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2009年2月3日(火) ラージギル ( 王舎城の悲劇とその後 ) [アジア]

アジャータシャトル(阿闍世・アジャセ)は、父ビンビサーラ王を七重の牢獄に幽閉するとすぐに王位に就き、活発な征服活動を展開し、コーサラ国王やカーシ国を完全併呑し、ヴァイシャーリー国をも支配下に置いた。
この他にも多数の征服活動を行ってマガダ国をインド随一の大国へと押し上げた。

王舎城の悲劇については、『涅槃経』や『阿闍世王経』などのいくつかの仏典において、次ように伝えられる。
父ビンビサーラ王は、毘富羅山(ヴィプラ)に鹿狩りに出た際、一頭も狩りができないことを、たまたまそこに居合わせた仙人が追い払ったと思い込んで、臣下にその仙人を殺させた。
その仙人は死に際に怒りの形相で、「来世において心と言葉でそなたを殺す」とビンビサーラに言い放って死んでいった。
それから間もなくしてヴァイデーヒー夫人が懐妊した。
殺害した仙人の言葉が忘れられないビンビサーラ王は、生まれてくる子がその仙人の恨みを受け継いだ(未生怨)子であることを心配して、アジャセ誕生の前に相師に占わせてみた。
すると相師より、「生兒が怨を懐き父王を殺すだろう」と告げられ、ビンビサーラ王はこれを信じて、生まれてきた我が子を楼上より投げ捨てたが、アジャセは指一本を損じたのみで死ななかった。

成長したアジャセに近づき悪知恵で唆したのが、お釈迦様の教団に反逆し新教団を形成せんとしていたデーヴァダッタであった。

デーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)は、お釈迦様のお弟子である多聞第一として名高い阿難(阿難陀・アーナンダ)尊者の兄であり、またお釈迦様の従兄弟に当たる人物である。
デーヴァダッタは釈迦族の諸王子たちと共にお釈迦様の弟子になったが、お釈迦様に、戒律を厳格に整備して教団の改革を提唱した「五事の戒律」を提案するも、これを拒否された上に、公衆の面前で生活態度を指摘されたことに腹を立て、釈迦教団から分派して独自に新しい教団をつくったとされている。
そして、隙あらばお釈迦様の教団を乗っ取ろうと企み、当時強大な力を誇っていたマガタ国の王を我欲の為に利用しようとしたのである。

デーヴァダッタに唆されるまま、アジャセは父ビンビサーラ王がお釈迦様のもとへ礼拝できぬように足の肉を削ぎ、七重の牢獄へ幽閉してしまった。
また母妃が父王に食料を施していた事を知るや、母妃をも幽閉してしまい、父王を餓死せしめた。
しかし、アジャセは次第にその罪の深さに悔い、心身共に病んでいった。
体中にできた疱瘡が腐敗し、高熱にうなされるアジャセに、家臣のジーヴァカ(耆婆)は、お釈迦様に相談するように勧めた。
お釈迦様のもとを訪れたアジャセは、その教えに感化を受けて、自らの罪を懺悔し、病も快方に向かって以後は、深く仏教に帰依し、教団を支援するようになったと伝えられる。
また、お釈迦様はアジャセに、「父王は自らの罪による報いを受けたのであって、そなたに罪はない」と言ったとされる。
しかし、お釈迦様が涅槃に入られて二十数年の後、アジャセ王は自らが犯した父殺しという罪と同じく、息子によって殺害されたと伝えられる。

一方、デーヴァダッタは、お釈迦様を殺して教団を乗っ取ろうとしたが失敗に終わり、仏教で重悪とされる五逆罪(殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)の内、三つの逆罪を犯した因果で、生きながらにして無間地獄に落ちたといわれている。
『大唐西域記』に記された、デーヴァダッタが堕していった穴は、現在も王舎城に残っているという。

2559175霊鷲山からバスの後をついてきた物売りたちが、ここ七重の牢獄跡でも商売を始めた。
どうやら、先の場所でMemberの一人が物売りから何かを購入したことで、この団体は買ってくれるとふんでしつこく付きまとっているようだ。
物売りたちを邪険にし続けているのも疲れるので、その中の一人と話しをしてみることにした。
以外にも、商売に必要な日本語はかなりたくさん知っていて、しかも上手に発音して、ある程度の会話になる。
その知識、他で活かせないのだろうか・・・・・

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2009年2月3日(火) ラージギル ( 王舎城の悲劇 / 七重の牢獄跡 ) [アジア]

2558131ジーヴァカの住居・果樹園跡の西に、ビンビサーラ(頻婆娑羅・びんばしゃら)王が、息子のアジャータシャトル(阿闍世・アジャセ)によって幽閉された、七重の牢獄跡がある。
現在は約70m四方の低い土壁が残っているのみである。

15歳にして父王ボーディサの跡を継いでマガダ国の王となったビンビサーラ王は、首都ラージャグリハ(王舎城)の造営と国内改革を推し進めて国力を強大化させ、八万の村落を支配し、東インドに強力な勢力を形成したと伝えられる。
そのマガタ国と競合関係にあったコーサラ国によって征服されていた釈迦族の王(お釈迦様の父王)浄飯王(じょうぼんのう)より、「ゴータマ・シッダルタ王子(お釈迦様)に、カピラ城へ帰城するように勧めてくれ」と依頼されたビンビサーラ王は、コーサラ国の内部撹乱を目的としてお釈迦様に出家を思いとどまるよう説得したものの、お釈迦様はこの申し出を拒絶された。
お釈迦様の強い決意にビンビサーラ王もこれをあきらめ、代わりに「お釈迦様が成道して仏と成られた暁には、必ず私を導いて下さい」との約束を交わし、この後ビンビサーラ王はお釈迦様に深く帰依し、お釈迦様もこの約束を果たされたと伝えられる。

このビンビサーラ王が後に、息子のアジャータシャトルによって餓死させられたというお話しは、『王舎城の悲劇』といわれ数々の仏典に説かれているが、浄土真宗では『仏説無量寿経』によって深く浸透している。
また、善導大師の書かれた『観無量寿経疏』にも『王舎城の悲劇』が記されている。

