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仏に成るこそ不思議よ [仏法]

先日参加させていただいた御法座の御讃題で、蓮如上人の『御一代記聞書』より、

法敬坊、蓮如上人へ申され候ふ。 あそばされ候ふ御名号焼けまうし候ふが、六体の仏になりまうし候ふ、不思議なることと申され候へば、前前住上人(蓮如)そのとき仰せられ候ふ。  それは不思議にてもなきなり。 仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。  悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。

との御文をいただいた。  
あぁ、このお話し、以前聞かせていただいたことがある…。

(私訳) 法敬坊というお弟子さまが、蓮如上人に申し上げた。
「蓮如さまより頂戴した‘南無阿弥陀仏’ の名号本尊ですが、先日の火事で焼けてしまいました。
しかし、その‘南無阿弥陀仏’の六つの文字が、炎の中で六体の仏さまになったのでございます。
不思議なことでございました」 
と申し上げると、蓮如上人は、こうお答えになられた。
「それは不思議なことではない。 ‘南無阿弥陀仏’の六つの文字はもともとが仏さまなのだから、仏さまが仏さまになることには、何の不思議もない。
それよりも、罪悪深重の泥凡夫であるこの私が、‘南無阿弥陀仏’の御救いで、仏にならせていただくことこそ、まことに不思議なことよ」  と。

ずっと前、初めてこの御文をいただいた時には、「六字の名号が六体の仏になる不思議」こそ不思議だと思い、後半の、「悪凡夫が仏になる不思議」というところには、全然見向きもしていなかった。
だって、六つの文字が炎の中で仏像のようなシルエットを描くという場面は空想できても、 ‘悪凡夫の私’ ということも ‘仏に成る’ ということも、まったくわからないのだから、想像のしようがない・・・・・

仏法聴聞を始めて一年経つが、やっぱりまだまだわからない。
だけど、以前は見向きもしなかった、「仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。
悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。」 の部分だけが、クローズアップされたようにとても気になる。

そして、 「‘南無阿弥陀仏’ が、仏さまそのものだよ」 と聞かせていただけば、「なまんだぶつ」 と私の口から出てくることが不思議に感じられる。
また、 「私は泥凡夫・悪凡夫だ」 と聞かせていただけば、「そうは思えんから泥凡夫なんだろうな~ぁ、 それが迷っている私と言われる所以なのかな~ぁ」 くらいの軽い知識で聞き流しているだけの私が見える。
でもやっぱり、 「弥陀をたのむ一念にて、仏に成る不思議」 と聞いても、ぼやけてしまう・・・・・・

ただ、‘南無阿弥陀仏’が証拠で、‘私’ が証拠。 私が仏になるという、不思議な不思議な教えが仏教なのだと聞かせていただいて、ほんの少しだけ腹を据える気になった。

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