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第十八願のこころ ① [仏法]

2009.9.20 G先生  
御讃題は、蓮如上人 『御文章(御文)』 五帖 五通 より

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。
この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。

いただいたプリントには、『大無量寿経』より 「第十八願文」、及び「本願成就文」、また、蓮如さまの『御一代記聞書』 や 天親菩薩さまの『願生偈』 などが記されてある。

御法話は、お釈迦さまが万善万行のご修行の末に、この地球上で唯一成仏してくださったおかげで、阿弥陀さまの御説法をお説きくださり、これをこの末法の世にて親鸞さまが、「」(お釈迦さまご出世の本懐である阿弥陀さまの御本願が説かれた浄土三部経)と、「」(私に代わって阿弥陀さまがやり遂げてくださった大行)に加えて、「」(他力回向の信心一つ)で、「」(仏果である仏の悟り)を得させていただくのだと説き開いてくださった、というお話しから入られた。

「私の命は、他の命を奪い取らねば生き続けることが出来ない…」と、G先生はいつもお示しくださる。
因果の道理に従えば、とても生きながらえることなど叶わない私がこうして生きていられるのは、無量寿(死なない命)・無量光(私の迷いを断ち切る力)を完成させてくださったからである。 それは何故か・・・。
阿弥陀さまが魚や食肉に姿を変えられ、「われを食え!」とご自身の命を投げ出してくださっているのは、無明の世界で苦しんでいる私をあまりにも憐れと見られて、「どうか迷いの世界から飛び出してくれ!」と願われ、五劫思惟して建ててくださったのが四十八願であり、その中の私を救う方法として十八願(本願)を起こしてくださった。 これをいかにいただくかが今日のお話し。

『仏説無量寿経』上巻 「第十八願・本願文」

たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生まれんと欲(おも)いて、乃至十念せん。 もし生まれずば、正覚を取らじ。 ただ五逆と正法を誹謗(ひぼう)するものをば除く。

阿弥陀如来さまは、一番最初に成仏なされた仏さまであられるが、その本師本仏の阿弥陀さまがその位から降りられ、法蔵比丘となって世自在王仏さまのもとに行かれ頭を下げられた。
誰の為に?  この私の為に・・・
私は、善も積めないし、悪を止めることも出来ない…、仏に成りたいという心などまったく無いし、ただ ただ 悪業を重ねることしか出来ないヤツだと知った上で、法蔵菩薩さまは、「それならば、こちらでお前が仏になるだけの種を全部作ってあげよう」と、五劫という永い間、私の為に考えに考えて考え抜かれて結果出来上がったのが四十八願であり、根本願である十八願である。

この願を実行させる為に、今度は兆載永劫という果てしなく永い永い間、この私一人の為にご修行をして下さり、そしてついに出来上がったのが、‘南無阿弥陀仏’ である。

無量寿 ・ 無量光 のお力を “阿弥陀” といい、私の為に仕上げられた ‘南無阿弥陀仏’を 信じる心が “南無” の心、この心をいただかねばならんとG先生はお説きくださる。
私は‘信じる心’など一欠けらも持ってはいない…。 そんなこと私よりも阿弥陀さまは百もご承知。
だから‘南無阿弥陀仏’にすべてを込めて仕上げたものを私に届けて下さった。 
阿弥陀さまの方から手を合わせ、頭を下げられ、「どうか‘南無阿弥陀仏’と親子の名乗りをしておくれ。 どうかわたしにお前を助けさせておくれ。 お願いです、お願いです」と…
これを信じる心など皆無の私に向かい、必ず救うと信じて、十劫の昔から立ちづめ、呼びづめ、招きづめ。

このお話しをされる時、G先生は いつも いつも 立ちづめ、呼びづめ、招き詰めのお姿で手を合わせて、何度も 何度も 頭を下げられる。
驚く心も、感謝の心もない私だけれども、G先生という姿になって私の目の前に立たれた阿弥陀さまが、「どうか、わたしを信じておくれ! そして‘南無阿弥陀仏’を受け取っておくれ! そうしたらお前の罪業はすべて引き受け、この世で‘南無阿弥陀仏’と称えずにはおられない身にしてあげる」 と 手を合わせ頭を下げて拝まれれば、こんな強情頑漫な私でも何か居心地が悪くムズムズしてくる。
そんな私の口からポツリと 「‘南無阿弥陀仏’」と出てきたならば、如来さまは大喜びをしてくださる。
「あぁ~、そうでしたか! 私には何の力もありませんでした。 如来さまの悟られたお宝ものを、ただ そのまんまいただくんですね~!」 と、自分の中には絶対に有り得ない、“南無”の心(信じる心)を先にいただく。 ハッキリと親子の名乗りをさせていただく。 すると“阿弥陀仏”がくっついて来てくださるのだと…。

親鸞さまは、師匠であられる法然さまの下で念仏の教えを聞いておられたほとんどのお弟子方が、阿弥陀如来さまに任せきっていない! 信じる心など持ち合わせていないのに、自力の心で信じている人ばかり! スッキリと 「‘南無阿弥陀仏’一つでええんや!」と言える人が、あまりにも少ないと見られ、法然さまの念仏往生の本心は、信心往生である、信じる心一ついただくと、‘南無阿弥陀仏’と称えずにはおれんようになるのだ、と、あきらかにしてくださった。

( つづく )

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