『王舎城の悲劇』
『観経疏』には、マガダ国のビンビサーラ王とその妃ヴァイデーヒー(韋提希・いだいけ)には長く子供に恵まれず、年老いた王夫妻が占師より、「毘富羅山(ヴィプラ)に住む仙人が死んでから三年後に夫人は王子をみごもるであろう」との言葉を受けて、その三年を待ちきれなかった王夫妻が仙人を殺害した後に身ごもったのが、アジャータシャトル王子であったと説かれている。
そしてその仙人が死ぬ間際に、「呪ってやる~」と言い残したという記述もあるが、実際には、『涅槃経』以外の経典に仙人殺害の記述はない。

『観無量寿経』には、以下のように説かれてある。
マガダ国のビンビサーラ王とその妃ヴァイデーヒーとの間に生まれたアジャータシャトル王子は、デーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)という悪友にそそのかされ、父ビンビサーラ王を捕えて七重の牢獄に閉じこめ、誰一人としてそこに近づくことを許さなかった。
しかし、ヴァイデーヒー王妃は夫ビンビサーラ王を気遣って、自らの身体に小麦粉に酥蜜をまぜたものを塗り、胸飾りにはぶどうの汁を詰めて、密かに王のもとへと運び、ビンビサーラ王はこれを食べ、水で口をすすぐと、耆闍崛山の方に向かって合掌をし、「 どうか親友の目連尊者をお遣わしになり、八斎戒(仏教の八つの戒律)をお授け下さい」と、お釈迦様に願った。
これを受けた目連尊者は、神通力によってビンビサーラ王のもとへ行き、毎日のように王に八斎戒を授け、またお釈迦様は、富楼那尊者を遣わして、王のために説法をさせた。
そして三週間が過ぎた頃、アジャータシャトルが牢獄の門番に「父王はまだ生きているか」と尋ねた。
門番は、「母妃が差し入れる食べ物によって王様はまだ生きておられます。
また、目連尊者や富楼那尊者が神通力により空から来て、王様に説法をしております」と答えた。
アジャータシャトルはこれを聞いて母妃に怒り、「 母は罪人だ。 また術を使って悪王に味方をする仏弟子も悪人だ」と言って剣をとり、母妃ヴァイデーヒーを殺害しようとした。
この時、月光大臣とジーヴァカ(耆婆)がアジャータシャトルに言った。
「『毘陀論経』には、父王を殺害して王位に就いた者は一万八千人にも及ぶが、母を殺害するという非道な行いをするなど前代未聞。
今、アジャータシャトル王が母妃を殺害なさるは王族の恥であり、我らもこの職を辞退します」と。
これを聞いたアジャータシャトルは剣を捨て、母妃を殺害することは思いとどまり、母妃を王宮深くに閉じこめて、一歩も外へ出られぬようにした。
悲しみに憔悴しきったヴァイデーヒー妃は、遠く耆闍崛山に向かって、お釈迦様に申し上げた。
「お釈迦様、どうか目連尊者と阿難尊者をわたしのもとへお遣わし下さい」と。
(この時、お釈迦様は霊鷲山にて一万二千人の前で『法華経』を説いておられたが、ヴァイデーヒー妃の声を聞き、これを中断されて座を立たれた。)
ヴァイデーヒー妃が涙ながらに遠く耆闍崛山におられるお釈迦様に向かって礼拝すると、まだその頭を上げないうちにお釈迦様は目連尊者と阿難尊者を王宮に向かわせ、お釈迦様自身も耆闍崛山から姿を消し、王宮にお出ましになったのである。
ヴァイデーヒー妃が頭を上げた時、そこにはお釈迦様のお姿があり、そのお姿を仰ぎ見たヴァイデーヒー妃は、お釈迦様の足もとに身を投げ、声をあげて泣きくずれた。
そしてお釈迦様に、「わたしは何の罪でこのような悪い子を生んだのしょうか。 お釈迦様もどういった因縁で、わが子をそそのかしたデーヴァダッタなどと親族であられるのでしょうか」と詰め寄った。
ヴァイデーヒー妃が、「どうかお釈迦様、このわたしに清らかな世界をお見せください」
と願うと、お釈迦様は眉間の白毫から光を放たれ、ヴァイデーヒー妃に、極楽世界や阿弥陀仏、観音・勢至の二菩薩を観想する13の観法“十三観”と、極楽世界に往生する者を「上品上生」から「下品下生」の“九品” に分けて説かれていった。
ヴァイデーヒー妃は五百人の侍女とともにその教えを聞いて、たちまち極楽世界の広長な光景見てこれを心から喜び、これまでにはない尊さに悟りを求める心を起して、その国に生れたいと願った。
そして最後にお釈迦様は阿難尊者に向って、「無量寿仏の御名を、常に心にとどめ続けよ。」と説かれたのである。

これが、『仏説観無量寿経』に説かれた『王舎城の悲劇』のあらすじである。
ここに登場するデーヴァダッタ(提婆達多・だいばだった)についてもふれておきたい。

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2009年2月3日(火) ラージギル ( ジーヴァカの邸宅跡と果樹園跡 ) [アジア]

2555779しつこい物売り達は、バスに乗ってもまだなおバスの窓越しに商売 を続けている。
それどころか、バスが動き出してもその後をバイクや自転車で追っ かけて来た。

霊鷲山のバスプールよりバスで少し走った所の道の右手に、マガ ダ国の医師であったジーヴァカ(耆婆・ぎば)の住居跡と果樹園跡 がある。
ここは、バスの車窓からのみの見学となった。

医師ジーヴァカ・コマーラバッチャは 仏教に深く帰依した人で、お釈迦様や菩薩方の 治療にもあたり、名医・医王と尊称され、アジャセ(阿闍世・アジャータシャトル)王をこの果樹園にてお釈迦様と引き会わせたことでも知られている。

2616376『涅槃経』によると、アジャセが、父ビンビサーラ王を餓死させて王位に就いた時、ジーヴァカは大臣としてアジャセ王に仕えたとされている。
しかしアジャセ王が、母ヴァイデーヒー(韋提希)までも幽閉し、父王同様に殺害せんとすると、ジーヴァカは月光大臣とともにこれを諌めたとされる。
その後アジャセ王は、自ら罪の重大さに気付いて気を病み、同時に身体にできた悪い疱瘡が、どんなに手を尽くしても改善しないことにも悩んでいた。
ジーヴァカは、「これはお釈迦様でなければ治癒できない」と言って、この時、この果樹園に滞在しておられたお釈迦様にアジャセ王をひき会わせたと伝えられる。
そしてアジャセ王は、お釈迦様の教えを聞いて自身の罪を悔い改め、以後、お釈迦様に帰依し、教団を支えたと説かれている。

