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夏旅 2009  ~ 四日目 ~ [Travel]

09:09発 八戸  → 09:55着 野辺地 (東北本線/普通)
10:07発 野辺地 → 10:55着 下北 (大湊線/快速) 
11:05発 下北駅 → 11:48着 恐山 (下北交通バス/恐山線) 

15:50発 恐山   → 16:20着 むつバスセンター (下北交通バス/恐山線)  
17:10発 むつBC → 18:11着 下風呂 (下北交通バス/佐井線)
 
今日は青春18きっぷの使用はせず、八戸から下北まで通常料金の1,890円で切符を購入し、2時間弱の列車旅。
下北駅で下車して、今度はバスで本日の目的地である恐山まで移動する(30分/750円)。

お昼少し前に恐山に到着。
昼食をとってから見学をしようと思ったが、全然お腹が空いていなかったので先に見学してから、途中でお腹が空いたら食べることした。
しかし結果的に今日のLunchは食べ損ねてしまい、昨日気仙沼で購入したリンゴどら焼きと手持ちの非常食で空腹をしのいだ。
ちなみに恐山のお食事処は山門前の一箇所のみであるが、入山チケットは当日有効なので入退場は自由とのこと。
そしてここにはコインロッカーがないので、スーツケースをチケット売り場のお兄さんに預かってもらって、入山料500円を支払いさっそく入場する。

(恐山について語りたいことは山とあるが、ここでは省略。
ただ一つだけご案内、 恐山周辺では、携帯電話は圏外となるのでご注意あれ。

下北・むつ ⇔ 恐山 間の公共交通機関は下北交通バスのみ。
NETでは何本かバスがあるように表示されているサイトもあるが、今春のダイヤ改正で、現在一日4往復しかしていない。
私はこれを知らずにNETの時刻表をあてにして計画を立ててしまった為、今夜の宿入りの時間が予定よりも一時間以上も遅れることとなってしまった。

今夜のお宿はむつの町からバスで一時間(1,250円)ほど北上した下北半島の東海岸に位置する下風呂温泉のお宿、さが旅館にて世話になる。
こちらは一泊二食付きで10,650円と、今回の旅では最高額となった。
宿は古くて小さいけれど、お食事はなかなかの素材であったし、何といっても温泉がホントに気持ちよかった!

さてさて、明日からの予定は半分未定であったが、今朝になって来週早々の予定が入ったので、明日帰宅することにした。
希望としては、このままは青函トンネルを抜けて北海道へ!とか、五能線で日本海沿岸を南下する!とかしたいけど、時間的にも金銭的にもそこまでの余裕はないし…、次回のお楽しみと言うことでとっておくことにする。
しかし、何はともあれ、「帰ろう」という気持ちになっただけでも、この旅の成果だと私は思う…。
で、さっそくNETで飛行機のチケットを予約する。
今は、搭乗日の前日でもディスカウントのエアーチケットがサクサクっと予約できちゃう、とっても便利な時代になった!
新幹線とほぼ同料金で、新幹線なら7時間かかるところを飛行機なら1時間半で帰れちゃう。

さ~ぁ! 明日はいよいよ最終日となったわけだし、無事に楽しくこの旅を終えたいな!
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夏旅 2009  ~ 三日目 ~ [Travel]

08:55発 松島  → 09:16着 小牛田 (東北本線/普通)
09:27発 小牛田 → 10:53着 気仙沼 (南三陸1号/快速) 
11:21発 気仙沼 → 12:20着 盛 (大船渡線/普通) 
12:35発 盛    → 13:28着 釜石 (三陸鉄道南リアス線/普通)  
13:41発 釜石  → 14:58着 宮古 (山田線/普通) 
15:10発 宮古  → 16:42着 久慈 (三陸鉄道北リアス線/快速) 
16:50発 久慈  → 18:45着 八戸 (八戸線/普通) 

と、今日は今回の旅の難関を一つクリアーして、青森県八戸市までやってきた。

もともとのプランは、松島から八戸まで素直に東北本線で北上しようかと思ったが、せっかくだし少々の無理は承知の上で、三陸リアス式海岸沿いをローカル線で旅することにした。

今日の移動乗車時間は、およそ10時間。[耳]
一本でも問題がおこれば目的地にたどり着けない可能性もあるので、ちょっとドキドキ!
料金については、途中、第三セクターの三陸鉄道を利用するので、この二区間は青春18きっぷの使用はできず実費負担となる。
まず、盛 → 釜石 の 三陸鉄道南リアス線は、通常運賃1,050円のところ、窓口にて青春18きっぷを提示し、「とく割フリーパスで!」と言うと、530円で乗車ができる。
宮古 → 久慈 の 三陸鉄道北リアス線も同様に、通常運賃1,800円のところ、「とく割フリーパス」なら、900円で乗車ができる。
そ~ゆ~私自身、これを知らずに通常運賃を支払って乗車してしまったが、八戸まで来て観光案内所で三陸鉄道のチラシを見つけて読んだら書いてあった…。 悔しい~[ふらふら]
駅員さんは教えてくれないので、「とく割フリーパスをください!」と自ら言わないと半額にはならないのでお一つお勉強!
ということで、松島駅から三陸鉄道経由で八戸駅まで通常運賃8,180円が、青春18きっぷ利用では、3,730円となる。

さてさて、 朝は宿で和定食の朝食をいただき、食べきれなかったご飯で大きな梅干入りのおにぎりを包んでいただいた。 
これぞ、小さなお宿だからこそできる、お客のわがまま特権である!

今日は、ひたすら列車に乗り継ぎながら前進あるのみで、お昼ご飯を購入できる場所は、気仙沼駅にあるキヨスクのみ。
ここでは三種類の駅弁しかおいてなかったが、売店のおばちゃんお勧めの‘黄金龍のハモニカ飯’500円は、安いし、そこそこのお味でした。
これにプラスして やっぱり おばちゃんお勧めの りんごどら焼きも購入したが、まだ食べていない…

旅日記の詳細は、もし帰宅できたら、後日改めてBLOGにUPする予定なので、今日は省略。

ザザッと話は飛んで、 今日のお宿は、八戸駅から北東に徒歩2分のところにある Comfort HOTEL 八戸にて宿泊。
数量限定のサマーバリュープラン(7月のみ)は、一泊朝食付きで、なんと3,800円と激安![exclamation]
フルサービスでお部屋も立地条件もGoodなのにこの値段はちょっと驚き!!

そして今夜の夕食は、HOTELの前に郷土料理の居酒屋さんがあったので、夜遅くに出かけて、‘うにラーメン’(780円)のみ いただいた。

しかし…、 やっと青森までたどついた!と言う感じ・・・・・
「どこから来たの?」
「愛知県からローカル線で三日がかりできました!」
「・・・・・・・ 嘘や~! ・・・・・・本当に?」
と、会話のネタにはなる。

明日は、最終目的地の恐山に向かう予定。
ここだけが、今、行きたいと思いついた場所なので・・・・・・・・・

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夏旅 2009  ~ 二日目 ~ [Travel]

08:45発 宇都宮 → 09:35着 黒磯 (東北本線/普通)
09:39発 黒磯  → 10:40着 郡山(福島) (東北本線/普通) 
11:06発 郡山  → 11:54着 福島 (東北本線/普通) 
12:00発 福島  → 12:33着 白石(宮城) (東北本線/普通)  
12:37発 白石  → 13:26着 仙台 (東北本線/普通) 
13:58発 仙台  → 14:33着 松島海岸 (仙石線/快速) 
15:00発 松島湾 定期観光遊覧船

という感じで、今日は宮城県の松島に来ている。
今日も、大よそのスケジュールだけの記録であるが… (^^ゞ

HOTELで朝食を済ませて早めに駅へと向かい、冷房のきいた待合室で朝刊に目を通す。
今日の乗車時間は約6時間で、正規料金は4,620円のところ、青春18きっぷなので2,300円。
各線の乗車時間が短く、乗り継ぎ回数が多いのが面倒であったが、ま~ぁ仕方がないね…
宇都宮から仙台までは東北の各県主要都市をつなぐ東北本線で、今日は松島湾クルーズを予定していたので、仙台から仙石線(一部地下鉄)に乗り換えて松島海岸駅で途中下車した。
この間、Lunchを食べられる場所は、乗り換え時間(26分)に余裕のある郡山駅で駅弁を購入して車内で食べるか、私のように仙台駅での乗り換え時間(32分)に遅めのLunchを大急ぎで済ませるかのどちらかになるかな?!

松島湾の定期観光遊覧船について
松島の遊覧観光を楽しみたいのなら、まず自分のプランにあった観光船の会社をChoiceすべし!
松島発着なら、松島島巡り観光船企業組合、松島ベイクルーズなどがある。
松島⇔塩釜なら、松島湾観光汽船、丸文松島汽船、松島ベイクルーズ、ニュー松島観光汽船などがある。
各社にてさまざまなプランを提案しているので、旅計画に合った時間と好みの内容を選び、またNETで事前予約をすると料金も割引されるので利用されるとよい!

