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夢の後先(独り言) [心]

昨日、我が家に降臨された菩薩方のお言葉をBLOGに書き残そうとしても、実は、その大半を聞き流し、忘れてしまって文字にならない。
すごくもったいないと思うが、昨日は、「今、ここの所の私」、常に感じ、常に動き続ける自分の心を言葉に出していこうと、今までとは違う体験を望み、実践を試みた。

今までは、お同行の言葉から、また生活の中から、自分にピタッと来る御法を探しながら聞いていた為、何か御法的な感じがすると、それを記憶しよう、考えてみようと、心にメモをとるスタイルが板についていた。
でも、それは過去の自分に捕らわれていく姿で、今の自分を無視してはいないか…、と思い、昨日は、過去の思いに捕らわれず、言葉に振りまわれずに、今、私は何を思い、何を感じたているのかを表現してみようと思った。
また、それを可能にしてくれた菩薩方だった。

聞いた言葉ひとつ一つに反応する心や、全く動じない心や、様々な心が交錯する様子を客観的に見ていると、やはり一つとしてとどまることを知らない“無常”というものが実感される。
ただ、御法は、客観的では聞けず、自分という主体を仏様のものさしで見ていかねばならないと教えてもらったのだが、そこのところが、まだコクリと飲み込めていない自分がわかる。

また、HMさんに、「今まで、何 聞いとったん?!」と指摘され、確かに、聞いた、知ったと覚えていただけで、私は何も聞いてなかった…、何もわかってなかったんだな~と知らされた場面もいくつかあった。
これを、人から言われて初めて気付く自分の不甲斐なさに、落ち込んだり、また感動したり…、
刻々と変化する自分の心を見ているのは実にFunnyだが、その中の一点を常に避けている自分に気付き、何だかとても嫌な感じになる…。
MRさんに、「その嫌な所に仏様はおるんやで! そこでしか遇えんのやで!」と言われても、私は好き好んでそこに触れようとは思わない。
蓋をして、無視して、逃げる・・・ という作業を無意識の内に繰り返しながらも、これに反発をしている私も存在している。

聞いて初めて気付かしてもらったことに反応する心は、常に両極端な二つの心に分かれている。
例えば、「自分の思いや考えなどは、チョット横に置いといて聞くんやで!」と言われて、すぐに反応した口からは、「自分の思いを横に避けたら、何にも無い自分になってしまうがな…」と言葉にしながら、一つの心では、「あぁ、そうなんだ! 空っぽにしなきゃ~聞けんというのは、そ~ゆ~ことだったのか!」と肯定する一方で、「それじゃ~ダメだ! そんなことは出来ん!」と否定を繰返すもう一つの心がある。
これに疲れた・・・・・

数日前、法座の集いの時は、「ただ、聞く。 そのまんま聞かせて頂く」 ということが、こんなにも楽で、簡単なことだったのかと知らされたが、昨日はそ~ゆ~聞き方が全く出来ない…
どうしたら? どうやれば? という計らいだらけの汚染心に耳まで占領されていた。

ただハッキリとしたのは、今まで、「なっちゃん、何が欲しいん?」と聞かれても、欲しいモノだらけでちゃんと答えられなかったけど、今は言える。
「私は、確信が欲しいんです!」 と・・・・・
この間違いに捕らわれて身動きの取れなくなっている自分の姿を簡単にイメージすることが出来ても、そこから抜け出すことは難解で、もがき苦しんでいる感じ・・・・・

私は何を言っているんだか・・・・・
まったく文章になっていない・・・・・
今日の私は変だ・・・・・

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