<S先生の本より追記>
ジーヴァカは、お釈迦様が涅槃に入られた時に脈をとった医師であるとも伝えられている。
また、チューラパンタカ(周利槃特・しゅりはんどく)は、このマンゴー園にて悟りを開かれたと伝えられる。

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2009年2月3日(火) ラージギル ( 霊鷲山 ) [アジア]

A.M.4:30 起床   
寝不足からか、洗顔の途中に鼻血ブ~子になってしまい、化粧ができない。
A.M.5:30 Hotel出発
まだ明けぬ夜闇の中を15分ほどバスで走り、霊鷲山の登山口でバスを降りる。
思ったよりも寒くはないが、なかなか止まらない鼻血を、ティッシュで作った鼻栓で抑える我が姿に、多少なりとも乙女心は傷ついた。[失恋]
登山口には駕籠が一台と痩せた二人の駕籠かきが待機していた。 
昨日、王舎城跡でコケて腰痛を患ってしまったMRさんが、昨日のうちに頼んでおいた、“他力”?による霊鷲山登頂の為の駕籠である。
みんな面白がって写真を撮っているが、当のMRさんはとても恥ずかしそうにしていた。
各自懐中電灯の明かりを頼りに、整備されたレンガ敷きの登山道を、各々のペースで登っていく。
意外にもMRさんを乗せた駕籠のペースは速く、結局ついて行くことが出来なかった。
私はGroupの先頭を、現地の警備隊の二人と共に、牛糞を避けながら登って行った。
2555310少しずつ闇が白んでゆく。
登り始めて15分、東の空が紫色からほんのり赤く色付いてきて、その朝焼け を背に、目指す山頂がくっきりとそのシルエットを浮かび上がらせている。
霊山(りょうぜん)橋を渡ったところで見上げた山頂には、 ‘タルチョ’とよばれ るチベット仏教の旗が、至る所になびいているのが見えた。
そこから更に5.6分、乱れた息を整えるようにゆっくりと歩みを進めて、 “鷲の峰”の由来となった岩峰を右手越しに最後の階段を登り切った所が第三峰とよばれる山頂である。

霊鷲山(りょうじゅせん・グリドラクータ)
別名を耆闍崛山(ぎじゃくっせん)とも言われるその名の由来は、山頂の形状が鷲の頭のような形をしているからとか、あるいは山上に霊鷲が多いなどの説により、ギッジャ(ハゲワシの意)と名づけられた。
『大無量寿経』や『法華経』が説かれた場所として知られ、特に真宗念仏者にとっては、最大の聖地の一つとなっている。

マガタ国のビンビサーラ王が聞法の為に、霊鷲山の尾根より峰にいたるまで、谷を渡し、岩を刻んで階段を作ったその道は、幅約6m、長さ約1,500mを石で敷き詰めた、通称 ビンビサーラ・ロードとよばれている。
また、山頂手前の北面に折り重なった巨石の間にできた二つの洞穴では、お釈迦様のお弟子であられるアーナンダ(阿難陀)尊者とサーリプッタ(舎利弗)尊者が、そして南面の洞穴ではお釈迦様は瞑想されたのだと伝えられている。
霊鷲山の山頂には、お釈迦様の香堂があったとされ、現在は四畳半程のスペースを高さ50cm位のレンガの壁で囲ったその中央奥に、簡素の祭壇が設置されている。
2555318登頂したMemberに次々と、見知らぬインド人より花火のように長い線香が手渡され、近くの蝋燭より香をつけた者から順に、中央の祭壇へと案内された。
しかし、先に参拝を済ませたMemberの数人が何やら不服そうにざわめいている。
どうやら高額の御賽銭を請求されたとのこと。
私もいくら出せばいいのかわからず、身近な人に聞いてみたのだが、「御賽銭だからいくらでもいいよ」と言われて手持ちのルピーを用意した。
しかし祭壇の前まで行くと待ち構えていたインド人に、「ルピーではダメ!五千円、五千円」と言われて、差し出したルピーをつき返されてしまった。
ムッとした。
私は合掌もそこそこに、差し出したルピーをおいたまま座を立った。
そして御参りを済ませたMemberの数人にいくら出したか聞いてみると、言われるままに五千円を出した方もいるし、一万円を請求された方もいた。
ある人は何の苦も無く、「私は日本から準備してきているから」といって、祝儀袋に入れた御賽銭を祭壇に差し出された方もいた。
御賽銭って何なの?  これって商売? 
今日から巡礼する仏跡すべてで、五千円、一万円と請求されるのだろうか…?
私の心は、もう参拝どころではなくなっていた。
五千円を出し渋った卑しい心と、お金を請求されて腹を立てた怒りの心が、体中に毒を巡らせているようで、すごく憂鬱な気分になってしまった。

この後、その祭壇の前に座ってMember全員でお勤めをした。
読経も上の空で、自分の醜い心に囚われて、それ以外、何も考えられなかった。
お勤めが終わる頃、東の空の雲間から赤い太陽がゆっくりとその姿を現し始めた。
きれいだった。
言葉が出ないほど美しいと思った。
でも、私の醜い心はチットも洗われないし、少しも晴れない・・・・・
それがとても悲しかった・・・・・
私は、そんな自分の心に背を向けて、夢中でカメラのシャッターを切ったが、ご来光は、私の心まで届いてはくれなかった・・・・・
2555328

霊鷲山より西に見下ろした雑林が、マガダ国の首都・旧王舎城のあった場所とされている。
旧王舎城は、ここギッジャクータ(霊鷲山)と、ヴェーバーラ(負重山)、イシギリ(仙人掘山)、ヴェープラ(廣普山)、パンダヴァ(白善山)の五山にかこまれ、その尾根に城壁を張り巡らせて、地形を利用した堅固な城塞都市となっている。
すっかり陽は昇ったが、旧王舎城のあった密林には、まだうっすらと霧が立ち込み静寂な朝の空気に包まれていた。