ちなみに私は、定期観光遊覧船がそんな何社もあるなんて知らなかったから、検索して一番トップに出てきた会社、松島ベイクルーズにて「松島湾ひとめぐりコース」を予約し乗船した。
松島ベイクルーズの船は、他の会社の船と比べてすごく小さい。
それ故に乗客も少なくて、大勢は苦手、団体と一緒はイヤ、甲板でクルーズを楽しみたいという人にはお勧め!
というのも他社の船は、二階建て三階建て客船で、ほとんどが船室内からの遊覧観光になるのに対して、私が乗った松島ベイクルーズの船はフラットな作りで、後方三分の一はデッキである。
ま~ぁ、結果オーライというところ[手(チョキ)]
運賃は、割引料金で1,260円(正規料金は1,400円)、 50分の遊覧観光であった。

下船後は松島海岸を散策しながら徒歩で宿へと向かった。
今日のお宿は、HOTEL NEW 和楽 という小さなビジネス旅館。
お値段は一泊二食付きで8,400円! しかも夕食は海鮮魚介類がズラリと並ぶので、とってもお得感がある。
観光向きの宿ではないが、安く!美味しく!を基本にしている人にはお勧め!
ちなみに、東北本線・松島駅から徒歩5分の距離にある。

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夏旅 2009  ~ 一日目 ~ [Travel]

06:32発 名古屋 → 08:25着 浜松 (東海道本線/区間快速)
08:38発 浜松  → 11:08着 熱海 (東海道本線/普通) 
11:14発 熱海  → 13:02着 東京 (東海道本線/普通) 
13:08発 東京  → 13:13着 上野 (京浜東北線/快速)  
13:51発 上野  → 15:41着 宇都宮 (東北本線/普通) 

こんな感じで今日一日、約9時間の長旅の末、今、栃木県宇都宮にいる。
事細かに旅BLOGを綴りたい気持ちは山々だが、まだ旅の途中…。
静養することも旅行中には大事な行事の一つということで、自分の旅記録として、また青春18きっぷで旅をしてみようかな~ぁ、なんて思っている人の参考資料になれば…程度の情報だけをUPすることにして、旅日記は、無事に帰宅できた後、じっくりゆっくり書こうと思う。

上記スケジュールを正規運賃で支払うと8,000円を超過するが、青春18きっぷの利用なので運賃は2,300円とかなりのお得!
その他プランとして、東京駅から大宮→宇都宮と乗り換えるプランや、東京駅まで行かずに品川で乗り換えて大宮→宇都宮というプランでもOKなのだが、要はどこでLunchtimeを取るかである。
今日は気分的にゆっくりと電車に乗っていたかったので上野駅乗換えを選択し、上野にて駅弁を購入(900円)して、そのショップの飲食コーナーで昼食をとることにした。

宇都宮には夕刻に到着し、駅前のCHISUNHOTEL宇都宮を宿とした。
スタンダードシングルプラン朝食付きで6,300円を、料金そのままでプランのグレードアップをしてくれた、とても親切なホテルである。

夕食は、宇都宮といえば何と言っても宇都宮餃子でしょ~!!
数ある餃子店の中から私が選んだのは、宇都宮餃子館!
いたって定番だが、定番だからこそ地元の味がいただける…、なんて言うのは建て前だが、味はGOODだったよ!
おみやげにと宅配餃子の注文までしてしまった・・・

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夏旅 2009  ~ プロローグ ~ [Travel]

夫に家出の許可をもらって、今朝早くに家を出た。
久しぶりの一人旅
この夏は、南西の方角・山陰方面に行きたいと思っていたが、今、私は、北東の方角に向かう列車に乗っている。
まるで間逆…  それが、今のありのままの私なのかもしれない・・・・・・

そろそろ通勤ラッシュの時間を迎える快速電車の中、何とか座席を確保が出来たので束の間の安堵の中、持参したノートパソコンを開いた。
しかし、列車での旅は久しぶり。  二年ぶりくらいかな?
それに、青春18きっぷを利用しての一人旅は、実に今回が初挑戦、初体験となる。

「どこか遠くへ行きたい…  こうしてジッとしていたら、私はどんどん腐敗してしまう…」  
そんな思いが、おととい日曜日の夜明け前に爆発して、今回の家出となった。
そして行き先を考えた時、たった一つだけ行きたい場所が脳裏に浮かんだ。

一昨日早朝、ベッドから起き抜け早々、丸一日かけて旅の構想を練り、今、いよいよ旅のプログラムが実行に移された。
旅の始まりはいつも不思議なオーラに包まれるが、一人旅の時はそれが格別の色合いをかもし出す。
不安 、希望 、孤独 、出会い 、勇気 、恐れ 、緊張 、喜び 、発見 、感動 ・ ・ ・ ・ ・
私にとって “旅” とは何だろう?   
“運命の1ページ” …  かな?    私の“業”に遵って、たくさんの物語が生まれる。
そういえば、前回は二人旅だったけど、それは私に‘別れ’という運命を与えてくれた。
だから今回の旅では、素敵な‘出会い’という運命にめぐり合えるといいな~ぁ…。
なんてネ!

思い切って出かけてみてよかった…  少なくとも今はそう思っている。
こう見えても、やっぱり唐突の家出だったし、ほぼ無計画な決断だったので、けっこう勇気を要したのである。

モバイルエリアやバッテリー等の条件が許す限り、BLOGでスケジュールの更新くらいは出来たらいいなって思う。

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阿弥陀さまからのお手紙 [随筆日記]

3032589今日、阿弥陀さまから、お手紙をいただきました。

どんな薬も私の不安を打ち消すことが出来なかったのに、
その 不思議な 不思議な お手紙で、
私は 私を 取り戻すことが出来ました。
そうしたら、見えなかったものが見えてきて…、
今、それを思い出すととても恥ずかしく、そして申し訳なく、
別の意味の不安が湧いてきます。

実は私、自律神経失調症と診断され現在通院しています。
お薬に頼らざるを得ない日が、ここしばらく続いていました。
心理療法は…、残念ながら効果を得ず、(原因は私にある)
チョット行き詰まっていたところでした。

心も身体も元気じゃないと仏法は聞かれないって、
こういうことだったんだな、って わかりました。

あと、聞法は、私と阿弥陀さまとの問題だっていうことも…

今日の涙は、お馬鹿な私の落し物です…
阿弥陀さま、お手紙どうも有り難うございました。 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・・・

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仏法なんて知らなきゃよかった! [心]

3022751今日…、  仏さまに暴言を吐いた。  
溢れ出るまま、勢いのままに罵った。
そうしたら、久しぶりに泣けた。
でもアレは、私の涙じゃなかった・・・・・ 
それが、よくわかった・・・・・

馬鹿みたい…  仏法、仏法、仏法、って…! 
世間の人から見たら変人だわ!
「仏法なんて知らなきゃよかった!!!」
時々そう思うことはあっても、ここまで強く思ったことは今までになかった・・・・・

世間は虚仮で不実だって心底そう思うけど、仏法のみぞ真だなんて、今は思いたくない…。
私の思いなんて関係ないよね、無意味だよね。  そう教えてもらったし、自分でもそう思うよ。
でも私は、私の思いから逃れられない・・・  いつも いつも 振り回されっぱなし・・・

もし、仏法と出遭ってなかったら、こんなにも嫌な思いをすることはなかっただろうし、言葉に傷付き、言葉に振り回されて、自分を見失うこともなかったはず…!
仏法は、私の 生きる権利も 死ぬ権利も 否定して、私に 孤独と 悲しみと 苦しみを与えた。
も~ぉ これ以上、自分を苦悩の沼に埋もれさせたくない…、 
も~ぉ これ以上、自分を悲哀の渦に巻き込みたくない…、
そう思った時、私には仏法は重すぎると感じた。
でも、そんな弱音も、疲れ果てた心も、人格さえも、すべて否定し拒否する仏法って、いったい何なの?!

仏法など聞く気のない自分なのだと知らされることが正しい聴聞だと聞かされて、でも、そんな仏法嫌いの私にも届けられる御法があるんだと感じた時に、すごいな~ぁ、有り難いな~ぁ、という思いは否定されて、それなのに仏法を聞く気のないヤツには何も話す気になれない!と言って拒否される。
だったら最初から仏法なんて聞かなきゃよかった!  聞けないままに知らなきゃよかった…

阿弥陀さまって何なの?!   
阿弥陀さまなんて大嫌いよ!!
阿弥陀さまのお心なんて全然わからないし、私にはどうしたって聞くことが出来ない!
阿弥陀さまのどんな願いも、私にとっては苦しいだけで、大きなお世話でしかない!!
阿弥陀さまなんて知らないままでいい!  私は何もわかりたくもない!!
仏法なんて、知らなきゃよかった・・・・・  そうすれば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう [心]

3022602   そしてわたくしはまもなく死ぬのだろう
   わたくしというのはいったい何だ
   何べん考えなおし 読みあさり
   そうともきゝ こうも教えられても
   結局まだはっきりしていない
   わたくしというのは    〔以下空白〕

宮沢賢治の 『疾中』詩篇より、「そしてわたくしは
まもなく死ぬのだろう」 という題名の詩である。

>> 君は、自分が死んで行かねばならないという
ことに照準が合っていない!
と言われた時に、ただなんとなく思い出して書棚より詩集を引っ張り出してきただけ…。

“詩”の意味なんてどうだっていい・・・  私が知りたいのは、“死”の意味・・・  なんてね、 嘘 … !

