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「愛」に期待するもの [心]

人はいつも自分の都合で、自分本位の期待を胸に抱き、それが叶わぬと、怒ったり悲しんだりする。
たとえ期待通りの結果が得られたとしても100%の満足感を得られるものではないし、またたとえ満点に近い満足感を得られたとしてもこれが長く続くものではない。
そんなことわかってる! そんなの当たり前じゃん! と頷いてみたところで、やはり期待に沿わぬ結果に見舞われると、嘆き、悲しみ、怒り、腹立ち、時には自己コントロールできなくなるほどの感情に振り回されたりもする。
そんな心に支配されている間は、冷静に自分を省みることなど出来ないから、すべてを誰かのせいにしてみたり、逆に自己嫌悪に押しつぶされそうになったり、人それぞれだけど、本当の意味で自分の懐を真向かいに見ることができず、思うがままの感情に飲み込まれてしまう。
悲しいかな、人間と言うヤツは、そんなふうにしか生きていくことができないのだろうね・・・・・

考えてみたら、「愛」だとか、「恋」だとかいう感情は、最も人間らしい心の産物なのかもしれない。
仏様の「慈愛」というものは、「常に一方的に与える愛」で、「永遠不変の愛」であるのに対して、私たちがめでたくも口にする「愛」と言うヤツは、「常に求める愛」で、「変化し続ける愛」である。
「一方的に与える愛」と言えば、親の愛がそれに近いかもしれないけど、所詮は人間の愛…、
とんでもない“縁”に催されれば一瞬にしてに吹き飛んでしまうだろう・・・
愛が冷めるだとか、愛するが故に憎しみに変わるだとか、私たちはそんな頼りない「愛」と知りつつも、「愛」を求めて止むことがない悲しき生き物なんだよね・・・・・

そうだね・・・、人間には、到底真似の出来ない「真実の愛」を仏様はこんな私に与えてくださっているんだよね。
だから私は生きていられるんだね。
こんなふうに、ある出来事をきっかけにして、人を通して気付かせていただいた「愛」について考えてみた時、実に多くのことが見えてきた。

そして、人間の「愛」を考えた時に、紙一重というか・・・、両極端というか・・・、
愛に「喜び」愛に「悲しみ」、「好き」の裏には「嫌い」があって、「始まり」の裏には「終わり」がある。
そして、「与える愛」の裏には「求める愛」が必ず存在している。 「愛」に期待をしてしまうのだ・・・・・

あぁ・・・、 「愛」は、人間の究極の欲望かもしれないね! 少なくとも私はそ~だな~ぁ・・・・・

そして、ど~しよ~もない感情が生まれるのも、「愛」ゆえなのかもしれないね・・・・・

ただ、今思うのは、凡夫の私には、凡夫としての愛し方、愛され方があって、たとえそれがどんな愛であったとしても、私なりの愛し方、愛され方しか出来ないのだということ。
「愛に期待するもの」も凡夫レベルなら、それによって得られる結果も決して凡夫の域を超えることはない。

胸に抱く期待は、刻々に変化して大きくもなり小さくもなる。
湧き起こる感情も、温かくなったり冷たくなったりと常に変化し続ける。
そんな動き続ける“今”を大切に、そして“今”を後悔しないように誰かを愛し続けていけたらいいね[黒ハート]

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