山頂には1時間ちかく滞在して、再び登って来た道を戻る。
下山途中、朝食の木の実をほおばる野生の猿と遭遇したり、どこから来たのか、山頂を目指してのそりのそりと登っていく数頭の牛たちとすれ違ったり、のどかな朝の光景に心も軽くなった。
しかし、半分ほど下ったところで待ち構えていた物売りの集団にしつこく詰め寄られ、せっかくの気分も害されてしまう。
「いらない!」、「邪魔!」、「どいて!」 などと、口にしたくない言葉で物売りを蹴散らすことが、自己嫌悪となって自分に返ってくるのがイヤで、足早に山を下った。

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2009年2月2日(月) 二日目の総括 [アジア]

夢叶って、とうとうインドの土を踏んだ。
見るものすべてに驚きながらも、どこか懐かしさを感じる風景の中に、今の私が存在していることの不思議を感じた。
memberの一部からも、「あら、なつかしいわ~」と言う声が聞こえてきた。
そう! 半年前、この会に初めて参加した時に感じた懐かしさとどこか似ている。

夕食の席で初めて自己紹介の場が設けられた。
私が知っている人といえば、memberの半分にも満たない位で、名前と顔を一日も早く覚えねばと思った。
元気な人、緊張気味な人、涙ながらに語る人など、memberの話しを聞きながら、みなそれぞれに思いを馳せてここインドまで辿り着いたのだな~と思った。
ラスト2で私の自己紹介の番が回ってきた。
「私は、約半年ほど前に始めてこの会の法座に参加させていただきました。
その日、S先生が会員の方々に配っておられたのが、今回のインド旅行のパンフレットでした。
法座初参加の私には、そのパンフレットを配ってはいただけなかったので、私はS先生に直接請求してそのパンフレットを一枚いただきました。
そして今日、私はこのmemberの一員としてこの場に参加させていただけたご縁に、今、本当に不思議な気持ちでいっぱいです!」
これに対してS先生も、「半年前には想像も出来んかったね!」と付け加えられて、この時、Yuさんの話しも出たので、私は自己紹介でこう付け加えた。
「そのYuさんから出発前に、‘なぜ、お釈迦様が、君の為に、この地球上に生まれられて、仏法を説いて下さったのかを、しっかりと聞いてきなさい’ と言われました。
その言葉を一本柱にして、この旅に望みました!」
と言うと、memberからは拍手が沸き起こった。
しかし、これが後々のプレッシャーと後悔につながるとは、この時には思いもよらなった・・・・・

今日のスケジュールを終えて部屋に戻ってからは、落ち着いた時間が流れていった。
MRさんとの同室は、もっと緊張するかと思っていたが、予想に反してとてもリラックスできた。
ますますMRさんのファンになりそうだ[揺れるハート]

明日からはいよいよ本格的に仏跡巡り!
お釈迦様と私・・・・・   私と仏法・・・・・  そんな言葉が呪文のようにリフレインした。

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2009年2月2日(月) ラージギル ( 王舎城 ・ 戦車の轍跡 ) [アジア]

2552793そこは、赤茶けた平地と広大に広がる麦畑の中を走ってきた今までの風景とは変わって、小高い岩山が幾重にも連なり、人工的に積み上げられた岩の城壁が長く続く、荒涼とした場所だった。

王舎城(ラージャグリハ)とは、古代インドのマガダ国の首都の名である。
お釈迦様の在世の時代には、マガダ国最大の都として栄え、お釈迦様が最も長く滞在した地であるとされている。
普段は静かだという南門付近も、今日は祭りを祝う若者らで賑わっていて、その治安の悪さにTourConductorとGuideの二人は、今日の見学を取り止めにしようかと相談していたが、結果、短時間での見学が許可された。
バスを降り、むき出しの岩山のその谷間に延びる車道沿いを南門付近に向かって歩いていく。
『観無量寿経』に説かれた〔王舎城の悲劇〕の舞台となったこの地も、今では南門から山頂へと延びたレンガ作りの城壁がわずかに残っているのみとなってしまったが、その赤茶けた岩山を夕日が照らして、まるで当時の悲劇を物語るかのように、ウダヤの丘全体が血の色に染まっているようにさえ見えた。
道向の岩山ソーナの丘を少し上ってmemberと共に写真を撮り合っていると、TourConductorから、急いでバスに戻るように指示された。
どうやら祭りに乗じた酔っ払いにmemberの誰かがからまれたらしい。
それに慌てたのか、同室のMRさんが岩場で足を滑らせて、お尻からコケテしまったそうで、MRさんはインド初日から帰国までの十日間、この時の打撲と腰痛に悩まされ続けることになった。
これをS先生は、『新・王舎城の悲劇』と命名された。

王舎城は八大聖地の一つに数えられる。
29歳の12月8日夜半に、王宮を抜け出して出家を果たされたお釈迦様は、バッカバ仙人、アーラーラ・カーラーマ仙人、ウッダカラーマ・プッタ仙人の元を次々に訪れるが、そのどの境地にも飽き足りず、お釈迦様は更に高い悟りを目指された。
一説によると、その類稀なお釈迦様の威光に、マガダ国のビンビサーラ(頻婆娑羅)王は、我国の太子になってくれるようにと要請したが、その願いは叶わず、その代わりに、「もし、お釈迦様が悟りを得られた時には、まず私を導いて下さい」というビンビサーラ王との約束を果たすために、仏と成られたお釈迦様はこの地を訪れたのだと伝えられている。

マガタ国の都は元々ギリヴラジャ(旧王舎城)であったが、その王宮が炎上したため、ビンビサーラ王がラージャグリハ(新王舎城)に遷都したと伝えられる。
また別説では、父王であるビンビサーラ王を幽閉した息子、アジャータシャトル(阿闍世)王によって、旧都より新都に遷都したとも伝えられる。
いずれにしても、マガダ国の王舎城(ラージャグリハ)は、紀元前3世紀のアショカ王時代に、マガタ国王ウダインによってパトナに遷都されるまで、栄えた都市だったようだ。

2552800南門より北へ数百メートル行った旧王舎城の東門付近に、マガタ国軍が、馬や象を武装させて往来したであろう岩盤の道に、戦車の轍跡が今もくっきりと残っていた。
紀元前4世紀頃、マガタ国はインドでも最も良質の鉄や 銅を産出し、財政的に恵まれていたことから巨大な軍事力を誇った大国となり、この轍跡は、当時この地が世界 最先端の高度な文明を誇っていたとされる貴重な資料となっている。