も~、どうだっていい・・・・   生きることも…、 死ぬことも…。
後悔にまみれて狂気の中で死んでいく自分の姿が想像できる・・・・・。  それは幸せなこと。
狂ってる・・・ 私・・・・・。  そう思えることもまた幸せ。
笑えない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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伊賀八幡宮の蓮 と 八丁味噌のカクキュー [随筆日記]

  曇天の 池一ぱいに 蓮の葉立ち  揺れもこそせね 紅のはちす  <島木赤彦>

3020769天気予報は晴れだったのに、いきなりの雨…  
でも、朝早かったので何とか花見は楽しめた。
今週末で終盤を迎える蓮の花をもう一度見たくて、自力で行かれる蓮の名所を調べて行ってきた。
岡崎の伊賀八幡宮である。 残念ながら花の盛りは過ぎてしまっていたが、まだ幾つかは蕾も残っている。

伊賀八幡宮は、1470年に松平氏四代当主・親忠が、松平(徳川)家の子孫繁栄の守護神(氏神)として創建された神社で、後に徳川家康によって社殿の改築が行われ、更に三代将軍家光が社殿を拡張して、祖父家康(東照大権現)を祭神に加えた神社である。
本殿・随身門・石橋は、国の重要文化財に指定されていて、その石橋のかかる宮前の池に花蓮が群生している。  規模は小さいが、蓮の花越に見る神社は、なかなかの美しさである!

せっかく岡崎まで来たので寄り道がしたくて、八丁味噌の蔵元へ行くことにした。
八丁味噌の蔵元は、(自称)本家・カクキュー と (自称)元祖・まるや の二社が矢作川沿いに隣接しているが、私が訪問したのはカクキューの方で、こちらは、江戸幕府三代目将軍家光の時代・1645年に創業した八丁味噌の老舗である。
NHKの連続テレビ小説「純情きらり」の舞台となったことでも有名(?)なのだそうだ。

駐車場には観光バスが2台とまっていたが、一般車両はゼロ。
売店に入ると案の定ツアー客でごった返していたが、しかしそのおかげで人目をはばかることなくアレコレと試食が出来たのでLUCKYだった ♪
入り口の看板に工場見学(無料)の案内があったので店員さんに尋ねてみると、一人でもOKとのことだったのでさっそく申し込んで、30分毎に出発する見学ツアーに参加することが出来た。
団体客とは時間がずれていたし他にお客さんもいなかったので、見学ツアーは、ホントに「私一人の為」にガイドさんがついて案内をしてくれることになった。 (こんなことは滅多にないのだとか…(^.^ゞ)

3020770工場敷地内には、古くは江戸時代に建てられた味噌蔵が現存するほか、明治時代に建てられた味噌蔵などが、国の登録文化財に指定された状態で資料館や本社事務所として現在も活用されている。
敷地内は昭和初期の面影を残しており、とても工場といった感じではないが、大豆を蒸す香ばしい香りや、醸造中のなんともいえない良い香りが漂ってきてお腹がなってしまいそうだった。
資料館で一通りの説明を受けた後、いよいよ熟成蔵へ!
味噌を仕込む巨大な木桶は直径2mもあり、この中に6トンの味噌を仕込んだ上に、3トンの石を山形に積み上げ、二夏二冬以上かけてじっくりと醸造させる。
八丁味噌の大きな特徴は、豆から生成されるということと、使用する水分が非常に少ないというここと、年月をかけて天然醸造されるということなのだそうだ。
辛味の割には塩分は控えめとのことで、健康食・美容食としても注目されているとの宣伝を受けて見学は終了!
ツアーの最後にはお味噌汁や味噌田楽の試食コーナーもあり、アンケートに答えれば赤だし味噌のおみやげまでもらえちゃうという至れり尽くせりの社会見学が出来た。

3020771この後、ランチタイムにはかなり早い時間だったけど、工場内にある御食事処で味噌田楽定食と味噌ソフトクリームパフェをいただいた。
← こちら、勇気のある方はぜひ試してみよう~[exclamation] 
味噌ソフトクリームをベースに、味噌カステラも入っていて、横に挿してあるのは味噌プリッツで、トロリとかかっているのは田楽味噌[手(チョキ)]
みそみそ尽くしの甘辛さでお口の中はかなり騒がしいけど、きっと良い思い出になるでしょう[わーい(嬉しい顔)]
ちなみにお値段は¥400です[るんるん]

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琵琶湖 ~ 烏丸半島 の 花蓮群生地 ~ [Travel]

     ひとたびも 南無阿弥陀仏と いふ人の  蓮の上に のぼらぬはなし

3019711『拾遺和歌集』 にある 空也上人 の御歌である。

滋賀県草津市の最北、琵琶湖に突き出した烏丸半島東側の赤野井湾に日本でも有数の野生の花蓮が自生している。
草津市立水生植物公園に隣接したその花蓮群生地は、13.6haの広さを持ち、一面の蓮華は、夢物語に聞くお浄土の風景を感じさせてくれる。

今年こそはぜひ見に行きたいと思いつつも、なかなかスケジュールを立てることが出来ずにいたが、今週になって唐突にその願いが叶った。
心身ともに疲れ果てていた私を見兼ねてか、御自身の体調が優れないのにもかかわらず早朝から私を連れ出してくださった優さんに、感謝と申し訳のない気持ちでいっぱいであったが、琵琶湖畔のドライブは、開け放たれた窓から吹き込む朝の風がとても気持ちよくて、少しずつ心に元気が戻ってくるようであった。

朝の6時半頃、草津市立水生植物公園に到着。 既に駐車場には多くの車がとまっていた。
蓮の花は朝6時頃に満開を迎え、昼に向かって花を閉じてしまうので、写真目的の人らは、朝の5時半頃から花見に訪れる。
駐車場から植物園の脇を抜けて琵琶湖畔へ出ると、一面の蓮の花に圧倒される。

3019710

ここの蓮は、半島の地名より烏丸産(唐洲間産・カラスマサン)と呼ばれ、1,200年程前に比叡山の高僧最澄が蓮花の名勝地であった琵琶湖岸の蓮海寺に蓮を植えられた際、近くの芦浦観音寺にも立ち寄られて堀に植えたものが、ここ烏丸半島に流れ着き群生化したのだと言い伝えられている。

数多くのカメラマンの合間を縫うように、しばらくの間私も写真撮影に没頭したが、小さなカメラしか持ってこなかったのが悔やまれた。
出来ることならまた来たい、毎年もぜひ来たいと思うほど素敵な場所だった。

   梅雨空の 晴れぬ心を 唐紅(とうべに)   染める蓮(はちす) 愛しき薫り

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皆既日食 [随筆日記]

ここ日本では46年ぶりに皆既日食が見られるとあって、メディアも世間もこの話題で賑わっている。
さほど興味のなかった私であったが、今日のA.M.11:00に待ち合わせの為に、たまたま外出先にいたので何気なく曇り空を見上げてみたら、雲の切れ間から三日月状に欠けた部分日食の太陽を見ることができた。
そうなると嬉しさがこみ上げてきて、ついつい近くにいる人に教えたくなり、通りがかりの見知らぬおばさんをつかまえて、「見て、見て! 部分日食が始まったよ!!」と声をかけた。
おばさんには、「何、こいつ? 何、言ってんの?」と言わんばかりに迷惑そうな視線を向けられたが、私が指さす空を見上げると、「あっ、ホントだ! 太陽が欠けてる…」と、柔らかな表情で空を見上げていた。
「ほら見て、日食しているよ!」と近くにいたお兄さんにも声をかけると、周りにいた人たちも皆一様に無言で空を見上げた。
それが面白くて、そしてなんだか嬉しかった。

日本で見られる次回の皆既日食は、26年後の2035年9月2日なのだそうだ。
さてはて、 この命… もつだろうか・・・・・?

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捨ててしまいたい・・・・・・ [Poem]

何もかも投げ捨ててしまいたい・・・・・

生活も…、
人とのつながりも…、
愛も…、

「命だってくれてやる!」 と 叫び出したくくらいなのに、

なのに…、  
でも…、
たった一つだけ捨てられないものがある・・・・・

それは、私…

私は、私を捨てられない・・・・・

一番捨ててしまいたいものなのに、
一番捨てることが難しくて・・・・・

自分に縛られ、
自身によって振り回され、
自らが造った苦しみの世界に沈み、

私は、独り怯えながら
自分で自分の肩を抱きしめることしかできない・・・・・

何もかも、もう要らない・・・・・

そんなの嘘!
私は欲しいものだらけ!!

唯一大切で、唯一愛おしい私の為に、
私は必死にもがき苦しんでいるだけ・・・・・

だから、私なんて要らない!!!

