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第十八願のこころ ② [仏法]

『仏説無量寿経』上巻 「第十八願・本願文」

   説我得仏・十方衆生・至心信楽・欲生我国・乃至十念・若不生者・不取正覚・
   唯除五逆・誹謗正法

さてさて、御法話のつづき… だが、お話しは少し難しくなってきた…。
“南無”は、仏に成るという原因 = 仏因  ← そしてこの‘仏因’には、 「信」 と 「行」 がある。
「信」の真意は、「至心」「信楽」「欲生我国」の三心 、 「行」の真意は、「乃至十念」の称名に収める。
“阿弥陀仏”は、その結果 = 仏果  ← そしてこの‘仏果’には、 「往生」 と 「成仏」 がある。

この『御本願』の御文は、法蔵菩薩様が、仏々相念で世自在王仏様にお誓いくださったもので、私に言われているのではない。 この仏さまのお言葉を説き開いてくださったのが親鸞聖人。
‘南無阿弥陀仏’のお心を説かれた親鸞さま著作の『教行信証』において、法然さまが十八願の一願のみで御法門をお建てになったのに対し、親鸞さまは四十八願の中から、五願開示をもって御法門を建てられた。 「開示」とは、第十八願の御文のお心を深く堀りあてて五願に分解し明示されたとのこと。
その五願とは、

第十一願 (必至滅度の願) 必ず滅度に至らす(正定聚不退転の仲間入りをさせる)と誓われた願。
第十二願 (光明無量の願) 光明が無量の仏さまの御徳を誓われた願。
第十三願 (寿命無量の願) 寿命が無量の仏さまの御徳を誓われた願。
第十七願 (諸仏称名の願) 十方諸仏の讃談供養を誓われた願。
第十八願 (至心信楽の願) 仏さまの真意が誓われた願。

G先生は、「阿弥陀仏に救われる」 というのは、「“南無”の心をいただくということ」とよくよく仰られる。
“南無”の心(信じる心)一つで往生の一大事が平生の時に定まって報恩のお念仏をさせていただける、その為に人間に生まれさせていただいたのだと。

六道の内、地獄・餓鬼・畜生の三悪道は、あまりにも苦しく、愚痴に追われている為に仏さまのお話しを聞くことができず、修羅は戦いに明け暮れ、天上界は楽に酔い、この人間界でしか仏法は聞かれない。

六道をへめぐって何度も生死を繰り返し、「オレがー!」という一度も死んだことのない「この私」という‘我(が)’が、久遠劫来 ず~っと ず~っと迷い続けて、今、やっと人間界に生まれさせていただけた。
それなのに私は、「それがど~した!」とふんぞり返るばかりだけど、ここにどれほどの仏さまのご苦労があったのだろう・・・・・
そんな私の「オレがー!」という心の中に、阿弥陀さまは、「早くその我執を破ってくれ! 破ってみせる!」と言って、‘南無阿弥陀仏’となって飛び込んで来てくださった。

阿弥陀さまは、いつも いつも ここ(我)に居て、私が地獄に堕ちた時には、私の‘我(が)’の中から飛び出し、「わたしの修行が足らなかったためにお前を地獄に落してすまなかった、許してくれ」と、血の涙をこぼして謝ってなさる。
しかし、地獄で苦しむ私にはそんな如来さまが鬼や閻魔さまにしか見えない・・・
私が餓鬼道にいた時にも、私の我執の心から飛び出した阿弥陀さまは、「わたしが悪かった、すまなかった」と謝りなさっているのに、私はひもじくてしょうがないから如来さまを丸かじりに食いついてしまう・・・
私がどの世界に居ようとも、阿弥陀さまは ず~っと ず~~~っと、私の「オレが~!」の腹底にいてご辛抱してくださった…
待って、待って、待ちぬいてくださったお方が、‘南無阿弥陀仏’さまですよ。

G先生のお言葉に、 涙が…、 ポロリとこぼれ落ちた…     誰の涙? 何の涙?

私は、人間として生まれてきたことも、こうして仏法を聞かせていただけていることも、当たり前にしか思えないし、それがどれほど尊いことなのか微塵もわからない…
でも、 「本当に信じ難い御法を私は聞かせていただき、なまんだぶつ なまんだぶつ とお育てをいただいたおかげで、‘南無阿弥陀仏’が称えられ、‘南無阿弥陀仏’と聞かせてもらえるようになった。  友、同行、先生、そういう善き方々に囲まれているのが私なのですよ」 と、G先生は教えてくださった。

このあと、G先生の求道時代のお話しでは、 「信心が欲しい!」というのもお育てをいただいから出てきた心だけれども、自分が走る前から一等賞の印「有り難い!救われた!」という褒美をもらいにかかっていた。 そんな自分に「あぁ、間違っていた! 反対だった! 仏さまに求め続けさせたんや!」と、文句の一つもなく気付かせていただいたのが獲信の時の思いだったとお話しくださった。

これも、あれも、すべてが永い永~い間の仏さまのお手厚い宿善のおかげであり、お育てのおかげ。
も~~~ぉ! どれだけご苦労をかけて来たのかわからん!!
それなのに仏さまの方から私に手を合わせて、「助かってくれ~、信じてくれ~、称えてくれ~」と頭を下げて、私の為に‘南無阿弥陀仏’となってくださった。
そして私は 「行」も「信」もないのに、その御教え、‘南無阿弥陀仏’のおいわれを聞けるこの場に座らせていただけている。  南無阿弥陀仏

最後にG先生は、「自分が一番大事と思っているが、わたしの考えていることは、みんな嘘、反対で、一息 一息が地獄に向かって真っ逆さまに堕ちて行くしかないお前だぞ、と言ってくださっているのが御法。
でも、決して難しい法ではなく、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と叫ばせてもらうだけで仏凡一体の世界が開けてくるんだ」とお話しくださった。

G先生は、「だいぶ話しが横にそれた」と仰ったけど、私は、G先生を通して『第十八願のこころ』に触れさせていただけたように思う。 南無阿弥陀仏

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