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「ザクロ(石榴)」 は 血の味 ? [随筆日記]

今日、病院の帰り道に、たまたま立ち寄ったお寺の境内でザクロの樹を見つけて、小さい頃、母の実家にあったザクロのことを思い出した。
大人たちは面倒くさがってあまり食べないので、私は遠慮することなくザクロの実をよく食べた。
種ばかりで食べられるところは少ないけれど、その水々しい独特の甘酸っぱさが好きで、私は、ザクロの実がパカッと割れて食べ頃になる日を楽しみに待ったものだった。

2978478ある日、おばあちゃんの家の庭先でザクロをほお張っていた時のこと、誰かは忘れたが、「ザクロは人間の血の味がするよ」 と言われたことがあった。

あれから数十年の月日を経て、仏跡を求めてインドを訪問する機会に恵まれた私は、これに関連して読んでいた本の中より、『訶梨帝母(かりていも)』の話を知り、「あぁ… そういえば、子供の頃、これを教えてくれた人がいたなぁ…」と不意に思い出した。

ザクロ(石榴)の原産地は、東イランから北インド・ヒマラヤ山地。
『訶梨帝母』のお話しは、お釈迦様がおみえになった2,500年前の北インドでの仏教説話である。

武将・般闍迦(はんじゃか・パンチーカ)の妻である訶梨帝母(かりていも・ハーリティー)は、五百人あるいは一万人ともいわれる子供を持ち、我が子を育てるために他人の子供を捕えては喰らう鬼母であったそうだ。
これに困り果てた村人たちがお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は訶梨帝母が最も愛していた末子の愛奴児(あいぬる・ピンガーラ)を隠してしまわれた。
そしてお釈迦様は、最愛の末子を失って嘆き悲しむ訶梨帝母に、子供を失った母親の苦しみを諭し、訶梨帝母に吉祥果(ザクロ)の実を与えて、人肉を食べないようにと約束させて仏教に帰依させたそうだ。
以後、訶梨帝母は子供を守る神・鬼子母神(きしもじん)となった、という説話である。

このお話しを知ってか知らずか、「ザクロは人の血の味がする」と教えてくれた誰かさんの言葉を思い出しながら、今年は、久しぶりにザクロを食べようかな?と思った。
また、ザクロの実がパカッと割れて食べ頃になる日を楽しみに待つことにしよう。

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云わぬは鬼の「業魂」 [心]

「人が云う」、と書いて 『伝』(つたえる) という字になる。
「鬼が云う」、と書いて 『魂』(たましい) という字になる。

「云」という字の語源は、「雲」を表した象形文字であるが、『詩・経』などでもわかるように、「雲」という意味合いはなく、「音」を表し、また「これ」・「ここに」などの意味を持つ。
一方、「鬼」という字は、隠れて人の目に見えないものという意味の、「隠(おん)」が転じて「鬼」になったのだと言われ、これは「霊」と同じような意味を持ち、目には見えないが死んでも残る霊魂を意味し、また万物に宿る精霊を表すこともある。
この「云」という字と「鬼」という字を組み合わせて、「魂(たましい)」という形声文字が作られた。

「人が云う」と書いて『伝』(つたえる)という意味になることを考えた時、これは大いに納得できる。
「云う」は、「言う」の旧仮名遣いである。
人は言葉を言(云)い表わすことによって、思い・考えを伝えるという手段を持っている。
逆に、何も言(云)い表さなければ、その心も考えも相手には伝わらないのである。
もちろん、言葉には限界があるのは事実だ。 
だからこそ、言葉では伝えきれないものまで伝える時には、手紙や電話などではなく、人と人とが直接会って言い伝えることが大切だと私は思う。

では、「魂」とは何か?
ある辞書によると、「魂とは、死しても残る心である」とあり、また別の辞書では、「鬼(死者の霊)が云(めぐる)という語源を元に、休まずにめぐる霊魂」と書かれてあるものもあった。

『伝』という字と同様に漢字のつくりで考えた時、「鬼が云う」と書いて『魂』(たましい)という字になる。
「鬼」という字を語源通りに、「人の目には見えない“私という霊魂”」、または、「死しても残る“私という霊魂”」であると解するならば、“私という霊魂・本質”が持っているその思い・考えを云い伝えてこそ、『魂』といえるのであって、「云わぬ」はただの「鬼」であるともいえる。

では、“私の霊魂” “私の本質” とはどんなものなのか ・・・・・・?

さて・・・・・・  これが、自分の事ながらさっぱりわからない ・・・・・

その時々の縁によって出てくる、常にコロコロと変化し続ける、いわゆる“心”というものは、私の本質とは違う。
仏教では、この “私の魂・本質” を、『業魂(ごうだましい)』 というのだと教えてもらった。 
「業(ごう)」というのは、「自業自得」の「業」と同じで、私がやったこと・行いであり、その「業」のすべてを溜め込んだ“蔵”のようなものを 『業魂』 というのだと聞いた。
日々の生活の中で、言ったこと、行ったこと、思ったことの全てが 私の『業魂』となり、これが死しても残る“魂”であり、私の“本質”なのだと・・・。

[ひらめき]あぁ、そうか!!!
三日前からず~~~っと心にひっかかっていた 「“魂”って何?」という疑問を解決する糸口が見えてきたような気がする[exclamation]


私にとって、「書きつづる」という行為は、自分との対話のような気がする。
頭で考えているだけではわからないことも、文字にすることで気付かせてもらえることが多々ある。
「人に云う」ことが『伝える』ということならば、私にとって「鬼が云う」ということは、私という鬼が私に『魂』の存在を云い伝えてくれることなのかもしれない。

今、「“魂”って何?」という引っ掛かりから、 「“業魂”って…?」という疑問に変った。

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