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『仏説無量寿経』下巻 三毒段 「愚痴」 ① [仏法]

2009.9.20 MO先生  
御讃題は、親鸞聖人の 『教行証文類』 信文類三(末) より

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを「聞」といふなり

<訳> 『大無量寿経』下巻 の 『本願成就文』 に 「聞其名号 信心歓喜 (その名号を聞きて、信心歓喜せん)」 という言葉があるが、その「聞」というのはどう言うことかというと、「この私が、‘生起’― 阿弥陀さまの起された願いの根本、なぜ法蔵菩薩さまとなって御本願を起さなければならなかったのか、ということ、 ‘本’― 法蔵菩薩さまが私一人の為にどのようなご苦労をして下さったのかということ、 ‘末’― その仕上げとして私一人の為にどのような姿になってくださったのかということを、聞かせていただいて、これがそのままスッキリと心に入りました」 と言うことが、名号を聞くということである。

「誰の為に起された御本願なのか?」 と 問われれば、頭の上では 「罪悪深重・煩悩熾盛の私の為です」 と 言葉には出来るけれども、はたしてこの身に問うてみたならばどうなのか?
ここをえぐって具体的に‘私’というモノガラを説かれたものが“三毒段”であり、お釈迦さまは 『大無量寿経』下巻において、「こんなお前の為に! こんなお前だから!」 と繰り返し、様々な面から説いてくださっている。
“三毒”とは、三つの根本的な煩悩のことで、「貪欲(欲しいの心)」・「瞋恚(憎いの心)」・「愚痴(自己愛の心)」をいい、今回の御法話では、この“愚痴”についてご解説くださった。

“愚痴”の‘愚’も‘痴’も、愚か・無智という意味で、仏教の真理を知らないということ。 これが煩悩の親玉。
“三毒段”の‘愚痴’で取り上げられている仏教の真理とは、“因果の道理(罪悪)”と“無常”の二つについての無智であり、これを 「お前は頭の上で知ったと言っているだけで、根本的な愚かさが身についていないじゃないか!」とお示しくださり、また「今後とも身に付かないぞ」という私の姿を照らし出してくださった経文であるとお話しくださった。

 ( 中略 ― BLOG 『仏説無量寿経』下巻 三毒段 「愚痴」 ② )

三毒段 「愚痴」 のまとめとしてお話しくださったのが、『本願文』 の最後にある、「唯除五逆 誹謗正法 (ただ五逆と正法を誹謗する者をば除く)」 と言われた阿弥陀さまのお言葉であった。
お前は、五逆罪を犯しているから救いようがないんだ!  
お前は、謗法罪を犯しているから救いからは除かれているんだ! 

「“唯除五逆 誹謗正法” とは、汝の名なり!!」 こう叫ばれたMO先生の大きな声が頭に突き刺さって、一瞬背筋がピンッと伸びた…。
「私の名前は、“唯除五逆 誹謗正法” …、 私だけは除かれている…」 そう聞いた次の瞬間に、伸びた背筋は一気に小さく丸くなった…。

「唯除五逆 誹謗正法」は、“仮除”ではなく、“実除”である。 「除く」は、「除く」! 「お前は、除く!!」
「逆法の死骸」という言葉も、「死骸」は「死骸」であって、形容詞などではない!
「逆法の死骸!」という事実! 「聞かんヤツだ!」という事実! だから私は唯除されている…

『親指のふし』 より

「私に限って大丈夫」と思っている人も、もう一ぺん考えてみませんか。 そうしたら何が出てくる。
本物の信心だったら、どれほど叩いても心配ないですよね。 「疑ったらいかん」と臭いものにフタをしているのが、そもそも自分のはからいというもの。
真にまかせきっているのなら、素っ裸になれましょう。 
ご教化もほかし、喜びもほかし、念仏もほかし、聞いたとか、ありがとうなったのも、全部ほかしてしまって、「サア、出かけていかんならん」 となって、出てくるのが本物です。 そこで勝負をせんならん。
それが「信心のみぞさらえ」というものでしょう。 「あの体験があるから」という、それもほかしてみたらどうですか。 持ち物があると、通るところも通られん。 (中略)
後生の関所は、荷物があると通れませんよ。 素っ裸になって救われるというのが念仏の教えです。
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