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魂の重さ [心]

20世紀の初頭に、危篤状態の人を精密な秤の上に乗せて、死の直前の体重と、臨終後の体重を計測した医師がいた。 アメリカ・マサチューセッツ州のDr.ダンカン・マクドゥーガル博士である。
この時の実験結果は新聞や医学雑誌に取り上げられたものの、実際は実験基準もいい加減で学術的には認められていない。
しかし、彼が実験で得た、「人間の魂の重さは21グラムである」 というデーターは、俗説として世間に広まった。

「魂」って何なのだろう?

「私」って何なのだろう?

すごく無意味な疑問でもあり、 すごく重要な問いかけでもある・・・  ただ、そんな気がする・・・。

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初蝉の 声に聞くや 弥陀の慈悲 [随筆日記]

昨日、7月に入った初日の夕刻、雨の降り出す少し前に、初蝉の声を聞いた。
そして今朝、雨上がりの庭先で、また一匹のニイニイゼミが不器用に声をあげた。 昨日と同じ子かな?
しかし、夕暮れが近づくにつれて、また一匹、あちらでもまた一匹と、新たな蝉の鳴き声が、夏本番の訪れを知らせてくれた。

幼い頃、母に、「セミはね、生まれてから一週間しか生きられないのよ」 と教えられたことを思い出した。
正確に言えば間違った情報だけれども、これを聞いて子供心に、「かわいそうに…」 と思った。

「セミ」と分類される種は、実に世界で3千種を数えるらしい。 日本に生息するものだけでも35種存在する。
「セミ」を研究する生物学者はいないようで、その生態についてはまだ謎の部分が多いようだ。
わかっているのは、夏に、枯れ枝や樹皮などに産み付けられた卵は、年を越して翌年の梅雨の頃(ニイニイゼミは同年の秋)に孵化する。
卵から孵った幼虫は、枯れ木の表面で最初の脱皮を行った後、木から下り、地中へと潜り込んで、木の根元で長い地下生活に入る。
その地中生活の期間は種によって異なるものの、3年から 長いもので17年もの月日を、土の中で樹液を糧としながら脱皮を繰り返して成長し過ごすのだそうだ。
終齢幼虫になると皮下に成虫の体と複眼が出来て、この頃には土の中より地上の様子を窺うようになる。
そして夏の晴れた日の夕方、地上に出てきて周囲の樹などに登り、辺りが夜闇に包まれる頃、最後の脱皮をして成虫(羽化)となる。
一晩をかけて外界の空気を体いっぱいに取り込んで、夜が明ける頃には外骨格が固まり、朝日の中で初飛行にTRYする!
が、しかし、初めのうちは上手く飛べないし、すぐに鳴けるわけではない。
ちなみに、セミが鳴くのはオスがメスを呼び寄せるため、すなわち繁殖のためであって、メスは鳴かないのだそうだ。
成虫となったセミの寿命は、残り二週間前後。  この期間に、恋をして、子供をつくる。

実際、卵から孵って成虫になるまでの期間を考えると、セミの寿命は昆虫の中ではかなり長いといえる。
でも、そうは思えないのは何故だろう・・・・・?
ただ土の中にいて、木の養分を本能のままに吸い取っているだけでは、「生きている」とは言えないのではないか…、と思ってしまうからだろう。
じゃ~、人間は…、私はどうなんだろう・・・・・?
煩悩の赴くままに五欲に任せて行動しているだけで、「生きている」って本当に言えるの?
「何のために生きているの?」 = 「生きるために生きているの!」 
これではセミと変らない・・・・・
「何のために人間に生まれさせてもらったの?」  
この答えを求めてこそ、「人として生きている」って言えるんじゃないかな~ぁ

母から、「セミの寿命が一週間しかない」って聞かされた時、「かわいそうだなぁ」と思ったのは、人間に比べてセミの寿命が余りにも短すぎると感じたからだ。
寿命無量の仏さまから見た私も、たかだか7,80年の短すぎる寿命を憐れに思われたのだろう。
煩悩を満たすことだけに四苦八苦して、罪を造るだけ造り、あっという間に地獄へと堕ちて行かねばならない私を見かねて、立ち上がらずにおられなかったのだと聞かせていただいている。
これを聞かずして、人間に生まれさせていただいた喜びなど、語れることあることなしと…。

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形原温泉 あじさいの里 [随筆日記]

先週は、かなり気持ちの滅入ることが続いて、BLOGの更新が出来なかった。
そんな中、気分転換にと西浦さんが、形原温泉のあじさいまつりに連れて行ってくださった。
形原温泉あじさいの里へは、2,3年前に一度だけ来たことがあったが、その時は日の光を浴びた紫陽花を観賞したのみで、今回のようにライトアップされた夜の紫陽花を見るのは初めてであった。
早めの夕食を済ませて、すっかり日の落ちた頃に形原温泉へと向かう。
あじさいの里に着くと、駐車場にはまだ余裕もあって、人の入りはさほど多くはなかった。

2967914車から降りると早々に、梅雨真っ盛りの湿気に包まれて、気持ちの良いものではなかったが、園内に入るとすぐに色艶やかな紫陽花の花々に迎えられて、気持ちも高揚してきた。

補陀ヶ池を時計回りに歩いて行くと、池の周囲に電飾されたライトの灯りが水面に映って、幻想的な夜の世界を作り出していて、とても美しいと思った。

形原温泉あじさいの里には、五万株のあじさいが植えられており、これは東海地区随一の規模なのだそうだ。
手入れが行き届いているかと問えばそうとは言えないが、地形を利用した園内は、それなりに楽しめる。

私たちが行ったのは六月の最終週ということもあって、紫陽花の花も既に盛りを越えて色香を失っていたが、夜闇の中でライトアップという化粧をほどこされた紫陽花たちは、それなりに美しく妖艶であった。

途中、私が写真撮影に夢中になってしまった為、西浦さんとはぐれて一人になってしまった時、数日来の睡眠不足が祟ったのか、軽いめまいを感じて座り込んでしまった。
水面に揺れる明かりを見ながら、なんだかすごく切なかった。 「私、何やってるんだろう・・・」
しばらく休んでから再び歩き出して、ゲートの近くで西浦さんの姿を見つけた時は、何故だか必要以上にホッとした。

     紫陽花も 光を受けて 闇に浮く   闇ありてこそ 光も見ゆる
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