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霜をば經とも 色はかはらじ [和歌]

先のBLOGの続きになりますが、佐布里公園の崖の中腹に、椿の花を見つけました。
崖をよじ登り写真を撮るのには少々苦労を要しましたが、手を負傷しながらも撮影してまいりました。

3.14 佐布里公園・椿.JPG

さて、引き続きまして 『新古今和歌集』からですが、椿の花を詠んだお歌は、『古今和歌集』(平安時代初期)から『新古今和歌集』(鎌倉時代初期)にかけて、たったの1首しかございませんでした。

       とやかへる たかの尾山の 玉椿   霜をば經とも 色はかはらじ

前中納言匡房さんの詠まれたお歌であります。
公釈的には、「とやかへる」というのは、「鳥屋返る」ということで、「鷹の尾山」にかかる枕詞になっているそうでして、つまり、鷹の尾山に咲く玉椿の花は、いくたびもの霜を受けつつも、色鮮やかに美しい、ということなのだそうですが・・・、 私釈的には府に落ちないのです・・・。

まず、「經(経)」というのを、どのように解したらよいのか・・・?
また、「鳥屋返る」という詞にも、深い想いを感じるのです・・・。

前権中納言匡房(大江匡房)さんというのは、平安時代後期の公卿で、儒学者であり、そして歌人でもあられます。 また新古今和歌集の選者でもあったのですが、その完成を待たずに70歳で亡くなられました。
曽祖父から続く学者の家系に生まれ育ち、大宰権帥を経て、大蔵卿に任ぜられるほどの碩学で、その学才は菅原道真と比較される程であったと伝えられています。
そのような方が詠まれたお歌を解することなど、無学無知の私には不可能でしょうが、歌は芸術、絵と同じ…。 私なりに感じたところを書いてみようと思います。

「たか(鷹)の尾山」とは、近江国にある山なのだそうですが、近江の山と言えば天台の宗総本山である比叡山があり、この山は「日本仏教の母」とも言われた仏教信仰の中心的なお山でございました。
そして、私が思いに、「鷹の山」と言うのは「鷲の山」のことであり(生物学上「鷹」と「鷲」は、明確に区別をされておらず)、比叡山を「鷲の山」として読んだ時、インドの霊鷲山のことが思い出されました。 
霊鷲山(耆闍崛山)というのは、お釈迦さまのお弟子さま方が御修行をなされたり、お釈迦さまがご説法をされた仏教の聖地であり、阿弥陀さまの御本願が説かれた『大無量寿経』が説かれたお山でもあります。

こう結び付くと、下の句の「經」が生きて来るのでございます。
このお歌は晩年に詠まれた歌と聞いております。
【私釈(お味わい)】
南無阿弥陀仏の御心が説かれたインドの霊鷲山も、この鷹の尾山のような山なのだろうか。
鷹の尾山には多くの玉椿の花が咲いているが、冬の霜を身に受けながらも色美しく咲き誇っているが、同様に、お釈迦さまの御教え(経)も、多々の争いを余所に色あせることはない。
でも、やがては落ちるであろうこの椿の花と同じく、もし私の命が尽きたならば、あの鷹の尾山、仏さまのおられるところへ帰りたいものだ・・・ 南無阿弥陀仏


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常ならぬ世に よそへてぞ見る [和歌]

古い話ではございますが、三月も後半に入って木蓮の花が咲き始め、梅の花もそろそろ終わりを迎える頃、梅まつりの終わった佐布里公園の梅園へと再び行ってまいりました。
ちょうど月曜日ということもあって、市の施設なので駐車場も閉まっていていたのですが・・・_(^^;)ゞ、
ありがたいことに、どなたかが悪さをしてくださったようで・・・(^.^ゞ、駐車場入口のポールを一本下ろしてあったので、車一台分が通れるほどのスペースあり、それに便乗させていただいて…(((^^;)、そちらから侵入いたしまし、梅の花も終わりかけの少しもの寂しい園内を、のんびりとお散歩させていただくことができました。

3.14  佐布里公園の梅園.JPG

梅の花というのは、古来より日本人に愛され続きてきた花でございます。
『新古今和歌集』の中には、梅の花を詠んだお歌が32首ございますが、その中より一句。

      色香をば 思ひも入れず 梅の花   常ならぬ世に よそへてぞ見る

これは、花山院の詠まれたお歌にございます。
【私釈】 美しき色、かぐわしい香り、これらに思いを寄せることなく梅の花を見ようとしても、やがて散りゆくものだとの無常を余所において見ることなどできるものではない・・・。

花というのは不思議なもので、人の心を癒してくれます。
そして花は人に教えてくれます。 必ず、必ず、散り逝く運命なのだよと・・・。
私は、お花って仏さまだと思うのです。
この地球上には、たくさんの花が咲いています。 たくさんの仏さまが、心を和ませ、癒すために咲いてくださっています。 でも同時に、「死んで行く…、ということを外してはならないのだよ」 との厳しさも教えてくださっています。 その花ではなく、この私がです・・・・・。

園内に咲く梅の花の半分ほどが既に散り落ちて、風任せに流れ飛ばされ土に帰って行きます。
縁あれば、いつかはそこから新芽が芽生えるかもしれませんが、でも、一旦死した花は、決して生き返ることはありません。 それが生まれさせていただいものの定めなのです。

さあ・・・、私の番はいつかしら? 今も無常の嵐は吹いています。 その風にさらされながらも生き耐えてはいますけれど、ポロリ…と枝から散り落ちたその瞬間から・・・、 それが今生との縁が尽きる時にございます。


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吉野山 [和歌]

1594年の4月17日は、豊臣秀吉が、徳川家康、前田利家、伊達政宗ら武将をはじめとして、茶人や歌人ら総勢五千人を引き連れて吉野山へ入山し、吉水神社を本陣として盛大な桜見物催した日であると記録されております。 その花見の宴の絢爛豪華な様子は、吉水神社の「豊太閤吉野花見図屏風」に描かれているそうです。 (吉水神社公式HPより写真をお借りしました。)

吉水神社公式HPより『豊太閤吉野花見図屏風』.jpg

この時、主な武将らが詠んだお歌です。

   とし月を 心にかけし吉野山  花の盛りを 今日見つるかな  (豊臣秀吉)

   いつかはと 思ひ入りにし み吉野の  吉野の花を 今日こそは見れ  (豊臣秀次)

   君が代は 千年の春も 吉野山  花にちぎりの 限りあらじな  (徳川家康)

   千早振る 神の恵みに かなひてぞ  今日み吉野の 花を見るかな  (前田利家)

   君がため 吉野の山の まきの葉の  常磐に花も 色やそはまし  (伊達政宗)

私は吉野山がとても好きで、大学の頃より毎年一度は通うようにして行っておりました。
桜の花は大好きですが、吉野へ行くのは桜の季節に限定したことではありません。
ただ、懐かしく想う時にフッと行きたくなるのです。 そして引き込まれるようにお山の中へ入って行くのですが、何故かいつも事情というものが発生して、なかなか奥山まで分け入って行くことが出来ないのです。
でも今年も、この桜の季節が終わり、人気の少なくなった頃にまた行きたいと思います。

近年は、奈良までは時々行くのですが、吉野山にはなかなか寄ることが出来ませんでした。
でも、二年前には、散り桜の季節に行くことが出来、去年は新緑の頃に行くことが出来ました。
とても楽しかったです。 懐かしい想い出と言うより、つい先日のことのように想い出されます。

            故郷に 呼ばれ懐かし 吉野山  何を探して 我はさ迷う

2009.4  吉野・下千本.JPG


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