親のご恩徳 「へその緒」 (3-6) [仏法]
2009.9.21 S先生
自分の都合だけで、親や他の命を平気で奪い、大きな顔をしているのが、今 ここにいる私なのである。 (中略)
「オレが」と威張り、悲嘆で怒り狂っても、すべてが親からの頂きものなのだ。 しかも、愚かにもそのご恩徳を忘れ、恥知らずの畜生同然の身ではないか。 その無慚無愧のわが身に、阿弥陀様の広大無辺のご恩徳が降り注いでいる。 そこ一つを、今お聞かせいただけるのは、一体、誰のおかげなのか。 ご法に会わない限り、この真実に目覚めることはなかったのだ。
(S先生の『巻頭言』より)
以前、S先生が巻頭言で書かれた「へその緒」を読んで大泣きしたことがあった。
「ふるさとや へその緒に泣く 年の暮れ」 という芭蕉の句から親のご恩徳を説かれ、生まれる以前から「オレがー」の心を振りかざし、ご恩をご恩とも思えない私が、こうして御法に会わせていただいたのは、誰のおかげ? 何のため? というそのお話しに心を揺さぶられた。
御法座で先生は、「どれだけの御手回しや御方便があって私は育てていただいたのかを考えてみてください…」と提起された。
だけど…、 私が考え得る範囲なんて、たかが知れている・・・。
私の知らないところで、この私にかけられた願いや御手回しがどれほどのものなのか…、 私にははかり知れないし…、 考えたことすらなかった…。
S先生がおっしゃるように、一から十までの、一ということすらわからなかった私が、今はこうして一は云々、二は云々と生意気なことを口に出来るようになったのも、覚えるものが既に仕上げられており、これを教えていただいたからに他ならない…。
この世に命をいただいたことに始まり、今日までお育ていただいた中で、私一人の力で成せたこと?…
思いつかない・・・・・ 何一つとして、自分が生み出し、自分で作り上げたものなんて無いじゃん…。
それなのに私は、自分の意思で…とか、自分の力で…とか、すべて自分で成し得て来た様に錯覚して…。
S先生は「へその緒」のお話しをされた。
「私はエイリアンです。 お母さんとは違う物体(私)がそのお腹の中に宿るわけですから」
父と母によって母の胎内に一つの細胞が宿り、その細胞(私)がまず最初にやることは我が身を守ること。
私は、私が生き・育つ為に、まず我が身を守る為の組織を母の胎内に作っていく。
胎盤をこしらえ、母から栄養や酸素を奪い取るパイプラインをこしらえ、そして不要になった老廃物だけを母へと返却する。
誰の為でもない、この私、自分自身の為だけに生きようと、母の都合などお構いナシで、自分中心の考えの中で成長していく。
こうして100%母に依存しながらも、私には微塵も母のことを思いやる心などなく、ただ自分の為だけに、十月十日間休むことなく母から奪い尽くしてきたのだ。
そして、母も 私も 命がけの出産の時を迎えると、私は ただ ただ 「産まれた~い!!」という欲の塊りで母の産道をくぐり抜ける。
母が私にかけてくださった願い、「無事に」、「元気に」、なんてものは知ったこっちゃない!
私は私のことだけを考え、私が「生きた~い!!」という想い一つでこの世に出て来た。
「親が勝手に産んだんじゃない」、というS先生の言葉が、氷の欠片のように胸の底に沈んだ…。
生まれ出た後も、休むことなくアレコレとお育てをいただいたからこそ、ご恩徳があったからこそ、今、私はこうして生きていられるというのに、私は自分の都合で死にたくなったり…、生きたくなったり…
そして、こうして仏法を聞いている間だけは、「あぁ、私が今日まで生きて来られたのも、数知れぬご恩徳のおかけだ」とか、「私一人を生かす為に、今までどれほどの他の命を犠牲にしてきたのだろう」とか、ほんの少しばかりしんみりと思わせていただくだけで、そんなのすぐに忘れちゃう…、当たり前の如く忘れちゃう…。
「全部いただきものですよ!!」とおっしゃられた先生の言葉に反応するのも、僅か2,3秒の間だけ…
所詮、人様のご苦労なんて全然興味のない私…、 たとえそれが自分にかけられたご苦労であっても…、 という冷血な自分が知れてくる…
お腹が空けば何か食べたくなり、私は私の空腹を満たす為に、何のためらいもなく他の命を食らう。
そこには罪の意識の欠片も無ければ、ご恩徳など感じるような心もない…。
ただ ただ お腹が空けば、「あぁ、私は生きていたいんだ…」と実感できて嬉しくなるだけ…、 いつでも、どこでも、私は私中心にしか考えていない…。
しかも、「どうせ食らうなら美味しいものを!」と、自分を満足させてあげることばかり考えている…。
食べ物どころか、親にすら、ご恩徳に心をはせることのない私が、「私はご恩徳の塊だなぁ~、全部が法蔵願力の塊りで私は出来ているなぁ~」などと…、とても味わえない自分だ… 先生のおっしゃる通りだ…
(つづく)
