喜べない私でよかった! [法座・座談]
先週末の落ち込みからなかなか立ち直ることが出来なくて、心が変な方向へと走ってしまい、それで更に自己嫌悪に陥るという悪循環を自らが作り出している現状に我ながらウンザリする・・・・・。
でも今は、表面上だけでも元気に振舞っていられるので、状態はそれほど悪くない…。
時を同じくして先週のとある日、「君は、ガラスの様に壊れやすい心の持ち主だ」 と ある人を通じて言われた。
私自身、そんなイメージは持っていなかったけれど…、 でもそう言われてみると、私は私の心が壊れてしまわないようにひどく丁寧に取り扱っているなぁと思った。
しかしその反面で、こんな心など叩き割ってしまえ! とばかりに、自らの心に刃を振り上げている自分もいて…、 護ろうとする私と、壊そうとする私が、‘我’の中で、「オレが~!」という自己主張をしながらせめぎ合っているような・・・。
そして、そんな自分を傍観している私もいて・・・・・、 なんだか複雑・・・・・
今日はこんな心持ちだったから、凡夫の苦悩にまみれて、「喜ぶ」という感情から見放された…? いや、自らが拒否したような一日を過ごしてしまった。
そういえば…、 「喜ぶ」という感情をめぐって、自分の中でまだモヤモヤしたものがあったんだった!
先週、福岡のYZさんがお仕事のために名古屋に来るというので、一緒に夕食デートをすることにした。
YZさんとは二ヶ月ほど前から、「喜び」についてお互いの味わいを何度か語り合ってきたのだけれど、私自身のところで何だかスッキリしなくて…、 それで今回も 「きっと二人で話しをしていても、このモヤモヤは解けないだろうな~」 なんて思ったのでYuさんにも同席していただくことにした。
YZさんがいつまででも、どれだけでも喜んでおられることについては、私にとってはど~でもよいことなので、これに何の問題もない。
ただ、私は、私自身の喜びについて、ちゃんと考えてみたいなぁ~って思っただけ…。
なんかね…、 私が自分の力で何かをして、その結果として何かを得たのであれば、それは素直に喜べるだろうけれども…、 私は何もしていないし、何も変わっていない…。
ましてや、私が頑張ったど~のこ~のと言う以前に、そもそも私が望んだことでも、願ったことでもないもの!
だから、周りの人から、「なっちゃん、喜びはったんやね~!」と言われても、「私は喜んでなんかいないよ!」と言うしかなかった。
でも、「素直に喜びなよ!」と言われてやっと、「それじゃ~、何に喜べるのかを考えてみようと思った。
そ~言えば、以前、MO先生が『巻頭言』に、「私はホンマにアホやなぁ~と、嬉しくなってくる」と書かれ、S先生は、「虚仮不実の私で嬉しくなる」とおっしゃったことを思い出した。
それじゃ~ 私は・・・?
そんなことが常に頭の片隅にあったここ最近、先日の報恩講さんでは、OG先生とKY先生が、『歎異抄』第九章の寸劇をしてくださり、私はこれをとてもありがたく聞かせていただいた。
「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。 よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。 よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。 ・・・(以下略)」
この寸劇を聞いていた時、「あぁ~、喜べん自分でよかった!」 と 嬉しくなってきた。
よくわからないけど・・・、 如来さまのお心にホンの少し触れさせていただいたとても、その喜びも、切なさも、アッと言う間に消えてしまう・・・・・
私の中には、「オレが~」の心で求めるものしかなく、後生の不安も、往生浄土を願う心も何もない・・・。
そんな私なのに、御法に触れさせていただいた時にこぼれ落ちる涙…、 そして無自覚の喜び…、 あぁ~、私のものじゃなかったんだ!って思った。
何もない…、 「喜ぶ心のない私でよかった!」 って、ほんのちょっぴり喜んでいる私を見つけた。
でも今は、表面上だけでも元気に振舞っていられるので、状態はそれほど悪くない…。
時を同じくして先週のとある日、「君は、ガラスの様に壊れやすい心の持ち主だ」 と ある人を通じて言われた。
私自身、そんなイメージは持っていなかったけれど…、 でもそう言われてみると、私は私の心が壊れてしまわないようにひどく丁寧に取り扱っているなぁと思った。
しかしその反面で、こんな心など叩き割ってしまえ! とばかりに、自らの心に刃を振り上げている自分もいて…、 護ろうとする私と、壊そうとする私が、‘我’の中で、「オレが~!」という自己主張をしながらせめぎ合っているような・・・。
そして、そんな自分を傍観している私もいて・・・・・、 なんだか複雑・・・・・
今日はこんな心持ちだったから、凡夫の苦悩にまみれて、「喜ぶ」という感情から見放された…? いや、自らが拒否したような一日を過ごしてしまった。
そういえば…、 「喜ぶ」という感情をめぐって、自分の中でまだモヤモヤしたものがあったんだった!
先週、福岡のYZさんがお仕事のために名古屋に来るというので、一緒に夕食デートをすることにした。
YZさんとは二ヶ月ほど前から、「喜び」についてお互いの味わいを何度か語り合ってきたのだけれど、私自身のところで何だかスッキリしなくて…、 それで今回も 「きっと二人で話しをしていても、このモヤモヤは解けないだろうな~」 なんて思ったのでYuさんにも同席していただくことにした。
YZさんがいつまででも、どれだけでも喜んでおられることについては、私にとってはど~でもよいことなので、これに何の問題もない。
ただ、私は、私自身の喜びについて、ちゃんと考えてみたいなぁ~って思っただけ…。
なんかね…、 私が自分の力で何かをして、その結果として何かを得たのであれば、それは素直に喜べるだろうけれども…、 私は何もしていないし、何も変わっていない…。
ましてや、私が頑張ったど~のこ~のと言う以前に、そもそも私が望んだことでも、願ったことでもないもの!
だから、周りの人から、「なっちゃん、喜びはったんやね~!」と言われても、「私は喜んでなんかいないよ!」と言うしかなかった。
でも、「素直に喜びなよ!」と言われてやっと、「それじゃ~、何に喜べるのかを考えてみようと思った。
そ~言えば、以前、MO先生が『巻頭言』に、「私はホンマにアホやなぁ~と、嬉しくなってくる」と書かれ、S先生は、「虚仮不実の私で嬉しくなる」とおっしゃったことを思い出した。
それじゃ~ 私は・・・?
そんなことが常に頭の片隅にあったここ最近、先日の報恩講さんでは、OG先生とKY先生が、『歎異抄』第九章の寸劇をしてくださり、私はこれをとてもありがたく聞かせていただいた。
「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。 よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。 よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。 ・・・(以下略)」
この寸劇を聞いていた時、「あぁ~、喜べん自分でよかった!」 と 嬉しくなってきた。
よくわからないけど・・・、 如来さまのお心にホンの少し触れさせていただいたとても、その喜びも、切なさも、アッと言う間に消えてしまう・・・・・
私の中には、「オレが~」の心で求めるものしかなく、後生の不安も、往生浄土を願う心も何もない・・・。
そんな私なのに、御法に触れさせていただいた時にこぼれ落ちる涙…、 そして無自覚の喜び…、 あぁ~、私のものじゃなかったんだ!って思った。
何もない…、 「喜ぶ心のない私でよかった!」 って、ほんのちょっぴり喜んでいる私を見つけた。