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祇園精舎の鐘の聲 [随筆日記]

中学校の古典の授業で 初めて『平家物語』の冒頭を読んだ時、意味も何もわからないまま、ただそのリズムみたいなものに強く惹かれた。
十数年ほど前には、たまたま立ち寄った本屋で『平家物語』を手に取った際、やはり冒頭の言葉に懐かしさを覚えて思わず購入してしまった。
今日、その本が無性~に読みたくなって書斎を探したのだが、どうしても見つからずモヤモヤした気分だ…

祇園精舎の鐘の聲  諸行無常の響き有り
娑羅双樹の花の色  盛者必衰の理を顕す
奢れる人も久しからず  只春の夜の夢の如し
猛き者も終には亡びぬ  偏に風の前の塵に同じ

これを初めて耳にしてから二十数年の時を経て、“祇園精舎” のその地に自分が立つことになろうとは、ほんの少し前までは想像すらしていなかった…

ところで、軍記物語である『平家物語』 と 仏教の聖地“祇園精舎” との接点はどこにあるのかと、フッと疑問に思った。

『平家物語』の作者については古来より多くの説があるが、『兵範記』など多数の諸伝本や口伝を元に信濃入道という人が、生佛(しょうぶつ)という盲目の音楽家に教え語らせたのだと『徒然草』(吉田兼好)に記されているのが最古の記録だとされている。
(この信濃入道という人物についても定かではなく、一説には親鸞聖人の高弟で法然門下の僧とする説もある。)

その後、琵琶法師(盲目の僧)などによって口伝承され、「語り本」・「読み本」など、様々な内容・かたちで後世に伝えられるが、冒頭の 「祇園精舎の鐘の聲 … 」だけは共通しているのだそうだ。

その内容については、平家一門の栄華と没落を、仏教の因果観・無常観を基調として、和漢混淆文で書かれた叙事詩である。

出だしの一節について、たいていの人が一度は口にしたことがあるだろうが、その内容について語られることは少ないだろう。
私とて、『平家物語』冒頭の一節が好きで意味もなく暗記していたが、実際に“祇園精舎”に行ってみて、そこに‘鐘’の存在はないと知って、様々な疑問が湧いてきたのだから…。

そこで、私なりに『平家物語』冒頭の一節について解釈してみた。

祇園精舎の鐘の聲  諸行無常の響き有り
天竺(インド)に「祇樹給孤独園精舎」という、お釈迦様が御法(極楽浄土の世界と、諸仏方の存在を顕かにされた『阿弥陀経』)を説かれた聖地があるが、ここで鳴らされた鐘の音でさえも、永遠に響き続けるということはない。
すなわち、諸行は無常。 すべての現象は一刹那に(絶え間なく)変化し、永遠不滅なものなどこの世には存在しないということ。

娑羅双樹の花の色  盛者必衰の理を顕す
お釈迦様がクシナガラの地で涅槃に入られた(入滅された)時、臥床の四辺にあった四双八本の娑羅(沙羅・サーラ)の樹に、時ならぬ白い花が咲き乱れたというが、しかしやがて色あせて、これが永遠に咲き続けるということはない。
すなわち、どんなに勢い盛んな者であっても必ず衰えるという道理はあきらかである。

奢れる人も久しからず  只春の夜の夢の如し
今が盛りと得意気に奢っている者とて、その栄光は続くものではなく、たとえば一夜の夢の如く、目が覚めたとたんに消え去ってしまうものである。

猛き者も終には亡びぬ  偏に風の前の塵に同じ
血気盛んに激しく粋がっている者とて、結局最後には己自身も滅び去っていくいく身であり、例えるならば、風に吹き飛ばされアッという間に消え去る塵(ホコリ)と同じようなものである。

『平家物語』は、ただの軍記物語りにあらず。
平家一門の繁栄と消滅を、仏教の 『無常偈』 (「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」 諸行は無常にして これ生滅の法なり 生滅は滅しおはりて 寂滅なるを楽しみとなす) に添って説かれたお釈迦様の教えであると、今日、改めて発見した。

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