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たった一つの 私の “命” [Poem]

皆、誰もが、たった一つの“命”しか持っていない。
それってすごく当たり前なことなんだけど、とても重要なこと。
それなのに、“命”が一つしかないということも、
それがとっても重くて深い意味を持っているということも、
時々、忘れてしまうことがある…。

いや・・・・・ 忘れ通しの私である…

そもそも、“命” というものの 本当の意味がわかっていないから、
「“命”なんてクソくらいだ!!」 っと…、
時折、「私」という狂人の感情に押し流されるままに切り捨てようとしたり、
たった一つの“命” ということを忘れて、「リセット」という幻夢に惑わされたり、
また、今、生きているという奇跡に気付くことができないから、
「自分」という魔物に捕らわれ、振り回されるままに
真実から目を背け、耳を塞いで、無意識の内に逃げ惑うばかり・・・・・


私は 幼い頃から、“命”とか、“生” とか、“死”とか、よく思案した。
でも、ず~~~~っと答えが見付けられなかった。
大人になって、 最近になって、ようやくその答えとめぐり合えても、
雲を掴むようなお話しで、なんだかぼんやりとしてしまう…。

ただ、「“命”の大切さ」とか、 「生きている奇跡」ということがわからないのは、
これを理解できるだけの知惠が私には無いからだということを薄々感じ始めた…。
私が、人間として生まれさせていただいたことの本当の意味とか、
私を、人間として生かしてくださっている無限なる御力というのは、
思案して理解の出来るものではなく、 また、どんな哲学も及ばず、
人智では到底計り知ることの出来ないものだとお聞かせいただいた。
これに、コクン っと頷く私と、 
どうしても頷くことが出来ずに、「でも解りたい」と もがいている私が、
互いに牽制し合いながら、平行線のまま共存している。

しかし、ここに “私の命” という存在が横たわってくると、
どちらの私も、この現実には背をむけてしまう。
「何もわからない私」というより、「何も知りたく私」というものが知れてくる。


たった一つしかない私のこの“命”
私は、私がこの“命”を頂戴するまでのストーリーを知らない。
でも、私には聞く耳があり、
そのストーリーを話してくださる方々とめぐり合えた。
「自分の“命”だもの、どう扱ったって私の勝手でしょ!」などとほざいている私に、
時には優しく、時には厳しく説いてくださる方々がいる。

そして何よりも、私には私の為に届けられた‘南無阿弥陀仏’がある。

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