17:40 Hotelに着いた頃には、日もすっかり暮れていた。
本日の宿は、インド法華ホテルである。
残念なことに、インドに着い日に早々、完全なる和定食のDinnerであった。
味は悪くないが、外国に来た時くらいは、その国の料理をいただきたいと思う・・・・・

夕食の後は、Hotelの共同浴場にみな一緒に入浴した。(もちろん女性のみ)
こちらは、外国に来たのに裸の付き合いが出来るってのもいいな~ぁと思った。
残念ながら同室のMRさんは、新・王舎城の悲劇の為、腰痛を患って部屋でシャワーを浴びるにとどまり、裸の付き合いはお預けとなった。

夜、S先生が私たちの部屋のドアをノックされた。
お風呂場に運動靴が置き忘れてあったとのことで、持ち主を探して各部屋を回られていたのだか、ドアを開けてS先生と二、三言の会話を交わした後、S先生の視線に先がフッと気になって見てみると・・・・・
!!! パジャマのズボンを履き忘れたまま応対をしている自分に気付いた!
キャ~ン! やっちゃった~! [がく~(落胆した顔)] と心の中で叫べど、時既に遅し・・・・・ [ふらふら]
MRさんに大笑いされたお陰で、恥ずかしさも吹っ飛んだが、以後気をつけねば!

この夜、MRさんとは深夜過ぎまで仏法の話をした。
たった一つ、「今まで、地獄行きのタネしか造ってこなかった私」 ということを聞かせてもらったことだけは覚えているが、後は、不思議な映像に頭が支配されていた為、何を聞かせてもらったのか、ほとんど覚えていない。
はてしなく続く緑の田園の奥に、三角の小さな家のようなものが連なっている風景。
また、だだっ広い草原の彼方にそびえ立つ赤茶けた山の景色。
また、乾燥した草の茂みが絡み合う川の跡。
また、赤茶けた大地の所々に生い茂る緑の草地と、形よく立ち並ぶパームツリー。
いくつもの情景が、次から次へと、まるで実際に目で見ているかのように鮮明に頭の中で繰り広げられているから、MRさんの話しを聞いている暇がなく、思わずMRさん、「今、すごい勢いで目の前に風景が現れています」と告白した。
きっと、頭のおかしな子とか思われるだろうな~と思ったが、MRさんは、「ふ~ん、そうなんや。それは今までに見たことのある風景?」と聞いて来た。
私は、「見たことの無い風景だけど、懐かしい感じがする」と答えた。
MRさんはそれ以上何も言わなかった。 そして寝息に変わった。
私は、「インドへ来たんだ・・・・・・」 という湧き上がる思いをかみしめながら、眠りにつくまで、次々と頭に描き出される風景を楽しみながら眠りへと落ちていった。

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2009年2月2日(月) インドへ ( ガヤ → ラージギル / インドの歴史 ) [アジア]

2552050
ガヤのAirportから15分位走った所で、水の無い大きな河にさしかかった。
ガンジス川の一支流である尼連禅河(ナイランジャナー河)である。
今は乾季のため、川幅400m以上もある大河も、砂漠のように干上がっている。

道路沿いや通り過ぎる村々では、得体の知れない人形を車やリクシャーの荷台にくくりつけて、村人らがにぎやかに騒いでいる。
どうやらヒンドゥー教の女神のお祭りらしいということだった。
2552061
初めて目にするインドの風景は、予想以上に時代がかっていた。
村も、道も、家も、人々の服装からも、長い奴隷時代の影を今なお残しているように思えた。
インドの歴史については出発前にある程度の知識は入れていったものの、今、現実に目にしている風景は、私の想像をはるかに超えていたことに、驚きと感動を隠せない。

インドの歴史は、紀元前3,500年頃にイランよりドラヴィダ人がインド北西部に移住してきたことでその歴史が始まったとされている。
紀元前2,600年頃には、世界四大文明の一つであるインダス文明が開化するも、紀元前1,800年には衰退してしまう。
その後、紀元前1,500年頃には、アーリア人の侵略によって先住民族は制圧され、これが今なお続くカースト制度の原型になったとされている。
紀元前1,000年には、部族王政であるマガダ国やコーサラ国といった十六大国が形成され、ガンジス河流域では争いが絶えなかったと伝えられる。
そのような頃に、シャカ族の王子としてお釈迦様はこの世に生を受けられたのである。
紀元前三世紀に登場したアシャカー王は、インド半島を統一支配し、お釈迦様の教え(仏教)に基づいた政治体制を完備し、秦やローマ帝国と並ぶ古代帝国が築き上げられた。
しかし、アシャカー王の滅後から600年もの間、再び混乱の時代を向かえ、4世紀になって権力を確立したグプタ朝によって、5世紀には北インドが統一された。
この頃、仏教教団も勢力を保ち、世界最古の大学であるナーランダ僧院が建てられた。
グプタ朝に変わって、7世紀初頭にはヴァルダナ朝が仏教とヒンドゥー教を保護するも、半世紀後にはヒンドゥー系の戦士集団によって、再び北インドは分裂し仏教の衰退もはじまる。
10世紀の後半にはイラン系やティクル系王朝の侵略によって、デリーを都としたイスラーム五王朝に300年もの間、奴隷支配されることとなった。
16世紀後半から、ティムール帝国に代わってムガル帝国が勢力を伸ばすも、18世紀には衰退してしまう。
そして17世紀、アジア海域世界への進出を推進したイギリスとオランダが、1623年に東南アジアで衝突してアンボイナ事件が起こり、イギリス東インド会社は東南アジア交易から駆逐されたかたちとなってインドへの進出を推し進めたことで、イギリスによるインドの支配が始まった。
18世紀後半、イギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立したイギリスは、地税制度を導入するなどしてインド民衆を困窮させていった。
イギリス支配によるインドの困窮化と経済的従属化に対しての不満が高まる中、1857年にはインド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)に発展したことで、その翌年、イギリスはムガル皇帝を廃して、インドを直接統治下においてイギリス領インド帝国を成立させた。
しかし、民族資本家の形成に伴い反英機運が一層強まり、インド国民会議派は急進的な民族主義政党へ変貌していった。
1919年、マハトマ・ガンディーによってはじめられた非暴力・不服従の運動(サティヤーグラハ)の反英闘争をおこなった結果、1935年、イギリスは新インド統治法を発布し、各州の自治拡大を認めるまでに至った。
しかし第二次世界大戦の後、インド国内のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いは激化し、イスラーム教国家のパキスタンとの分離独立(インド連邦)となったが、これに反対したガンディーは、1948年1月30日に、狂信的なヒンドゥー教徒により暗殺されたことで、インド・パキスタン双方に今なお深い傷を残したまま、分離独立の混乱は、現在でも両国関係の緊張に影響を与えている。