一番捨ててしまいたいものは、
この私自身・・・・・・・・・

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実世界で知る 仏さまのお働き [随筆日記]

会館デビュー・一周年を記念する一泊二日の宿泊法座が終わった。
この御法座について今は何も触れたくはない… というのが正直な心境であるが、今日はこの法座のこと以外に何も思い浮かばないので、しかたなく今現在の心境を日記として少しだけ触れることにする。
いつもなら非公開にする御法座日記をちょっとだけUPする気になったのは、今回の御法座では御座以外の場所、例えば休憩時間や懇親会などの席上で、けっこう自分の本音を出せたからかもしれない・・・

いつも、毎度、御法座で思うこと…、
私の傍らには常に寄り添ってくださる諸先輩方おられ、私に一時も自分の世界へと入り込む隙を与えてはくださらない。
トイレに行く暇もないほどの仏法三昧で、「阿弥陀さまは四六時中、この私に付きっ切りで御働きくださっている」 という教えを、実世界にて肌で感じさせていただける。
Yuさんの言葉を借りるなら、「諸先輩方を総動員させている稀なヤツ」が私・・・・・
裏を返せば、「諸先輩方を総動員させて助力しなければ何ともならない程の超問題児なヤツ」が私・・・・・
これを、時には有り難がってみたり、時には腹いっぱいと拒んでみたりと、自分の都合でそれら御縁をことごとく切りつけていく私というモノが、今回は今までになく深く知らされた…。

この御法座の前夜、極度の緊張状態から心身ともにバランスを崩してしまい、これを半分ほどひきずったままで今回の御法座に臨んでしまった為、初日の御法座はとても仏法どころではなかった。
体調不良をかばうこと、 心を法に集中させること、 いつ・どのような理由で逃げ出そうかということ、そんなことばかりに気をとられていたが、初日の座談会の最後に、このことを告白できたことで少しは楽になれた。
それでも夜の懇親会は欠席させてもらおうと心に決めていたものの、相変わらず緒先輩方が次から次へと関わってくださる。
「帰ります!」と宣言しても、「お風呂から帰ってくるまで待ってて」、「車で送ってあげるからもうちょっと待ってて」などとサラリッとかわされてしまう。
そんなこんなで帰る機会を失いながらズルズルと時間は流れ、途中からいつもすごく親身になってくださっているYMさんとHMさんに両脇を支え(固め)られて、特にYM姉さんから 「なっちゃん、何してんねん!」 バシッ☆!!っと 腕に一発食らった時点で、「帰る」という気持ちはすっかり叩かれ ふき飛ばされてしまった。

この夜は、いつもはあまり表に出さない愚痴などの内面を言葉にすることが出来て、YMさんもHMさんもこれに親身に耳を傾けてくださり一つ一つ御法を説いてくださった。
それで完全に頭がぐちゃぐちゃにかき乱されると、次々に悪虫の私が登場して、こうなったら 「やっぱり、も~帰る!」と逃げの体制!!
帰り道は、今日初めてお会いしながら意気投合して仲良くしていただいたRKさんが車で送ってくださり、真夜中にもかかわらず玄関前にて路上駐車でやっぱり御法をいただき、阿弥陀さまの執念を肌で感じながらこの日は眠りについた。

二日目は、身心の調子は取り戻したものの、法に対してすごく冷めた私がいた。
座談会では、「ありがた屋ではない、今感じている正直な自分を出せ」と教えられたままに、「しらけた自分、法に対して冷めた私は、先生の口を通して聞かせていただく仏さまのお心に、まったく動じませんでした…」と発言すると、ある人に「仏さまを斬り付ける様な恐ろしいことよく言えるな!」と叱られ、「やっぱり言わなければよかった…」と口をつぐんだまま何も言えなくなってしまった。

「自分を出せない、 何も聞けない、 感謝もできないし、 反省もできない…、 法に向くことすら出来ない・・・・・」
最後に、そんなようなことだけを言葉にして今回の法座を終えた。

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今、生きているということ [心]

「 生きているということ  いま生きているということ 」 
という書き出しで始まる、谷川俊太郎氏の 『生きる』 という詩を、数日前に偶然目にした。

そして先週末の支部法座ではOG先生が、「‘生きている実感’というのを表現するとしたら、どのように答えられますか?」と質問をされた時、私はこの詩のことをフッと思い浮かべた。
OG先生は、「五感に触れる感覚を通して‘生きている実感’というのを感じられたとしても、‘生きている’とハッキリと実感できるものはなく、どこかぼんやりとしてしまうのではないだろうか…」 と、話された。
この詩には作者の谷川氏が、「生きている」と実感できた瞬間のいくつかが、「生きているということ いま生きているということ」 という頭出しの繰り返しで、五段に分けて書きつづられている。

  生きているということ  いま生きているということ
  それはのどがかわくということ
  木漏れ日がまぶしいということ
  ふっと或るメロディを思い出すということ
  くしゃみをすること
  あなたと手をつなぐこと   

というのが一段目。  そして、二段目の〆には、こんな言葉がある。

  すべての美しいものに出会うということ
  そして かくされた悪を注意深くこばむこと

「隠された悪」、これを 「注意深く拒むこと」 。 それが、「今、生きているということ」。
なるほど、なるほど、と 私なりに納得!!
自分にとって都合の良いものだけを求め、都合の悪いものはことごとく拒み、そうして自分自身を守り抜く。
それが、 生きているということ、 いま 生きているということ ・・・
そうしなければこの世を生き抜くことは出来ないし、生きている限りはこの世の幸せを求めたいものね…
でも、それだけでいいの? それが ‘生きている’ということなの? 
何か納得できないものが、私の胸の奥で深く突っかかった・・・・・

  生きているということ  いま生きているということ
  泣けるということ  笑えるということ

云々と、詩はまだ続く。 
そして四段目の最後の一文で、 あぁ、これが引っかかっているのだと感じた…。

  いま  いまが  すぎてゆくこと

今、今、今、今、という “今” の点が継続する途上に、常に動き続ける “今” がある。
一瞬で “過去” の産物になってしまう “今” と、 一瞬で “未来” へと転換する “今” の表裏した “今” が、「過ぎて行ったと自覚できる間」 は、確かに 「今を生きているということ」 になるのかもしれない…。
“今” は、決して掴み取ることができない・・・・・  
大切なのは、未来でも過去でもなく、現在進行の “今の私” を知.ることなのかもしれないと、ただ漠然とそう思った・・・・・
でも私は、自身でPickupした優しく温かい過去の想い出に依存し、美しく輝ける未来を夢見るばかりで、“今” を 生きていないのではないか… と、感じることが多々ある。
フッとした瞬間に、自分自身を必死になって守り抜こうと苦悩している自分の姿を垣間見た時、「私って、何のために生きているの?」って自問自答する・・・・・・

  生きているということ  いま生きているということ

と、再び繰り返されたこの詩の五段目、最後の言葉には、

  人は、愛するということ
  あなたの手のぬくみ  命ということ

という言葉で締めくくられている。 
そうだね・・・・・  愛を求めて生きさまよい続け、それによって悩み苦しんだ挙句、結局はその何もかもを火宅無常のこの世界に捨て置き、この手のぬくみ、この命の灯が消えた時には独り行かねばならない世界がある。
これを身に置かずして、、‘生きている実感’だけを追い求めたとて、果たして‘生きている’意味があるのだろうか・・・・・・
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聖  ~ 夜の街で見つけた歌 ~  [随筆日記]

仲間と過ごした楽しい夜のひと時。  宴は終わり、皆それぞれの家路へと急ぐ。
一人が嫌いなわけじゃないのに、楽しい時間の後の一人ぼっちは殊更にこたえる・・・・・
空を見上げても街のネオンが視界を遮り星ひとつ見えず、車の行き交う街角には風の音さえ耳に届かない…。
周囲にはこんなにたくさんの人たちがいるのに孤独感は深まるばかりで、立ち止まったならば私の時間だけが止まってしまったように、一人取り残されたような気持ちになる…。
一人きりで歩く夜の街。 一人が寂しいくせに声をかけてくる人たちは疎ましく感じる。
私の帰る場所は一つだけ…、 そこへ帰りたくないわけじゃないのに、何故だか足が重い…。

駅へ近づくにつれ人波は増し、自分のペースで歩くことさえままならない。
そんな都会の夜の街でフッと顔を上げて、すれ違う人たちに視線を向けると、一人疲れた顔をしている人も、仲間と楽しそうにはしゃいでいる人たちも、また仲睦まじそうに腕を組んで歩く恋人たちでさえ、何故か皆、独りぼっち…、孤独に見えてしまう・・・・・
心が寂しい時には、寂しいメガネでしか世界を見られないのかもしれないね…

駅のあるビルへ入る最後の交差点で信号を待っていた時、この都会の夜には不似合いなメロディが聞こえてきた。
それは、優しく包み込むようなピアノのメロディと、空に澄み渡るようなボーイボーカル。
どこだろう…、と辺りを見渡すと、交差点の先、駅ビルの前に幾人かの人集りができていた。
信号が青に変わって、私はそのメロディに引き寄せられるようにその人集りの輪の中で足を止めた。

ピアノで弾き語るその曲は恋の歌だった…。  
メロディに乗せてその曲の歌詞が私の乾いた心にスーっと沁みこむようだった…
なんだか とても懐かしい…
「恋なんて鬱陶しいだけ! 面倒くさいじゃん!」 なんて、結構長~~~い間 思っていたから、恋の経験は希薄だけど、何だか いいな~ぁ、なんてフッと思った。 今さら遅いけどネ?!

