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2009年2月5日(木) サールナート ( チャウカンディ・ストゥーパ(迎仏塔) ) [アジア]

2572213ヴァーラーナスィから北へ10kmのところにサールナートはある。

最初に訪れたのは、初転法輪をする為にブッダガヤから来られたお釈迦様を、五人の比丘らが出迎たといわれる場所に建てられた、チャウカンディ・ストゥーパ(迎仏の塔)である。
手入れの行き届いた敷地内に、高さ28mほどのレンガを積み上げて作られたストゥーパは、4~5世紀・グプタ朝時代に作られたものといわれている。
(頂上に立つ八角形の建造物は16世紀・ムガール王朝のフマーユーンが勝手に建てたものなので、仏教とはまったく関係がない。)

ゴータマ・シッダルタ太子(お釈迦様)が、城を捨て、地位を捨て、家族を捨てて出家の道に入られた時、父であるスッドダーナ(浄飯)王はこれを止めようと手を尽くしたが、シッダルタ太子(お釈迦様)の意志はとても固く、スッドダーナ(浄飯)王は諦めざるをえなかった。
しかし出家されたシッダルタ太子(お釈迦様)の身を心配されたスッドダーナ(浄飯)王は、ちょうどその頃シッダルタ太子(お釈迦様)と共にウッダカ・ラーマ・プッタ仙人の元で修行をされていた五人のバラモン修行者に、シッダルタ太子(お釈迦様)の身辺警護を命じられたと言われている。
その五人の修行者は、短期間で修行を会得しながらも満足せずになおも高きものを目指して修行を続けるシッダルタ太子(お釈迦様)を見て同行することを決め、ウッダカ・ラーマ・プッタ仙人のもとを去ってガヤー・シーサ山に向かわれたお釈迦様の後を追ったとされている。
幾人かの師の教えを修するも、いずれもお釈迦様が求めるものとはほど遠く、こうなれば自分の力で解決しようと決意されたお釈迦様は、五人の比丘らとともにウルヴェーラーの苦行林に入られたのである。
お釈迦様はここで6年にも及ぶ難行・苦行を積まれるが、極端な苦行は正常な精神をも削ぎ落としてしまい、このまま苦行を続けたところで得られるものは何も無い、これは真実を追究する道ではないと知って難行・苦行に終止符をうたれた。
そして、ナイランジャナー(尼連禅河)河で沐浴をし、村娘スジャータより捧げられた乳粥の食べて体力を回復され、断食をやめ托鉢を再開されたのである。
しかし、共に連れ添い修行に励んでいた五人の比丘らは、お釈迦様のその行為をみて、「シッダルタ太子(お釈迦様)は堕落してしまった」、「期待を裏切られた」といって、お釈迦様を捨ててここサールナート(仙人の集う所)へとやってきたのである。

その後、ブッダガヤの菩提樹の下で無上覚を得られたお釈迦様は、かつて共に修行をした五比丘にこの法(真理)を説こうと、たったお一人でブッダガヤから五比丘のいるサールナートへと最初の旅をされたのであった。

ある日、その五人のもとへと歩いて来るお釈迦様の姿を認めた五比丘は、苦行を放棄して世俗の生活に戻ったお釈迦様を軽蔑して、「堕落したシッダルタ太子(お釈迦様)が近づいてきても無視をしよう」と示し合わせていたが、しかし、お釈迦様が近くに来れば来るほど、その神々しいお姿に畏敬の念を抱き、知らぬ間に立ち上がってお釈迦様を迎え従ったのだといわれている。

お釈迦様は五比丘らに、自らが阿羅漢であり正等覚者(仏陀)であることを宣言し、その教えを説くために五比丘を従えサールナート(鹿野苑)へとおもむかれ、そこで最初の説法(初転法輪)を為したのである。

私たちがチャウカンディ・ストゥーパ(迎仏塔)に訪れた時、その塚の袂では、白い衣装を身にまとったスリランカの尼僧らが読経をするでもなく、各々にただボ~っとチャウカンディ・ストゥーパを見上げていた。
[眼鏡] いったい何をしていたのだろ~か・・・・・  なぞである。

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