そんな歴史背景を読み返してみても、私の目の前に繰り広げられているインドの人々の生活は、文明大国であった数千年前の歴史よりも後退しているかのように見えた。

17:50 日暮れも間近に迫り、バスが停車した。
Guideのジャマールさんが、「王舎城の南門跡に着きました」と告げた。

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2009年2月2日(月) インドへ ( バンコク → ガヤ ) [アジア]

淡い色の夢を見た。 
見たことのない女性が私の前に跪き、両手で塩を差し出した。
私は戸惑いながらもそれを受け取った。
それで目が覚めた。
もう夜明けかと思ったが、まだ深夜2:30であった。
Mineralwaterをコップ一杯飲んでから、再び眠りについた。

同室のMRさん目覚めた音で目が覚めた。 時計はまだ3:30。
MRさんと二言三言の会話を交わすが、翌朝、MRさんは、私が部屋に戻ってきた時の記憶も、この時の会話の記憶も、まったく無いという。
ホントに愉快な人である。

時計は4:30。 一時間おきに目が覚めてしまう。
部屋の温度が高くてなかなか眠れない。 MRさんも寝苦しそうだ。

A.M.6:00 MRさんがゴソゴソと動き出したので私も起床した。
シャワーは水しか出なかったが、暑くて汗ダクだったので気持ちが良かった。
二人で朝食を済ませてから部屋に戻って、MRさんと何気ない会話を楽しむ。
仏法は二の次三の次で、凡夫の会話で大いに盛り上がった。

9:00にはHotelを出発して、Rushhourの街を横目にHighwayで昨日降り立ったスワンナプームInternational Airportへ。
Check Inは昨日とは打って変わってスムーズに済み、45分間のFreetimeで、WindowShoppingも楽しめた。

P.M.12:00 予定よりも10分ほど早く飛行機が動き出した。
機内には空席が多数あったので、私はTourのmemberとは離れた所の窓際の席へ一人移動すると、少し後からMRさんが私の後ろの席へと移動してきた。
機内ServiceのLaunchを済ませたところで、後ろからMRさんが声をかけてきた。
「そんで、なっちゃんは、ど~なん?」
見事な豪腕ストレートパンチに、一瞬たじろいだが、すぐに体裁を整える私・・・
MRさんの隣の席へ移動して、仏法座談が始まった。
が、・・・・・  何を話したのか・・・・・ これ以降、日記をつける暇が無く、うる覚えの記憶をたどる。

インド・ビハール州のガヤ空港へ着陸したのは、予定着時刻よりも20分ほど早かった。
しかしこの空港、国際空港にしては、飛行機が一機も見当たらないし、管制塔らしきTowerも無い。
唯一、廃墟のようなコンクリート建ての小さな建物と、その前には錆付いた飛行機のタラップが一つあるのみ。 
あまりにチンケな空港なので写真に収めようとしたが、TourConductorより、「インドでは、軍事施設をはじめ、空港・橋・駅などを写真撮影してはいけないきまりになっていると言われてあきらめた。
飛行機は、Terminalらしき建物のほぼ正面に着いたが、歩いて行ってはいけないということで、たったの50m程の距離を、これまたオンボロバスに分乗して移動する。
2563795しかしmemberの中に、機内にカメラを忘れた人があって、その人はTerminalより走って機内に戻り、歩いてTerminalへと帰ってきた。
まったく意味の無いルールである・・・・・
無意味ついでに、カメラを取り出し、Terminalの中から外の景色を写真に収めたが、隣りでこれを見ていた二人の軍人さんには、何も咎められなかった。
Terminalに入るとすぐに入国審査の為の簡素なカウンターがあったが、ゲートは開いているものの誰も座っていなかった。
聞いたところによると、飛行機の到着予定時刻になるまでは、働かないのだそうだ。
しかし、中国系の団体や、タイの僧侶のグループ、そして別の日本人ツアーの客など、半数以上の乗客は何の審査のも無しにゲートを通り抜けて、各自の荷物を持って出て行ってしまった。
TourConductorに訳を聞くと、この空港では、チップというには大金過ぎる程の賄賂を渡さなければ、素直に入国させてくれないとの事で、今、出て行った乗客は、みな裏金を支払って出て行ったのだという。
私たちのTourConductorは、そんな不当のやり方には屈しない、インドの為にはならないといって、賄賂の請求を断固拒否し続けた為、私たちは最後の最後まで待たされることになった。
週に四便しかないという小さな空港ということで、今日はもう飛行機の到着はない。
つまり、私たちがこの空港にいる限り、彼ら入国審査官は帰宅できないということで、ようやく私たちの入国審査が始まった。
しかし、なんやかんやとイチャモンや難癖をつけたり、スーツケース開けて中を調べたりと、嫌がらせのオンパレードで、インドに着いて早々、インド嫌いになりそうであった。

何とか全員の無事にインドへの入国を果たし、迎えのバスに乗り込む。
Hotelまでの道のりは、約70km、2時間程の行程とのことであったが、途中、先月以来壊れている橋を迂回しなければならず、悪路を30分ほど余分に走らなければならないと言われた。
バスに乗車する際、首にかけてもらったマリーゴールドの花輪の香りと、車内にたかれた御香の香りでむせかえって、乗り物酔いの心配がよぎる。

P.M.14:45 バスはわずらわしいガヤAirportを後にしてラージギルへと走りだした。
車内では、今日から一週間程お世話になる現地ガイドのジャマールさんが挨拶をされた後、インドルピーへの両替をしてくれた。
一人10,000円で4,900ルピーとの両替。 どの紙幣にもマハトマ・ガンジーの肖像が印刷されていた。

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2009年2月1日(日) 旅立ち(経由地バンコクへ) [アジア]