「人の一生なんて、アッと言う間ね!」 …って、 最近とてもそう思う。
昨日、厚生労働省が発表した「2008年簡易生命表」による日本女性の平均寿命は86.05歳。 
もし 私が86歳まで生きることが出来たとして、まだ折り返し地点にも来ていないが、気持ちはもうラストスパートみたいな感覚…
今まで私は何をしてきたのだろう・・・
そしてこれから何の為に生きていくのだろう・・・

考えてみたら、死に物狂いで勉強したことも働いたこともないし、命をかけてのめり込んだものもない…
せいぜい心狂わすほどに真剣になったのは「恋」をした時くらいなもので、それでもたった2,3年のこと…。 
私の人生、 いつもただ生きることだけに一生懸命だったような気がする…。
人生86年間を前提として残り半分以上もある私の人生…、 やっぱりどこまで行ってもただ生きるだけ?
それじゃ~、受け難い人身をいただいた意味がないじゃん・・・・・・!

路上ライブが終わった。
人だかりはアッと言う間にバラけて、人々は足早に家路へと先を急ぐ。
私は歌っていた彼に声をかけた、 「今日は素敵な歌をありがとう!」 と。
すると彼はとても嬉しそうに、「握手をしてもいいですか?」と言って私の右手を両手で包んだ。
そして彼が自分の曲を吹き込んだという名前も何も書いていない真更なCDを購入して彼と別れ、私はまた独り、駅へと歩き出した。

こうやって “時” も “思い” も、私の中を刻々と通り過ぎて行く。
人生86年なんて、アッという間に終わってしまう。 
このまま、ただ生きているだけでいいのか?!  私は、それでは満足できない・・・・・

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My Birthday dinner [随筆日記]

今日は、私のお誕生日[バースデー]   お父さん、お母さん、どうも有り難うございます[黒ハート]

記念日には、いつもコース料理を作る。 もちろん自分の誕生日も例外ではなく、自分で作る。

[かわいい]今日のMENU[かわいい]

3002762


前菜   ホタテと海老の冷製オードブル・レモンソース
スープ  イエローパンプキンの冷製スープ
魚料理  スズキのパイ包み焼き・バジルソース/トマトサラダのゼリー寄せ/サラダ
肉料理  三河牛のステーキ&フォアグラ・赤ワインソース/キャロットグラッセ/スピナッチソテー
       /ベイクドエッグプラント
主食    きのこ&チーズのリゾット
デザート 白桃/ロールケーキ/ピーチティー

せっかく作ったけど、体調不良でぜんぜん食べられなかった私・・・・・
残念である・・・[もうやだ~(悲しい顔)]

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辛口!! 西別院 常例布教 [随筆日記]

It’s my BIRTHDAY tomorrow [バースデー]   Congratulations [プレゼント]    Thank You [かわいい]
ということで、今週初頭から Message card や Gift などが届き始めた。
そして今日は、親友等にお祝いをされてのお誕生日会  Thank you so much[exclamation×2]

お出かけついでの午前中にちょっと寄り道して、名古屋西別院で常例布教の御法話をお聞かせいただいた。
テーマは「阿弥陀経について」、講師は奈良の鳥見氏。
頭出しは「愛別離苦」について、お西の広報誌より、子息を失った父親(ご住職)の心境を語った記事についてのお話しから始まった。
愛する人との別れに際して、葬儀・法要などで阿弥陀仏と共に歩ませていただく人生… 云々 とのお話しの中で、私がとっても驚いてしまったのは、お寺のご住職でありながら、「死ねば 皆 必ず、お浄土にて死別した人たちと再会できるのです!」と公言されたことだった。
ここは、仏法を全く知らぬ人が集う葬儀や法要の場ではない。 仮にも、定例御法話の一座である。
信仰の厚い聴聞者を前にして「それはないだろう~」と思った。
お話しは続いた。
「愛おしい人が先立った時、現在生きている私たちは、お念仏を称えることによって死んだ人と会わせてもらえるのです、 ありがたいですね~ぇ」 と・・・・・
経典も、親鸞聖人の御心も、まったく無視したただのお話し会だ。 間違っても御法話とは言えまい。
せっかく来たのに残念だ・・・。 でも、お寺の実態を垣間見れたことは、ある意味有意義であった。
だって、今、私が出遭わせていただいた真宗の御法がいかに尊いものか、そしてその真実の御法を聞かせていただけているという深い御縁に、私の阿弥陀さまのお働き・ご苦労を感じ得ずにはおられない思いであった。

「私の称えるお念仏は、死んだ人と会うためのお念仏ではありません。
私の後生を救ってくださるという阿弥陀さまが、‘南無阿弥陀仏’となって私の口から飛び出てくださるお念仏です。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 ・・・・・」

3002651名古屋西別院を後にして、お誕生日会のLaunch会場へ。
あ~ぁ、とうとう○○歳も今日で最後・・・・・・  何とも言えん(^.^ゞ  すごく複雑な心境のBirthday前日・・・・・
でも、大好きなオイスターをはじめ、お料理はどれもこれも美味しくって、おまけにBirthdayCakeのサプライズには、とっても感動!! 
100点満点、 幸せいっぱいの一日だった。
ホントに[黒ハート]、ホントに[黒ハート]、心をこめて有り難うございました。[わーい(嬉しい顔)]

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仏に成るこそ不思議よ [仏法]

先日参加させていただいた御法座の御讃題で、蓮如上人の『御一代記聞書』より、

法敬坊、蓮如上人へ申され候ふ。 あそばされ候ふ御名号焼けまうし候ふが、六体の仏になりまうし候ふ、不思議なることと申され候へば、前前住上人(蓮如)そのとき仰せられ候ふ。  それは不思議にてもなきなり。 仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。  悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。

との御文をいただいた。  
あぁ、このお話し、以前聞かせていただいたことがある…。

(私訳) 法敬坊というお弟子さまが、蓮如上人に申し上げた。
「蓮如さまより頂戴した‘南無阿弥陀仏’ の名号本尊ですが、先日の火事で焼けてしまいました。
しかし、その‘南無阿弥陀仏’の六つの文字が、炎の中で六体の仏さまになったのでございます。
不思議なことでございました」 
と申し上げると、蓮如上人は、こうお答えになられた。
「それは不思議なことではない。 ‘南無阿弥陀仏’の六つの文字はもともとが仏さまなのだから、仏さまが仏さまになることには、何の不思議もない。
それよりも、罪悪深重の泥凡夫であるこの私が、‘南無阿弥陀仏’の御救いで、仏にならせていただくことこそ、まことに不思議なことよ」  と。

ずっと前、初めてこの御文をいただいた時には、「六字の名号が六体の仏になる不思議」こそ不思議だと思い、後半の、「悪凡夫が仏になる不思議」というところには、全然見向きもしていなかった。
だって、六つの文字が炎の中で仏像のようなシルエットを描くという場面は空想できても、 ‘悪凡夫の私’ ということも ‘仏に成る’ ということも、まったくわからないのだから、想像のしようがない・・・・・

仏法聴聞を始めて一年経つが、やっぱりまだまだわからない。
だけど、以前は見向きもしなかった、「仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。
悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。」 の部分だけが、クローズアップされたようにとても気になる。

そして、 「‘南無阿弥陀仏’ が、仏さまそのものだよ」 と聞かせていただけば、「なまんだぶつ」 と私の口から出てくることが不思議に感じられる。
また、 「私は泥凡夫・悪凡夫だ」 と聞かせていただけば、「そうは思えんから泥凡夫なんだろうな~ぁ、 それが迷っている私と言われる所以なのかな~ぁ」 くらいの軽い知識で聞き流しているだけの私が見える。
でもやっぱり、 「弥陀をたのむ一念にて、仏に成る不思議」 と聞いても、ぼやけてしまう・・・・・・

ただ、‘南無阿弥陀仏’が証拠で、‘私’ が証拠。 私が仏になるという、不思議な不思議な教えが仏教なのだと聞かせていただいて、ほんの少しだけ腹を据える気になった。

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蜘蛛の糸 [随筆日記]

パソコンの画面とニラメッコをしていたら、目の前に、スーーーッ と 小さな点が下りて来た。
その小さな点に焦点を合わせると、とっても小さな一匹のクモが、パソコン上のライトから一筋のクモの糸を頼りに、私の目の前に下りて来たのであった。
そのクモと、フッと視線が合った・・・・・
クモは、「こりゃ失礼!」と言わんばかりに、再びその糸を手繰りながら、上の方へと上がって行った。
どこから迷い込んだのか…、 こんな所では飢え死にしてしまう…。

子供の頃の愛読書、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出した。
あの独特の文調が好きで、冒頭は空で言えるほど何度も何度も読んだものだった。

