SSブログ

貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵め難し [仏法]

2009.9.19 MK先生  
御讃題は、善導大師 の 『観経疏』散善義 より

外(ほか)に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現ずることを得ざれ、中(うち)に虚仮(こけ)を懐ければなり。 貪瞋(とんじん)、邪偽(じゃぎ)、奸詐百端(かんさひゃくたん)にして、悪性(あくしょう)侵(や)め難しこと、蛇蝎(じゃかつ)に同じ。

<訳> 上辺だけ賢者や善人の如く振舞ってはならない。 なぜならば心の中には偽りを抱いて、貪り・怒り・邪ま・欺きの心が絶えず起こり、悪い本性は変わることがなく、それはあたかも蛇や蠍のようである。

先々月、不思議な体験をされたというMK先生。 今回の御法話は、その体験を通して知らされた‘南無阿弥陀仏’のお心をお話しくださった。

仏教は、自分の心を問題にしていくのだと教えていただいたとおり、私の本心を覗いて見ると、外に表わしている笑顔や優しい言葉とは裏腹に、心の中にはそれとは逆の虚仮の心、貪欲・瞋恚・愚痴の心で渦巻いているということが、ほんのちょっとだけ見える。
善導大師は、「一人一日の中に八億四千の念あり」 と示されたが、その全部が見えていたら、自分の恐ろしさにきっと生きてはいられないだろう…。 何せ、一つ残らずそのすべてが悪業なのだから…。
そんな私の中なる世界(心の中)で絶えず造り続けている悪業の一つ一つが三悪道に落ちる種となって、中なる世界のそのまた奥にある未耶識(マナシキ)・阿頼耶識(アラヤシキ)と言う世界に一つ残らず納められて行き、そこに積もりに積もった過去世からの悪業の種が、私の次に行く世界を造り出しているのだと…。 つまりは、日々刻々に自分で自分の後生の因を造っているのだと聞かせていただいた。

それは私の理解をはるかに超えた世界で、私にはこれを思議することは出来ない。 智恵がないのだ。
でも、悟られた仏さまには、この原因のところに、今、ここで、私の後生がどのように展開していくのかという、その結果がハッキリと見えておられる。 だから、「お前の後生は一大事だぞ~!」 と 叫ばずにおれないのだと…。

私の心の中は、何でもありの私(オレが)の独裁王国である。
我欲のままに貪り、何にでも手を伸ばし、誰でも何度でも平気で殺す…。 自分の都合に合わせて仏法だって、何だって利用して、その欲が達せられなければ当たり前のように腹を立てる。
それなのに自分は、まともで善人だと思っているのだから、自分の後生に一大事があるだなんてツユ・チリほどにも思えない…。
そんな私だから…、 そんな私の為に、阿弥陀如来さまは、五劫もかけてご思案くださり、兆載永劫と言う永い間ご修行をしてくださった。 それも私一人の為のご苦労であったと…。

しかし、そんなこと、私からお願いをしたわけでもなければ、望んだことすらない。
仏さまからの一方通行の愛の手を、疎ましいとさえ思っている私がいる。
こんな私の後生を心配して、どうか救われてほしいと願われ、こんな私を悟りの世界に生まれさせるだけの力を‘南無阿弥陀仏’に封じ込めて届けてくださった仏さま。
その‘南無阿弥陀仏’をどうか受け取ってくれよと、阿弥陀如来さまは、立ち詰め、呼び詰め、招き詰!

それなのに、それなのに、‘南無阿弥陀仏’に遇わせていただく時に立ちはだかる自力の心…。
外には賢く善人ぶって自分はまともな人間だと思い装っている私であるが、心の中では、ありとあらゆる悪の世界を造りに造って、後生は地獄へ堕ちるしかない、そんな心を当て・頼り・拠り所にし、そんな心でお救いを鷲づかみにしよう・助かりたい・幸せになりたいと穢い手を伸ばすばかり…。
阿弥陀さまは、こんな醜い私であることは百も承知の上で ‘南無阿弥陀仏’を仕上げてくださった。
そんな心しかない私だからこそ、‘南無阿弥陀仏’になってくださったのに、私は、邪見・驕慢の自力の心で阿弥陀さまのお救いに立ち向かい、計らい、邪魔することしかできない…。
それが唯除された、五逆・誹謗謗法の私の相(すがた)なのだとお聞かせいただいた。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。