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『仏説無量寿経』下巻 三毒段 「愚痴」 ② [仏法]

2009.9.20 MO先生  
『仏説無量寿経』 下巻 「愚痴之誡」 

かくのごときの世人(せにん)、善をなして善を得、道(どう)をなして道を得ることを信ぜず。 人死してさらに生じ、恵施(えせ)して福を得ることを信ぜず。 善悪の事(じ)すべてこれを信ぜずして、これをしからずと謂(おも)うてつひに是(ぜ)することあることなし。 ただこれによるがゆゑに、またみづからこれを見る。

<意> そもそも私には、仏になりたいなどと思う心などないので、世間事を捨てて仏道修行をしよう、善根(仏法三学「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」)を積んで仏果を得えようなどとは思わない。
ただ ただ 人間レベルでの楽果(無苦・安楽)をタダ貰いしたいだけで人間的枠組から逃れられない。
また、死んだら再生があるということを信じ切れず、 つまりは善悪因果の道理を否定し、自分の枠組みにしがみ付いてこれを受け入れられず(=謗法)、因果の道理を否定する見解を自分の意見としている(=邪見)のである。

たがひにあひ瞻視(せんじ)して先後同じくしかなり。 うたたあひ承受するに父の余(のこ)せる教令をもつてす。 先人(せんにん)・祖父もとより善をなさず、道徳を識(し)らず、身愚かに神(たましい)闇く、心塞り、意(こころ)閉ぢて、死生の趣、善悪の道(どう)、みづから見ることあたはず、語るものあることなし。 吉凶・禍福(かふく)、競ひておのおのこれをなすに、ひとりも怪しむものなし。

<意> 前述の邪見が、先祖から子孫へと教え伝えられ、善悪因果を信じないが故に仏道修行をせず、死んだら終わりだとか、死んだら成仏するだとか、因果の道理を否定した見解が脈々と受け継がれ、真実の仏教をかたくなに聞こうとしない。
善悪因果に従ってどうなるかを見る智恵がないために、これを語る者もなく、しかるに吉凶・禍福の根本原因を怪しむ者さえいない。

生死の常の道(みち)、うたたあひ嗣(つ)ぎて立つ。 あるいは父、子に哭(こく)し、あるいは子、父に哭す。 兄弟・夫婦たがひにあひ哭泣す。 顛倒上下することは、無常の根本なり。 みなまさに過ぎ去るべく、つねに保つべからず。 教語し開導すれどもこれを信ずるものは少なし。 ここをもつて生死流転し、休止(くし)することあることなし。

<意> 生あるものは必ず死に帰することは常の道理。 その通りだと思う。 そう、ただそう思うだけで、全然自分の身についていない。 だから泣く。 親子も夫婦も互いに死に別れて泣き合う。
いつかは死ぬと思っても、我が身に明日は訪れると決め込んで毎晩眠りにつく。
では、いつ死に帰すか? 年配者からとは限らず、病人からとも限らず、元気な若者でもコロッと死んでしまうことがあるというが無常の根本である。 …と言うのを頭ではわかっていても、腹底はピクリともしてない。
まぁ、明日私が死ぬということはないだろう…と、毎日 毎日 自分の死は先延ばしにするばかりで、結局、私が死ぬだなんて腹底では少しも思っていない。 老少不定と言っても口先ばかりで、いつまででも生きていられるんだと邪見し、私は全然無常がわかっていないのだ…。
だから生まれ変わり死に変わりを繰り返し、これがいつまでも止まないのである。

かくのごときの人、矇冥(もうみょう)抵突(たいとつ)して経法を信ぜず、心に遠き慮(おもんぱか)りなくして、おのおの意(い)を快くせんと欲(おも)へり。  愛欲に痴惑せられて道徳を達(そと)らず、瞋怒(しんぬ)に迷没し財色を貪狼(とんろう)す。 これによつて道(どう)を得ず、まさに悪趣の苦に更(かえ)り、生死窮(きわ)まりやむことなかるべし。 哀れなるかな、はなはだ傷むべし。

<意> 私は、因果の道理も、無常も、根本的にわかっていないから、仏道修行をする気も起こらず、したがって輪廻転生が止まない。
この私の心は愚かで、道理には背き、仏の教法も口先だけで信じていないし、後生のことなど心にかけることもなく、ひたすらに目先の快楽のみを追求するばかりである。
腹を立てては財欲・色欲を貪って、それはまるで獣のようだ。 
だから迷いから離れられず、来世もまた地獄一定で、出離の縁あることなしとお示しくださった。

あるときは室家(しつけ)の父子・兄弟・夫婦、ひとりは死しひとりは生きて、たがひにあひ哀愍し、恩愛思慕(おんないしぼ)して、憂念結縛(うねんけっぱく)す、心意痛着(しんいつうじゃく)してたがひにあひ顧恋(これん)す。 日を窮め歳を卒(お)へて、解けやむことあることなし。 道徳を教語すれども心開明せず、恩好を思想して情欲を離れず。 昏矇閉塞(こんもうへいそく)して愚惑に覆はれたり。 深く思ひ、つらつら計り、心みづから端正にして専精に道を行じて世事を決断することあたはず。 便旋(べんせん)として竟(おわ)りに至る。 年寿終りつきぬれば、道を得ることあたはず、いかんともすべきことなし。

<意> 目先の快楽の中で最も強烈な快楽である恩愛・情愛は、仏道に入る最大の妨げになっている。
愛する家族の誰かが死ねば、残された者は死別を悲しんで思い出と愛着が募るばかり。 その執着から離れら切れないので、仏道の功徳を教えたとてもこれに専念することができず、我が寿命が尽きてしまえばいかんともし難いとお示しくださっている。

総猥憒擾(そうわいけにょう)にしてみな愛欲を貪る。 道に惑へるものは衆(おお)く、これを悟るものは寡(すく)し。 世間怱々(そうそう)として憀頼(りょうらい)すべきものなし。 尊卑・上下・貧富・貴賤、勤苦怱務しておのおの殺毒を懐く。 悪気窈冥(あっけようみょう)にしてために妄りに事を興(おこ)す。 天地に違逆し、人心(にんしん)に従はず。 自然の非悪、まづ随ひてこれに与(くみ)し、ほしいままに所為を聴(ゆる)してその罪の極まるを待つ。 その寿(いのち)いまだ尽きざるに、すなはちたちまちにこれを奪ふ。 悪道に下り入りて累世に勤苦す。 そのなかに展転して数千億劫も出づる期(ご)あることなし。 痛みいふべからず、はなはだ哀愍すべし。

<意> 『阿弥陀経』に‘五濁惡世’と説かれているように、この世は乱れきっていて心安らぐことがない。
私は愛欲を貪るばかりで、進むべき道に迷い、またこの世には頼れるべきものなど何もない…。
世渡りに苦労し、忙しく、心の底には毒を含んだ恐ろしい思いを抱きながら、今はそれを隠せていても、縁がもよおせばいつ表に現われるとも知れず、この悪心が表面化すればこの世にいる内から地獄の苦を負うことになる。
非行悪業が悪果と現われ、こうした罪業が雪ダルマ式に増えて行き、その罪は行き着くところまで行き着く。
そして突然命奪われ地獄に堕ちて生死に苦しみ、苦悩の世界で転生を重ねて何千億劫もの永い間出ること叶わず、その痛ましさは言葉にならず、まったくもって哀れであるとお示しくださっている。

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