或日の事でございます。 御釋迦樣は極樂の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。 池の中に咲いてゐる蓮の花は、みんな玉のやうにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云へない好(よ)い匀(にほひ)が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。 極樂は丁度朝なのでございませう。

物語のあらすじは、小学校の道徳の授業で習うので、たいていの人は知っているだろうが・・・・・
ある朝、お釈迦様が極楽の蓮池より、はるか下の地獄で苦しむ幾多の罪人の中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。
生前のカンダタは、様々な悪事を重ねた極悪人であったが、たった一度だけ小さな蜘蛛を踏み殺すのを思いとどまった事があり、お釈迦様はそのことを善行として、地獄のカンダタを救ってやろうと思われた。
そしてお釈迦さまが蓮池より一本の蜘蛛の糸をカンダタの元に下ろしたところ、カンダタは「この糸を頼りに登ってゆけばこの地獄から脱出できるぞ! もしかしたら極楽へ行けるかもしれない?!」と考え、その蜘蛛の糸をたどって上へ上へと登り始めた。
しかし途中でフッと足下を見下ろすと、自分の後より地獄の住人達が次から次へと登ってくるのが見え、このままでは糸が重さに耐えられずに切れてしまうと思ったカンタダが、「この蜘蛛の糸はオレのものだ! お前達は、下りろ!下りろ!」と叫んだ。
その瞬間、カンダタの手元でプツリと蜘蛛の糸は切れ、カンダタは真っ逆さまに再び地獄の底へと堕ちて行った。
お釈迦様は、その一部始終をご覧になった後、悲しそうな顔をされ蓮池から立ち去られた。 
というお話し。

この物語りは、お釈迦様が登場されても、地獄や極楽という言葉が出てきても、仏教とは無関係の道徳的童話であるということを、仏教を聞かせていただくまでは考えもしなかった。
ただ、子供心に、もし悪いことをしちゃっても、たった一つでも良いことをすれば、仏さまはきっと私を助けてくれる… と思って、この物語りをいつも心の片隅に置いてきた。

ところが仏教を聞かせていただくと、「私には何一つ良いことは出来ない」と説かれてある。
「なんで?!」 「どうして?!」 と仏法に反発してみても、よくよく聞かせていただけば、やっぱり 「私には何一つ良いことは出来ず、生きているだけで罪作り」という教えに、言い訳がたたない・・・・・
そんな罪しか造れないこの私が、仏になる教えを “仏教”というのだと、初事で聞かせていただき、「へ~ェ!」と他人事のように傍聴している私をみつけた・・・・・。

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とりあえず、超 戯言的 寝言 [随筆日記]

先週末の金曜日から、三日間連続で法水にドップリと浸からせていただく御縁に恵まれた。
少し疲れた感じはあるけど、体力的にも精神的にも初日の金曜日よりは確実に元気になっている感じ!
この三日間の感想を日々毎に書き留めておきたいけど、そこまでの元気は残っていないので、後日ボチボチと気持ちが残留していたら書くことにしよう(^.^ゞ

この三日間全体を通して、日々時々に変わって行くな~というのが、一番の感想。
何が?   この私が!
漠然としているというか…、 言葉にしようがないというか…、 よくわからないけど…、「コロコロ変わる心」と言う意味の日々時々の変化ということではなく、少しづつ氷が解けていくような感じ?!
でも、氷が解けたら物体は何も残らないよね・・・・・  解けた水もいつかは消えるし・・・・・
そんな感じの日々時々の変化。 自分でもよくわかっていないから、誰にも伝えられないけど・・・・・・

二番目の感想は、平坦ではない奥行きの無限な立体?みたいな感覚。
こちらも、漠然としているというか…、 言葉にしようがないというか…、 よくわからないのだが…
「法(仏法の教え)」 も 「機(私自身)」 も、一本線や平面・表面ではない、超無限大の立体で…、
でも、私にはそれがわからなくて…、 聞いてもわからなくて…、 結局何にもわからなくて…、  うぅぅん・・・・・・

これではまったく文章にならない!  やっぱり今日、書くのはムリだな・・・・・
と、言い訳をつけて、明日へ次へと先延ばしにする私であった・・・・・  

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君は、何の苦労もしていない [心]

ある法座に参加した時、KHさんより、「なっちゃんは、今まで苦労なんてしたことないだろう?!」 と言われた。
思わず言葉に詰まった・・・・・・
「苦労」なんてものは量れない…、  それ故に、受ける人によって度合いが異なるものだと思う。
KHさんの言われる「苦労」の意味を考えるため、私は私の知り得る過去を頭の中で遡ってみた。

自分では、人並みの苦労はしてきたつもりだった…、  父との関係、病気のこと、母の介護、等々・・・・・  
でも、時代は戦時中というわけではないし、途上国の難民キャンプで生活しているわけでもない…
「苦労知らず」と言われても仕方のないことかもしれないと思った・・・・・
メンバーの中には、「なっちゃんは、いつも笑顔で苦労を隠しているだけだよね」と慰めてくれる人もいたけど…、なんとなく素直に受け取れなかった。

今日から二日間の日程で、また法座に参加させて頂くご縁をいただいた。
「そんな幸せいっぱいの苦労知らずでは、仏法は聞けないよ」、と言われた前回の法座でのことをフッと思い出して、また気持ちが滅入る・・・・・     はぁ~~~~~~~~~~

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心より 心を縁と心得て 心に迷う心なりけり [仏法]

今朝は思いがけない梅雨の晴れ間に家事もはかどり、そのテンションのままお出かけしたくなってお友達のお寺まで車を走らせた。
ちょうど法要から帰院したG願さんと駐車場でバッタリと会ってそのまま本堂へ。 
今日はいつものラフなジャージスタイルと違って、黒袈裟の衣装がピッカピカにかっこよかったよ[黒ハート]
G願さん、午後には所用で出かけなければならないとのことで、今日は2,3時間ほどおしゃべりをした後お別れして、私は一旦帰宅してからお買い物に出かけよう… と思っていたところで急に体調が崩れた。 今日の蒸し暑さのせいかな…? 
結局、夕刻まで何もできないまま今日が終わってしまった・・・・・  どうしよう~[たらーっ(汗)]
夜になって徐々に血圧も安定し、元気復活?!  家事の後、明日からの旅の準備を整える。

今日は、G願さんとお話したおかげでお念仏が易く出てきてくださる。 有り難い。

  こ こ ろ よ り  こ こ ろ を 縁 と 心 得 て  こ こ ろ に 迷 う  心 な り け り

これは一遍上人のお言葉で、「私がどんなに尊い想いを心に湧き発てたとしても、私自身(私の心)が迷いの張本人なのだから、そんな迷っている私の心から縁・折に触れて出てきたものなんか偉くも何ともない、何の役にもたたんぞよ」 という意味なのだそうだ。

もう一つ、G願さんから教えていただいたことで、ムギュッと来た言葉!…

  言 葉 あ り き

お経のどこかにある言葉なのだそうだが…。
「‘南無阿弥陀仏’という御言葉になって届けてくださっているのに、どうして心を問題にするの?
「‘南無阿弥陀仏’と称えよ」と言われているのであって、「‘南無阿弥陀仏’の心を理解せよ」とは言っておられない。
心ありきではなく、まず、言葉ありき。  だから、‘南無阿弥陀仏’という御言葉になってくださった。
小さな話になっちゃうかもしれないけれど、例えば、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉も、真っ黒な心を持った私たちには、到底本心からそう思うことなんて出来ない。
心底 「ありがとう」「ごめんなさい」の心になってから言葉を発せよとは教えられず、まず言葉ありきで、そう言いなさいと教えられてきた。
‘南無阿弥陀仏’だって、「南無阿弥陀仏の心になってから称えよ」とは仰っておられない。
そんな心になれないことくらい仏さまは百も承知の上で、だから‘南無阿弥陀仏’という御言葉になってくださったんだ。
有り難くても、有り難くなくても、まず ‘南無阿弥陀仏’」

「これは僕の自論だけどね!」と、注釈した上で、G願さんが教えてくださったこと、忘れないうちに書き留めておきたかった。
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“ 愛 と 感謝 ” の 連鎖 [随筆日記]

ジョー君から教えてもらった、‘水の結晶’の不思議なお話し。
先日、久しぶりに会った時に借りた本の一冊で、江本勝氏の『自分が変る水の奇跡』というのを読んだ。
江本氏が著した『水からの伝言』という本は、30ヶ国語に翻訳されベストセラーになっているのだとか。
この本をはじめ江本氏は、「水に言葉をかけたり見せたりすることで、水の結晶の形状はその言葉が持つ波動を受けて様々に変化する」ということを彼独自の哲学で語っている。
この実験結果については賛否両論あるようだが、非化学だ非物理学だ云々と論じるよりも、教育的心理学の側面から受けとめれば、あぁ、なるほど! と頷ける点もいくつかある。