A.M.6:00 分厚い雲に覆われているせいで、窓の外はまだ夜闇に包まれている。
昨夜はなかなか寝付けず、今朝はAlarmが鳴るより前に目覚めてしまったが、短時間でも熟睡はできた。
のんびりと身支度を整え、何も気負わずリラックスした気分である。
A.M.8:15 HotelのLobbyでTMさん姉弟と待ち合わせをしてからTerminalの集合場所へと向かうと、既に大半のMemberがそろっていた。
TourConductorの拓郎さんから預けておいたPassportを手渡されて、Check In Counterに並ぶも、すごい行列であった。
結局一時間ほど待たされた後、ようやくCheck Inを済ませすると、今度は手荷物検査の為の大行列に並び、出国審査を通った人からシャトルに飛び乗って出発ゲートへと向かい、トイレに行く暇もないほどあわただしく飛行機へと飛び乗った。
搭乗前に友人にメールなどを送ろうと思っていたのだが、予想外の混雑に巻き込まれてしまい、結局Yu氏と支部長のYMさんにしかメールを送ることができなかった。
そのYu氏からはすぐに返信が返ってきたのだが・・・
 私 「あわただしくって心の準備どころじゃありません」
 Yu氏 「死ぬ時も心の準備なしに出かけるんじゃ!」
と、搭乗前に、まこと有り難いお言葉?をいただいた・・・

定刻に飛行機が動き出す。
私は窓際の座席を譲っていただき、隣には今回初めてお会いするIGさん、その隣には前回初対面で仲良くなったIEさんが座られた。
初めの内は空腹のためにご機嫌うるわしくないIGさんであったが、機内食を食べてからはこころよく会話に応じてくれるようになった。
IEさんが席を立たれた間、S先生が変わりに座られて、「ご縁の整った方のみが、この旅行に参加できたのだ」と仰った。
“縁”というのが、いくつも寄り合ってその結果を得るのであり、その“縁”がたった一つでも欠けたならば(整わなければ)、今、この場所に、この私は存在し得ないのだということを教えていただいた。
IGさんには、「その“ご縁”のひとつひとつは、決して当たり前に整ったのもではないのだ」と教えていただき、「それでも当たり前の如く受け流すことしか出来ない自分というものを見させてもらっているのだ」と付け加えられた。
私は、ホントにそ~だな~ぁと聞かせてもらった。

お腹も落ち着き、時間を持て余す人たちが眠りに入る中、私はノートに向かった。
一息ついて顔を上げると、機内で上映されている映画に気を取られて、しばらくその映画を鑑賞した。
『The Secret Life of Bees』というアメリカ映画で、日本ではまだ未公開の映画だ。
1964年、黒人の公民権運動が盛り上がっている時代、サウス・カロライナ州に住む四歳の白人少女・リリィは、母の死に心を痛めたまま成長するも、愛情の乏しい父親との確執から、14歳の時に黒人のメイド・ロザリンを連れて家を出る。
手持ち資金の尽きた二人がたどりついた先は、養蜂場を経営する誇り高く知的な黒人三姉妹が住むボートライト家であった。
長女オーガストの元で、次第に少女らしい感情を取り戻していくリリィの成長を支えた友情と勇気を描いた映画であった。
“死”よりも、“生”に比重をおき、勇気を持って愛情深く生きることのすばらしさを訴えるストーリーに、何となく違和感を覚えながらも最後まで見入ってしまった。
映画が終了するとIceCreamの機内Serviceがあった。
なんやかんやと目的地まで後一時間となり、機内は再びあわただしく賑わいだした。

予定時刻より一時間近くも早く中継地である新バンコク国際空港(スワンナプームInternational Airport)に到着した。
しかしここでも日本と同様、大行列の入国審査に一時間ほど費やし、その後も別便で福岡より到着する予定のKY夫妻の到着をさらに一時間待って、今日はTOTAL4時間の空港待機で、誰もが初日から疲れを隠せないでいた。
Hotelまではバスで40分。 
現地ガイドのターさんが、車内にてガイドをしてくれるも、その車内に飛び交う蚊の多さに、あっちでパチン! こっちでパチン! と、手を打つ音が絶えず、Guideなどそっちのけで、前も後ろも右も左も、パチン!パチン!と殺虫の手拍子に必死で、[わーい(嬉しい顔)]すごい笑えた。
Hotelに到着後、部屋で少し休憩をとってから夕食会場へと向かうバスに再び乗り込む。
夕食は、SoM BooN SEAFOODというRestaurantで、タイのSeafood大皿コース料理を堪能したが、しかしここでもすさまじいほどの蚊の量に、初めは食事どころではなかった。
天井には数え切れないほどの蚊の斑点模様、従業員もElectronic蚊叩きでパチンバチンと応戦していて、日本では味わうことのできない意心地の悪さではあったが、料理は美味しかった。

食事が済むと、現地ガイドより予定外のOptionalTourへの参加依頼があった。
タイ式マッサージ¥3,000 or ニューハーフショー¥4,000 の選択を迫られ、私はKY夫妻につられてニューハーフショーを見に行くことにした。
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他には、S先生、TMさん姉弟、そしてTourConductorの拓郎さんも参加された。
ショーは、こんなものかな~?という感じであったが、¥4,000はちょっと高いと思った。
Yu氏に、面白半分、ニューハーフショーを見に行くとメールをしたら、すぐに返事が返ってきた。
「聞法旅行でニューハーフショーはまずいよ・・・・・ ボクなら絶対に行く~!
凡夫まる出しの旅! いくらいい格好をしても、お互いそれが本性であり、それを見抜いての御本願だ!」
とあった。
さすが、Yu氏である。 ますます尊敬した。[黒ハート]

Hotelに戻ったのは9時を少しを過ぎたくらいであったが、同室のMRさんは既に寝ておられた。
それからShowerを浴びて、翌日の準備をし、日記をつける。
もうすぐ深夜0時である。 日本時間なら夜中の2時。 そろそろベッドに入らねば・・・

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2009年1月31日(土) 関空へ [アジア]

