを、母は美味しそうに口にした。
一口飲み込むのに10分も20分もかかって、二時間ほど頑張ったが、その半分も食べきることは出来なかった。
しかしこれが、母が口にした最後の食べ物となった・・・。
その翌日からはすべての食べ物・飲み物が喉を通らず、点滴だけが頼りとなった。
部屋も介護ステーションに一番近い個室に移された。

2005年
年が明けたその日を、母は、唯一動くまぶたを開けて天井を見ていた。
初雪。  雪が降り出した。
母の身体を窓が見えるように傾けるが、母に取り付けられた計器の異常が介護ステーションで確認され、無理をさせないようにと注意をされる。
何も出来ない、何もしてあげられない・・・。
母だって話したいことはいっぱいあるだろうに、何も伝えられず・・・・・
痛いも、痒いも、寒いも、暑いも、何も言えない母と、何もわかってあげられない私。

1月3日
点滴の針を刺せる場所がもう無く、母は首から点滴の針を入れられていた。
酸素レベルも最高値にセットされているのに、それでもとても息苦しそうであった。
この日、看護師長から呼び出され、「そろそろ親戚の人に声をかけて下さい」 と言われた。

翌4日、5日で母のゆかりの人たちが母の元を訪れた。
祖母は、母の病気を知ってからアルツハイマーの症状が見られるようになっていて、母の傍らで、「いつ退院できるの?」と何度も尋ねていた。
一通りの親戚縁者が会いに来て、母はいったいどのように思ったであろうか。
そして母は、自分の死と、どのように向き合っていたのであろうか。
母は生きていながらも、もう、何も語れない・・・・・
そんないくつかの疑問を胸に、私は母の心に耳をかたむけてみた。
一言・・・・・   「夫に会いたい・・・・・」    そんな言葉が聞こえたような気がした。

1月6日の早朝
老健から、母の容態が急変したとの電話が入った。
急いで老健の母の部屋に飛び込むと、今までに無く、母は必死で呼吸を繰り返していた。
昨夜から母に付き添ってくれていたという施設長から、「ここ一週間が限界だろう」と言われた。
しかし、看護師長からは、「先生は一週間と言ったけど、私の経験から見ると、後2,3日だと思う…」と言われた。
私は介護ステーションで泣いた。
大声で泣き続けた。
そしてやっと、父に電話をする決心を固めた。
「お母さんが死んじゃうかもしれない…。 お母さんの為に会いに来てあげて…」
とだけ父に告げて電話を切った。

お昼過ぎには弟が来たが、母は相変わらず必死で呼吸をしながら、かすかに視線を弟へとむけるだけだった。
弟は、何も言わなかった。  何も言わずに、母をジッとみつめていた。
私は、母と弟を二人きりにしてあげようと部屋を出て、一人廊下に立っていた。
フッと顔を上げると…、
一瞬、目を疑ったが、父がこちらに向かって廊下をゆっくりと歩いてくる姿が見えた。
そして父は、私の前で立ち止まって、一言、「どうなんだ?」と聞いた。
私は言葉にならなかった。
ただ、父の顔を見たとたんに涙が溢れ出して、人目もはばからずに、廊下で大声をあげて泣いた。
そんな私の肩に、父はそっと手を添えて、「すまなかった」と一言つぶやいた。

私は自分を落ち着かせてから父を母の元へと連れて行った。
父のことを許してはいない弟は、父の顔を見ると、無言で部屋から出て行った。
私は母に、「お母さん、お父さんが会いに来てくれたよ」 と告げた。
母は、息が止まるほどの大きな目を見開いて、必死で父に視線を向けた。
父が母の名前を呼び、「頑張れ!」と言った。
私は父に、「お母さんは、一人きりで、ずっと、ず~っと頑張っていたよ」と言った。
母の目に涙があふれた。
大きな大きな涙の粒が、いくつもいくつも、止めどもなくこぼれ落ちた。

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