著者は水に 「夢」・「絶望」・「真理」・「バカ」・「合掌」などなど、各々に言葉が持っている波動を与えて、そこで出来上がったその水の結晶を写真に収めている。
実験結果として、例えば「好き」という言葉を受けた水は、淡く美しい結晶を作るが、「嫌い」という言葉を受けた水は、はじけたような空洞をもつ不規則な結晶となったり、例えば「よくできたね」という言葉を受けた水は、輝くようなきれいな結晶を作るが、「ダメだよ」という言葉を受けた水は、うまく結晶にならなかったりと…。
その中で著者が一番美しいと思った結晶が、「愛と感謝」という言葉の波動を送った水の結晶だという。
著者は、「愛」と「感謝」は、一対のものであると説く。
“愛” は、人に与えるエネルギーであり、 “感謝” は、人から受け取るエネルギーであると。
この二つがバランス良く揃うことで、最も美しい世界ができるのだとプロローグで述べている。

著者いわく、私たちの身体は70%が水分であるが故に、言葉の波動を非常に受けやすく、「バカ」「醜い」「嫌い」といったマイナスの言葉の波動を受けている人からは、「愛と感謝」のエネルギーは生まれない。
逆に、「きれい」「おかげさま」「ありがとう」といったプラスの言葉の波動を受けている人は、やはり心身ともに活性化され、「愛と感謝」のエネルギーを展開していく力になるのだと説く。
こうして、「愛」というエネルギーを人に与えることで、「感謝」というエネルギーをかえしてもらう、その連鎖がより良い社会をつくるのだと訴えている。

うん、なるほど! 一理ある!!
水の結晶の真偽云々よりも実際問題として、マイナスの言葉で育てられた子供は、やはり負のエネルギーを多く背負ってしまい、プラスの言葉で育てられた子供は、より易く正のエネルギーを発信できているのではないかなと思う。
子供のみならず、大人だって同じである。
「恋する女は美しい」というけれど、好きな人から 「きれいだね」・「愛してるよ」と言われれば、内側からの輝きも増すだろうし、「病は気から」と言っても、ドクターから「大丈夫!一緒に頑張りましょう!」と言われれば、俄然元気にもなるだろう。
逆に、夫から愛を囁かれなくなった妻が内面から枯れていくのも致し方のないことで…、 ドクターから「あんたはモ~ダメじゃ」などと言われた患者は生きる気力も失うだろう…。

この本のテーマとはずれてしまったかもしれないが、言葉ひとつですべてが変ってしまうことだってある。
著者が言うように、言葉によって「愛」というエネルギーを与え、「感謝」というエネルギーを返していく、その連鎖を広げることで夢のような世界が人間の手でもし出来るのであれば、仏さまにこれだけのご苦労をかけさせずにすんだのにね~~~ ナンテネ

2985159ちなみに、この本の中にある水の結晶の中で、私が一番美しいと思ったのは、やはり「南無阿弥陀仏」という言葉の波動を与えた水の結晶であった。
本誌より [カメラ] 「南無阿弥陀仏」 の水の結晶をお借りしました。

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心の中には黒魔術 [心]

Internet News の トピックスで、「体の一部をお守りにするために、ナイジェリアで子どもの誘拐・殺害が急増」 という記事を目にした。

【AFPBB】の記事によると、ナイジェリア北部のカノの町では、2~5歳の子供の誘拐がここ3ヶ月で2倍以上に急増しているという。 その数は、週平均50人にもなる。
誘拐された子供たちは、労働力として使われるのではなく、彼らを待ち受けているものは “死” である。
身勝手な大人たちの「利欲」を満たすため、それも「迷信」によって殺害されるのだ。
ナイジェリアを含めた西アフリカでは未だ黒魔術が信仰されていて、富や権力を手に入れるため、また自分の目的を達成させるためには、黒魔術に依るしかない、 そしてその儀式に使用するために子どもを殺すしかないと考えている人も少なくはないそうだ。

黒魔術の儀式では、幼い子供の臓器や血が必要とされる。
貧困にあえぐ親たちによる子供の放置と、貧困故に利欲に目のくらんだ大人たちの身勝手が、非現実的な「生け贄」という形で現実社会に存在しているのである。
子供であろうと人間として生まれた一つの命を、なんて軽々しく考えているのかと腹の立つ思いでこの記事を読んだ。

自分が生きていくためには何だってする自分!
これを一歩越えて、自分が「幸せ」に生きていくためには何だってする自分!!
自分さえ幸せならばそれでいい…。 
自分の幸せのためには、他の命の犠牲は仕方がない…!!!
そんな身勝手で強欲な心が、自分の中にも存在しているのだと思うと自分自身に嫌気がさす・・・・・・!

現在、先進国と言われる国々でもかつては「迷信」なるものが横行していたのは事実であり、この「迷信」を打ち消してきたものは、裕福な環境と、科学や医学などの学問や技術の進化であろう。
今、私は、そうした時代の、そうした環境の中にいて、このニュースも他人事としてしか受け取れないし、かつ、自分の置かれたこの環境を有り難いと思える心も無い・・・・・
自分にとって都合の悪いことは全部他人事で、都合の良いことは自分のおかげと自惚れるばかり…。
「すべてが私一人のために、  あぁ、おかげ様 おかげ様、  すべてのものに有り難う」 だなんて気持ちは微塵も出てこない・・・・・

あぁ…、 今日は朝から自己批判ばかりしている ・・・・・・・・・・

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七夕 ―笹の葉燃えて― [心]

今日は、七夕(たなばた)。 
と言っても、グレゴリオ暦(新暦)の7月7日なので、伝統的七夕(旧暦の七夕)とは違うけど…(^.^ゞ
今は梅雨の真っ只中、おまけに今日は雨のち曇り、それでもって今夜は月齢15日のほぼ満月。
これだけの悪条件が揃っていれば天の川どころか、大半の星すら見られない・・・・・

子供の頃、7月に入ると近所の竹林から笹竹を一本いただいて、これを庭のパーゴラの柱にくくりつけ、五色の短冊にお願い事をいっぱいいっぱい書き連ね、笹竹の枝が折れてしまいそうになるほど飾りつけたことを思い出す…。

あの頃、私はどんな願い事をしていたのだろう…  それは、叶えられたのだろうか…
ただ覚えているのは、日、一日一日と経つうちに笹竹の水々しさは徐々に失われ、7月7日を迎える頃には、幹も枝も緑を失い、葉は薄茶色になって縮こまったまま散っていく…。
そのことが無性に寂しく感じられた…。

七夕の日の夜、その笹竹を持って近所の小川まで行き、その畔で父が笹竹に火をつけると、笹竹も、願い事を書いた短冊も、アッという間にみるみると燃えていく…
それが、とても悲しかった…。
私の願いは炎となり煙となって、天高く届けられるのだと聞かされた時…、 私は、私の願いだけではなく、私自身も天高く昇って行きたいという思いにかられた。
炎に、灰に、立ち昇る煙に取り残されて、一人置き去りにされたような悲しみに泣いた・・・・・

7月7日の夜に天の川を見れたことはない。
雲の張り巡らされた夜空を見上げながら、ただ 「帰りたい…」 と ・・・・・  そう願ったことだけは覚えている。   
そして、その願いは、今も変ることなく持ち続けている ・・・・・・

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自律神経機能異常症 [随筆日記]

「楽」という字は、「樂」の省略形で、「糸」の字を二本並べたその形体は弦楽器からきており、「音楽」という意味と、これを聴いて「楽しむ」という意味と、「愛好する」という意味を持つ。
この「楽」という字に草冠を乗せると「薬」という字になる。
草冠は、「艸」をもとに出来ており、多くの草が伸び生えている様を表わしている。
その昔、薬といえば薬草であり、自然界のものを利用して治癒することが常識であった。
「薬」は、病んだ身体や心を元気で楽しい状態に戻すために、本来人間が持ち備えている治癒力に助力してくれるものである。
文字通り、自然界の中で楽しく生きることが「薬」であるならば、現代の私たちは、自らの手で自らの身体と心を切り刻んでいると言えるのではないだろうか・・・・・

どんなことが原因であっても、自身が受けた疾患を人のせいにすることは無意味である。
かと言って、「自分のせいだ」 などと自身を追い詰めたところで何も解決はしない。
いつでも、どこでも、何でも、因果の理法に従えば、自分の「業」だとしてあきらめざるを得ない。
その方が「楽」だと感じ始めて、この考えを「薬」にしようと、今朝は少し気分も前向き!

昨日、思い切って病院へ行って来た。
ここ二ヶ月近く ず~っと微熱が続いていて、数週間前からは目眩や立ち眩みが頻発し、その他にも気になる症状がいくつかあったので、気分転換のつもりで受診した。
自覚症状はいろいろとあるものの元気がないわけではないし、病院にかかるのは一年ぶりだったので少し緊張したが、簡単な検査を受けただけで何だかとても疲れてしまって気分は病人…、 「来るんじゃなかった…」と早くも後悔…

でも、一番後悔したのは受診結果・・・・・・  
「やっぱりか~ぁ・・・・・」 ということで…、 まぁ~、一応 安心は出来たものの・・・・・・
軽い不整脈と赤血球の数値が少し低い程度で、身体的な大きな異常は特にナシ。 
自律神経機能異常症 という診断であった。
セルフコントロールと対症療法で気長に付き合っていくしかない。
過去にも何度か経験しているし、今回の原因もハッキリしているので、これ以上悪化させないように気をつけながらマイペースで治していこう!!!

