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常念仏のお働き [随筆日記]

法友とメール交換をし合う中で、私は本当にたくさんのことを教えていただけているなぁ~と実感している今日この頃。
特にここ数日、また病状が悪化しそうな不安定な状態にあって、SZさんとのメール交換で私は随分と救われている。
それは何も優しい言葉をかけられたとか言うのではなく、SZさんと向き合うことによって、‘南無阿弥陀仏’と出遭わせていただけるからだと思う。

本当は、何一つ手につかない…、 何もせずにただ引きこもっていたい…、 目が回って椅子に座っていることもままならない…、 そんな状態にありながら、ただ義務的に 「メールの返事を返さねば…」との思いだけで1,2行書き始めると、不思議とどこからか湧き出てくるものがあって、これを文字にしていく内に自分が聞かせていただいているのだと言うことに気付く。

そもそもSZさんからいただくメールは、儀礼的な文面で、一見すると御法との取っ掛かりなど何もないのだが、そう思っている私の思いとは別のところから出て来たものに、思わず‘なまんだぶつ’も私の口を突いて出て来てくださる不思議。

すごいな~ぁ・・・  私がどれだけ御法に背を向けて世間事に溺れていようとも、自身の心に囚われてその思いに振り回されっぱなしでいても、すべて如来さまが御縁を整え、私にわかりやすいようにして「ど~ぞ」と差し出してくだされる。 ホンに、至れり尽くせり。

今日、SZさんに送ったメールでは、こんなことを教えていただいた。

「また、次回の御法座では、よろしくお願いします」 という言葉が、どれほど御法を謗っているのかということ。
御法は、「法座」という 時間 ・ 場所 だけに限ったものではないし、「次回」というのはありえない。
ましてや、私に「よろしくお願い」されても、私はただの煩悩ダルマでしかない…。

確かに、御法座に出て仏さまのお心を教えていただき、座談会に出て仏さまのお言葉を伝えていただくことは、決して抜きにすることはできないが、御法は「耳で聞く」だけではなく、日々の営みの中で「身で聞かせていただく」もの。
私にしてみたら、御法座に出ている間のたかだか数時間、また、座談会に座しているほんのわずかな時間をもって聴聞したなどと臆面もなく言っているが、しかしそうではない。
法友と語り合ったり、仏書を読んでいる時のみならず、家事の最中であっても、食事中であっても、またテレビを見ている最中でも、御法は聞かせていただけるのだ。

なぜならば、この私は常に仏法を忘れ通しでも、仏さまは常念仏のお働きで、常に 常に この私に向かって呼びかけてくださっているから。
私が寝ている間も、欲を貪っている間も、一人孤独に泣いている時も、如来さまは、いつも いつも この私に寄り添いながら、この私一人にむかって叫び続けていてくださる。
これを、自身の身を通して、具体的に聞かせていただくのが聴聞なのだと私は教えられ、これに、大きくコクンと頷ける。

「具代的に聞く」…、 「身を通して聞く」…、 何のこっちゃ?! と 最初は思った。
例えば、食事をしている時、他の命を平然と食らいながらも愚痴をこぼしている浅ましい私…、
例えば、前方を走る車が遅いとイライラする自己中心的な私…、
例えば、石につまずいて転べば、石が悪いと他因自果にしている私…、
こんな私に向かって、如来さまは何とおっしゃっておられるのだろうと聞く。
そんな私にかけられた如来さまの願い、お心・ご苦労を聞かせていただくのが 「聞く」 ということなのだと教えていただき、如来さまは、ホンに 一つ一つの私の(身・口・意の)業の中におってくださるんだなぁ~ と、首がうな垂れる…。

私はSZさんに、「御法座に出てどんなんだったか、メールでその感想を聞かせてね」とお願いした。
でもSZさんは、「何も書くことがなくて…」 と 答えられた。 
それでいいんだと思う。
そんな自分とちゃんと向き合った時、「なぜ、何も書けないんだろうか?」、「本当に何も書くことがないのだろうか?」 などの疑問を元に、自己を掘り下げて本当の自分を見ていくきっかけになれば… と思う。
そして、そんな私に向かって如来さまは何とおっしゃっておられるのかを聞かせていただく。

これはそのまんま私に言われているのだな、と いただいた。
病気の不安、人間関係の悩み、等々、今生事のところに留まりながら右往左往している自分自身に聞いていくのではなく、常にお念仏に聞いていく。
‘南無阿弥陀仏’に聞いていく。

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