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泥中に咲く蓮の花 [仏法]

先週末、インド・ネパール仏跡巡拝TourのMemberとの交歓会をS先生が催してくださり、ひと月ぶりに再会して楽しいおしゃべりと美味しい食事で再び素敵な時間を共有することが出来た。
そして、この交歓会を通してS先生がご自身のBLOGで説いてくださった言葉が、今の私の心に、深く、深く、染み入った。
S先生の言葉をお借りしながら、もう少し自分なりに考えてみようと思う。

今回の旅行では、初めて尽くしの体験の中で本当にたくさんの事を学ばしていただき、良い面も悪い面も、その全てが私にとって実りのあるものだったと自負している。
しかし、S先生に言われて初めて気付いたことがある。
それは、主たる私を取り巻く人たちの存在と、その関わりである。
プラス思考に満足している私の周囲には、マイナスの気持ちを患ってしまった人もいる訳で、私はそれら様々な人たちとの関わり合いの中にいて、そこにこそ凡夫の人間模様が存在している…、
私と接する全てのご縁の中から聞かせてもらえる御法があるのだと読ませていただいた。

最初にS先生は、心(煩悩)について説いてくださっている。
自身の中には、108の貪欲・愼恚・愚痴どころか、84,000もの煩悩が渦巻き、それが縁にふれては幾多の形で現れて来る。
「瞋恚(しんに)」にも、
 忿(ふん・自分の気に入らぬ事に激怒する心。)
 恨(ごん・自分の気に入らぬ人を怨み続ける心。)
 悩(のう・立腹して、人を恨む心。)
 嫉(しつ・自己利益や名聞利養を希求し続け、他者の栄達等によって起こす深い嫉妬心。)
 害(がい・他者を思いやる心が無い状態。)
があり、それをごまかしたり、悩み苦しんだりしているのが私であると…。
「貪欲(とんよく)」だって、
 樫(けん・自己利益を希求し続け財宝に耽着して、人に施す気持ちのないケチ心)
 憍(きょう・自身に自惚れて、驕り、誇り、我欲のままの高飛車な心) 
 覆(ふく・不利益を蒙ることを恐れて、自分の罪を隠す心)
 誑(おう・自己利益や名聞利養を得る為に、様々に謀って徳のある者と見せかける偽りの心)
 諂(てん・自己利益や名聞利養得る為に、他者を騙して媚びへつらい従順を装って操縦する心)
などの心で、妬んだり、ケチったり、騙したり、へつらったりで、時にのぼせあがり(悼挙・たくこ)、時に落ち込み(惛沈・こんじん)、それでいて無慚・無愧(むざん・むぎ)悪いことをしても恥じること無き心…、正しいことを知らない私…、とS先生は教えて下さった。
聞きなれない難しい言葉の意味はよくわからないけど、人には言えない…、自分自身で見るのもおぞましい貪欲・愼恚・愚痴の心が私の中にも確かに存在していて、さも当たり前のようにふんぞり返っているではないか・・・・・
私自身、人のことをトヤカク言える輩ではないのだということを聞かせていただいた。

S先生のお言葉そのままに、
「切り無く、死ぬまで絶えることのない煩悩(身を煩わし心を悩ますもの)が私自身なのだ。
そんな正真正銘のドロ凡夫同士が寄り合って、互いに「我」をぶつけ合いながら、様々に組織を形成している。
そして、縁に触れ、折に触れ、幾多の人間関係に触れては、種々の煩悩が見事に毒花を開花させ、百花繚乱である」
このお言葉を受けて、私の心は少し癒された気がした。

2660296昨日までは、ただ今生事に捕らわれて、大切な人を傷つけるくらいなら支部を抜けた方のがいいのかな~ぁ、これからどう接すればいいんだろう…、なんて悩み、落ち込んで、逃げ腰になっていたけど、そこが問題なんじゃない!!
そこに咲く華…、
S先生が教えて下さった「仏法を聞く心のない私に咲く、他力回向の無根の信」という真実の存在を、私はすっかり見失っていた…。
今生事の些細な苦に、悩み振り回され続けている私というものと、今一度ちゃんと向き合わねばならないと聞かせていただきました。

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