昨夜は久しぶりの大雨で今日の出発を少々心配していたが、目覚めてみれば日差しの温かい穏やかな朝を向かえることが出来た。
今日は、午前中の所用にことごとく振り回されたが、何とか出発準備も整って、正午少し前に家を出る。
新幹線の駅までは車で15分、夫に送ってもらった。
車から降りる時、「改札口で見送ってよ」と夫にわがままを言ってみる。
しぶしぶながらも付き合ってくれる夫・・・
窓口で乗車チケットを購入する際、駅員の手違いで高額請求をされて取り消し更正作業に手間取る。
「やっぱり今日は他人の失敗に、ことごとく付き合わされるな~ぁ」と被害者気分でため息をつく・・・
改札口で夫と別れる際、「今後の付き合いのことも考えて、団体行動を乱さないようにね!」と声をかけられ、「私ってそんなにヤバい人物か?」と、心の中で反問しながらも、「それじゃ~行ってくるね! 家事、頑張ってね!」と言って一人ホームに向かう。

名古屋発のこだまは人もまばらで余裕で座れた。
車窓から見る風景は、いつも乗っている在来線から見る景色と何も変わらないはずなのに、今日は全く違って見えるのは何故だろう・・・
そんなことを考えながらも、フッと昔の記憶がよみがえる。
今は亡き母と、初めて二人で新幹線に乗って旅をした、あの日のひとコマが鮮明に思い出されて、母の声が聞こえたような気がした。
もう30年近くも昔のことなのに・・・
思えば、私がこうしてインドへ行くことになったのは、母の死がきっかけであったなぁと、感慨深く思い起こされた。
車窓から眺める風景、 空・山・川・街・車・人・・・・・  当たり前に見慣れたものたち・・・・・
当たり前だと思って目にしているものたちの一刹那をフッと感じて、「もう、二度と見ることの出来ない一瞬なのだな~ぁ・・・」と、少し、もの寂しい気持ちになった。
最後、最後、これが最後と思いながら一つ一つの一瞬の風景を見ていると、そのすべてが愛おしく感じられる。
しかし、それらすべてのものに、いつかは裏切られ見捨てられる自分なのだと思うと、背筋に冷たいものが走り、“諸行無常”という鐘の音が頭の中に響き渡ったような気がした。
こだまの車内で遅めの昼食をとりながら車窓に目を向ける。
冬枯れした風景が、私に何かを訴えかけているように感じた。
もうすぐ京都である。

小雨の降る京都を後に、はるかは大阪の街を走り抜けて関空に向かう。
車内はほぼ満席。
通路を挟んだ反対側の窓際の席に座る青年のイヤホンから漏れる大音量の曲の音が車内に響き渡り、誰もがしかめっ面をしながら彼に非難の視線を浴びせているが、誰一人として直接彼を咎める者はいない。
私も、イライラしながらも何も言えない一人である。
ただ心の中で彼を罵倒し、ののしり続けて被害者面をしている卑怯な輩だ・・・
関空へと続く鉄橋に差し掛かると、西の空にかかった分厚い雲の割れ間から、黄金色の夕日が線を描いて地に降り注いでいた。
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PM.4:30 関西空港駅着。 
ホテルでCheck Inを済ませた後、部屋でコーヒーをいただいてから、Terminalの方へ散歩に出かけた。
人もまばらで閑散としているTerminalにてWindow Shoppingをした後、Restaurantにて夕食を済ませてから、Hotelに戻る途中のコンビニに立ち寄ったところで携帯がなった。
同じHotelに前泊する予定になっていたTMさんからで、そのTMさんのお誘いに甘えて、TMさん姉弟の部屋へ遊びに伺うことになった。
そのコンビニで、ジュースとロールケーキを購入してTMさん姉弟の部屋を訪問するも、テーブルの上にはタコ焼きとビールが用意されており、とても「ジュースをどうぞ」とは言えずに、ロールケーキだけを遠慮気に差し出した。
初めの内は何気ない会話で、自己紹介も兼ねて今回の旅行に対する想いなどを語り合っていたが、しばらくして後、TMさんの携帯に息子のKYさんから電話が入った。
TMさんよりKYさんからの電話をまわしてもらった時、KYさんより、「出発前に、TMさんとKHさんから、ちゃんと聞かせてもらってね!」と言われて、改めて今回の旅行が聞法旅行であることを再確認させられた。

それからはKHさんの話しも仏法に変わり、「浄土真宗の教えは、他宗のように上や外にあるものに手を伸ばす教えではなく、自分の内にある、その腹底を見させていただく教えである」ということからはじまって、聴聞の基本などをKHさんのなりの言葉で説いて下さった。
そして、浄土真宗では「聞く」ことが大事だと教えるが、いったい何を聞くのか?
それは、“地獄しか行きようのない自分の値打ち”というものを聞かせてもらうのであるということ教えて下さった。
“自分の値打ち”
それは、お釈迦様の口を借りて阿弥陀様が説かれた四十八願より“唯除されている私”というものを聞くのであって、これは、聞かせてもらわねばわからない、気付けない教えだからこそ、これを聞かせてもらうのだと・・・・・
また、“地獄”とは “自業苦”のことであり、自分の業(行い)によって自らが苦しむという大宇宙の真理(法)であるということも教えていただいた。
これは裏を返せば、“苦しむ”と言う結果を受けているということは、悪業ばかりを造っているということが言える。
では、何が“一番の悪”なのかを、お釈迦様はこう説いておられる。
「悪いとわかってやる悪よりも、悪を悪とも知らずにやっている罪が一番の悪であり、罪を罪と知らずに造る悪こそ、最も重い悪であり罪である」と・・・・・
私が成すこと全てが地獄行きのタネ、自業苦という因果の道理、大宇宙の真理を知らないことこそが大罪であるのだということをKHさんはお話しして下さった。
そして最後に、『大経』に説かれてある四十八願は、どう考えても人間の知恵で説ける内容ではない、それだけでも仏の教えを信ずるに余りあることだと仰った。

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インド・ネパールより帰国 [アジア]

昨日、インド・ネパールよりバンコクを経由して無事に帰国しました。
かなりハードなスケジュール故に、旅行中には日記をつけている暇は無く、写真を見ながら記憶を辿って、この旅を振り返ってみようと思う。
旅行中に撮ってきた写真の総枚数は、2,400枚を超えているので、その整理だけでも時間を要しそうだ。
S先生が、旅行前に作ってくださったガイドブックは、とてもわかりやすく巡礼先の説明がなされており、これを参考にさせていただきながら、ボチボチと旅ブログをまとめてみよう。[晴れ]
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