自分の都合だけで、親や他の命を平気で奪い、大きな顔をしているのが、今 ここにいる私なのである。 (中略)
「オレが」と威張り、悲嘆で怒り狂っても、すべてが親からの頂きものなのだ。 しかも、愚かにもそのご恩徳を忘れ、恥知らずの畜生同然の身ではないか。 その無慚無愧のわが身に、阿弥陀様の広大無辺のご恩徳が降り注いでいる。 そこ一つを、今お聞かせいただけるのは、一体、誰のおかげなのか。 ご法に会わない限り、この真実に目覚めることはなかったのだ。
(S先生の『巻頭言』より)
以前、S先生が巻頭言で書かれた「へその緒」を読んで大泣きしたことがあった。
「ふるさとや へその緒に泣く 年の暮れ」 という芭蕉の句から親のご恩徳を説かれ、生まれる以前から「オレがー」の心を振りかざし、ご恩をご恩とも思えない私が、こうして御法に会わせていただいたのは、誰のおかげ? 何のため? というそのお話しに心を揺さぶられた。
御法座で先生は、「どれだけの御手回しや御方便があって私は育てていただいたのかを考えてみてください…」と提起された。
だけど…、 私が考え得る範囲なんて、たかが知れている・・・。
私の知らないところで、この私にかけられた願いや御手回しがどれほどのものなのか…、 私にははかり知れないし…、 考えたことすらなかった…。
S先生がおっしゃるように、一から十までの、一ということすらわからなかった私が、今はこうして一は云々、二は云々と生意気なことを口に出来るようになったのも、覚えるものが既に仕上げられており、これを教えていただいたからに他ならない…。
この世に命をいただいたことに始まり、今日までお育ていただいた中で、私一人の力で成せたこと?…
思いつかない・・・・・ 何一つとして、自分が生み出し、自分で作り上げたものなんて無いじゃん…。
それなのに私は、自分の意思で…とか、自分の力で…とか、すべて自分で成し得て来た様に錯覚して…。
S先生は「へその緒」のお話しをされた。
「私はエイリアンです。 お母さんとは違う物体(私)がそのお腹の中に宿るわけですから」
父と母によって母の胎内に一つの細胞が宿り、その細胞(私)がまず最初にやることは我が身を守ること。
私は、私が生き・育つ為に、まず我が身を守る為の組織を母の胎内に作っていく。
胎盤をこしらえ、母から栄養や酸素を奪い取るパイプラインをこしらえ、そして不要になった老廃物だけを母へと返却する。
誰の為でもない、この私、自分自身の為だけに生きようと、母の都合などお構いナシで、自分中心の考えの中で成長していく。
こうして100%母に依存しながらも、私には微塵も母のことを思いやる心などなく、ただ自分の為だけに、十月十日間休むことなく母から奪い尽くしてきたのだ。
そして、母も 私も 命がけの出産の時を迎えると、私は ただ ただ 「産まれた~い!!」という欲の塊りで母の産道をくぐり抜ける。
母が私にかけてくださった願い、「無事に」、「元気に」、なんてものは知ったこっちゃない!
私は私のことだけを考え、私が「生きた~い!!」という想い一つでこの世に出て来た。
「親が勝手に産んだんじゃない」、というS先生の言葉が、氷の欠片のように胸の底に沈んだ…。
生まれ出た後も、休むことなくアレコレとお育てをいただいたからこそ、ご恩徳があったからこそ、今、私はこうして生きていられるというのに、私は自分の都合で死にたくなったり…、生きたくなったり…
そして、こうして仏法を聞いている間だけは、「あぁ、私が今日まで生きて来られたのも、数知れぬご恩徳のおかけだ」とか、「私一人を生かす為に、今までどれほどの他の命を犠牲にしてきたのだろう」とか、ほんの少しばかりしんみりと思わせていただくだけで、そんなのすぐに忘れちゃう…、当たり前の如く忘れちゃう…。
「全部いただきものですよ!!」とおっしゃられた先生の言葉に反応するのも、僅か2,3秒の間だけ…
所詮、人様のご苦労なんて全然興味のない私…、 たとえそれが自分にかけられたご苦労であっても…、 という冷血な自分が知れてくる…
お腹が空けば何か食べたくなり、私は私の空腹を満たす為に、何のためらいもなく他の命を食らう。
そこには罪の意識の欠片も無ければ、ご恩徳など感じるような心もない…。
ただ ただ お腹が空けば、「あぁ、私は生きていたいんだ…」と実感できて嬉しくなるだけ…、 いつでも、どこでも、私は私中心にしか考えていない…。
しかも、「どうせ食らうなら美味しいものを!」と、自分を満足させてあげることばかり考えている…。
食べ物どころか、親にすら、ご恩徳に心をはせることのない私が、「私はご恩徳の塊だなぁ~、全部が法蔵願力の塊りで私は出来ているなぁ~」などと…、とても味わえない自分だ… 先生のおっしゃる通りだ…
(つづく)
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