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「ザクロ(石榴)」 は 血の味 ? [随筆日記]

今日、病院の帰り道に、たまたま立ち寄ったお寺の境内でザクロの樹を見つけて、小さい頃、母の実家にあったザクロのことを思い出した。
大人たちは面倒くさがってあまり食べないので、私は遠慮することなくザクロの実をよく食べた。
種ばかりで食べられるところは少ないけれど、その水々しい独特の甘酸っぱさが好きで、私は、ザクロの実がパカッと割れて食べ頃になる日を楽しみに待ったものだった。

2978478ある日、おばあちゃんの家の庭先でザクロをほお張っていた時のこと、誰かは忘れたが、「ザクロは人間の血の味がするよ」 と言われたことがあった。

あれから数十年の月日を経て、仏跡を求めてインドを訪問する機会に恵まれた私は、これに関連して読んでいた本の中より、『訶梨帝母(かりていも)』の話を知り、「あぁ… そういえば、子供の頃、これを教えてくれた人がいたなぁ…」と不意に思い出した。

ザクロ(石榴)の原産地は、東イランから北インド・ヒマラヤ山地。
『訶梨帝母』のお話しは、お釈迦様がおみえになった2,500年前の北インドでの仏教説話である。

武将・般闍迦(はんじゃか・パンチーカ)の妻である訶梨帝母(かりていも・ハーリティー)は、五百人あるいは一万人ともいわれる子供を持ち、我が子を育てるために他人の子供を捕えては喰らう鬼母であったそうだ。
これに困り果てた村人たちがお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は訶梨帝母が最も愛していた末子の愛奴児(あいぬる・ピンガーラ)を隠してしまわれた。
そしてお釈迦様は、最愛の末子を失って嘆き悲しむ訶梨帝母に、子供を失った母親の苦しみを諭し、訶梨帝母に吉祥果(ザクロ)の実を与えて、人肉を食べないようにと約束させて仏教に帰依させたそうだ。
以後、訶梨帝母は子供を守る神・鬼子母神(きしもじん)となった、という説話である。

このお話しを知ってか知らずか、「ザクロは人の血の味がする」と教えてくれた誰かさんの言葉を思い出しながら、今年は、久しぶりにザクロを食べようかな?と思った。
また、ザクロの実がパカッと割れて食べ頃になる日を楽しみに待つことにしよう。

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云わぬは鬼の「業魂」 [心]

「人が云う」、と書いて 『伝』(つたえる) という字になる。
「鬼が云う」、と書いて 『魂』(たましい) という字になる。

「云」という字の語源は、「雲」を表した象形文字であるが、『詩・経』などでもわかるように、「雲」という意味合いはなく、「音」を表し、また「これ」・「ここに」などの意味を持つ。
一方、「鬼」という字は、隠れて人の目に見えないものという意味の、「隠(おん)」が転じて「鬼」になったのだと言われ、これは「霊」と同じような意味を持ち、目には見えないが死んでも残る霊魂を意味し、また万物に宿る精霊を表すこともある。
この「云」という字と「鬼」という字を組み合わせて、「魂(たましい)」という形声文字が作られた。

「人が云う」と書いて『伝』(つたえる)という意味になることを考えた時、これは大いに納得できる。
「云う」は、「言う」の旧仮名遣いである。
人は言葉を言(云)い表わすことによって、思い・考えを伝えるという手段を持っている。
逆に、何も言(云)い表さなければ、その心も考えも相手には伝わらないのである。
もちろん、言葉には限界があるのは事実だ。 
だからこそ、言葉では伝えきれないものまで伝える時には、手紙や電話などではなく、人と人とが直接会って言い伝えることが大切だと私は思う。

では、「魂」とは何か?
ある辞書によると、「魂とは、死しても残る心である」とあり、また別の辞書では、「鬼(死者の霊)が云(めぐる)という語源を元に、休まずにめぐる霊魂」と書かれてあるものもあった。

『伝』という字と同様に漢字のつくりで考えた時、「鬼が云う」と書いて『魂』(たましい)という字になる。
「鬼」という字を語源通りに、「人の目には見えない“私という霊魂”」、または、「死しても残る“私という霊魂”」であると解するならば、“私という霊魂・本質”が持っているその思い・考えを云い伝えてこそ、『魂』といえるのであって、「云わぬ」はただの「鬼」であるともいえる。

では、“私の霊魂” “私の本質” とはどんなものなのか ・・・・・・?

さて・・・・・・  これが、自分の事ながらさっぱりわからない ・・・・・

その時々の縁によって出てくる、常にコロコロと変化し続ける、いわゆる“心”というものは、私の本質とは違う。
仏教では、この “私の魂・本質” を、『業魂(ごうだましい)』 というのだと教えてもらった。 
「業(ごう)」というのは、「自業自得」の「業」と同じで、私がやったこと・行いであり、その「業」のすべてを溜め込んだ“蔵”のようなものを 『業魂』 というのだと聞いた。
日々の生活の中で、言ったこと、行ったこと、思ったことの全てが 私の『業魂』となり、これが死しても残る“魂”であり、私の“本質”なのだと・・・。

[ひらめき]あぁ、そうか!!!
三日前からず~~~っと心にひっかかっていた 「“魂”って何?」という疑問を解決する糸口が見えてきたような気がする[exclamation]


私にとって、「書きつづる」という行為は、自分との対話のような気がする。
頭で考えているだけではわからないことも、文字にすることで気付かせてもらえることが多々ある。
「人に云う」ことが『伝える』ということならば、私にとって「鬼が云う」ということは、私という鬼が私に『魂』の存在を云い伝えてくれることなのかもしれない。

今、「“魂”って何?」という引っ掛かりから、 「“業魂”って…?」という疑問に変った。

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どうして … [Poem]

どうして 笑顔をつくるのだろう…
どうして 自分にまで嘘をつくのだろう…
どうして 何も言えなくなってしまったのだろう…
どうして 考えこんでしまうのだろう…
どうして 迷っているのだろう…
どうして 何もわからないのだろう…

どうして 出会いはあるのだろう…
どうして 別れはあるのだろう…

そして… どうして 私は生きているのだろう…
どうせ 死んでしまう身なのに ………

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「水」は万物の根源なり [心]

インドではお釈迦様がお生まれになった頃、約2,500年前の古代ギリシアでは、“神話”が歴史であり、科学でもあり、倫理・法律でもあった時代に、この神話的摂理に異論を唱えた人が、「最古の哲学者」といわれるタレスであった。
この世のすべてのものは神によって創造されたのだ、と信じて疑わなかった世界観の中にあって、タレスは、物質を構成する基本的要素を合理的に説明しようと試みた最初の人であった。
そのタレスが導き出したものは、「万物の根元は「水」であり、存在する全てのものは「水」から生成され、そして水に帰り消滅していくのだ」という考えである。

地球生命の誕生を考えた時、この星・地球に水が存在したからこそ命が芽生えたのだということは、現在ではごく当たり前の常識として周知されている。
すべての地球生命体の起源をたどれば水中生物であると考えられているのが定説であり、この意味でタレスが唱えた、「「水」は万物の根源なり」という説は、肯定するにあたうであろう。

でも、なぜかそれでは満足できない私がいる。

「私という肉体」を考えた時、これは生物化学での定説や、タレスの哲学に異論を唱える術はない。
しかし、「私は私であると思っている心」、言い換えるなら「肉体を抜けた魂」ということを考えた時、生物学でも哲学でも医学でもその答えは見つけられない。

不思議なもので、この私の肉体の寿命が尽きた後、死後の世界があると考える人も、死んだら皆無であると考える人も、現在の自分にとって都合のよい答えにとどまることで満足してしまっている。
必ず死に行く自分なのだと知りながら、「今日、私が死ぬとは思えない…」と、毎日毎日、自分の死を先へ先へと追いやって…、 必ず迎える我が身の死については、真剣に考えることが出来ずに、今を生きることだけに一点集中をしている。
つまり、自分の死後の世界に恐怖を抱いている人は、稀有な人であるといえる。

そう言っている私とて、仏教を聞かせていただいても、地獄に堕ちると聞かされても、馬の耳に念仏・・・・・
これを恐怖に思う心も無く、「いつまでたっても信じられん! との一点張りの自分だな~ぁ」と、自分の思いに耽ることしか出来ずにいる。
「それがどうした!?」とばかりに、その先へと進めない・・・・・

「一息切れた(死んだ)ならば、この肉体はもちろんのこと、愛する人も、大切に守ってきたものも、この心さえも切り離されて、裸一貫で行かねばならない先がある」。
そう聞かされた時、これに恐怖するどころか、これに憧れを抱いてしまうような私なのだ・・・・・

あぁ・・・・・  水になりたい・・・・・
落ちるまま…、 流されるまま…、 消えるまま…  の、 水になりたい・・・・・

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