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「太子講」 Part 1 [法座・座談]

3085684MO先生のお寺 順正寺 さんで催された「太子講」に参詣させていただいた。
参詣者の約半数は顏馴染みのお同行方で、お勤めの後にいただくG先生の御法話と、その後の仏法讃談をお目当てに各地から参詣されていた。

初日の御法話では、「“南無”の心」についてお話しをいただいた。
一番印象に残ったのは、「蓮如上人の書き残された『御文章』は、往生の手鏡である」と言われたところ。
ここのところで御法話中にG先生より話しかけていただき、自ら言葉を発したことで忘れられない一場面となった。
‘手鏡’というのは、自分では見ることのできない自分の姿を映し出すもので、私でありながらも私の知らない私の姿、そして私の後生の一大事というものを見せてくれる・教えてくれるのが『御文章』であると聞かせていただいた。
そして「後生の一大事」とは、この私が地獄に堕ちるという一大事と、仏に成るという一大事で、今生の一大事とはケタ違いな一大事なのだと…。 
しかし、私にとっては今生の一大事、二大事、三大事・・・ の方が重大で、自分の後生も、仏に成るという夢物語にも、全く興味がなく、大事だとはとても思えない。
そんな私に向かって仏さまは、「早く来いよ! 必ず救うてみせる!」と、十劫の間ず~っと 呼びづめ 立ちづめ 招きづめで、阿弥陀さまの方がこの私に手を合わせて、「南無の心をいただいておくれ、 どうか我と同じ仏になっておくれ、 お願いだから聞いておくれ」と、頭を下げておられるのだと聞かせていただいた。
そしてG先生は二度も席を立たれて、ご自身の腹の辺りを何度も拳で叩かれながら、「オレが!オレが!」という死んだことのないこの我執の心に仏さまが飛び込んで来てくださり、その我執の心の中から仏さまが叫んでおられるのがわかってきたら、‘南無阿弥陀仏’と称えずにはおれんようになる。
‘南無阿弥陀仏’と私が口にしたならば、 私が信じる心をいただいたならば、仏さまは 「あぁ~ 嬉しい! よう聞いてくれた!」 と 私にお礼を言ってくださる。
すべてが仏さまからの賜りモノなのだと聞かせていただいた。

御法話の後、初めてMO先生の元での座談会に参加させていただき、最初の内は緊張したけど、とてもわかりやすいお言葉をいただき徐々に緊張もほぐれていった。
しかし、私を中心に場が進行していくと、いつもの如くどんどん身体が硬直してきて御法と向き合うことができなくなってしまった…。
覚えているのは、「南無の心を聞くんだ!」と言われたMO先生の恐い目と、「‘南無阿弥陀仏’と称えよ!」というお同行方の声と、それと、自分の心しか見つめていなかった私のすがた・・・・・

座談会の後、MRさんとお話をする時間をいただいたが、胸中にいやらしくへばり付いているドロドロとしたモヤモヤは、少しも取れないどころか、どんどん増幅して私を締め付けていった・・・・・

夕食の後の座談会では、私と双子姉妹だと称されているYKちゃんを中心に座は進行していった。
初めの内はYKちゃんの焦りとか嘆きのようなものを生きた言葉で聞かせてもらっていたが、だんだん私の中で響きがなくなってきて、そうしたら他のお同行方も同じように感じたようでYKちゃんの話しは打ち切られてしまった。
あぁ、なるほど・・・・・  自分の心だけをみつめていてはダメだけど、自分の心を見失ったまま頭だけで言葉を紡いでも意味がないんだな… と思った。

そして夜の懇親会の席でのこと、HRちゃんから 「なっちゃんはそこまで聞かせていただけているのに、どうして喜べないの?」と言われた。
苦しいばっかりで、どうして喜ぶことなんかできるのだろう… というのが本音で、この時はHRちゃんの言っていることがよくわからなかったけど、この後G先生とお話しさせていただくご縁をいただいて、なんとなく、薄らぼんやりとだけど、どうして喜べないのかということが少し見えてきたような気がした。
つまり、私は私の心ばかりを見ているから…、その泥沼には何も喜ぶ種がないから喜べないんだろうな~ぁ と… 思った。

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